唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第103号  平成23年10月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂


唐津神祭
十月九日(日)
 ◎午後七時 初供日奉告祭

十月二十九日(土)

 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
    総行事  一ノ宮 新町 二ノ宮 江川町
 ◎午前十一時 本殿祭

十一月二日(水)

 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町曳山万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)

十一月三日(木・祝)

 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分
       ☆御神幸発輿 (煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正午 御旅所祭
 ◎午後三時 還御
       ☆御旅所発輿 (煙火五発合図−曳山は町内へ)

十一月四日(金)

 ◎午前十時 翌日祭  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め (曳山展示場へ=煙火五発)

十一月五日(土)

 ◎神輿納ノ儀
   総行事 一ノ宮 本町 二ノ宮 呉服町

思ひ出す事共
問わず語り くんち編A
                               戸川惟継 
 『明神小路 等』
 唐津神社は城内に鎮座しています。その関連からか、神社の周辺の道路は「○○小路」と呼ばれる道路がいっぱいあります。このうちくんちに関係する小路は、大手小路・明神横小路・明神小路・大名小路・松原小路等です。
 その昔、まだ藩政時代、曳山は各町に曳山小屋が有り、その曳山小屋にセンギを降ろし、飾り物は箱に収納し本体にも大布をかぶせ、静かにくんちの日を待っていました。そして、いよいよくんち。その前に初くんち(後述)。曳山は小屋から出て飾り付けをし、新たな神命を戴き、先ず宵山が曳き出される。このころは勿論勝手曳き。各町定番の順路を廻って、社頭勢揃い。藩政時代、まだ明神小路は城壁(石垣とお堀)が廻らされ、往還へは直通していない。曳山は大手門 (まいづる百貨店東詰め辺りから今の国道を南へ跨いだ辺りに建っていたらしい)をくぐり、大手小路(裁判所の西横の通り)を北進し、突き当たりの角(突き当たりが鈴木さんのお屋敷だから、鈴木角と聞いていた)を、左折・西進し(明神横小路)神社前へ勢揃いしていた。
 このころの社頭勢揃位置は、神社前三角境内地から刀町、中町・材木町、と西から東へ勢揃いし、戸川宅前辺りに米屋町が並んでいたと親父から聞いている。
 神幸祭当日は、神輿と共に社頭より東進(明神横小路を通り)、大名小路まで至り右折南進、更に右折西進し、大手門をくぐり氏子の町々へ、概ね現在の神事順路を違える事無く御神幸。
 当時は社頭大広前は狭く、前号のように、くんちの賑わいは「常泰寺=えんま様」辺りだった。そして明治御維新。新たなくんちの歴史が始まった。

『明神小路 等 二』
 藩政時代が終焉し、明治の御代が始まった。そこで曳山・神社総代は思いを一に合わせ、くんちの一層の賑わいを創出すべく、神社周辺の環境整備を始められた。
 先ず、お城の石垣とお堀で隔絶されている神社と氏子の町々を直結し、曳山の社頭曳き出し・社頭勢揃いを容易ならしめ、且つ勢いを保たんと、往還と明神小路をつなぐこととを発議し、関係機関へ「公有水面埋め立て許可」を願い出て、と同時に明神小路拡張交渉を始め、これらが決定されるや、町々より・曳山曳子達大勢の労力奉仕で、石垣を開き・お堀を埋め立て、往還と明神小路を直結させ、明神小路の拡張も進み、社頭の景観大いに整いました。
 明神小路(参道)拡幅工事に際し、若干の残余地が出来ました。この土地の処分方法について、これまでは町内にある曳山小屋が、町々の発展に伴い、あるいは諸般の事情でいつの日か移動しなければならない時が来るかも知れない、という見通しの元、神主家が購入し、その後十ケ町のヤマ小屋として、さらには全十四ヶ町のヤマ小屋として、今では明神ビルとして神社にいろんな情報をもたらしてくれています。
 さて、その後すぐ今度は、大広前の整備が始まり、民有地を相談し、市民会館前広場を境内地として取得。又、彰敬館敷地をも取得して大正十二年に彰敬館を新設し、更に、神社後背地を購入し昭和十三年に社殿を現在地に新築し、昭和十七年に神社の景観が整い、晴れて県社に昇格し、以後くんちは益々隆昌になり今日の勢いを見るに至っております。

