唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第122号   令和3年4月1日発行
発行所 唐津神社社務所
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (株)音成印刷
 令和二年 唐津神祭
   宮司 戸川 忠俊

【異例中の異例】

 令和二年の唐津神祭は新型コロナ感染症の影響で、神輿の渡御も曳山の巡行も中止となり、誠に異例中の異例という中で行われました。この事につきましては、神社は元より、神輿の運営を司る総行司様、そして神田地区神輿伴揃様、また曳山の巡行を司る曳山取締会様、さらには氏子総代様の合議によって至ったものであります。もちろん各位の中には「神事は何よりも優先すべき」という思いも強くありましたが、神様も人間も元気になるべく行う神事において、疫病に雁患する可能性がある限り、その目的達成は難しいのではないか、という考えもあって、唐津くんち始まって以来の決断に至りました。

【難題浮上】

 さて、そう決断した後、ではどのようにして唐津神祭(唐津くんち)を行うか、という問題が浮上します。神輿が動かない、曳山も動かない唐津くんちは、記憶はもちろんのこと、過去の資料にすらありません。そもそも唐津くんちの目的は、唐津神社の神様を御神輿にお乗せして、それを曳山が先導供奉しながら、唐津神社の神様ゆかりの場所(神様がお出ましになった場所=西ノ浜の御旅所)にお連れし、そこで秋の味覚を供えてお祭り(御旅所祭)をする事にあります。その過程の中で、神様も人間も元気になるのです。しかし、神様の移動が叶わなければ、唐津くんちを行うことが出来ません。
     

【旧暦九月二十九日】

 ここで、唐津くんちの歴史を紐解きますと、唐津くんちは明治四十二年まで旧暦の九月二十九日に行われておりました。それが、明治四十三年からは、旧暦を新暦に改めて十月二十九日になり、昭和四十三年から今のように新暦の十一月三日に行われるようになりました。では、この祭日の元となる旧暦の九月二十九日という日付はどこから出てきたのかと申しますと、唐津神社の由緒には、時の領主神田宗次公が神夢を得て(神様が出てくる夢を見てそのお告げ通り)海浜に至ると筐が浮かんでおりました。その筐を開けてみると宝鏡が入っており、その宝鏡の事を帝(天皇)に奏文(そうぶん:天皇にお伺いする)すると、これは神功皇后がお祭りの時に使用した鏡であるので、これを祀りなさい。と、唐津大明神の神号を賜ります。この日が、天平勝宝七年(西暦七五五) 九月二十九日だった。と伝えられています。つまり、唐津神社が出来た日が唐津くんち(唐津神社の最も重要なお祭り)の日だったわけです。

【『戸川家文書』】

 さて、話は戻りまして令和二年のくんちの話。神輿も動かない、曳山も動かない唐津くんちをどう行うか。どのようなお祭りを行えば良いのか、議論をする中で、戸川甲斐守惟誠宮司(第九代)が書き記した『戸川家文書』に改めて目を通しておりますと、このような事が書いてありました。


 宗次夢の告によりて其旨を披露しける程に、彼の箱を海人見出し宗次に斯くと告げれば、宗次驚敬して其趣を具に都へ言上しけり。其時、孝謙天皇詔を降して唐津大明神と號し給ふ。夫より以来寛文元年に至り九百年を暦たり。九月二十九日の祭禮怠ることなしと時の社主の口傅あり。時に同年右の濱邊。神幸相始りたり。″
 これは先に書いた唐津神社の由緒の部分ですが「以来寛文元年に至り九百年を暦たり。九月二十九日の祭禮怠ることなし(中略)時に同年右の濱邊。神幸相始りたり。」 つまり、神幸(神輿の渡御)が始まる以前から九月二十九日の祭礼は行われていた。そして、その祭礼は神輿の渡御を行わず、神社で行われていた。という事になるかと思います。この事は、前々から知るところではありましたが、今回改めて先人の書き記した文書を読んだことが、令和二年の唐津くんちの一番重要な祭典(御旅所祭)を神社拝殿にて行うと決断した一つの要因になったと思いますし、同時に重要な祭典を今に引き継ぐ責任を強く感じた事でした。

