唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第131号   令和7年10月1日発行
発行所 唐津神社社務所
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (株)音成印刷
御鎮座壱千弐百七拾年祭     
〜令和7年 唐津神祭に向けて〜    宮司 戸川忠俊 
  天平勝宝七年(七五五)神号を「唐津大明神」と賜った年以来、長い年月を松浦の里人の氏神様として尊崇され、今年は一二七〇年という区切りの年、即ち式年の佳き年を迎える事となりました。
 令和七年四月二十九日には、唐津神社春季例大祭並びに御鎮座壱千弐百七拾年祭を斎行し、晴天の下、平成三十一年以来、悪天候やコロナ禍の影響で叶わなかった曳山社頭勢揃いの奉納行事も久々に行われ、厳粛の中にも賑わいの花を添えて頂くことが出来ました。
 さて、今年唐津神社は式年の年を迎えましたが、今年は曳山の中にも周年を迎える町内が多くあり、魚屋町の「鯛」は百八十年祭、水主町の「鯱」、江川町の「七宝丸」は百五十年祭を迎えられます。その記念の式典に於いて必ず語られるのが「先人への感謝」です。
 曳山作成については各町色々な逸話が残っておりますが、水主町の「鯱」、江川町の「七宝丸」の作成に当たってこのような記録が残されております。
 明治八年十一月、水主町江川町の両町は佐賀県令宛に「曳山の義に付願」(江川町)「奉納曳山の義に付願」(水主町)と言う、曳山作成に関する嘆願書を提出されました。この二通の願書に唐津扱所(役所)は副書を付し、その中でこう述べました。
 町内は明治新政府の「当御体裁」が入費冗費(無駄使い)を好まずヤマを新調するくらいなら学費か貧困者の救済にあてるべきだとも考えましたが、町内の考えは曳山により「一日之楽ミヨリ永々町内取締ニモ相成り」と考えている。
 言うなれば、町の人達がヤマを作るのは、ただ楽しむだけの無駄遣いではなく、町を纏めるためでもある。と述べているのです。そして祭りの本義がここにあると私は思っています。一般に言う「祭り」とは「非日常的な空間」と理解されておりますが、唐津くんちのような「祭事」は「非日常的な空間」に「神々との交流」がプラスされます。古来、日本では人々が奉仕する姿を見て神々は力を増し、力を増した神々の力によって人々も元気になると考えられてきました。
 神々と人々の交流である祭事のあり方(様子)をよく表したものに唱歌『村祭り』があります。明治四十五年小学校向けの音楽教科書に掲載されたこの唱歌は、秋の実りを神々に感謝する祭りの風景を歌ったもので、歌詞には祭囃子の笛や太鼓の音が「ドンドンヒャララ ドンヒャララ」と擬音で楽しく賑やかに表現されています。注目すべきは、その二番の歌詞です。

 今年も豊年満作で
  村は総出の大祭り


 この歌詞には神々に生かされている事を感謝するために、村人が総出でお祭りをする様子が歌われています。歌の題名が 『村祭り』であるため、村人が総出でお祭りをするのは当然ではないか。と、思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その村の全員で神々に感謝し、今を生きている事を共に喜ぶことが日本の祭りの原点であると私は思うのです。そして総出で行われる祭りは、村人総出で準備をする必要があり、老若男女に役目が与えられ、世代間の交流が行われ、そこに先人達の想いの引継ぎが行われているものと感じます。
 正しく「一日之楽ミヨリ永々町内取締ニモ相成り」という考え方。町内を統制して団結を促すのも祭りの大きな役割の一つと思います。祭事とは、他人が準備するものではなく、町の人が総出でその空間を作っていくものであると私は思っています。


 「思い出」は一回。
  でも、人はそれを
   永遠に覚えている。


 誰の言葉かは忘れましたが、いい言葉です。「くんちの思い出」と一言で言っても、そこには幼少期、青年期、大人になってからと、様々な「思い出」が積み重なって 「自分のくんちの思い出」となるのです。そしてそれは「思い出話」となり人々に共有され、やがて「くんちの歴史」となるのです。
 今年の唐津くんちも賑々しく御斎行され、皆様方の「良き思い出」がまた一つ生まれますことを心より御祈念申し上げます。
《曳山周年・修復事業》