『宵曳山 現在』
 何回か書いたように、その昔と言っても私が体験している曳山の歴史の中でも、宵曳山は勝手曳きであった。しかも午前零時の曳き出しで寒い寒い宵山見参であった。バッテリーとかの照明はなく、提灯・蝋燭の灯りがゆらゆら揺れて、情緒的であったし、町の灯りも少なく迫力も違っていたように思う。
 さて、ある年(私が中学か高校生になったばかりの頃だと思う)十月三十日(翌日祭当日)は、朝から雨だった。曳き出せる状況では無い程の降りだった。会議の結果、少し遅れて(雨が小止み状態になって)曳き出す事となった。多分昼頃からの曳き出しだったように思う。くんちはこの日一日を残すのみ。待ちに待っての曳き出し。勢い良く明神小路より町廻り(翌日祭)が始まった。大手口・材木町・宮島角・水主町・大石町・魚屋町・京町(当時、京町アーケードは未だ設置されて無く、曳山は今の京町アーケード通りで、昼食休憩展示されていた。=今の米屋町休憩の状態)さて、再曳き出しで、現在のままの順路で江川町へ。ここで最後の大休憩。いよいよ最後の曳き出しの頃は、宵の闇が辺りに迫りつつあった。
 そこで、何ケ町かの曳山は急遽「宵曳山」状態に、提灯曳山に飾り立てて、大手ロから明神小路(曳山小屋)へと曳き出した。これを見た多くの人達は初めて見た・これは素晴らしいと、歓喜一色、提灯曳山の良さ・素晴らしさを一瞬にして知らしめるに余りある曳き納めとなった。
 それから二〜三年後、くんちの深夜に曳かれる、あの提灯曳山を一部の人しか知らないのは、もったいないの声が大きく起こり、ここに宵曳山の統一曳きが建議され実施されることとなった。
 最初は、夜十時曳出。東廻りで米屋町・平野町方面にも行かず、大手口より山小屋帰りの順路。その後、米屋町・平野町までが常態となり、曳出しも午後九時になり、さらに江川町より全順路奉曳が建議され、現在のような全順路奉曳となった。曳出し時間も、翌日のこと・観光客の便・なども考慮して、午後八時・更に現在の午後七時三十分になった。
 統一曳き当初は、全町とも蝋燭提灯曳山で、街灯りももう少し少なめで、其の風情たるや、あの寒い寒いガキの頃の「宵曳山」を思わせる昂ぶりを感じたものだった。時が進み技量も知恵も進化し、いつの頃か蝋燭提灯はバッテリーに代わり、蝋燭とは違った明るさ・華やかさは、新しい宵曳山の魅力を創出している。と同時に、観客も増えに増えて曳山への昂ぶりも、いつしか、安全・安全への気持ちが第一になっている。

『幕洗い』
 幕洗いは、最近復活した神祭神事である。学問的に言えば「禊」の一種と言える。つまり、大きな祭を控え、身も心も清めて神祭りを奉仕するための、最初の清めの儀式「散忌」にあたるものです。
 その昔、町の若者はくんちを控え、曳山を小屋から出し大掃除をして(土用干しの頃)、この時曳山の幕を町田川などに持ち出し、洗い出して土手に干し、乾くまで青年達は、土手に屯し或いは船を出し川遊びをしながら、くんちの噺を肴に、来るべき日の心準備をしていました。それが近年、川遊びの船が無くなり、幕も埃を寄せ付けない上等なものになり(?)、清流は消えなど、幕洗いには不都合な環境になってしまい、各町とも、くんちの事前会議だけが行われていたようです。
 このような時、もはや噺だけが伝えられていた時、唐津観光協会などからの知恵を頂き、少し前まで石炭運搬に活躍していた「ダンベ船」を仕立てて、大々的に復活「幕洗い神事」が催された。復活幕洗いの数年間は全町統一の幕洗い神事が行われ、大賑わいだった。
 その後、日程的にも又船の廃船などにより、各町毎の単独開催となり今日に至っている。川面に浮かぶ提灯船、くんち囃子、エンヤオイサの掛け声等々、くんちへの思いが高まるのを感じる神事である。
 近年、諸般の事情により其の勢いがなくなりつつ感じられて、寂しく思っている。
 幕洗いだけでなく、各町曳山の組織には、各町それぞれにしきたりがあるようで、仄聞したところによれば、ずっと以前の新人は、下駄揃え・爛つけ・その前には酒集め、七輪の火起こし等々から、曳山人の修業が始まったという。今は、どんな形で曳山人が形成されているのだろうか。

