唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第16号  昭和43年 4月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
明治百年と唐津神社
 維新前の唐津大明神は藩の祈願所として尊崇せられたので、格式も高く、社殿の造営修理等は一切藩費を以ってなされた。或る年大風のため神木が倒れて本殿を破壊した時など、藩命を以って数日にして造営を終ったとさえ伝えられている しかし一面鎮座地が城内の真中にあったため、一般の氏子は参拝に行きたくても城内への通行は自由ならず、とかく不都合なものであった。
 又藩は氏子からの寄進、例えば鳥居、燈寵等の奉納は一切みとめぬ方針であったようである。それは藩主が寄進した以上のものをはゞかったのであろう。
 そのためかどうかはわからぬが、氏子は年に一度の供日に、町人の意気を示して、どえらい曳山を造り、これを曳き出して大いに気勢を上げたのでもあろう。
 明治維新の後は、世は正に民衆のものとなり、神社も藩の手から氏子のものへと戻って来たのである。
 そこで氏子が最初に手がけたのは参道の開墾工事である。これは古い城の絵図面でも解るように、今の参道に当る明神小路は半分で切れ、その先は濠によってさえぎられており、今のような参道はなかったのである。
 これを明治二十六年濠の埋立て、民地の買収を氏子自らの手でやってのけた。
 つまり今でいう勤労奉仕で、氏子各町が労力を惜しまず働き、モッコをかついで奉仕したもので、実に氏子の汗の結晶であるわけであるこれによって当時開通した国道に直接通ずることゝなり、神社発展の上に大いなる貢献をした。
 では今度はこの百年の歩みを、中央の動きと唐津神社の様子とを対比しながら年を追って見てみよう。
明治元年 〇五ケ条の御誓文発布○明治と改元
明治二年 ○東京奠都
○藩籍奉還、藩知事小笠原長国中務大輔、石高六万石
○中町曳山第三回塗替
○魚屋町曳山第一回塗替
○平野町曳山竣工
○米屋町曳山竣工
明治三年 ○大教宣布の詔勅発せらる。
明治四年 ○廃藩置県唐津県となる
○官国幣社府県郷社の制定めらる。
明治五年 ○太陽暦採用○教導職を置き三条の教憲を定む。
○刀町曳山第一回塗替
明治六年 ○紀元節制定○唐津大明神唐津神社と改称、郷社に列す。
明治七年 ○佐賀の乱
明治八年 ○神社祭式始めて制定。
○材木町曳山第一回塗替
○木綿町曳山第一回修復
○京町曳山竣工
明治九年 ○江川町並水主町曳山竣工
明治十年 ○西南の役
○雨乞祭りに魚山を西の浜に泳がす。
○魚屋町曳山第二回塗替
明治十二年 ○内務省にて神社明細帳を作る。
明治十三年 ○内務省氏子総代規則を定む。
明治十五年 ○内務省神官の教導職を禁ず。
○軍人勅諭発布
明治二十一年 ○市町村制公布
明治二十二年 ○憲法発布
○唐津町制施行
明治二十三年 ○教育勅語発布
○大石町曳山第二回塗替
明治二十四年 ○平野町曳山第一回塗替
明治二十六年 ○明神小路開通工事成る
○木綿町右の記念に大石燈籠奉献
○刀町曳山第二回塗替
○新町曳山第二回塗替
○米屋町曳山塗替
明治二十七年 ○日清戦争始る。
明治二十八年 ○唐津神社拝殿落成す。
明治三十年 ○中町曳山第三回塗替
明治三十七年 ○日露戦争始まる。
○呉服町稲荷社域内に鎮座
明治四十年 ○神社祭式作法制定さる
明治四十二年 ○大嘗祭の儀定めらる。
明治四十三年 ○日韓合併成る。
大正元年 ○大正改元
大正三年 ○青島戦争始まる。
○現在の社務所前広場を鈴木氏より買収す。
○材木町曳山第二回塗替
大正四年 ○川人竹三郎百度石奉献
大正五年 ○唐津神社で初めて神前結婚式をする。
○満島村 市川豊吉、石大鳥居奉献
大正六年 ○第一次世界大戦始まる
○米騒動起る。
大正七年 ○現在の社務所敷地を竹内レマから買収
○同時に家屋を買収して社務所とする。
○大石町久保利平石燈籠奉献
○流行性感冒 スペイン風はやる。
大正九年 ○本町第一回塗替
大正十年 ○皇太子殿下御外遊
○大石町曳山第一回塗替
大正十二年 ○関東大震災
大正十三年 ○唐津町と満島村合併なる。
○唐津神社々務所新築なる。
○京町岩下定蔵大幟奉献
○魚屋町第三回塗替
