唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第107号  平成25年10月1日発行
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
 第六十二回神宮式年遷宮
〜お白石持行事〜


 お白石持行事
 今年の八月、伊勢神宮式年遷宮の行事の一つ『お白石持行事』が行われ、参加して参りました。お白石持行事とは、新しい御正殿の敷地に敷き詰める白い石を奉献する行事で、先ずは宮川にて拾い集めた「お白石」を奉曳車に乗せて、沿道を練り進みます。全国からの御奉仕団が集まられるので、奉曳車の先の方の綱に付いた私からは奉曳車が見えないほどでした。
 綱を曳く時のかけ声は唐津くんちと同じ「エンヤ!エンヤー」ねじりはちまき姿のイナセな地元の方がハンドマイクを持って掛け声の先導をされますが、曳いている人達は恥ずかしいのか中々声が出ません。そうすると先導の 「エンヤー」の掛け声に「頼むぞ!」「ガンバレー!」「もすこし!」の掛け声も混じり、段々声も出始めました。
 神宮到着後は一人ひとりが白布に「お白石」を包み、遷宮後は立ち入ることの出来ない新宮の御垣内、真新しい御正殿近くまで進み、持参した「お白石」を奉献します。新しく建った御正殿は白木の色も美しく、質素にして豪華、ドイツの建築学者が伊勢神宮の建物を見て「この建物は人が造った物とは思えない。恐らく天から降ってきた物に違いない。」と語った事も領けます。
 二十年に一度の神宮式年遷宮は、日本人の氏神様である伊勢神宮の神様の社殿を全て建て直す行事です。これは伊勢神宮だけにとどまらず、日本が生まれ変わることだと言われております。日本人の心のふるさと伊勢神宮。清々しい御神域に、皆様も一生に一度は訪れて頂きたいと思います。
 
《氏子総代異動》
南城内 寺崎 信人 新任
《唐津曳山取締会 役員改選》
 この度、唐津曳山取締会では役員改選が行われた。
主な改選は次の通り。
退任
 総取締   牧川 洋二
 副総取締  橋村 信義
   〃   岡   了
   〃   多久島聖吾


新任
 総取締   大塚 康泰
 副総取締  市丸 昌哉
   〃   中野一政
   〃   平田 正廣
 総務    水田 彰男
 名誉総取締 牧川 洋二
 相談役   橋材 信義
   〃   岡   了
   〃   多久島聖吾

取締会
「夜間パトロール」を開始
 少年非行や犯罪の発生を防ぐ為、唐津くんちの曳山行事を統括する「唐津曳山取締会」が唐津警察署、唐津市と組んで、九月より深夜、市内の駅周辺やコンビニ周辺等のパトロールを始める。注意しても言うことを聞かない若者達に手を焼いていた唐津署が今回取締会に協力を求める形となった。
 パトロールには、取締会全十四力町の曳山関係者が出動する。中心市街地を三つに分けて月二回、各町が交代で巡回する。





唐津神祭
十月九日(水)
 ◎午後七時 初供日奉告祭

十月二十九日(火)

 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
    総行事  一ノ宮 八百屋町 二ノ宮 中町
 ◎午前十一時 本殿祭

十一月二日(土)

 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町曳山万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)

十一月三日(日・祝)

 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分
       ☆御神幸発輿 (煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正午 御旅所祭
 ◎午後三時 還御
       ☆御旅所発輿 (煙火五発合図−曳山は町内へ)

十一月四日(月・振替休日)

 ◎午前十時 翌日祭  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め (曳山展示場へ=煙火五発)

十一月五日(月)

 ◎神輿納ノ儀
   総行事 一ノ宮 木綿町 二ノ宮 材木町


「神社新報」 記事掲載
 この度、八月二十六日号の「神社新報」という新聞に当社宮司の記事が掲載されましたのでご紹介致します。
 

 地元FMで教化
  宮司が毎週出演


 【佐賀】唐津市・唐津神社の戸川忠俊宮司は、地元ラヂオ放送局のFMからつ鰍フ番組に毎週出演し、神社神道の理解と教化に努めてゐる。
 戸川宮司が出演するのは、毎週月曜日の午後六時から放送されてゐる約三十分のコーナーで、日本人の文化・伝統・習慣を、「今さら開けない大人たち」や「何も知らない子供たち」に伝へるのが役目。全国的に知名度が高く、唐津市民の心の拠り所でもある唐津くんちを伝へる同神社宮司の話であれば、多くの市民が耳を傾けるだらうと、同社の森田淳代表取締役の肝煎りで同コーナーは始められた。
 越天楽が戸川宮司の出番を知らせる調べ。年中行事や二十四節気の風習、記紀の物語など、内容は戸川宮司が考へてゐる。七月二十二日の放送では、祇園祭の始まりについて同番組の司会者との軽妙な掛け合ひのなか、土地の言葉でわかりやすく説明。司会者も砥園信仰成立の経緯や背景に驚いた様子だった。
 同社は、阪神・淡路大震災を受けコミュニティFMの重要性を感じた市内の青年実業家たちが設立。唐津市一円に市内の情報や道路交通情報などを発信してゐる。
社頭講話
人生儀礼 〜七五三〜
禰宜 戸川健士

 人は一生のうちに、数多くの祝い事を重ねていきます。日本、とくに神社界ではこれを、「人生儀礼」といい、古来より生きていく上での一つのけじめであると考えられてきました。
 今回はその中でも「七五三」を取り上げて述べたいと思います。七五三とは、七歳、五歳、三歳の子どもの成長を祝うお祀りです。由来には諸説が有り、天和元年(一六八一年)十一月十五日に群馬館林城主徳川徳松の健康を祈り始まったとされる説が有力とされています。旧暦の十一月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、また旧暦の十五日は、かつて二十八宿(中国の天文学)の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするのにも吉日とされた由来があります。現在は「七五三」という名称から一つの行事と捉えられがちですが、実際にはそれぞれの年齢で意味が込められた別々の神事であります。江戸時代に始まった神事である為、旧暦の数え年で行うのが正式とされていますが、現在では時期にこだわりすぎず満年齢で行う場合が増えています。どちらにしても子どもの成長を祝い、感謝して祈りを捧げることに変わりありません。では、七五三それぞれの年齢で祝う内容を説明すると、三歳は「髪置きの儀」とされ、男女ともに行います。江戸時代は、三歳まで髪を剃る習慣があったため、それを終了し、髪を伸ばし始める儀式になります。五歳は「袴着」として男の子が行います。男子が初めて袴を着ける、着用し始める儀式でした。七歳は「帯解きの儀」といい女の子が行います。それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いを始める儀式でした。
 昔は疫病や栄養失調による乳児死亡率が高く、「数えて七歳くらいまでは神のうち」と考えられ、人として生命の定まらない「あの世とこの世との境に位置し、いつでも神様の元へ帰りうる魂」とされていたようです。
 また七五三では「千歳飴」を食べて祝う風習があります。千歳飴は子どもの長寿を願い、粘り強く、細く長い形状をしており、縁起の良い紅白の飴となっています。千歳飴の袋にも縁起の良い鶴亀や松竹梅が描かれ長寿健康を願う縁起物となりました。
 唐津神社では毎年十月、くんちの準備等で町々も賑やかになってきた頃、飴の袋詰め作業を慌ただしく行っています。
 
 
 

inserted by FC2 system