唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第20号  昭和45年4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐津神社祭神考
その御神格と御神徳
私共が氏神様として尊崇している明神さまは、一休どんな神様をお祀りしてあるのでしょうか。
 この素朴な疑問は氏子の皆様もお持ちのことゝ思います。
 そこで今日はその御祭神の御神格と御神徳についてお話し申し上げましょう。
一の宮
 唐津神社の御祭神には一の宮と二の宮とがありまして、主祭神は一の宮にお祀りする底筒男神(そこつゝをのかみ)、中筒男神(なかつつをのかみ)、表筒男神(うわつゝをのかみ)の三神で、これを総称して住吉の神(すみよしのかみ)又は墨江神(すみのえのかみ)と申します。
 住神さまとよばれる神社は全国に沢山ありますが、最も由緒の古いのは、福岡市の元官幣小社住吉神社、下関市の元官幣中社住吉神社と大阪市住吉区の元官幣大社住吉大社の三社であります。

 底筒男、中筒男、表筒男とは、それぞれ海や川の底部、中程、表面の支配者ということ。墨江とは、水の澄んだ海湾や河口という意味で、いずれも禊(みそぎ)に関係のあることは注意すべきことでしょう。
 古事記、日本書紀の神話によりますと、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉国(よもつくに)に行ってけがれを受けられ、筑紫の日向の橘の小戸の(あわぎはら)で禊祓をされた際水中に入って身をそゝがれると多くの神が生まれられましたが、この中にこの三神があります。
 これを最初に鎮祭したのが福岡の住吉神社であります。
 その後、神功皇后が三韓征伐の時、この三神の和魂(にぎみたま)は皇后に付きそって御寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となってお舟を導き大功を立てられました。
 唐津神社御鎮坐の由縁も実にこの時でありまして社伝によれば、皇后の三韓へ御渡海の時、その舟路が不明のためこの三神に祈願され、無事目的を達成され御帰還の折、この松浦の海浜に鏡を捧げてお祀りされたのが起源とされています。
 その後、皇后はこの荒魂を長門の山田村(下関市住吉神社起源)に和魂を摂津の住吉(今の大阪住吉大社)にそれぞれ祀られたといわれています。
 この神話の後段によると住吉神社は古来航海神、武神とされ、殊に大阪の住吉大社は上代に於ける海外交通の要地に在った関係から海上守護神として朝廷から特別の尊崇を受けられ、又一般国民からも航海・漁業の神徳に対し熱烈な信仰を寄せられたのであります。
 又住吉の神については前段の示すミソギハライの守護神としての霊徳を忘れてはなりません。ミソギハライはたゞに祭りの前儀としての大切な意義を持つだけでなく、これによって生まれかわることが出来るという信念が古くから存するのでありまして、この神様にお参りすることによって、人はそのミソギハライの霊徳を蒙り、ケガレを祓い清め精神的に新生する。そして新らしい意気ごみで生活戦線に立向う。これが住吉信仰の根本であります。
 又大阪住吉大社は、風光のすぐれた処に鎮座されているので、いつしか住吉は歌枕となり、歌道の神様とも仰がれました。

 二 の 官
 次に二ノ宮の御祭神について申し上げましょう。
 神田五郎宗次公の神霊でありまして、公は先に神功皇后が住吉三神を鎮祭されたおやしろも、その後数百年もたってその社殿さえわからなくなっていた時、ある夜神様が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祀れ」というお告げをいたゞき、早速海浜に至れば波間に一箇の箱があり、これを開けば実に宝鏡であった。公はこれ正しくその昔、神功皇后が捧げられし神鏡ならんと神威を畏み、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞された処朝廷ではその神徳を感じ給い、詔命を降して唐津大明神と賜わったのであります。
 その後、幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。
 これが二ノ宮御祭神の由緒であります。

  相 殿 神
 同じ神社に二神以上一緒に祀ってある時、主祭神に対して、その他の神様を相殿の神(あいどののかみ)といゝます。
 唐津神社では一ノ宮、二ノ宮の外にこの相殿神として水波能女神(みづはめのめのかみ)をお祀りしてあります。
 この神様は水の神様で、慶長七年寺沢広高公が唐津築城に際して、現在地に社地を設定し、社殿を改築し領内の総鎮守として崇敬し新しく火防鎮護の神としてこの水波能女神を勧請したのであります。
 その後、唐津地方は火災が少なく、大火が無いのはこの神様の霊験によるものとして篤い信仰がよせられています。
 去る昭和十五年には時の消防団が火防の霊験を畏みその奉賽として大鳥居一基を建立寄進しました。
 現在の一ノ鳥居がそれであります。
大鳥井其他
境内移転奉告祭