【正直に伝える】

 祭典の行事の中に、祝詞奏上があります。祝詞というのは、神様に対して、今日のお祭りがどのような意味で行われているのか。という事をご奉告申し上げる文章です。例年、元々唐津くんちの日であった十月二十九日には本殿祭を齊行し、今日の唐津神社創建の日を末永く伝えていくこと。そして、唐津くんちの御神事に使用する御神輿の準備が整ったことを神様に奉告申し上げ、唐津くんちが無事、賑々しく齊行されることを祈願し、十一月三日の唐津くんち当日には御旅所祭にて、氏子崇敬者がこの御旅所に寄り集って、秋の味覚をお供えし、神様がお護り戴くこの唐津地域の安寧をご祈念申し上げる旨、祝詞を奏上致します。しかし、令和二年はそう申し上げることもできませんので、十月二十九日の本殿祭では、感染症の影響で心苦しいけれども今年の唐津くんちは神輿の渡御と曳山の巡行が行われない事を祝詞の中で神様にご奉告申し上げました。また、唐津くんち当日、十一月三日正午より神社拝殿にて行われた御旅所祭では、当日未明に御旅所近くの砂浜で汲んだ潮と砂を御神前近くに安置し、今年は神社の拝殿を御旅所に見立てて御旅所祭を齊行する事を真っ先に祝詞の中でご奉告申し上げ、疫病の早期終息と唐津地域の安寧、そして弥栄をご祈念申し上げた次第でございます。

【それぞれの「くんち」】

 唐津曳山取締会では、毎月唐津警察署様のご協力のもと各町持ち回りで行っている市街地の夜間防犯パトロールを十一月二日午後七時半、火矢の合図とともに全ケ町一斉スタートとし、少しでも宵曳山の雰囲気を伝えたいと実行されました。また、神田獅子舞保存会の皆様には、例年は曳山が動き出す前の早朝五時に奉納頂いている獅子舞を昨年は午前九時に変更され神社の四方を清める獅子舞を多くの参拝者が身守る中ご奉納頂きました。そして、露店商組合様のお声掛けで境内にはミニ曳山の展示スペースが設けられ、参拝者や観光客の目を楽しませていました。売るものが何もなかった時代に、露店商組合様から「せめて賑わいだけでも」と、神社参道に電灯の列を灯して頂いた話を先代、先々代宮司から聞いてはいましたが、露店商の方々の変わらぬ心意気に深く感激致しました。また昨年は鳥居奉納提灯の御協賛のお願いは致しませんでしたが、思い掛けず多数の企業様から御協賛を頂き、提灯を掲げさせて頂く事が出来ました。厚く御礼申し上げます。
 例年宵曳山や御旅所の曳き込み等を生中継される唐津ケーブルテレビジョン様が、十一月三日の朝から神社境内にて放送ブースを設けて御旅所祭の生中継を行われ、唐津神社と唐津くんちについて詳しく解説をして頂きました。その放送の最後には唐津曳山囃子保存会様と共同で十四ケ町の囃子の演奏が行われ、静かな唐津くんちに華を添えて頂きましたことは、神様も多くの元気をいただかれたことでありましょう。
 恐らく、多くの方々の中で令和二年の唐津くんちは寂しいものだったと思います。しかし、その寂しいくんちの中で、沢山の人達が工夫を凝らしながら、それぞれの「くんち」を過ごされておられたことに思いを致しますとともに、今後本来のくんちが出来ますよう、一刻も早いコロナ禍の事態の鎮静化を切に願います。
     
     


 ▼行事報告・予定▲

三月二十九日
 ・佐賀県神社総代会
  評議員会
三月三十日
 ・唐津市民会館
  閉館セレモニー(唐津市民会館大ホール)
四月五日
 ・唐津神社氏子総代会総会
四月十三日
 ・佐志八幡宮春季例大祭
四月十五日
 ・唐津曳山取締会総会
四月二十七日
 ・佐賀県神社関係者大会(佐嘉神社記念館)
四月二十九日
 ・唐津神社春季例大祭
五月
 ・九州各県神社庁連合会
  神職総会(福岡県)
 ※新型コロナ感染症拡大抑止の為中止。
五月九日
 ・東京オリンピック 聖火リレーセレモニー(唐津市民会館前)
五月十二日
 ・見借猿田彦神社三番庚申
五月十六日
 ・曳山十四台 仮展示場へ移動(予定)
六月中旬
 ・唐津神社総代会研修旅行
 ※新型コロナ感染症拡大抑止の為中止。
六月
 ・唐津神社旗争奪唐津曳山十四力町親睦スポーツ大会
 ※新型コロナ感染症拡大抑止の為中止。
 ・来年へ順延(当番町 平野町)
七月十一日
 ・見借猿田彦神社四番庚申
七月二十九日
 ・唐津神社夏越祭
九月
 ・初旬 国民精神昂揚合同研修会(佐賀市)
◎毎月一日・十五日
       月次祭
≪総代異動≫
 【退任】
 西城内  倉持 泰男
 永年に亘る神明奉仕に敬意を表します

