唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第116号   平成30年4月1日発行
発行所 唐津神社社務所
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (株)音成印刷
 新町「飛龍」総塗替  〜経過報告〜
 唐津くんちの第七番曳山新町「飛龍」は、前回昭和六十二年の総塗り替え事業以来三十一年ぶりに総塗り替えの年を迎えた。平成三十年一月二十七日に行われた第一回保存修理委員会では、劣化・毀損状況と修復方針が概ね決定された。


@この曳山の大きな特徴として、本体が上下に可動する構造となっており、巡行時には左右各一名の若者にて上下を操作し、障害物等を回避出来るようになっている。その本体部分は昭和六十二年に総塗り替えを行い約三十年を経過し、経年劣化により、漆の脱色、各所に亀裂などが目視にて確認できる。前記のように、上下に移動させながらの巡行になる為、亀裂には十二分な注意が必要である。また、この亀裂により雨水が浸透し、紙胎を破損させてしまう危険性がある。さらに、近年の小修理で明らかになった事項で、漆下地に化学樹脂・発泡剤が使用されている。
A今回の総修復でこれらの化学樹脂・発泡剤を全て取り除き本来の姿へ復元する。本体ヒゲも、強化プラスチックに変更されているので、木製のヒゲを取り付け金箔で仕上げる。
Bその他、台車については框材・鞘柱・車輪等の新調を行う。


 今回総塗り替えを担当する鰹ャ西美術工藝社(東京都)の調査によると、本体鼻部分の調査(漆の掻き落とし)をした結果、五層の塗り重ねが確認できた。修復方法としては、四回目修復の下地まで掻き落としを行い下地漆に着手。仕上げの色については、当初の漆の色とする。その他本体の掻き落とし作業の中で、
(イ)目玉の黒眼の位置が現状と違う痕跡を確認。
(ロ)眉の部分はたたきと言われる変わり塗り(眉の根元〜頭頂部の境目まで)。眉毛の箔押しに関しては現状よりも鋭くなっていた痕跡を確認。
(ハ)鰭の鱗の箔線が、下層の遺痕より金箔押しではなく、消粉を使用した消金地で線を措かれていた事を確認。


 など、様々な製作当時の姿をうかがわせる痕跡が発見された。修理方法については概ね本来の姿にもどす事を目的としている。町内関係者の中には、現在の飛龍とは違うモノになるのではないかと心配する声もあったが、調査を行った業者の方は、現在の曳山の漆の塗り方に比べて (調査の結果判明した)本来の曳山の塗り方は技法も素晴らしく、作成当時の姿にもどす事が今後の唐津くんちの為にも素晴らしい結果となると述べ、下層(本来の姿)の遺痕に合わせて修復を行う旨、保存修理委員会にて決議された。
 今年の唐津くんちには本来の姿を取り戻した新町飛龍の姿を見ることが出来る。
 
   
   
   
   

〈総代異動〉
弓鷹町
    永田 泰仁 退任


弓鷹町
    坂本 和宏 新任

◆四月二十五日
 ・佐賀県神社関係者大会
  (於 ドゥイング三日月)
   講師 植松三十里 女史
   「幕末佐賀藩に学ぶ」

◆四月二十九日
 ・唐津神社春季例大祭

◆五月十五・十六日
 ・九州各県神社庁連合会
   神職総会  (宮崎県)

◆五月二十日
 ・曳山各町親善スポーツ大会(当番町 本町)

◆七月下旬
 ・総代研修会(日田祇園祭見学)

◆七月二十九日
 ・唐津神社夏祭り
  茅輪くぐり神事

◆八月十五日
 ・戦没者慰霊祭並びに祖国復興祈願祭

◆九月初旬
 ・国民精神昂楊合同研修会(佐賀市)

◎毎月一日・十五日  月次祭
  






 
春季例大祭
 4月29日(日・祝日)昭和の日
 奉納神賑行事
 浦安の舞・曳山社頭勢揃・池坊生花
唐津曳山囃子保存会 囃子奉納
 






 
 