 前号に於て報じたるが如く九月八日には大鳥居其他又九月九日には高取翁・保生会及先覚者顕彰碑を移転すべく夫々起工祭を執り行なってより、工事は筒井建設・吉村組・下川自動車工業の三者が請負い、戮力協心神明の加護を頂いて難工事たる解体移転建設に怪我過つことなく、衆人見物の喝采を博しつつ見事に境内移転を完成したので、十月十一日午前十時より宮司以下総代関係者多数参列の上、先づ神明奉告の儀後社務所に於て直会を行ない無事工事の了りたることを感謝祝福した。
 尚移転後の境内配置に付懸念されたが、よく整い以前よりも社頭の威を増す処となった。
 又境外地の高取翁・保生会・先覚者の記念碑も体育館又老人会館の処へと前記工事担当三者にて移転工事も無事完了したので、十二月二十三日の先覚者祭の折三者石碑に対し奉賽の折りをこめて奉仕した。
移転した鳥居
白井氏が
大鈴″を奉納


唐津市大越百貨店社長白井努氏は、神前の大鈴を奉納、去る十二月末取付けを終り、正月初詣でからは社頭にすがすがしい鈴の音がさわやかにひびきわたるようになった。

先覚者顕彰祭
−奉遷後初の祭典−
 恒例の郷土先覚者顕彰祭は、去る十一月二十三日午後二時より執行された。
 今回の祭典は、顕彰碑が従来唐津神社外苑にあったものを、同地が文化会館敷地となったため、東城内体育館前へ移転後初めてのもので、その落成清祓奉告祭も併せて執り行なわれたものである。
 この日は瀬戸市長や祭神の後裔その他約百名が参列して、郷土先覚者の遺業を敬仰奉讃した。
 尚この顕彰祭は、吾が郷土唐津地方の出身者で、広く社会に尽された方々の功績を追慕顕彰するもので、古くは鏡神社大宮司にして元寇の乱に大功のあった草野経永公を始め、今年追祀された富野淇園命等五柱を加えて百四十五柱に及んでいる。
 又この顕彰祭のおこりを考えると、昭和五年当時の東松浦郡教育会頭鶴田定治氏が提唱して行なわれたもので、戦後は教育会の解散に伴ない、常安弘通氏がその事業を継承し、唐津郷土先覚者顕彰会を結成して年々盛大に祭典がつゞけられている。

境内石燈籠と
春日燈籠に点燈する


 明治二十六年大手口に木綿町より奉納の大石燈籠を境内に移したのを機会に、文政年間平田屋より奉納の石燈、又昭和十三年社殿大改築記念に福田宗七大棟梁寄進の春日燈籠に大工を雇ってそれぞれの火袋に枠を作り、電工社に頼んで配線工事をして電灯をともした。
 又大正より昭和の始めにかけて平野町よりの氏子総代であった増本伊太郎氏は昭和十一年夫婦揃って八十才となりたるを奉謝して石柱の献橙台に燈器を付けて手水舎の横の処に奉納していたが、戦争中の燈火管制で燈器を廃しそのまま今日に至っていたのが、今度又大手口の宮崎清太郎氏奉納の大鳥居を境内に移して、其の前の処にこの石柱を移し、その上に水銀燈の電柱を掘り立て点灯した。
 以上の点灯は自動点滅で夜ともなれば境内の諸所にあかりがともり情緒を添え増本氏の献燈台は大鳥居の全貌を照してそれぞれ名実共に燈籠となり、夜の杜頭の見栄えを一層よくした。
移転した燈籠
昭和四十五年 元旦の社頭
 昭和四十五年元旦には恒例に依り燃え盛る庭煌に午前零時の号鼓を打鳴らせば参拝者一時になだれこんで今年の幸せを祈りつつお守りを受くる人々多く、午前六時宮司以下奉仕して元旦祭を執り行ない、今年の御寿の賀詞仕奉りて初日の出を拝む頃から次第に御天気もよく、参拝者多く社頭を埋め終日賑かにして、二日三日も上天気で盛んなる正月三日を過した。
 五日より吹雪となったが御用始めの諸官衙、会社、団休の参拝多く、皇紀二千六百三十年即ち一九七〇年に処する各種団体の気構えも盛んなるものがあった。

氏子総代異動
 今回左記の通り氏子総代の異動があり、地元より推薦のあった諸氏を氏子総代として委嘱した。
 平野町水上敬一氏が退任し佐々木安吉氏が新任、大名小路吉田孝象氏が退任し佐久間次彦氏が新任、北城内岩本正敏氏が退し大久保強氏が新任、西城内長浜海造氏が新任。
四月十九日午前十一時
献幣使参向
五穀豊穣
産業繁栄
祈願 唐津神社春祭
協賛 ○曳山社頭勢揃
○奉納生花地ノ坊唐津支部
○奉納演芸唐津城まつり振興会
皇太子殿下唐津へ行啓 曳山を台覧
 皇太子殿下には長崎県で開かれたパラリンピックに御臨席の後、十一月十日から四日間、佐賀県内の民生・産業を御視察になられたが、唐津市には十一月十一日午後三時御到着、瀬戸市長の御案内で商工会議所ポーチのお立台に立たれ曳山を御覧になった。
 この日は秋情れのさわやかな天気に恵まれ、折からの陽光に輝く曳山を背に各町よりの曳子が法被姿で勢揃いして、栄えある台覧をお待ち申し上げるうちやがてお立台に立たれるや静かに道囃しの笛の音が流れ、太鼓の音がとどろく中で、市長の御説明にうなづかれながら、非常に興味深く御覧になられた。
 最後脇山総取締の音頭で皇太子殿下の万才を奉唱、各町の曳子百五十名が一斉に唱和して奉祝申し上ぐるや、殿下には親しく手をふってお応えになり、やがて次の行啓地名護屋へ向われた。