●水主町「鯱」
       百五十年祭
 八月二十四日、大手ビル唐津市民交流プラザにて、水主町「鯱」奉納百五拾年記念式典・水主町「鯱」修復落成披露が盛大に執り行われました。式典では宮島醤油椛纒\取締役会長の宮島清一様より水主町消防組の纏についての講話。また、水主町とはゆかりの深い石川県輪島市の鞄c谷漆器店社長、田谷昂大様より令和六年一月一日に発生した能登半島地震から現在に至るまでの様子を語って頂きました。式典終了後は場所を移して祝宴が賑々しく催されました。


●江川町「七宝丸」
       百五十年祭
 九月二十一日、長崎荘にて江川町曳山「七宝丸」百伍拾年祭記念式典が催されました。来賓には曳山顧問の古川代議士他、厚生労働大臣福岡資麿氏、参議院議員の山下雄平氏も出席されました。中でも、呼子出身の山下議員は、江川町の成り立ちが名護屋街道から北の呼子街道沿いに町屋が形成された事を知り「私の先祖は、唐津に来る度に江川町を通っていたのかも知れません」と、思いを深くされておられました。
 式典では映像にて過去の江川町「七宝丸」の雄姿がお披露目され、百五十年の歴史を改めて感じる祝宴となりました。


●魚屋町「鯛」
       百八十年祭
 今年、百八十年祭を迎えた魚屋町「鯛」は、十月五日に唐津神社にて記念奉告祭を斎行し、町内までの奉曳を予定されております。


●平野町「上杉謙信の兜」
        台車修復
 此度、平野町「上杉謙信の兜」の台車修復事業が完了し、入念な試し曳を経て、十月十二日に唐津神社にて台車修復終了奉告祭を斎行され、町内を経由してアルピノ展示場までの奉曳を予定されております。


 《曳山情報》
 ◎令和七年五月十八日(日)に唐津神社旗争奪「曳山十四ケ町親善スポーツ大会」 (当番町水主町 競技種目はソフトボール)が唐津市相知天徳の丘運動公園にて開催され熱戦が繰り広げられました。
 試合結果は、優勝「材木町」は、二年連続の優勝。準優勝「江川町」第三位「水主町」第四位「京町」となりました。
 準備運営を務められました水主町様には、楽しいスポーツ大会の開催に感謝申し上げます。

 《明神小路石畳化計画》
 此度、唐津市の事業として「唐津市市道明神線他舗装改良等事業」が市議会で承認され、明神小路の石畳化工事が行われることとなりました。計画では大型車が通行する路線にも適用できる車道石張り舗装工法のインジェクト工法が採用されるそうです。
 計画では、今年の唐津くんち終了後より第一期の工事を行い、唐津神社前から長崎荘の手前まで。現在建設中の新市民会館前方の道路の舗装改良工事を進め、来年の春季例大祭までに工事を完了し、春の曳山社頭勢揃いの時に曳山と路面の具合を調査。その後、第二期工事として、大手ビル手前まで石畳化の工事が行われるようです。
 唐津神祭
十月九日(木)
 ◎午後七時 初供日奉告祭
 ※当番町 水主町
十月二十九日(水)
 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
   総行司 一ノ宮 魚屋町
       二ノ宮 平野町
 ◎午前十一時 本殿祭
十一月二日(日)
 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町曳山万灯をともして市内一巡
 ※社頭勢揃は中止
十一月三日(月・祝)
 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
  曳山社頭勢揃
 ◎午前八時四十五分
  発 輿 祭
 ◎午前九時三十分
       ☆御神幸発輿
   (煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正 午 御旅所祭
 ◎午後三時 還 御
       ☆御旅所発輿
   (煙火五発合図−曳山は町内へ)
十一月四日(火)
 ◎午前十時 翌日祭
  社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め
 (アルビノ曳山展示場へ=煙火五発)
十一月五日 (水)
 ◎神輿納ノ儀
   総行司一ノ宮 新町
      二ノ宮 江川町
   
   
   