「曳山の里」〜七山〜
                    植林事業始動

  平成三十年二月二十四二一十五日の両日、唐津曳山取締会では長年計画を行ってきた植林事業を実動させた。当日は植林場(「曳山の里」) で神事の後、唐津市から無償貸与された私有林(七山藤川・約千平方メートル) に県の技術指導を受けながら、曳き子約二百五十名がアカガシの苗木六百本の植樹を行った。
 「百年〜二百年の歳月をかけて大木を育てる世代を超えたプロジェクト。祭りを永遠に守り続ける意識作りにもなれば」と唐津曳山取締会大塚総取締は語った。
 曳山の修復に必要不可欠な木材の中、曳山を支える支柱や梶棒の材料となるアカガシは現在市場に出回る事が少なくなり、その確保に頭を悩ませていた。今回の植林はその悩みを急速に解消させる物ではないが、「地域の祭りを地域の人間が守り育てる」事への大きな第一歩となる。曳山取締会では今回の植林が軌道に乗れば、植林場を拡大して新たな植林を計画しているが、何はともあれ、今回植林したアカガシが唐津の発展と共にすくすく成長する事を祈りたい。
 唐津曳山囃子保存会 創立三十周年祝賀会
    〜平成30年2月18日〜  於 長崎荘
  今の唐津曳山囃子保存会(以下保存会)が正式に創立されたのは昭和六十一年、母体である唐津曳山取締会の一組織として認可された時である。この年から数えて今年平成三十年はすでに三十年を過ぎてはいるが、この契機に節目を祝い、これまでの保存会の活動を振り返り、更に活動拡大維持に繋げるため、今回記念祝賀会が長崎荘にてご来賓多数参加のもとに盛大に開催された。
 保存会の活動の歴史は古く、組織化以前に遡ると、昭和四年に唐津曳山囃子として 「NHK熊本放送局開局記念民芸大会」に出動、出演したのが保存会の結成に至るひとつのきっかけにもなったと推測される。というのも唐津神社の第十代宮司戸川俊雄の弟戸川兎毛の四男である戸川鐵(まがね)は唐津くんちを記録した著書の中で、「この熊本の民芸大会に当時八〇歳近かった刀町の高添翁が出演され、当時囃されなくなっていた道囃子を覚えておられた。翁は次代を背負う師匠連にこれを伝授された。」と記している。当時道囃子を伝授された数名の師匠により辛うじて道囃子は受け継がれてきたのである。
 これより十数年の年月が流れ昭和二十二年十月七日、当時の唐津新聞に「正しい山囃調を」と題して記事があった。記事を紹介すると「唐津くんちを前にしてはやくも市内の、各町内連中の山笠囃稽古で笛や太鼓の音が深みゆく秋になつかしく調和し神楽序曲となって流れてくるところで郷土楽器の一つとされている傳統の山笠囃も世の移りかわりと永い年月のうちに本来の正調さがだんだん失はれ乱調化されているので心ある市内二、三の古老を中心に正しい山笠囃にけへそうと、来る十月九日初供日の夜七時から唐津神社拝殿に各町内の山囃経験者の参集を求め正調山笠囃の講習とでもいふべき研究座談会を開くことになっている。」と書かれている。
 このように組織化される以前から有志によるご尽力があった。
 また当社の資料に昭和二十六年に山笠取締会から出された「囃講習会案内文」の下書きが残っており、その中で山笠囃(現在のせりばやし)と道囃(みちばやし)について講習会を初供日あと一週間に亘って行う旨が記載されていた。案内文には昭和四年の熊本の民芸祭の事にも触れられており、当時参加されていた刀町の古老村井、高添両氏の発意で道囃子を普及させようとラジオにまで放送したという経緯が書かれている。しかしこの時講習会を開催する時には両氏とも亡くなられており、道囃子の伝承者が木下又蔵氏と市丸一氏両人になっていてこの両氏を師匠として各町から彰敬館に集まって講習会を開いたことが分かる。
 時は流れ昭和四十一年、木綿町の福島資千氏 (現保存会会長福島秀一氏の父)に刀町などの町内から、囃子の保存継承、特に「道囃子」の保存継承について講習会を開催して欲しいとの要望があり、福島氏が発起人となって各町より子供たちを集め囃子の練習会を始められることになった。当時の福島氏はそこまで曳山囃子に関心がなかったと生前ご本人が言われていたが、次第に有志が集ったことを熱く語られたのを思い出した。当時の練習は拝殿内ではなく境内でゴザを敷いて行っていたことや、女性にも練習の案内をされていたこと、また囃子の師匠は笛が「市丸一」「一色三兄弟」「堀アキラ」、太鼓と鐘は「平田ツネジ」「田中トミサプロウ」「宮田カズオ」の諸兄から厳しく教わった、と話されていた。
 (お名前は平成二十三年福島氏からの聞き取りで書き残したメモのまま掲載)


 その後、有志により囃子が継承され、ついに昭和六十年、福島資千氏が唐津曳山囃子保存会規約を策定。その規約をもとに福島氏が初代会長に就任。現在まで引き継がれてきた。
 その意思を引き継ぎ、昨年には福島秀一会長が近年変わりつつあった道囃子を原型に戻して本年正月の初囃子で披露された。
 言わずもがな唐津の曳山と囃子は表裏一体。笛・鐘・太鼓の囃子の調べでヤマに魂が入り、ヤマと人とが一体となって生き生きと躍動し、神々からお力を戴く。この囃子を後世に残していかなければならない。
 
 
 《ユネスコ無形文化遺産登録の碑奉納》


 昨年の唐津くんち前、吉光石材距lより「唐津くんちの曳山行事ユネスコ無形文化遺産登録」の石碑を奉納して頂きました。曳山展示場から唐津神社への参入口に設置して頂き、多くの観光客の目に触れて頂いております。

 《曳山出動》
 今年明治維新百五十年を祝い「肥前さが幕末維新博覧会」が県内各所で開催されています。唐津市では三月十七日に旧唐津銀行にてイベントが開催され、第八番曳山本町「金獅子」が出動。オープニングセレモニーに花を添えました。
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