唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第18号  昭和44年 4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
春祭
 神社の祭祀は神威を畏み神徳を仰ぐ心を本として、先づ皇室の隆昌を祈り国家の幸福郷土の繁栄を祈祷感謝し以て神慮を慰め、また冥助を憑み或は神と共に楽しむと言う姿に於て表現したものである。之を簡単に言い表わせば所謂報本反始の誠を致し、神徳敬慕の念を捧ぐるところに神社祭祀の根会精神の存する次第である。此の様な心と力が基本となって春夏秋冬四季夫れ夫れのお祭りが行なわれているのであるが、とりわけ春祭のことは毎号述べて来たこと乍ら今回も又春のみならず広く祭に関して考えてみる次第である。
 この春祭は元来祈念祭に由来し、即ち年間の風雨旱害又虫害無く五穀豊饒ならむことを祈ると同時、宝祚の隆昌又国家郷土の充実発展を祈願するのである。そしてこの祭は秋祭と共に氏子崇敬者外大衆が必ず参加して神賑余興を行なう。ここに祭りの本当の姿がある。神と氏子とが一体となり、それは厳粛さと寛和、敬と愛が無理なく調和した気分が滲み出るこれが国民元気の源であり和楽の泉でもある。
 此の様な次第で我唐津神社も四月二十日午前十一時より佐賀県神社庁長献幣使となりて参向を仰ぎ。宮司以下氏子総代関係者多数参列して宮司祝詞を奏して先づ奥つ御年を初めて草の片葉に至る迄に作りと作るものどもを悪しき風荒き水に遭はせ給はず豊かにむくさかになし幸へ給ひ、工業商業漁業林業等の業を初めて諸々萬の産業を又人々の諸職業を弥進めに進め給ひ御国の象徴とある天皇命の大御代を手長の御代の厳御代と幸へ給ひて皇御国の弥栄を言寿き奉り唐津の里を弥饒びに賑はしめ給ひて奏で奉る歌舞の技も見召はし各も各も負ひ持つ業に励ましめ給へと祈願するのである。
 此の日は氏子崇敬者大多数の人々が神賑余興に参加するのであって先づ名物曳山を社頭に並らべその中の赤獅子は創立壱百五十年のお祝いを行う外、調高い大名行列及仮装行列コンクール、池ノ坊唐津支部の奉納生花に大茶会、唐津市東松浦郡の浮立総出演があれば、遠く飯塚から納祖太鼓に山鹿よりは燈籠おどり等も参加して大賑いを呈すべく、誠に神々しくも又懐しく頼母しいもので、のび行く郷土唐津の姿を出現すべく大いに期待されている。
氏子総代会議
 去る三月二十六日午後二時より社務所に於て氏子総代総会を開き次の件につき審議した。

一、社費予算について
昭和四十四年度社費予算を別紙の通り審議決定。

一、春祭りについて
春季例大祭は四月二十日午前十一時より齋行すること

一、大手口大鳥居燈籠等の移設について
近時交通量の激増に伴い大鳥居等が障害となっており自動車の衝突による事故を予測し、これが防止のため移設を決める。
「氏子総代異動 河野謙二氏退任吉田耕象氏が就任
宮松原と武徳殿と
曳 山 会 館


