唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第110号  平成27年4月1日発行
発行所 唐津神社社務所
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 唐津神社
御鎮座1260年祭
宮司 戸川忠俊

 天平勝宝七年(西暦七五五年)九月二十九日に、唐津大明神の御神号を賜って創祀されてより、本年、唐津神社は御鎮座一二六〇年の式年の年を迎えました。長きにわたり、産土の大神として崇敬の念を頂き、氏子崇敬者の皆様方と共に、唐津の里の御栄を祈り続け、祀り続けて、今年の祝の年を迎えております。
 さて、唐津神社の、と言いますか、九州北部地方に鎮座する神社の創祀に関わりが多く、唐津神社のご由緒にも登場される神功皇后と言う方をご存知でしょう
か?

神功皇后と松浦国
 神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后で、『日本書記』や『古事記』 によれば、熊襲(くまそ・・九州南部に本拠地を構え当時の朝廷に抵抗していた人々)を平定中に神託を受け、新羅(今の韓国)討伐を計画され、しかも、お腹に子ども(のちの応神天皇)を懐妊したまま筑紫から玄海灘を渡り、朝鮮半島に遠征して半島を征服した。と、伝えられる人物です。神功皇后には逸話が多く、半島へ渡海する際、お腹に石を当てサラシを巻いて冷やすことによって、出産を遅らせた話や、戦況を占うために鮎を釣った話があります。そして、この「鮎を釣った話」が私たちに関係してきます。
 神功皇后は半島へお渡りになる前に、玉島の里、玉島川の川中にある石に立って戦の行方を占われました。『日本書記』には、

是(ここ)に皇后針を匂(ま)げて鈎(ち)を為(つく)り、粒(いいぼ)を取りて餌に為し、裳の縷(いとすじ)を抽取(ぬきと)りて緡(つりのお)に為して、河中の石の上に登りて、鈎を投げて祈(うけ)ひて曰く、朕(あれ)、西の財(たから)の国を求めんと欲す。若(も)し事を成すこと有らば、河の魚釣飲(つりく)へと。因りて竿を挙げたまふに、乃(すなわち)細鱗魚(あゆ)を獲つ。時に皇后曰く、希見(めづら)しき物なりと。故(か)れ時人(ときのひと)其の所をなづけて梅豆羅国(めづらのくに)の曰ふ。今松浦と謂ふは訛(よこなま)れるなり。


と、あります。このあたりの土地が「まつら」と呼ばれたのは、この話以前からとも言われていますが、神功皇后とこの地を結びつける伝承として、今でも語り継がれています。ちなみに、神功皇后がお立ちになった川中の石は「垂綸石(すいりんせき)」と言い、今でも浜玉町に鎮座する玉島神社付近の公園で見ることが出来ます。

「神功皇后と唐津神社」

 唐津神社のご由緒を紐解きますと、まず最初にあるのが神功皇后のお話です。
 曰く、「神功皇后、三韓へ渡海に際し道中安全を住吉三神に祈願奉る。帰朝の後、御進徳著しきを感じ松浦の海浜に宝鏡を懸げて三神の霊を祀り給ふ」
 この話の後に、唐津神社創祀の話が続きます。
 曰く「天平勝宝七年、時の領主・神田宗次公、一夕神夢を得て海浜に至れば一筐の浮かび来る有り。之を探りて開けば一宝鏡なり。之、正しく皇后の捧げ給ひしものならむと畏みて帝に奏聞す。この年、天平勝宝七年(西暦七五五年)九月二十九日に「唐津大明神」の神号を賜ふ」
 つまり、唐津神社の御由緒は、神功皇后の話が元になっているという事です。そして、「唐津大明神」の神号を賜った九月二十九日に、これを祝うために行われていたお祀りが、新暦に改まって十月二十九日となり、今では十一月三日となりましたが、今日の「唐津くんち」として、今でも祀り続けられているということになります。
 しかしながら、今でも神号を賜った九月二十九日の事を忘れぬためにも、十月二十九日には、唐津くんちの時に神様がお乗りになる神輿を飾り付けし、「本殿祭」というお祀りを行っております。


