唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第130号   令和7年4月1日発行
発行所 唐津神社社務所
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (株)音成印刷
御鎮座壱千弐百七拾年祭     
〜明神小路物語〜    宮司 戸川忠俊 
 
 唐津神社の由緒によれば

 神功皇后、三韓(朝鮮半島の南部)へ渡海に際し道中安全を住吉三神に祈願奉る。帰朝の後、御神徳著しきを感じ松浦の海浜に宝鏡を懸げて三神の霊を祀り給う。天平勝宝七年(孝謙天皇の御代・西暦七五五年)、時の領主・神田宗次公、一夕神夢を得て海浜に至れば一筐の浮び来る有り。之を探りて開けば一宝鏡なり。之、正しく皇后の捧げ給いしものならんと畏みて帝に奏聞す。この年、天平勝宝七年九月二十九日に「唐津大明神」の神号を賜う。

 とあります。その後、文治二年(一一八六)に唐津神社創建に関わった神田宗次公の神霊を合祀し、慶長七年(一六〇二)には初代唐津藩主・寺沢志摩守の唐津城築城に際し現在地に社地が設定され、領内鎮護の神として崇敬されるようになりました。また、この時、城下の火災鎮護として水波能女神という火伏の神を勧請して祀る事となりました。明治四年には太政官布告により社各制度が新たに定められ、地方に存在する諸社は縣社・郷社・村社という格付けが行われるようになります。それを受けて明治六年に「唐津大明神」は郷社(地方官の管理下にある神社)となり「唐津神社」と改称。昭和十七年には境内を拡張し、社殿総改築を行い縣社(県の管理下にある神社)に昇格しました。

 以上が唐津神社の大まかな歴史ではありますが、天平勝宝七年九月に「唐津大明神」の神号を賜わって以来、今年令和七年は唐津神社御鎮座千二百七十年の祝年を迎える事となりました。長きにわたり、産土の大神として崇敬の念を頂き、氏子崇敬者の皆様方と共に祈り続けて今年の祝年を迎えられましたことに、有難く厚く感謝申し上げます。


 さて、唐津城築城の際に現在の地へ移築された唐津神社の前の通りは明神小路と呼ばれました。今では曳山も通る道ではありますが、藩政時代の明神小路は道も狭く曳山は通れるかどうか、記録によるとその道幅は二間半(約四・五メートル)。しかも現在のように大手口とは直結しておらず、突き当りは肥後堀でした。
 そもそも、藩政時代から明治初期までの唐津城内地区は誠に不便な場所であったらしく、城郭に囲まれて出入り口は大手門と西の門の二か所のみ。当然これには城内と言う軍事的要因が影響しており、道は狭く、見通しは悪く、敵を追い込む袋小路が各所に存在したそうです。その名残は今でも明神小路の偏差十字路(加藤眼科付近)に見ることが出来ます。
 そのような道路事情ですので、宵曳山の時曳山は神社前に集合する際、現在の裁判所近くにあった唐津城の入り口である大手門をくぐった後、大手小路(城内病院の通り)を北進して突き当りを左折、明神横小路に入って神社前に参集したそうです。そして御旅所神幸の際には神社前を出発した曳山は明神横小路を東に向い、綿屋の所から大名小路へ右折して商工会議所角辺りを右折、西に向い大手門をくぐって城外へ進むという順路だったそうです。そしてこの時、城内地区を動く曳山は道喘子を奏しておりました。
 明治二十一年、唐津の町を東西に貫く国道(現在の国道二〇四号線)が肥後堀沿いに開通します。これを受けて唐津神社では明神小路を延長し、道幅も広め国道に連結する計画が立ち上がりました。明治二十五年には石垣の撤去、肥後堀の公有水面を埋め立てて土橋を新設する許可も下り工事が始まるのですが、これらの工事は氏子各町よりの労働奉仕によって行われました。資料によると、

 氏子各町即ち内町、魚屋町、郭内外に外町の大石町、材木町も参加して働ける者は皆、土運びに石担いという具合に奉仕した。尤も土橋を作ること等は業者に任せたことは言うまでもない。そして、今日は何町、明日は何町という具合に日割りを決めて、又食事や休憩時間には太鼓を打ち鳴らして一糸乱れぬ統制ある行動を取り、現場の監督には氏子総代である八百屋町の佐々木吉治氏が当った。