新築当時の武徳殿
武徳殿の地鎮祭

 今般曳山会館が中部公民館の処に建設されることとなってその工事も近く着手されることとなり、今秋には完成される訳で誠に喜ばしい限りである。さり乍らこの中部公民館は解体されて、もうなくなってしまうのであってみれば旧武徳殿の頃よりの思い出も深く、又この敷地である宮松原、又の名を明神松原と言われた、松原であった頃の事等相共に唐津明神と由縁深いものであり、そして更に又今度曳山会館と云う唐津神社と最も関係の深い唐津神社の宝とも云うべきもの展示館が建立されるのであるから、この三者の由来を探ってみるのも又一興かと存ずる次第である。
 先ず第一にこの明神松原のことであるが、この松原は古来唐津神社に接続し附属して風致上神社の尊厳を維持し、唐津神祭の折等は大衆参集の土地であり、又防風林でもあった。そして藩制時代は唐津明神の社家である戸川、安藤、内山三家が支配して殿様から伐採権と古損木の配分権も頂いていた。此様な次第で当時の殿様である水野侯が当唐津より遠州浜松へお国替えの時、その後にこられた小笠原侯への引継ぎの書類にも、この松原は昔から唐津明神の社地であった旨記載されていたにも拘らず明治御一新の際、神職、氏子総代、関係者の粗漏の為自然官林に編入されたのであった。
 さてこの松原は前記の如く風致林として又防風林として唐津神社には欠くべからざるもので、千姿万態の松樹数百株を数え、こんもりと繁りたるが中に一際目立って亭々たる古木もありて風趣を添えていた。西ノ浜より吹き来る波風はここに来りて松風となり、風雅の気を漂わせた。かの明治大正の有名なる詩人田辺新之助先生は此の辺りに生を享け幼少の頃を過ごされたので、この蕭然たる松籟は忘られるべくもあらず、依りて以てその雅号をこれに因んで松波とは名付けられた程の松原ではあったのである。
 明治御一新以来、世の進みに連れてこの松原を自然官林より元の如く唐津神社へ返還の上境内地編入の議起りて、社司以下氏子総代一同其筋に運動する所あり明治三十三年六月十三日付を以て唐津神社社司戸川俊雄、氏子総代神原民衛(平野町千量院)前川仁兵衛(新町岡口屋)松沢庚太郎(城内明神小路)の連署を以て唐津町長矢田進より東松浦郡長広瀬昌柔、佐賀県知事平山靖彦経由にて、時の内務大臣侯爵西郷従道、農商務大臣曽根荒助宛に境内編入願いの願書を提出し、八方手を尽したが如何なる事情か遂に許可せられず誠に残念なことであった。
 尤もその時には自然官林から町有地となり手後れであったのであろう。
 この松原の北の向は志道館で、その跡に監獄が建設され、その官舎もこの松原の中に出来たが、大正の初めには監獄も廃止され官舎も解けて、これからは唐津町の野外行事のセンターとなり、種々の祝賀会、運動会、相撲大会、活動写真大会、音楽会等楽しい催し物は皆この松原で行なわれたそして又附近の子供たちの最もよき遊び場でもあった。大正十一年には高取伊好翁のあの巨大なる石の記念碑が建てられ、趣きを添えて景勝の地とはなったのである。
 次に武徳殿のことであるが、昭和十四年山田八州男署長の後に横尾佐六氏が就任されるや、氏は夙に唐津に広大なる武徳殿兼公衆集会場の必要ありと広く世に問うて之が音頭をとられたのであるが、当時署長は大日本武徳会佐賀県支部唐津支所長の役職であるから、自ら世話人となって高取盛氏を顧問に仰ぎ武徳殿建設委員会を組織し、委員に鵜殿中佐、池田団之進商工会議所理事、清水荘次郎市会議長、小宮三一氏、田中信路東松浦郡町村長会長の方々が就任され活動を開始し先づ其の敷地としてこの明神松原に目を付けられ、早速唐津市に乞うて武徳殿建設の為に約千坪の無償貸与の市会決定を受け、十間に十六間の約二千人を容れる武徳本殿の外に事務所、住宅、大弓場、相撲場を附設した一大総合武徳殿となり旁々以て公会堂兼用の集会とする予定で、工事は岩本幸太郎氏が犠牲的奉仕の請負で、工費五万円を篤志家の寄付に仰ぎ募集に着手することとなり、多大の期待を以て迎えられたのである。