大正十四年 ○ラジオ放送始まる
○材木町曳山第三回塗替
大正十五年 ○大正天皇崩御
昭和元年 ○昭和改元
昭和二年 ○新町曳山第三回塗替
昭和三年 ○今上陛下御即位大典
○刀町曳山第四回塗替
○呉服町曳山第二回塗替
○中町曳山第四回塗替
○平野町曳山第二回塗替
○江川町曳山第一回塗替
○水主町曳山再製作竣工
昭和四年 ○第五十八回伊勢神宮式年遷宮
○現在社殿鎮坐地を白水豊記より買収する
○木綿町曳山第二回塗替 
○山囃を初めてラジオ放送する
昭和五年 ○満洲事変起る。
○唐津町と唐津村の合併なる。
○宮崎清大手口に大鳥居奉献
昭和七年 〇五一五事件
○血盟団事件起る。
○唐津市制施行
○大石町曳山第四回塗替
○米屋町曳山第二回塗替
昭和八年 ○材木町曳山第四回塗替
昭和十年 ○天皇機関説
昭和十一年 〇二・二六事件起る。
昭和十二年 ○支那事変
○観光祭
○水道通水祭
昭和十三年 ○新社殿落成遷座祭
○初代天中軒雲月透塀奉納
昭和十四年 ○ノモハン事件
○社殿落成奉告祭
昭和十五年 ○紀元二千六百年記念式典
○大政翼賛会生る
○先覚者顕彰碑落成
○消防団大鳥居奉献
○消防団の解散により山笠取締会を組織し総取締に木下吉六がなる
○正田松太郎国旗掲揚台奉献
昭和十六年 ○大東亜戦争勃発
○佐志町と合併なる
昭和十七年 ○神饌所落成
○県社列格奉告祭
昭和十九年 〇戦争苛烈となる。
昭和二十年 〇大東亜戦争終結
○神道指会出る。
昭和二十一年 ○復活第一回の初供日祭
昭和二十二年 ○富士見町市民住宅竣工
○富士見町誕生
昭和二十四年 ○天皇陛下唐津へ行幸
昭和二十五年 ○国有境内地の譲与払下げなる。
昭和二十六年 ○朝鮮戦争起る
○曳山福岡観光まつりに出る。
○境内社本町稲荷社改築
昭和二十七年 ○皇太子立太子式
○講和条約なる。
○市制二十年春まつり
○市主催の戦没者慰霊祭戦後初めて行わる。
昭和二十八年 ○伊勢神宮第五十九回式年祭
○大雨による被害甚大(二十八水)
○舞鶴橋竣工
○中央橋竣工
昭和二十九年 ○市村合併なる。(鏡、久里、鬼塚、湊)
○本町曳山第三回塗替
○東ノ浜公園竣工
昭和三十年 ○御鎮坐千二百年式年祭執行
○手水舎竣工
○材木町曳山第五回塗替
○札辻橋竣工
昭和三十二年 ○明神台用地として金子道雄氏より奉納
○境内に粟島神社鎮祭
○水天宮境内へ鎮祭
○志道小学校落成
昭和三十三年 ○曳山格納庫再成
○中町曳山第五回塗替
○魚屋町曳山第四回塗替
○高取伊好翁頌徳碑神社外苑に移転
昭和三十五年 ○木綿町曳山第三回塗替
○平野町曳山第三回塗替
〇明神小路舗装なる。
昭和三十六年 ○天皇皇后両陛下曳山天覧
○大石町曳山第五回塗替
○大成小学校落成
○中央橋竣工
昭和三十七年 ○明神台撤去組立式となる。
○呉服町曳山第三回塗替
○京町曳山第二回塗替
○神祭宵山曳統一して曳出す。
○社務所守札所竣工
〇市庁舎落成
昭和三十八年 ○江川町曳山第二回塗替
昭和三十九年 ○東京オリンピック開催
○東海道新幹線開通
○曳山宝塚うるわしき日本博″に出場
○米屋町曳山第三回塗替
昭和四十年 ○刀町曳山第五回塗替
昭和四十一年 ○唐津城天守閣落成
○神饌所屋根銅板葺竣工
○戸川顕名誉宮司となる。戸川健太郎宮司となる。
○水主町第一回塗替
昭和四十二年 御輿自動車神幸となる。
昭和十三年社殿落成遷座祭 大正十三年旧藩主小笠原長生公参拝
氏子総代会 開 催
去る三月十四日改選後の初総会を開き、次の事項について協議した。
○責任役員三名の選出 花田繁二、岸川欽二、中島太の三氏に決まる。
○昭和四十三年度社費予算別掲の通り承認
○春祭執行のこと今年も昨年同様唐津まつり″と同日に(四月十四日)執行することに決定。
○明治維新百年祭 三月十四日は恰も明治元年のこの日に五ケ条の御誓文発布の日に当るため記念祭典を執行する。
○氏子総代新任奉告祭執行。

 戸川名誉宮司
   帰  幽
 唐津神社名誉宮司戸川顕は予て病気療養中の処去る二月八日八十九才を以って帰幽した。
 明治三十八年唐津神社社司を拝命以来六十年神明奉仕を続け、神徳発揚につとめた。
  四月十四日 午前十一時
    献 幣 使 参 向
五穀豊穣
産業繁栄
祈願
唐津神社春祭
名物曳山社頭勢揃
奉納生花 池坊唐津支部
奉納演芸 氏子有志