唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第104号  平成24年4月1日発行
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
諸業繁栄祈願
春季例大祭
〜東日本大震災 復興祈願〜 
4月29日(日・祝日)昭和の日
<奉納神事>浦安の舞・曳山社頭勢揃・池坊生花
五穀豊穣祈願 
 
 

「香港的供日」鯛曳山香港出動
                    宮司 戸川忠俊

 去る、平成二十四年一月二十三日に香港の地にて開催された 「インターナショナル・チャイニーズ・ニューイヤー・ナイトパレード」に唐津くんち五番曳山「鯛」が出動致しました。
 今回の出動にあたっては、唐津市と香港政府側との調整、曳山の警護、約百六十名にも及ぶ訪問団など、沢山の皆様方のご協力あってこそ無事成功裏に納めることが出来たと思います。本当にお疲れ様でした。
 さて、その鯛曳山出動の道行きについてですが、一月二十二日に福岡国際空港を飛び立った飛行機が香港に無事到着し、宿泊先のホテルに到着するやいなや、ナイトパレードのリハーサルを行うとのことで、普段着のままリハーサル会場へ移動。入念なリハーサルが行われました。
 このナイトパレードは旧正月の目玉番組として、中国全土に生放送されるとのことで、スタッフ一同、リハーサルにも熱が入り、「この線まで曳いてこい」「もっといそげ」「山車を右に回転させろ」「この線を越えたら囃子をやめろ」など厳しい声が飛び交っておりましたが、香港に着いてすぐ、酒も飲まず曳山を曳く曳子の皆様方は、「ちゃんと本番にはするけんが、もうこんくらいでヨカさい!」と思っておられたことでしょう。
 夕食を挟んで今度は正装に着替えて二回日のリハーサル。多少お酒も入り、元気を取り戻した曳子の皆様でしたが、時計を見ればいつの間にか午前0時を回っており、大変お疲れのご様子でした。
 明けて(正確には前日のリハーサルの時点で明けてましたが‥・)一月二十三日(旧正月当日)。午前中のうちは香港観光を行い、午後八時からのパレード開始に対して会場入りしたのは午後四時。それもそのはず、このパレードにあわせて会場周辺は全面通行止め。歩道には鉄柵が張り巡らされて、厳重体制となり、徒歩での移動も難しくなるとの事。交通渋滞を避けるため、小雨の降る中、正装(曳子装束)の上にカッパを羽織って徒歩でホテルから会場まで移動した百六十名の大移動は香港の皆様の注目の的となりました。
 さて、今回のナイトパレードにはアメリカ、ロシア、タイ、イタリア、など十二ヵ国・地域から三十五団体の参加があったそうで、鯛曳山は日本国を代表しての参加となりました。会場付近のいたる所で世界各国の出し物を披露する団体が準備を進める中、先ずは鯛曳山の前にて安全祈願祭を齋行し、パレードの安全と曳子の皆様方の安全、そして日本国と香港を初めとする世界各国との友好が末永く続くことを祈念致しました。海外への持ち出しが危倶された玉串(榊の枝・昭和五十四年、鯛曳山がフランスのニースに出動した際は、飛行機の中で榊が枯れる恐れがあるとのことで、フランス側に代替品の準備を頼んでいたところ、ミモザの木が準備されていたという逸話が残っている)も枯れることなく、唐津の地で行う祭典そのままに奉仕できたことは、誠に喜ばしいことでした。
 さて、神事も終わり、唐津の皆様も負けじと曳山を曳くための準備、大宴会が始まりました。
 通例、このナイトパレードでは飲酒状態でのパレード参加が禁止されております。しかし、「唐津の曳山を曳くには、お神酒というお酒を飲まないと曳くことが出来ない」という説得のお陰で、お酒が入った状態でのパレード参加許可はもとより、香港政府御当局様から日本酒の差し入れという粋な計らいもあり、大変盛り上がった様態のまま、パレードに参加する事となりました。
 午後九時頃、いよいよ出発です。風水を好む香港の人達にとって、赤は幸福の色、金は富の色と、誠に縁起の良い鯛曳山。囃子の音色も賑やかに、きらめく香港のネオンや看板にも負けず煌びやかに宵山飾りをした鯛曳山の姿に、沿道に詰め掛けた約十万人の観光客から大きな歓声が上がりました。
 中でも、道に張り出した香港名物の大きな看板をギリギリで潜り抜けていく姿や、前後に大きく揺れる鯛の姿は大いに観光客を魅了したようで、沿道からは拍手が湧きました。
 約二キロのパレードコースの中には、曳山を止めて沿道にパフォーマンスをする場所があり、「エンヤーエンヤー」の掛け声と共に、高々とあがる曳子の皆様の手の動きにつられて、写真を撮る手を止めて「エイヤーエイヤー」と掛け声を掛ける観光客の方もいらっしゃるなど、唐津くんちさながらの盛り上がりで、唐津っ子の元気を香港の皆様にも十分に味わって頂けたものと思います。
 私は今回、初めて曳山の出動にご一緒させて頂きました。そして一番感じたのは、中国だろうが香港だろうが、曳山が動く空間は「唐津のまち」に変えてしまう唐津っ子の魂というか、パワーというか、力強さでした。
 「唐津くんち」のファンは全国に存在すると聞いております。この度の香港出動で、香港にも「唐津くんち」のファンが出来たんではないでしょうか?
 しかし、唐津っ子が思う「唐津くんち」への想いや誇り、こだわりは誰にも負けない。私は常にそう思っております。



