唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第11号  昭和40年10月1日発行
発行人 戸川 健太郎
編集人 戸川 省吾
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
唐 津 神 祭
十月  九日 午後七時  囃子初ノ儀
〃 二十五日 午前九時  神 輿 飾
       総行司一ノ宮  魚 屋 町
          二ノ宮  平 野 町
〃 二十七日 注 連 降 し
〃 二十九日 午前零時  奉遷儀宵山社頭曳込
   二十九日 午前五時  神田獅子舞社頭供覧
   二十九日 午前九時  神輿渡御曳山曳出し
   二十九日 正  午  御旅所祭曳山勢揃
   二十九日 午後三時  還御曳山曳出し
   三十日  翌日祭曳山市内各町曳廻り
唐津曳山囃子
  東京の舞台に登場

 唐津曳山は最近有名になり先年TVNHKの「それは私です」に出場して世の話題に上ったが其の後宝塚の「美しき日本博」へも参加して四台の曳山を運びその豪華絢爛なる姿を遠く関西京阪神にまで輝かしたのであった。
 就中其囃も早くから認められていたが作曲家の服部龍太郎氏がその高い芸術性を評価して中央の楽団に紹介したことから今年六月十一日正午TVNETアフタヌーンレョウに急遽出場することとなり曳山囃保存会の市丸一、平田常冶、宮田一男、一色耕次郎、一色高義、尾花明、戸川健太郎の諸氏はとるものもとりあえず文字通り足もとから鳥が飛立つ様にして十日二十一時板付発の日航機にて出発二十二時二十分羽根田着、四谷の旅館柏尾に宿泊、翌十一日正午新宿の京王デパート八階のダイヤモンドホールにて会場を理むる大観衆の真中に元気一杯笛太鼓鉦の音も高らかに、掛音勇ましく唐津曳山囃子を全国に放送し榎本アナウンサーのインタビウーにはそれぞれお国の唐津言葉丸出しで応じ郷土唐津の為に万丈の気をはいたのである。
 この構成は東京の神田囃子、石川県の御陣乗囃子と共に唐津曳山囃子は九州を代表するものとして選ばれたのであって、当日は此等の外に楠木トシエの歌謡、前東大総長芽誠司氏の「小さな親切運動」の講座等もあった。
 榎本アナはRKBの福岡放送局に居たことがあり、外にアナウンサーとして、名優故市川段四郎を父とし名女優高杉早苗を母とする市川靖子嬢等も斡旋していた。
 今度の出場に際しては商工会議所、曳山取締会、観光協会、市観光課等が全面的に世話し又東京では久敬社島田塾監を初め塾生一同が大いに協力し大太鼓、締太鼓鉦は、先年京町出身の岡崎貞一郎氏が久敬社に寄付したものをその儘使用して大助りであった。そして塾生中志村忠彦君(東、日大生)牧原政治君(岩屋、日大生)蜂 隆治君(山木、中大生)江頭義輝君(紺屋町、立大生)の諸君は法被姿に采配を持って会場に駈けつけ気合を入れてオイサオイサの掛声をかけ囃子に一段の生彩を加えた。
 尚唐津曳山囃子が今度東京舞台に出場したそもそもの機縁となったものは、会議所の岸川欽一専務理事がかねがね、東京オリンピックには唐津曳山十四台を東京へ出場させたいと前記服部龍太郎氏とは懇意の仲であったので話していた。
 之を同氏が気に掛けオリンピックは済んだが兎に角NETに紹介したことによるものである。「岸川君がよく言っていたからナアー。一寸僕が知らせたのだよ」と囃子がすんだ会場でさも楽しそうに話していた。

写真は放送中の曳山囃子保存会一行。後列は久敬社塾生諸君、左はしは榎本アナウンサーである。
刀町曳山塗替
 年々塗替えられる曳山の中一番山の刀町赤獅子が此の程やうやく其番に廻り来り先頃当社古拝殿にて米屋町の一色健太郎師匠親子兄弟にて丹誠こめて八月の暑中にもめげず下塗に勤め愈九月より中塗となり毎日午後十時まで夜業して精進され勤めている。
 写真は一色兄弟の精進ぶり


曳山取締会改組
 曳山取締会にては花田総取締以下斯道の為大いに尽瘁して来たが、今般花田総取締を名誉総取締に推薦し新に平田常治氏を総取締、小島利三郎、田中富三郎、脇山英治の三氏を副総取締に推薦し、更に各町より本部取締も推薦され其機構も総務行事渉外等を作り、予算を編成する等会の強化につとめることとなった。
 又別に曳山会館委員会を作り花田氏その長となり以下其本部役員も加わり会の運営に携わることとなった

 名誉総取締 花田 繁二
 総 取 締 平田 常治
 副総取締 小鳥利三郎
 〃  〃 脇山 英治
 〃  〃 田中富三郎
 取  締 辻  庚一
 〃  〃 中山 兼治
 〃  〃 加勢田 豊
 〃  〃 久保 重治
 〃  〃 近藤 頼光
 〃  〃 平野松太郎
 〃  〃 溝上 端郎
 〃  〃 佐々木安吉
 〃  〃 牧川寛三郎
 〃  〃 福本 芳三
相 談 役 岸川 欽一
 〃  〃 吉村 茂雄
曳山会館建設準備委員会
委員長  花田 繁二
副 〃  牧川寛三郎
 〃   平野松太郎
 〃   脇山 英治
委員 本部役員相談役

