唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第13号  昭和41年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
退任の言葉
唐津神社名誉宮司
戸 川  顕

 この度唐津神社宮司を退任いたしますに当り、一言御挨拶を申上げます。
 顧みますれば、明治三十八年当時の郷社唐津神社々司を拝命いたしましてより実に六十一年の間神明に奉仕して参りましたが、その間何等為すこともなく、徒に年月の長さを算うるのみで、まことにお恥かしい限りでございますが、辛い氏子皆様の絶大なる御援助を賜わりまして、大過なくその任を終えましたことを厚く御礼申上げます。
 尚、後任の宮司につきましては、私同様又一層の御援助をお願い申上げます。
 こゝに唐津神社の神威の弥栄を寿ぎ奉り、又あわせて氏子皆様の御繁栄を祈念いたしまして謹んで退任の御挨拶といたします。
 尚又、今回の退任に当りましては、御推薦をいたゞきまして、神社本庁より、名誉宮司の称号を授けられました。これはまことに名誉のことでございまして、これよりは、この光栄をもって余生を送り度いと存じます。
 こゝにつゝしんで御礼申上げます。
宮司就任挨拶
唐津神社 宮司
戸 川 健太郎

 今回唐津神社宮司を拝命いたしましたことは無上の光栄と存じます。
 当唐津神社は御承知の如く、古くからこの松浦地方の総氏神として尊崇せられ長い年月を、連綿として祭祀がつゞけられてまいりました。
 この長い伝統の聖火を絶やすことなく、護りつゞけて行くのが私どものつとめでなくてはなりません。
 終戦後はあらゆる面で変革が行われてまいりましたが、中でも神社に対する風当りは強く、当神社に於きましても例外ではありませんでした。しかしながら幸いにも氏子皆様方の確固たる神社護持の精神に支えられてその困難にも打克ってまいりました。そして年中の祭祀は一度も絶えることなく厳修され、中でも去る昭和十三年には社殿の総改築を、又去る昭和三十年には御鎮座一千二百年式年祭を執行するなど御社頭益々御盛んな有様でございます。中でも唐津神祭における奉賽者は年々その数を増し、御神威益々輝きますことはまことに、御同慶の至りでございます。
 この上は更に心を新にし神意のまにまに、いよいよ御神徳の発揚に一身を捧げ奉る決心でございます。
 氏子崇敬者の皆様方におかれましても、一層の御指導と御援助とをお願い申上げる次第でございます。

祝辞
氏子総代 花 田 繁 二
 今般戸川顕宮司には六十年の長きに亘り、宮司として日夜、吾等の氏神様に奉仕せられましたが、老齢の故をもって退任なさいますに当り、その御苦労を感謝し、厚く御礼を申上げます。
 今後は腱康に充分注意なされ、百歳の長寿を全うされんことを祈念いたします。
 こゝに新に宮司に就任なされた戸川健太郎氏は顕前宮司の長男であり、生れながらにしての神主ともいうべきで、国学院大学神道部卒業後長く当神社の称宜として奉仕されましたが今回宮司に就任されました。
 戸川家は、唐津神社二の宮の御祭時、神用宗次公の末裔といわれ古く慶長年中より宮司家として今日に至る由緒ある家柄で当腱太郎宮司をもって十二代を数えるものであります。
 新宮司には、吾等の明神様の神主として充分の御奉仕をお願いするものであります。
 一言もって祝辞といたします。
社殿修築資金募集についての御礼
 このたびの工事の計画は既に三年前よりなされていたものですが、その資金につきましては何と申しましても、氏子皆様の敬神の心に鎚って、これを仰ぐより他にありませんので、慎重にその時期を待っていたのでしたが、生憎銅板の世界的不足の時に会い、そのため経費も高いものとなりましたことは、まことに申訳けないことでありましたが、この上更に日を過しては、なお悪条件が加わる恐れもあり、こゝに敢えて募金をお願いした次第であります。
 辛い氏子皆様の熱誠あふるゝ御厚情をいたゞき、予期以上の浄財を寄せられ、従って又計画以上の施設も行うことが出来ましたことはまことに有難く、神明におかれましても定めし御満悦のことと拝察申上げこゝに厚く御礼を申上ぐる次第でございます。
 次にその工事の概略を申述べます。