【帰幽】
 大名小路 保利 喜英
     (第二区推薦)
 永年のご奉仕に敬意を表しますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


≪曳山情報≫
 第三十七回唐津神社旗争奪「曳山十四ケ町親善スポーツ大会」は新型コロナウイルス感染症拡大防止の為、昨年より二年続けて延期となりました。引き続き当番町は平野町の担当となっています。

 
 
 
 疫病鎮静祈願





 
春季例大祭
 4月29日(水・祝日)昭和の日
 曳山社頭勢揃・池坊生花
唐津曳山囃子保存会 囃子奉納


※浦安の舞奉納は諸事情により本年は中止
 





 

唐津市民会館・曳山展示場が閉館 〜解体新築へ〜
 唐津の文化発信の殿堂として市民に親しまれてきた唐津市民会館(旧名・唐津市文化会館)と隣接する曳山展示場が此の度、老朽化の為解体し、現地に建て替えをする運びとなった。
 唐津市民会館・曳山展示場は昭和四十五年十月に開館。総工費七億円で文化施設では当時九州一の規模を誇っていた。
 ここで当時の落成式の様子を新聞記事で振り返ってみたいと思う。


文化会館オープン
  市長感激のテープ切り


 唐津市文化会館の落成式典が十月三十一日、保利官房長官をはじめ文部大臣代理、土生文化庁文化普及課長、池田知事ら来賓や市民代表およそ千五百人が参列して盛大に行われた。式はまず午前九時半から本館前庭で神事が厳修され瀬戸市長が曳山展示館、本館の紅白テープに感激の鋏を入れた。
 ひきつづいて新装の本館ホールで祝賀式典が開かれ瀬戸市長が「古い歴史と誇り高い伝統に輝く郷土文化の礎となるようこの施設を市民とともに意義あらしめたい」と挨拶して、会館建設の設計最高顧問村野藤吾氏をはじめ設計担当の山下寿郎事務所、本館施工の大成建設kkに感謝状を贈った。
 つづいて保利内閣官房長官、池田知事、殿川市議会議長ら来賓が祝辞をおくったが、保利長官は「この文化会館が唐津、東松浦地方文化の牽引車として機能をはたすよう期待する」と祝福のことばをおくった。このあと曳山保存会一同の曳山ばやしの伴奏で市が製作費一千万円で新調した豪華でけんらんな緞帳が万雷のような拍手のうちに披露された。
 このあと松竹歌舞伎の岩井半四郎丈が木の香も真新しい檜舞台でこけら落としにお祝いの「操り三番そう」舞踊「七福神」を熱演。千両役者の至芸に会場の拍手は鳴りやまなかった。
 正午すぎめでたく式典を閉じ参列者一同、池田知事の音頭で乾盃、会館のスタートを祝った。


見事な内部施設
工費、市民一人一万円の額


 三十一日開館した唐津市民会館は、九州一の施設を誇るだけに、大ホールはクッションのよいイスが一階から四階まで千五百ずらり並んでいる。これに補助席三百も用意されており、総収容人は千八百人、床はリノリユーム張りで、天井は音を吸収するよう網目と板が波状に張りめぐらされ壁も音を反射しないよう工夫をこらしている。大ホールは禁煙のため一〜四階までの両側出入口近くには喫煙室がある。
 大ホール北側二階の結婚式場から、三、四階の会議室まで赤色のじゅうたん張りで、壁と天井はクリーム色にして明るさを保っている。
 曳山会館は中央に玄関と入場券発売所、玄関内には市観光協会の案内所があり十四台の曳山は玄関の左側から一番山の刀町赤獅子から十四番山の江川町の七宝丸まで右回りで陳列され、曳山の前は総ガラス張りであるが照明効果がよく現れうるし塗りの金や赤、青色がよく冴え、唐津くんちで見る曳山とちがった豪華な感じを出している。
 この文化会館と曳山会館の建設費は九州一だけあって七億二千万円、これを七万唐津市民で割ると一人当たり一万円という額になる。
 このほか記事には開館前には長蛇の列が出来、争うように一般の市民が入場したという様子や、唐津にはもったいないくらいの立派な施設だという市民の期待の声もあったと伝えていた。


 新市民会館・曳山展示場の完成は令和七年に予定されている。その頃にはコロナも収まり大勢の市民が集まって祝福できる世の中になっていて欲しいものである。
 
 
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