 春 祭 概 況
唐津春季例大祭は四月二十九日午前十時より戸川宮司以下奉仕、又神社庁より宮崎春香理事献弊使として参向氏子総代来賓多数参列して先づ今年の五穀豊穣を初め、産業繁栄諸職業の隆昌を祈願して厳粛盛大に祭典を終り社務所にて直会、此日天長の佳節なれば聖寿万歳を奉唱した。
 此日曳山を社頭に並べ又生花池坊唐津支部より奉納して賑ったが夜の奉納演芸は遺憾乍ら中止した。
 尚祭典後新に氏子総代に就任した城内西吉田仁一、西の浜谷口与市、城内西二宮崎喬、坊主町浦田つねの諸氏を紹介した。
 又此日別載昭和三十九年度決算を承認した。

境内社  水天官例祭
 五月五日は久留米水天宮の例祭である。先年在唐筑後人会によって唐津神社境内に水天宮を奉祀し崇敬して来たが昨年は見事なる石の鳥居を奉納する等して崇敬の誠を示したが本年も一重を携えて神酒を頂き故郷の神に感謝しつつ古里を偲んだ。

 夏 祭 概 況
 大祓茅の輪くぐり夏祭は例年の通り七月二十九日戸川宮司以下総代多数参列して夜七時より行った。一般参詣者も形代を捧げて夜おそくまで多数参拝して無事夏を越すよう祈った。


寿楽会員の境内清掃
 毎月十日には城内郭外内町の寿楽会員五十名が午前六時の早朝より境内を清掃する。朝の神気さわやかにして場内愈壮厳のうちに清らなり。老人方も神の御蔭を頂き益々健全なるを祝福しあっている。

呉服町 奉斎稲荷神社
 幔幕奉献祭
境内社稲荷神社にては今度呉服町より見事なる幕を新調し、五月二十二日その奉献祭を行った。

唐津神社
  氏子総代会議
  曳山会館建設について


 別項記載の通り唐津曳山は益々天下に喧伝され発行部数全国一の多数を占むる雑誌「文芸春秋」の今十月号の色彩口絵三頁に亘って掲載されるまでになって、外来観光者は唐津神祭時と言はず平日にも之が観覧を望む向も頗る多く、何時でも手軽に見せ得る会館建設の儀が最近漸く昂って来たので神社でも曳山取締会又建設委員会と歩を合せて之が土地場所等に付九月五日氏子総代会を開き種々協議の上建設委員も選出し市当局とも話合い再び九月十三日総代会を開いて神社自体の立場から慎重に協議する所があった。

唐津神社神輿のはなし

 おくんちの曳山は明神様のお伴をして、華やかに、賑やかに曳出されるが、この明神様は二基の神輿に鎮座され、神田から選ばれた若者の肩に乗られて神幸されるのである。
 この神輿は一体いつ頃造られたものであろうか、記録によると、寛文年間というから今から三百年くらいにもなろうか。
 この神輿は鳳輦型といわれ、簡素な中に、気品の高い風格を備えており、見るからに神々しく、胴回り六尺、高さ一丈余で神輿としては大型のものである。
 その当時大阪の住吉大社の注文で造られたものを譲り受けたものといわれその立派さもうなづかれるというもの。
 重量はどのくらいあるかわからぬが相当の重さで、以前は今の倍の人数の十六人で担っていたといわれ、当時余り棒が長く、街角を廻るのに困難なため短くされ今のように八人掛りとなったそうだ。
 この神輿は毎年十月二十五日には、総行司二ケ町が奉仕して、飾り付けが行われるが、上は鳳凰から錦戸帳、鏡、鈴、力綱、締布等附属品も多く中々手が入るもので又、行列の伴揃いともなれば更に人手を要するのである。行列順序は先頭太鼓が、次に大榊、紅白旗鉾面一対、大弓、大傘、そして一の宮神輿と続き、その後に同様に二の宮の伴揃いが行列を作るわけで、奉仕の総人員は七十名の多きを数える。
 この伴揃いの人員は古来神田区からの奉仕とされ、今に変らず続いているのであるが、これは二の宮の御祭神である神田宗次公の由縁の地である神田の氏子から奉仕されるもので、その信仰の深さが知られるのである。
 この神輿も永い年月の間には度々修理も施されているが、中でも大正、年には全面的な塗替が行われ、又最近では昭和三十年に千二百年祭を期して金具その他の修理を行い面目を一新した。
 今年も又おくんちが近づいて来た。今年は刀町の赤獅子が塗替えで一段と輝きおみこし様の先祓いとして一番山の貫禄を示すことだろう。

境内の岩石を整える
 境内東側の高取邸との境目の処に薮や森に交って岩石が雑然と散在し永い間見苦しかったので去る七月之を整然と塀に沿って配列させ森や薮と配合よろしく森厳味をもたせた。
 因に此の石は元の裁判所から昭和十四年に払下げたものである。
写真は其工事風景