 神饌所屋根葺替
 神饌所と申しますのは、拝殿の向って左側の建物で(五坪)こゝは文字通り神饌(しんせん)すなはち神様にお供えするものを調理弁備をする処で、いわば台所というところでありまして、日常奉仕の上かり欠かせぬ建物であります。
 この建物は去る昭和十七年に完成したもので、本殿拝殿等よりも三年後に生れました。当時は銅板が戦時必需物資として、その使用がまゝならず、止むなく桧皮葺きでなされていたのであります。一体この桧皮は寿命二十年を限度とされていますので、最近はその破損が甚しくなりましたので本殿同様銅板を以って葺替えをなし、見違えるような立派なものとなりました。

 透塀屋根葺替
 透塀とは、本殿を囲う塀又は、境内正面の塀のことであり、朱の玉垣(あけのたまがき)ともいわれます。
 これも本体は去る昭和十三年社殿改築の折新築されたもので、その後昭和三十年に補修をなしたものです
が、十年後の今日又々屋根の破損がひどいので、これにトタンを以って葺き替えたものであります。
 これ等の塀は共に新に塗装を施し、あざやかな文字通りの朱の玉垣が再現し社頭の面目を一新いたしました。

 本殿両側壁新設
 従来の建築様式では、本殿と祝詞舎及弊殿とを連ねる両側は何の障壁もなく、風雨の吹きさらしになっていたため、悪天候や寒天の時には、大事な祭典も思うように出来ない時が再三あり不便をかこっていましたが、今回こゝに、建具を建て又壁を設けて権現造りの形式に改めたものでありますがこれによって、今後の祭典が天候に左右されず、落付いて奉仕が出来るようになりました。

 殿内装飾
 本殿正面の翠簾を始め弊殿、拝殿の壁代六枚及本殿弊殿、拝殿の窓にかける翠簾十三枚その他、真榊、本殿用燈台等を新設したもので、これによって殿内に於ける荘厳な雰囲気が一層感ぜられるようになりました

 宮司用装束贈呈
 今般宮司を拝命するに当り皆様方より装束一式を頂戴いたしました。これより永く記念として着用させていたヾきます。

 以上が今度の工事の概略でございます。
十月    九日  午後七時  囃子初ノ儀
 〃 二十五日  午前九時 神 輿 飾

       総行司一ノ宮 新   町
           二ノ宮 江 川 町

 〃 二十七日  注 連 降 し

唐 津 神 祭
十月二十九日 午前零時 奉遷儀宵山社頭曳込
  二十九日 午前五時 神田獅子舞社頭供覧
  二十九日 午前九時 神輿渡御曳山曳出し
  二十九日 正 午 御旅所祭曳山勢揃
  二十九日 午後三時 還御曳山曳出し
  三十日 翌日祭曳山市内各町曳廻り
近づくおくんち″
 今年もまた、おくんちが近づいて来た。今年は天守閣の完成と、しんがり山″鯱″の塗替えということで一段の賑いが予想される。
 舞鶴城頭にそびえる天主閣の雄姿はまことに見事なもので、唐津市民の何十年来いや、何百年来の念願がやっと叶った思いで、唐津の新しいシンボルとして、相応しい、優美にして剛健の姿を誇っている。
 又曳山十四台の内その最後を飾る曳山としての水主町鯱は今度目出度く三十数年振りに化粧直しをして、あでやかな姿を見せた この曳山の一連の塗番工事は去る昭和二十九年に戦後始めて、本町が行ったのを皮きりに、今年まで十二年間に十四台の山全部が終ったわけである。
 そこで今年が最も揃って奇麗な山が見られるというわけである。
 十月二十八日からの三日間はこの二つの唐津のシンボルが、互にその妍をきそって、絢爛豪華な一大絵巻物を繰ひろげることであろう。