 と、あります。また、明神小路の道路拡張については、当時の唐津神社氏子総代顧問であった大島小太郎氏より「道幅は五間(約九メートル)でなければならない」との提案があったそうです。今でこそ五間でも狭く感じる道幅ではありますが、当時この道幅五間案が総代会に提出された際には「へぇ五間とは何とまた法外な」と、後ろにのけぞり返った人もあったと言います。この明神小路の延長拡張工事が終了したのは明治二十六年の事。同年四月十八日に、その落成祝いが行われたそうですが、その様子が資料にはこう記されております。


 この落成祝いのお祭りには御神輿様も親しくこの新地新道をお通りになって大手口までおでましになり、又氏子各町よりは、思い思いの趣向を凝らしてお祝い申し上げる中にも、刀町は大国旗を十文字に飾り立て、魚屋町は三俵餅一重ねを五尺角の三方にお供えし、又新町は大提灯を中にランプをともして飾ったのであるが、之は新町の正円寺の本堂で作り出来上がって本堂から出すのに大変困った。

 斯くして明神小路は神社の参道として威厳を表示しなければならぬという事となり、逸早く木綿町より石の大灯篭(現在は境内の二段階段下の両脇に移築)が寄進され、刀町よりは大幟が奉献され、昭和六年には同じく刀町の宮崎家より大鳥居(現在は境内の手水舎横に移築)が奉献され、昭和十九年には国民学校、青年学校より社号標(現在は境内国旗掲揚塔の横に移築)を奉献して頂いております。さらに、明神小路拡張の際に出来た若干の空地には次第に各町の曳山小屋が建設され、やがて本格的な格納庫が作られることとなります。

 このように、国道と繋がり道幅も広がった明神小路ではありましたが、昭和三十年の半ばを過ぎた頃には道路事情も激変し、昭和四十年代に入ると車の増加は勿論の事、その車自体の大型長型となり「明神小路の大鳥居は交通安全上、危険防止上、取り除くわけにはいかないか」と市当局より要請が来るようになりました。この話に出てくる「明神小路の鳥居」と言うのは前述の刀町宮崎家から御奉納頂いた大鳥居の事で、今の大手ビル付近に建っておりました。この話を受けて唐津神社では氏子総代会議を幾度も開き、昭和四十四年に大鳥居・大灯篭・社号標は前述の通り境内への移転が決定されました。これと同時にそれまで曳山小屋として使用されていた建物は改修され、現在の明神ビルとなります。
 さて、話は少しそれますが、今では明神小路から町中に行き来する為の(国道二〇四号線を渡る)横断歩道が設置されております。しかしこれは平成二十三年に大手口センタービルが完成した時に設置されたもので、それまで明神小路から町中を行き来するには地下歩道を利用しておりました。実は、大手口センタービルの完成と共に横断歩道が出来る事を受けて、この地下歩道を撤去する案も示されたそうですが「唐津くんちの時に、この地下歩道が無いとものすごく不便」との申し出があり、撤去を免れた。という逸話があります。それはさておき、この地下歩道建設の際に、工事現場より「地下の現場で狛犬が見つかった。お祓いに来てもらいたい」との連絡が唐津神社に入ったそうです。地下歩道の工事現場は堀の底付近に当り、堀の石垣の一部として用いられたのか、それとも堀の鎮護の為に安置されたのか定かではありませんが、御祓いをしたその三体の小さな狛犬は、今でも唐津神社拝殿奥に安置されております。


 閑話休題。今回は、江戸の昔より、唐津神社の参道である明神小路の歴史について紐解いて参りましたが、昨今の明神小路では電線地中化工事の大事業が行われており、すでに明神小路にあった電線・電柱は撤去されております。また、せっかく電柱を撤去したのに、背の高い街灯を設置するのは忍びないという事で、道端には背の低い石灯籠が設置され、その一つひとつには曳山十四台の提灯の図柄と、唐津神社の社紋である左三つ巴の柄がデザインされています。明神小路が明治二十六年に国道と繋がった際「明神小路は神社の参道として威厳を表示しなければならぬ」との思いがあったことは先に述べましたが、今でも皆様方のお陰を以てその思いは続いており、参道としての威厳を表示し続けてこられることに心より有難く厚く御礼申し上げる次第です。
 今年、御鎮座千二百七十年の祝年を迎えました唐津神社ではありますが、これは参道である明神小路の発展も大きく寄与している事と、改めて感謝申し上げます。
 