 茲に又面白い事には此の報我が唐津神社に伝わるや氏子総代会を招集し、宮松原の土地へ武徳殿建設に関し協議する処あって、古来よりの縁故地なるに鑑み一二条件をつけたのであるが即ち武徳殿建設に付てはあながち反対ではないにしても、此の松原は唐津神社神苑として出来得る限り存置し、建物の位置も慎重に考慮され、其の様式も神社の隣接地に相応しき神殿作りとされ度い等のことを申入れることとなり、社司戸川顕外原孝徳氏子総代及当時唐津一番のやかまし屋と云われた小関世男特別崇敬者同道にて萩谷勇之介市長及び横尾支所長を訪れ此の旨を申入れ夫々諒承したのであったが、明治三十三年の前記境内地編入願の不許可につながる一コマではあると云うものか。
 かくて十一月五日午後一時より吉江県警察部長(武徳会支部長)横尾唐津署長(武徳会唐津支所長)工事請負人岩本幸太郎氏等列席して戸川社司の神事により地鎮祭を行ない、横尾支所長の鍬入行事外進藤村治軍人会東松浦郡連合分会長も玉串を奉奠して目出度く地鎮祭を終ったのである。
 明くれば昭和十五年、世挙げて紀元二千六百年を寿ぐと共に荻谷市長辞任して岸川善太郎氏第四代の市長に就任するや、横尾署長は乞われて唐津市助役に就任され、其の後任には吉村逸作氏が署長となり武徳会支所長ともなられて、相共に武徳殿建設のことに携わることとなった。
 地鎮祭後着工の武徳殿は委員諸氏の尽力もさること乍ら、岩本幸太郎氏の犠牲的奉仕に福田、中島両設計士も助勢して其の年の十一月には見事に出来上り、十六日午前九暗から盛大なる落成式を挙行した。武徳会より吉江県支部長、剣道部大麻範士、柔道部馬場・杉町両教士、弓道高取盛氏、岸川善太郎市長、清水荘次郎市会議長、宮島商工会議所会頭ほか官公衙長、市会議員、学校長等八百余名参列し、戸川唐津神社々司の神事に始まり吉江支部長、吉村唐津支所長それに、そもそもの発起人で前支所長の横尾佐六助役、高取・鵜殿の両委員、岸川市長、藤生安太郎代議士、田中信路町村長会長、又進藤村治・大河内軍人会郡市両連合分会長、清水市会議長外関係団体長の玉串奉奠を終りて落成の儀式に移り、宮城遥拝、工事報告、横尾前支所長及岩本幸太郎氏へ感謝状を贈呈し、藤生代議士や田中村長の祝辞ありて式を閉じ、これより祝賀と尚武の一色に塗りつぶし、先づ大弓の高取、剣は大麻範士やわらは杉町・夏秋の両強豪出場して夫夫の武技を演ずれば、居並ぶ参列者一同喝采を博しつつ宴会となり、大盛況裡に散会したのであった。
 これより先、午前八時より郷土馬渡島出身東京大相撲力士小結松浦潟関を迎えて相撲場の土俵開きを行ない、神事のあと松浦潟関もあの美しい巨体を見せ醜を踏み、出場の青少年の為にも稽古をつけ興を添えたのである。
 これより一般につるぎ大刀とる人も、やわらとる人弓ひく人、相撲人も皆共にここに来りて武技に励げみ又一大催し物あり、演説会場ともなり、我が唐津神社も時にここを使用し、昭和十七年十一月のあの県社昇格奉告祝賀会も大々的にここで挙行したのであった。
 さり乍らこうした立派な武徳殿も大東亜戦争後は武徳会と云う追放団体の所有であった為に、進駐軍に接収されて後大蔵省のものとなっていたが、其後金子市長の尽力により唐津市のものとなり中部公民館となった、其後その脇に図書館も建てられたのであるが、昭和三十四年志道小学校が出来上り、其の運動場拡張のに為移動させ、その為にはあの大きな高取翁の記念碑を神社有地に移したのであった。
 
以上概略ではあるが明神松原から武徳殿のことに付いて述べたのであるが、何れも唐津明神と由緒あるもので、今度此処に曳山会館が建設されることとなり、更に神社とのつながりを濃くする次第である。
 尚旧山笠小舎は各自の町内町内に所在していたのを明治二十六年明神小路開通の際、道路拡張と公有水面埋立とによって余分の土地が生じた。これが現在曳山格納庫の敷地である。明治の終りから大正の始めにかけてこの土地へ順次山笠の小舎を作ったが、昭和三十四年花田曳山総取締、金子市長外氏子総代、関係者の努力により現在の格納庫の完成を見たことは近頃のことで、皆様よく御承知のことであるから略述する、今は只立派な曳山会館のこの由縁深きこの処に完成されんことを心から祈る次第。