唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第113号   平成28年10月1日発行
発行所 唐津神社社務所
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
     
 
 江川町第十四番曳山「七宝丸」明治九年(一八七六年製作)は昨年十一月より修復工事が行われていたが、この度、工事が完工し、九月十八日には西の門館曳山修理庫で組み立て作業も行われ、十月十六日に保存修復事業落成記念式典開催の運びとなった。
 今回、漆の塗膜を剥がす作業を行っていた際、本体後部の装飾「宝巾着」部分で過去の修理で上塗りされていた螺鈿細工と蒔絵が見つかり、貝殻の真珠層や金属の粉を漆の上に貼って図柄を施し、さらにもう一度漆を塗り、光沢が出るまで研ぎ出す製作当時と同じ手法で見事再現された。また同時に台車の修復も行われ一四〇年、制作当時の姿を彷彿とさせる仕上がりとなった。今回の七宝丸総修復工事は鰹ャ西美術工藝社(東京都)が請負った。
 十月十六日のお披露目は当神社でお祓い、記念撮影の後、九時頃より江川町内へお披露目巡行が行われる。道中では氏神神社である熊野原神社も参拝される。また正午よりアルピノホールで落成記念式典が開かれ、その後、映画「花かたみ」の撮影まで行われる予定である。

曳山スポーツ大会
 第三十三回唐津神社旗争奪唐津曳山十四ケ町親睦スポーツ大会は、五月八日に当番町大石町にて開催され、ソフトボールを行いながら真剣勝負の中にも各町親睦を深めた。
大会結果は以下の通り。
 優 勝・大石町
    (二年ぶり四回目)
 準優勝・新町
 第三位・中町
 第四位・木綿町


古拝殿御屋根工事
 〜激動の昭和〜

 唐津神社境内東側にある瓦葺きの大きな建物。通称古拝殿と呼ばれる建物は、現在の社殿が建つ前に唐津神社の拝殿として使用されていた建物である。平成十七年に発生した福岡西方沖地震で屋根瓦がズレ、その後風雪により傷みが激しくなったため、この度屋根瓦の工事を行うこととなった。
 古拝殿が社殿として使用されていた時期の唐津神社の境内は今よりも狭く、昭和四年に現在の社殿が建っている敷地を買収し、昭和十三年に社殿落成鎮座祭が行われて、現在の社殿が使用されることとなる。その間の世界情勢を見てみると、

昭和四年(一九二九)
・現在の社殿鎮座地を買収


昭和六年(一九三一)
・満州事変
・唐津村合併(唐津町)
・宮崎清氏大鳥居奉納
 ※この鳥居が大手口にあった鳥居。現在は手水鉢横に移築されている。


昭和七年〈一九三二)
・唐津市 市政施行


昭和八年(一九三三)
・十月二十九日の唐津神祭 御神幸、雨のため御旅所には向かわず大手口解散。
 ※次に御旅所神幸が中断されたのは平成十三年。


昭和十年(一九三五)
・唐津神社
   御鎮座一一八〇年祭
・筑肥線全線開通


昭和十二年(一九三七)
・日中戦争始まる


昭和十三年(一九三八)
・唐津神社
   社殿落成鎮座祭
   (九月十三日)
・初代天忠軒雲月透塀奉納


昭和十四年(一九三九)
・唐津神社
   社殿落成奉告祭
   (四月二十八日)
・松浦橋開通式
 ※舞鶴橋は昭和二十八年に開通し、曳山十四台も渡り初め式に参加。