  《曳山取締会人事》

総取締   山内 啓慈
副総取締  水田 彰男 退
副総取締  瀬戸 利嗣
副総取締  力武  晃
副総取締  花鳥 義博
副総取締  久保 英俊 新
副総取締  村山 光弘 新
元老    大西 康雄
名誉総取締 大塚 康泰
相談役   岡   了
相談役   多久島聖吾
相談役   橋村 信義
相談役   市丸 昌哉
相談役   中野 一政
相談役   水田 彰男 新
参与    森  修一
参与    高嵜 耕一
総務    黒川 洋介
総務    戸川 健士


刀町 本部 村山 弘光 退
      村井 俊之 新
   正取 鶴田  真 過
      篠崎 泰介 新
   副取 篠崎 泰介 退
      木下 貴仁 新
中町 本部 吉田  実
   正取 池田 圭作 退
      池田 貴博 新
   副取 小林 康寛 退
      原田 将光 新
材木町本部 中山 忠幸
   正取 岡  英樹 退
      緒方 敏輝 新
   副取 緒方 敏輝 退
      伊藤  優 新
呉服町本部 久保 英俊 退
      松尾 圭祐 新
   正取 藤野 智成
   副取 小出 喜亮
魚屋町本部 吉田 光志
   正取 小井手秀徳
   副取 安藤  優
大石町本部 久保 直也
   正取 小宮 智幸 退
      島崎 智孝 新
   副取 島崎 智孝 退
      松尾 隆司 新
新町 本部 梶山 栄一
   正取 矢筒 朗順 退
      坂井 康則 新
   副取 坂井 康則 退
      宮ア 浩二 新
本町 本部 大西 康之
   正取 中川  守
   副取 中野 政之
木綿町本部 石井 隆彦
   正取 濱田 雄二 退
      福島 秀一 新
   副取 宮崎 芳輝 退
      白津  均 新
平野町本部 古賀 重光
   正取 瀬戸 祥晴
   副取 袈裟丸義久
米屋町本部 内田 松夫
   正取 立華 尊志
   副取 溝上 武史
京町 本部 山田 弘信
   正取 山田 信二 退
      門田 大蔵 新
   副取 門田 大蔵 退
      門田 豪  新
水主町本部 田代 英二
   正取 前川 源明
   副取 上田 慶二 退
      坂本 政行 新
江川町本部 武富 祐一
   正取 下尾 尚之
   副取 吉村 竜馬

  ▼行事予定▲

◇四月十日
 唐津神社総代会総会
◇四月十七日
 唐津曳山取締会総会
◇四月二十一日
 佐賀県神社関係者大会(佐賀市東与賀町)
◇四月二十九日
 唐津神社春季例大祭
◇五月十三日〜十四日
 九州各県神社庁連合会
 神職総会  (大分県)
◇五月十八日
 曳山各町親善スポーツ大会(当番町 水主町)
◇七月下旬
 総代研修会
◇七月二十九日
 ・唐津神社夏祭り
    茅輪くぐり神事
◇八月十五日
 ・戦没者慰霊祭
  並びに祖国復興祈願祭
◇九月
 初旬 国民精神昂揚合同研修会(佐賀市)

 ◎毎月一日・十五日 月次祭

《曳山スポーツ大会開催》
◎唐津神社旗争奪「曳山十四ケ町親善スポーツ大会」が今年五月十八日に開催されることが予定されています。当番町は年順番で水主町の担当となります。
 尚、競技種目はソフトボール。開催場所は相知町天徳の丘運動公園を予定。

 《総代帰幽》

 辻  幸徳 (刀町) 第一区推薦 筆頭総代

 森  勝彌 (北城内)

 永年に亘るご奉仕に対しまして厚く御礼申し上げますと共に謹みてご冥福をお祈り申し上げます。

 《総代移動》
《刀町》
 村井 俊之 退任
 花田 勝治 新任

《坊主町》
 山口  守 退任
 田口 正樹 新任
 
 参道電柱地中化・石灯籠設置工事

昨年より唐津市の事業によって進められてきました神社前通り(明神小路)の電柱地中化工事は現在ほぼ完了し、見通しの良い参道となりました。
 また、それに伴い市役所側の歩道に石燈籠が設置されました。夜間には足元をほのかに照らしています。
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