皇太子殿下にご挨拶申上ぐる曳山取締

曳山ばやし 万博へ出演
 人類の進歩と調和″をテーマに世界七十七国の参加のもとに開かれる日本万国博覧会は、三月十五日から華々しく開催されたが、その最大の呼びものといわれる会場中央の「お祭り広場」で百八十三日間連日くりひろげられる催物は、各国の国民性の強くあらわれたものばかりが公演されるが、開催国である日本の催物は「日本のまつり」として七月一日から八月中、各地の有名な祭りが公演される中で、吾が唐津曳山ばやしも出演することゝなり、期日は七月一日から四日までと決定した。
 この期間は佐賀県の代表的神事芸能が披露されるもので、曳山ばやし関係者はそろそろその稽古をはじめている。
 尚出演者は脇山英治総取締の外、市丸一氏、平田常治氏、田中富三郎氏等十五名くらいの予定である。
曳山会館の建設すゝむ

 唐津市が建設を進めている文化会館は、昨年十月起工以来大成建設の手によって工事が行なわれているがその中で曳山会館の建物は目下七分通りの進捗ぶりで三月中には完成が見込まれている。
 尚実際に曳山が展示されるのは本館完成時の十月末とみられ、その後は唐津の名物としての曳山を一般に公開して常時展覧することになる。

新 嘗 祭
 唐津神祭も此年の新穀を頂く新嘗祭の意味をもつものであるが、神幸山曳きを主とするが故に落付いた祭典が出来にくいので、別に日を改めて唐津神祭に近い十一月六日に新穀を神に捧げて総代・関係者を招待しゆっくりと新嘗祭を行ない唐津神祭に関する諸々の報告をも致した。

唐津神祭賑う
 十月九日に初供日奉告祭を行ってから十月二十九日と云う明神様御創顕の此の日は忘れ難く、例年の通り一ノ宮木綿町、二ノ宮材木町両町奉仕にて午前九時より神輿飾りを行いて拝殿に神輿を捉え終り、午前十一時よりこれに合流して氏子総代参列の上、唐津神祭本殿祭を執行してこれより唐津神祭始りとする。
 折から境内には菊花展覧会も開かれ、興行物・露店もだんだん準備され、十一月二日午后八時に宵山曳出し、十二時には遷宮祭と愈々十一月三日午前九時発輿祭に続き、曳山と共に西浜御旅所に至り唐津神祭を執行した。今年は真直ぐ御旅所に至り、帰り路に江川町を廻る。風が強くあったが天気はよく人出は多くあったが、西浜曳込み曳山の並べ方に一考を要する処があった。翌日は祭も盛大で十一月五日には一の宮京町、二の宮刀町両町奉仕の下に神輿受取渡し納めの儀を行ない、これを以て唐津神祭の総てを終った。
 尚町内願成就は平野町と魚屋町の両町のみとなったので他町の分は神社にて行ない、願書を後日神社より頂かせる事にした。

大成第二寿楽会 ツツヂを献納
 唐津市大成第二寿楽会では唐津神社へツツヂを献納することゝなり、去る二月十八日同全役員高田重男氏渡辺吉作氏等が自ら鍬をふるって、境内西側の築山に植樹して献納を終えた。
 この春には早速美しい花を咲かせて、参拝者の目を楽しますことだろう。


鳥居天満宮
修築工事

 唐津神社境内社鳥居天満宮にては、今般后拝口の正面の柱を替え、浜床の板をコンクリーに改める外内陣を修繕し、又賽銭箱を固く取付くる等して面目を新にした。来る三月二十五日の春祭にはその奉告祭も執行さるる筈である。

 因みにこのお宮は天明時代、唐津京町の豪商常安九右衛門が太宰府天満宮へ唐かねの大鳥居を奉献するに当り、その鋳造所を木綿町に設置してその完成を祈る為、同所に天満宮を勧請したのがはじまりで、鳥居天満の名も茲に存する次第で大鳥居鋳造後にこの天満宮はこれより町内の守護神とならせ給い、大正の中頃まで町内に鎮座をされしが、其後唐津神社に移り、年々歳々の祭典怠る事無く今日に至る次第である。
修築なった天満宮

前氏子総代
 松村正子様
 逝去さる
 北城内前氏子総代松村正子様には十一月十一日逝去されたので、戸川宮司霊前に額き謹みて冥福をお祈り致したる次第である。