昭和十五年(一九四〇)
・紀元二千六百年式典
・消防団の解散により山笠取締会を組織し、総取締に木下吉六氏が就任。
・木下吉六氏、大鳥居奉納 ※現在の白い鳥居


昭和十六年(一九四一)
・大東亜戦争開戦


 日本も唐津も文字通り激動の時代だったことが分かるが、これは先代宮司から聞いた唐津神社新社殿鎮座祭の時の話。鎮座祭(旧社殿から新社殿に御神体が御移りになる神事)が行われたのが九月十三日。と言う事は、その当時の唐津くんちは十月二十九日に斎行されていたので、わずか一ケ月余りで旧社殿の本殿を解体し、旧拝殿を現在の位置まで移動させて唐津くんちを迎えたこととなる。唐津神社も文字通り激動の時代だったことが分かる。
 さて、そんな激動の時代を生きた男女の純粋な魂を描いた小説『花筐(はなかたみ)』(原作檀一雄)が唐津を舞台に映画化されることとなり、監督の大林宣彦氏を始め、銀幕のスターも参列して映画の成功祈願祭が八月二十五日に行われた。映画の中では曳山の出番もあるようで、完成が待ち遠しい。

 
 
唐津神祭
十月九日 (日)
 ◎午後七時 初供日奉告祭

十月二十九日 (土)
 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
  総行司 
    一ノ宮 米屋町
    二ノ宮 大石町
 ◎午前十一時 本殿祭

十一月二日 (水)
 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町曳山万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)

十一月三日 (木・祝)
 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前八時四十五分 発 輿 祭
 ◎午前九時三十分
       ☆御神幸発輿(煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正 午 御旅所祭
 ◎午後三時 還 御
       ☆御旅所発輿(煙火五発合図−曳山は町内へ)

十一月四日 (金)
 ◎午前十時 翌日祭
  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め
  (曳山展示場へ=煙火五発)

十一月五日 (土)
 ◎神輿納ノ儀
  総行司
   一ノ宮 紺屋町
   二ノ宮 魚屋町
 
 
映画「花かたみ」に見る唐津神祭

 おもて面に紹介した通り、今般、檀一雄さんの小説「花筐」が唐津を舞台に映画化される運びとなり、現在唐津のあちこちで撮影が行われているところである。
 監督の大林宣彦氏はこの唐津古里映画を制作するにあたり「僕はこの物語を、いま新たに昭和十六年(一九四一年)あの太平洋戦争勃発の年に置き換えて語ってみようと思う。それはいまを生きる僕らに、より切実な、戦争の記憶の年であるから」と語られている。
 すでに唐津くんちの撮影も終わっているが、ここで昭和十六年の唐津くんちはどうであったのか、当時の新聞の切り抜き記事を一部抜粋したものをみて振り返りたい。


まず、昭和十六年二月一日
九州日日新聞
 唐津市の昨年末
  人口三万六千
    但実数より遙に多い

 当時唐津市の人口は三万六千人。現在の三分の一以下の人口である。


昭和十六年八月五日
大阪毎日新聞
 活気づく唐津の夏
   名物山笠も”幕洗ひ”
 「〜一か月振りの八月の太陽に各町では名物唐津山笠の幕洗ひが始まり、山笠小屋から引き出した山笠の虫干しを行い浴客の眼を瞠らせてゐる。」
 だんだんとくんちが近まって行くさまは今も昔も同じで気分の高まりが伝わってくるようである。当然に曳山展示場はなく、当時の観光客も曳き出された曳山に驚いたことだろう。


しかし、その翌月、昭和十六年九月十日
唐津日日版.
 唐津神祭の饗應
  三月倒れに再検討
   唐津校区常会廃止意見

 「唐津國民學校区聯合常會は九日午後七時半から同校講堂で開催し、…中略…会員から近づく唐津神祭の饗応廃止について意見あり時局下にしかも物資統制時代に多額の費用を投じて飲食物を用意して多くの人に振るまふことも所謂「唐津くんちの三月倒れ」の通弊を暴露するものであるから此の際饗応の慣習に再検討を加へ祭典はあくまで厳粛荘厳に執行するも饗応は内祝ひ程度に止めて断然廃止すべしとの意見が有力に唱えられ…云々」
とある。
 いかに神事ごととは言え、戦時中であるので唐津神祭も慎ましく行うべし、との意見が出るのは当然の事と言える。それでもこの時はくんちの中止という意見は出ていない。饗応、いわゆる飲食のおもてなしを中止とはせず「内祝い程度にとどめて」とするところが唐津らしいといえば唐津らしい。これが学校区の話し合いで行われていたことが分かる。