▼曳山情報▲
◎スポーツ大会
 第二十九回唐津神社旗争奪
 曳山十四ケ町親善スポーツ大会が、四月十五日(日)、二夕子の浄水センターグランドにて開催予定。
 今年の種目はソフトボール。当番長は中町。

◎中町総塗り替え
 この度、二番曳山中町青獅子が総塗替となり、西ノ門館の修理場にて作業が進んでいる。西ノ門館の修理場での塗替えは木綿町に続き二台目。

◎七番曳山「飛龍」
 韓国麗水博覧会へ出動
 この度、唐津くんち第七番曳山新町「飛龍」が、大韓民国麗水(ヨス)市で開催される世界博覧会に出動する。一月の鯛曳山香港出動に続き、初の年二度の海外出動となる。世界博のテーマは「生きている海、息づく沿岸」六月二日のジャパンデーに出演予定。唐津市は、日本国内で唯一、麗水市と姉妹締結を結んでおり、今年は締結三十周年の節目の年を迎える。

 前宮司帰幽
 前宮司戸川惟継(第十四代官司)は予て病気療養中の処、去る、平成二十四年三月二日午後八時五十五分、帰幽致しました。享年、六十五歳。
 平成二十一年の病気発覚以来、沢山の皆様から力強い励ましの言葉や御見舞いを頂きまして、本当に有難うございました。生前故人に賜りましたご厚情に対しまして、心より御礼を申し上げます。
 跡を引き継ぎました私どもは未熟者でございますが、氏子総代様方を始め、支えて下さる沢山の方々にお教えを頂きながら、唐津神社の歴史を着実に継承していく所存でございます。
 今後とも御指導、御鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。
    宮司 戸川 忠俊
    禰宜 戸川 健士

◆戸川惟継
 昭和二十一年生まれ。昭和四十六年国学院大学卒業後、奈良県橿原神宮にて二年間奉職。その後、昭和四十八年唐津神社権禰宜拝命。昭和五十六年唐津神社禰宜拝命。平成九年唐津神社宮司拝命。平成二十一年唐津神社宮司退任。
 現代社会に於いて、神社と地域住民の新しい関係を構築する為、生涯、祭りを通じて神明に奉仕することの重要性を教化することに努めた。




 思い出す事共
問はず語り くんち編B    戸川惟継

 前宮司は生前、唐津神社社報に『思ひ出す事共問わず語り くんち偏』と題して、自分の思い出話を執筆しておりました。社報一〇二号・一〇三号にそれぞれ掲載しておりましたが、この度、今回の一〇四号に掲載するために執筆中だった原稿が見つかりましたので、遺稿として掲載させて頂きます。唐津くんちが大好きで、人と話をすることが大好きで、まだまだ語り尽くせぬ思い出話があったかと思います。今は只、それが残念でなりません。この原稿を読み返しておりますと、あの独特の言い回し、身振り手振りを使って話を盛り上げる姿が甦ってきまして、落涙するばかりです。