「明神さん」
 今ではあまり聞かなくなりましたが、唐津神社の事を「明神さん」と呼ばれる方があります。これは、賜った「唐津大明神」の名前の名残であり、今でも「明神さん」と呼ばれることは、それだけ産土の大神として、地元の神社として親しみを感じて頂けているものと感謝申し上げる次第です。ちなみに、「唐津大明神」から「唐津神社」に改称されたのは、明治六年(一八七三年)のことで、明治四年、太政官布告により、社各制度が新たに定められ、地方に存在する諸社は県社・郷社・村社という格付けが行われました。そこで、明治六年に唐津大明神は郷社(地方官の管理下にあって、奉幣を受ける神社)に列する事になり、名も「唐津神社」と改称されました。その後、昭和十七年(一九四二年)には、境内地を拡張し、社殿の総改築を行って、県社(県の管理下になって奉幣を受ける神社)に昇格を致しました。
 
 『白い鳥居』の神社
 唐津神社を参拝される観光客の皆様から、「ナゼ鳥居が白なんですか?」と、よく聞かれます。唐津神社の正面に立つ大鳥居は、昭和15年に奉建されたもので、今年で七十五年間もの間、社頭の尊厳を保持して参った事になります。この大鳥居の奉建当時の新聞に依りますと、


 大鳥居奉献式
 けふ唐津神社で挙行
 唐津市元第一消防組が紀元二千六百年記念として唐津神社に奉納の大鳥居はこのほど竣工。けふ四日午後一時から木下組頭以下組員四百名参列のうへ厳かな奉献式を執行。引きつづき二時から唐津座で落成式を挙行。終って元第二消防組の解散式にうつり永年勤続者四十名を表彰ののち鳥居落成祝賀会を開催する。
 竣工した鳥居は工費二千円。高さ三十二尺鉄筋コンクリートの堂堂たるもので唐津一の大鳥居である。
(昭和十五年2月4日付の佐賀日日新聞より)


 とあります。新聞の通り、元々鉄筋コンクリート遣りですので、白いわけはないのですが、白くなった理由は昭和六十一年の改装工事にありました。
 昭和六十一年。完成以来四十五年もの歳月、風雪に耐えて建っていた鳥居も亀裂が目立ち始め、コンクリート表面の剥離防止工事を主たる目的として、大鳥居の改修工事が行われました。その時、併せて美装工事をしたのですが、当初はもっと暗めの色になる予定が、ふたを開けてみると思ったよりも明るい色になり、白い鳥居が誕生したという事になります。それ以来二十九年間、「唐津神社の白い鳥居」として名物(?)になってきたわけですが、最近ではまた亀裂やヒビ、汚れが目立つようになりました。
 そこで、今回の唐津神社御鎮座千二百六十年祭の記念事業として大鳥官の改修工事を計画しております。
今年の十一月には新しく塗りなおされた白い鳥居と青空の下、唐津くんちが賑々しく御斎行できますことをお祈り申し上げます。
 
 
 
 《総代異動》
南富士見町
    緒方 正人 新任

曳山本部帰幽
参与 濱邊 繁美 帰幽


▼行事予定▲
◆四月
 十四日 曳山取締会総会
 十五日 唐津神社総代会
     総会
 二十三日
  神社関係者大会
  (於 唐津市文化体育館)
 二十九日
  唐津神社春季例大祭


◆五月
 十日 曳山スポーツ大会
 十二・十三日
  九州各県神社庁連合会
  神職総会(於 長崎県)


◆六月
 初旬 総代研修旅行


◆七月
 二十九日
  夏祭・茅の輪神事


◆九月
 中旬 国民精神昂揚運動
    合同研修会


◎毎月一日・十五日
       月次祭

 曳山修理場の名前決まる

曳山を修理する西の門館の曳山修理庫が一月末に改修工事を終えお披露目されました。新しい修理庫は、二台の曳山を同時に収納可能となり、市民や観光客が作業工程を見学できる造りになっております。また、修理庫の愛称は数ある応募の中から、大志小4年生の中川美琴さんの「曳山の蔵」8やまのくら)に決まりました。
 


 ▼曳山情報▲
◎親睦スポーツ大会
 5月10日(日)、第三十二回唐津神社旗争奪、曳山十四ケ町親善スポーツ大会が行われます。競技種目はソフトボール。会場は唐津市二タ子浄水センター。(当番町・魚屋町)

 






 
春季例大祭
 奉祝 御鎮座壱弐百六拾年 式年大祭千
 4月29日(水・祝日)昭和の日
 奉納神賑行事
 浦安の舞・曳山社頭勢揃・池坊生花
唐津曳山 囃子保存会 囃子奉納