 
『初くんち』
 十月に入れば、各町より曳山囃子が聞こえ始める。十月九日は、初くんち奉告祭の日。いよいよくんちに向かって、すべての物事が動き出す。本格的に心浮き浮きの始まりである。
 初くんちが現在のような形式になったのは、比較的最近のことと言える。それまでは、この日は曳山の試し曳きが主目的の日で、囃子調べは付随的であったように先代先々代宮司から聞いている。
 この日、曳山は各町の曳山小屋から久しぶりに曳き出され、くんち状態の飾り付けをして、主に自町内を、さらには少しく他町内若しくは更にその先までと、試し曳きをしていた。もちろん勝手曳きでのこと。その際、町筋で曳山同士が睨み合う状態になることがあった。その時は、検尺を持ってきて引き下がった角までどっちが近いかを計り、短い方が引き下がるという習わしがあったらしい。しかし、曳山が退くとは町の沽券・名誉に拘わると、曳山ならぬ曳子同士の睨み合いが勃発し、「くんちん時や見とけよー」と、遺恨セリフでその場が治まっていたらしい。くんちの日に、その続きがあったかどうかは聞いたことはない。
 さて、時代は終戦後、何もなくなってしまった時代に、幸い唐津のご先祖は「曳山」を残してくれた。曳山の元気を戦後の元気にしようと、試し曳きは諸般の事情で出来なくなったので、この初くんちの夜に曳山十四町の囃子を奉納して、心豊かにくんちを迎えようと、形を変えて「初くんち奉告祭」が齋行されるようになった。
 未だ私がガキだった頃は、今のカネセの鳥居の少し神社より、正月の門松建立位置くらいに、学校の教壇のお古を譲り受け、それを檜舞台に見立てて、夜露を感じつつ各町より盛大に囃子が奉納されていた。と言っても、当時は嗽子方はそろえることが困難な町内も多く、特に笛方さんはいくつかの町内で奉仕されていた。
 現在の曳山囃子保存会の起源は、初くんちとは全然違う歴史だが、この初くんちの囃子奉納と併行するが如く発展し、現在でも毎月九日には、保存会の会員が多くの研修員に懇切丁寧に囃子の指導と、会員自らの囃子技量の向上に努力されている。各町でも囃子方の指導に尽力され多くの曳山人が育っている。
 このような努力もあって、近年は各町とも拝殿に溢れんばかりの大勢の囃子方が集い、くんち初めの一大祭礼になっている。
        −続く−


 このあと、「蛇つかい・気合術・啖呵売」等を予定しています。又、「曳山出動」についても書くつもりです。種々御教示をお願いします。 




 
「鯛」香港出動
 唐津曳山五番曳山「鯛」は、中国・香港市で毎年開催される、旧正月の民俗行事「インターナショナル・ナイトパレード(香港政府観光局主催)」より招請を受け、先の曳山会議で出動が決定した。関係者によると、この件は以前にも招請があったものの、諸般の日程等が整わず、今回ようやく出動が可能になった。香港市当局の話では、約二十万人の人出と、国内外メディアの取材もあり、大いに期待しているとのこと。仏国ニース(昭和五十四年)以来の雄泳が楽しみである。
 
≪総代異動≫
大名小路
  宮崎 晃  帰幽
南城内
  真崎泰二郎 就任

曳山人事
本部取締(新町)
  中山 秀樹 帰幽
  黒川 洋介 就任

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