「蛇つかい」
 私が未だガキだった頃は、くんちの時も境内の半分は空き地だった。御神輿が出御して、曳山も明神小路を曳出したら参拝の人が急に多くなる。
 その頃を見計らって、蛇つかいの人が、どこからとも無く大きな鞄をいくつか抱えて境内空き地のいつもの場所にどっかと腰を下ろし、子ども等にはナニやら訳の分からぬ奇声を発し、何だ何だとひとが集まってきた所に、丸い線を描きここから入っては危険だよと言いながら、小さな容器を出し腕・喉などに塗り込み、そこに針を刺して、「どうだ、いたくもかゆくもない。これぞ…」と、口上が始まる。
 そのうち、この薬はこの「蝮」の油の効き目である。今から自分の腕を蝮に噛ませて、其の効き目を御覧に入れましょうと、袋の中のうごめく物を取りだそうとしては、危ないからこの線から入らないで…。よそ見していたら、逃げ出したら大変だよ…。等々が続き、なかなか蝮の登場・噛ませには至らないまま、本日は御当地初の公開、この薬は、切り傷、…等何でも効き目があるとの口上が続き、気が付けば、多分桜の仕掛けよろしきや、おおくの人が摩訶不思議な「薬」を買い求めて、舞台はひとまず終了となっていた。
 そして又、暫くしたら同じように啖呵売が始まっていた。
 今は、薬事法?等あって、白衣に身を包み似たような事をしている光景を、どこかの祭礼で見たように思う。と言っても、十数年前の遠い記憶の中での事だけど。
 「ほんなごつや?」と言いながらも、蝮の怖さにワクワク・ドキドキ、いつ出てくるか・飛び掛かって来ないかビクビク感も交差して、不思議な時間が過ぎて行った。

「気合術」
 気合術も又、くんちの不思議な時間であった。蛇つかい同様、人集めは奇声を発しつつ地面に丸い線を引いて、人が寄り始めたら、口上が始まる。小道具は、刀・竹・石・薄手の紙・火箸、等であった。


「出動」博多
曳山もそぜますもんな



「松原の木伐採」



「曳山積み込み」
地面に穴掘り


「采配」総務の権限


「出動2」宝塚
 提灯持ってこい

「啖呵売」
 バナナ。鋸。数珠。


※※※※※※※※※※※※
 前宮司の執筆中だった原塙は未完となっております。
 最後の部分はこれから書きたかったであろう項目を箇条書きにて書き付けておったようです。
 以下、私の記憶をたどり補足しながら続きを書きたいと思います。
※※※※※※※※※※※※