《旧拝殿取り壊しを決定》
 唐津神社の境内には古拝殿という建物があります。私が幼少の頃は唐津神社の神輿が納められていた場所であり、先代宮司が幼少の頃は曳山の塗替えが行われていたそうです。先代宮司は当時の様子を「亀(材木町の「亀と浦島太郎」)の頭のデコボコを職人さんがノミで削りよらした」とか、「仕事を始める前に、ムシロに水ばかけよらした」などと語っておりました。その時は、ムシロに水をかける理由がよくわかりませんでしたが、漆は湿度が高くないと乾かないため、室内に吊るしたムシロに水をかけて湿度を上げる必要があったわけです。
 さて、古拝殿とは、読んで字のごとく「古い拝殿」であり、今の拝殿が出来るまで使用されていた「旧拝殿」の事です。旧拝殿は今の境内の中段域にあり、その後方に今の拝殿が建ったことになります。昭和十三年十月九日、旧拝殿より新拝殿へ大神様をお移しする遷座祭が斎行されました。当時の唐津神祭は十月二十九日でしたので、わずか二十日足らずで、旧拝殿を今の場所まで曳家で移動させ、新たに参道を整備して神祭を迎えたことになります。
 それ以来、長年に渡り旧拝殿は前述のとおり神器庫として使用され、平成十七年に発生した福岡西方沖地震にも境内の灯篭が一部倒壊する中、耐え忍び、神社業務には欠かせない場所として活躍して参りました。
 しかしながら、日清戦争直後の建設で老朽化も進み、昨今は白蟻害で建物が傾き、屋根瓦の落下の危険があるなどの問題が発生し、已む無く解体を決断した次第です。


《御輿台車小屋屋根崩落》
 町内の方々は、神輿飾りの儀や神輿納の儀などの時に神輿の移動を奉仕され、その重さをご存じの方も多いかと思います。その昔、唐津神社の御神輿は八人で担いで神事を行っておりました。時代が進むにつれ担ぎ手も減少し、御神輿を担いで神幸が出来なくなると、御神輿はロングボディーのトラックに載せて神事を行うようになりました。しかし、この自動車による神幸は不評でした。
 そのような状況の中で、昭和四十七年、唐津神社の大総代であった花田繁二氏が急逝されてから御遺族の方が御生前の氏の念願を叶えるべく、多額の浄財を以て曳車(神輿台車)を作成され奉納を頂きました。それ以来、唐津神社の大神様をお乗せした御神輿は台車に載って町々を神幸し、御旅所へとお渡りになるようになりました。
 さて、御奉納頂いた神輿台車をどこに保管するか?という話になった時、藩政時代の古文書に「御輿蔵三間に三間、但産子普請」とあり、境内東北隅、現在の中町粟島神社の敷地に昔の神輿蔵があったようです。そこで、粟島神社様の隣の空地に神輿蔵を建設する計画もありましたが、神輿の台車を納める倉庫が建設されました。この時の倉庫は狭く、神輿台車は分解して納められていたようですが、昭和五十五年に倉庫が増築され、組み立てたままの収納が可能となりました。
 それ以来、補修を続けながら使用され、数年前には白蟻害で屋根の落ち込みが見られましたので大改修工事を行いましたが、今年六月の大雨の影響で崩落致しました。幸いな事に神輿台車には大きな損害はありませんでしたが、御奉納頂きました神輿台車をいつまでも避難場所に保管しておくわけにもいきませんので、新たな神輿台車小屋の建設を計画しております。

《総代人事》
 前唐津神社筆頭総代、辻幸徳様が令和七年二月にご逝去され、新筆頭総代について緊急の総代会を開催致しました。総代の皆様方より鰍ワいづる百貨店代表取締役社長の木下修一氏をご推薦する案が提出され、七月の臨時総代会にてご就任頂きました事をご報告申し上げます。
〇第一区推薦
 刀町    木下 修一
〇第二区推薦
 大名小路  保利 俊雄

 《曳山取締会人事》
【本部取締】
材木町 中山 忠幸 退任
    落合 裕二 新任
【参与】
    中山 忠幸 新任


  ▼行事予定▲
◎くんちは別掲
◆十一月
 十五日 七五三祭
 下旬 支部大麻頒布式
◆十二月
 初旬 大麻頒布式
 三十一日 除夜祭
      古神札焼納祭
○令和八年
◆一月
 元旦 歳旦祭
 六日 新年祭
 初旬 新春囃子初め式
◆二月
 三日   節分祭
 十一日  紀元祭
 二十三日 天長祭
月次祭=毎月一日・十五日
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