さらに昭和十六年九月十七日
佐賀合同新聞
 防訓下の唐津神祭
  山笠曳はどうなる
   十九日に關係區長會

「唐津市では来る十月二十九日の唐津神祭を控え神事ならびに山笠曳き饗応廃止などに関し旧唐津町の関係区長會を市役所で開くことになったが右は神祭当日があたかも防空訓練中に当たる為饗応廃止は別としても祭典山笠曳きなどの行事をいかにするかの対策に焦点があるわけで今日伝へられてゐる各種の代表的意見をあぐると、
 一、神事は尊厳にして人事で勝手に変更すべきでないから祭典は厳粛に執行すべきである。
といふのが有力で祭典延期説も一部にはあるが山笠曳きに対しては、
 一、神祭当日は唐津神社社頭に陳列するだけに止めよ
 一、山笠曳きだけは延期して十一月三日(明治節)ごろ実施すべし
など区々たるもので現在のところ纏まったところはないが山笠曳きは唐津人にとって伝統を誇る年に一度の厳たる行事であってしかも単なる民衆娯楽でなく神輿に供御する神事の延授であるからこの際祭典、山笠曳きともに延期し銃後国民の心持にゆとりをつくることも必要であるなどの意見もあるので区長會が果たしてどう纏めるか興味ある問題である。」
 時は大東亜戦争突入前。戦線激動の背景を考えると唐津くんちどころではなかったであろうが、そこは唐津人の魂である。この文面から唐津町々の区長が集まってくんちをどうにかして実施したいと話し合った様子が伝わってくる。この当時は唐津曳山取締会の前身である唐津山笠保存会が結成されて間もない頃である。この記事に保存会や総行司の名前は出ていないが、戦時中であるから当時くんちの実施については曳山の幹部より区長や唐津市の影響力が強かったものではないかと推測する。


この三日後
昭和十六年九月二十日
佐賀合同新聞
 名物唐津神祭は
  期日通り挙行か
   饗應を拝し内祝ひに

「−防空訓練下の名物唐津神祭はどうなる−を主題に今十九日午前九時から唐津市公会堂で神祭関係区長会を聞き岸川市長、横尾助役も出席して種々協議の上祭典・山笠曳きともに防訓期間を避け十一月三日明治節の佳辰を期して厳粛に執行することに延期を決定したが、十九日内務省が防空訓練期間を十日間繰り上げて十月十二日に繰り上げになったので唐津神祭の十一月三日の延期も当然消滅したわけである。然し従来の慣習である神祭客への接待酒肴は時局認識の建前から徹底的に自粛を強化されるものと見られてゐる。右について市当局は語る。(唐津神祭は大祭でもないから以前延期した例もあるが、各家庭の祝は内祝いにとどめて饗応は自粛して買いたい。然しそのために要する酒に就いては市当局も考慮してゐる。)」
 以上、何はともあれ無事唐津くんちが十月二十九日例年通り斎行されることになったのである。
 今の世も、この当時と同じように種々の会議が聞かれてくんちが無事斎行されているのだが、開催、中止を判断する会議は非常に難航する。一年待ったくんちが中止されるのだから、準備して楽しみにまっていた人々はたまったものではない。しかし時は国の存亡を懸けた戦争の真っ只中。大変な思いがあって、くんちは今に続く。私共神社に奉仕する神職にとって国の安寧を願うことは最優先である。その根本には年に一度の氏神様の祭典があり、感謝の心がある。
 このように唐津の人々に大事に祭り続けられてきた、くんち。映画ではどのように描かれるのか。楽しみに待ちたい。


 祖父の新聞切り抜きからこのような当時昭和二十二年の広告を見つけたので紹介したい。



 神祭特別大興行として初代であろうか、唐津出身の演劇役者大川竜之助氏の舞台が、今はなき近松座で行われていたことが分かるものである。映画「花かたみ」では三代目大川竜之助氏が出征する女形"として登場される。こちらにも注目して映画の完成を待ちたい。 
 
氏子総代

山下町  田代孝男 新任


 
 
 
 
 

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