「出勤」博多
 曳山もそぜますもんな


「松原の木伐採」

「曳山積み込み」
 地面に穴掘り

 この話は、昭和二十六年福岡市の夕刊フクニチ新聞社創立五周年記念事業「オール九州観光まつり」という大会に出動した時の話です。ちなみに「曳山もそぜますもんな」というのは「曳山も壊れますからね」と言う意味で、前宮司が語るには、曳山に感動した地元商店街の会長さんが、「パーッとウチの商店街も勢いよく曳いて下さい。スズラン灯(照明器具)のありますばってん、2つや3つ壊してんヨカですけん。」と言われた時に、時の総取締が一言、「曳山もそぜますもんな」と言われたとのことです。前宮司は商店街会長の口調と、時の総取締の口調とを真似しながらこの話をしておりました。
 また、前宮司はこの話をした時には続けて、出動した曳山が民家の屋根瓦を落とした時の話をしておりました。
 曰く「唐津のマチでさい、くんちん時に曳山の家にぶつかってきたら、ゴメンナサイで済むかもしれんばってん、よそんマチじゃしゃんはいかんたー。ばってん一回よそんマチで曳山の人ん家の屋根瓦ばバタバタバタて落っちゃかしたことんあるとさい。そんでソン家ん人の腹カイテ、「ナンバショットカ!」の「ナ」ば言わす前に、曳山ん人の何て言わしたかて言うたら、「良かったですねー。唐津んマチじゃ、自分の家に曳山のぶつかったら、曳山の家に挨拶しに来たて言うて大喜びさすとですよ。よかったですね〜。よかったですね〜。」て言わしたもんやっけん、そしたら、そん曳山んぶつかった家の人は何も言われんごてなって、結局そん人の後かい、酒ば二升下げて挨拶しにこらしたて。」
 「松原の木伐採」と「曳山積み込み」の話も、同じ曳山初出動の時の話である。
 曰く「福岡に曳山ば持っていくとはヨカばってん、ジャンして曳山ば持っていこうか?ちゅー話しになってさい、まず、曳山ばトラックにジャンして積もうか?ちゅー話しになってかい、昔ん唐津駅は地べたにあったけん(高架駅ではない)曳山ばまずは唐津駅まで曳いていってさい、貨物用のスロープば登って一旦駅のホームに乗せて、そん段差ば利用して駅のホームにトラックば寄せて、曳山ばトラックに乗せて、センギば下げて、ビニールばかぶせて、しかも台車には囃子隊ば乗せて、ジャンジャン囃子ばしながら福岡さん行ったとばってん、昔は今のごたる上等の道んなかけん虹の松原ん中の道ば行かないかんとばってん、曳山ん通る時に松の邪魔かけん、今度は曳山ん上に人ば乗せちかい、ノコギリとかナタとか持った人のバッサバッサ松ば切りながら(ゼスチャーで松を切る仕草)、行ったてバイ。なんか切った松ば見てかいそん人たちな「オンジャオンジャの二回ぐらい出来るな。」て言いよらしたてばい。そいでさい、今度は福岡さん着いて、いつんまにか曳山ん地面におるけん、中で囃子ばしよらした人んビックイしてかい、「ジャンしたっちゃろか?」て見てみたら、トラックの高さに合わせてかい、地面に穴ん掘ってあって、そこにバックでトラックば入れて曳山ば降ろしとらすと。そいば唐津ん人達の見て「おお!こいバイ!こりゃヨカー」て言うて、唐津に電話ば掛けて(ゼスチャーで左手の握り拳を耳に当て、右手は取っ手を回す仕草。当時の電話の表現)「穴ば掘っとけー」て電話ば掛けらして、今ん昭和バスんあたりに穴ば掘って、曳山ん帰ってきた時は、そん穴ば利用して曳山ば降ろしたとはよかばってん、当時はそんにきが飲み屋街やったけん、曳山ばホッポラカシテ、み〜んな大人は呑みに行かしたけん、子供は曳山ん中で泣きよったて、しゃんか話しんある。」


「出動2」宝塚
 提灯持ってこい

 この話も前宮司が好んで話していた曳山出動のエピソードである。
 曰く「宝塚に曳山ん出動した時はさい、曳山ば積んだトラックには満艦飾んごて電灯ば付けて出発してかい、別トラックに囃子隊ば積んでかい、途中まで見送ったもんね。そいでさい、宝塚に着いてかい曳山ば展示したとばってん、ウチの曳山ん隣に展示するごてなったとが飛騨高山の山車(恐らくそうだったと記憶している)でさい、飛騨高山の山車ていうたら、高っかし、煌びやかけん、じゃんしてんウチの曳山の見劣りすんな〜ちごてなって、じゃんしゅーかちゅー話になってかいさい、で、結局じゃんしたかて言うたら、先乗り組の人の電話ば掛けちかい、「後乗り組んもんは、各町かい各々提灯持ってこい!」ちゅー話しになってかい、宵山飾りばして、やっと張り合ったちゅー話しのあるとばい。」
 さて、残念ながら残る二つの話


「采配」総務の権限

「啖呵売」
 バナナ。鋸。数珠。

 に付いては前官司が何を書きたかったのか、定かではないが、「啖呵売」については、唐津くんちに映画「男はつらいよ」のロケが入った時の話を良くしていた記憶がある。
 曰く「寅さん(「男はつらいよ」の主人公・渥美清)は、ロケの始まる直前にサッと来て、パッとロケを済ませて、サッと帰らした。シーザーじゃなかばってん「来た・見た・勝った」ちゅー感じやったばい。」
 前宮司は以前、この映画「男はつらいよ」の主人公、寅さんのような生活に憧れていたらしく、「日本全国旅しながら、各町々のお祭りを見ながら生活できるてヨカな〜。」と話しておりました。もう、前官司の話を聞くことは出来なくなってしまいましたが、思い出すことがあれば、また書いていきたいと思います。


※ 「采配」総務の権限の話について、何かご存じの方、ご連絡頂ければ幸いです。

社頭講話B
 人生儀礼
〜初宮参り〜 は次回掲載します。




≪総代異動≫

名誉氏子総代

 瀬戸利一 帰幽

 中野陶痴 帰幽

≪総代改選≫
今年平成二十四年は、第十六期目の総代改選の年となります。新総代の皆様には任期四年の間、よろしくお願い申し上げます。
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