唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第102号  平成23年4月1日発行
発行人 戸川 忠俊
編集人 戸川 健士
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
諸業繁栄祈願
春季例大祭
《東北地方太平洋沖地震 復興祈願祭》 
4月29日(金・昭和の日 祝日)
奉納神事=浦安の舞・曳山社頭勢揃

五穀豊穣祈願 
 
 思い出す事共
問はず語り くんち編@    戸川惟継

『序に代えて』

 先ず以て今回の東北地方太平洋沖地震及び大津波・原発事故の被災者と被災地に謹んで哀悼の意を捧げますと共に、早い段階での復興の道が開けますよう、お祈り申し上げます。若き日、初めて一人旅に出て、旅の楽しさを教えられた地方であり、神社界の友人も数人が御奉仕している地方でもあり、報道される画面や文字に、一憂また一憂の日々を重ねております。改めて復興を祈るや切であります。
 私は、平成二十二年十二月十日付を以て、父祖伝祀の唐津神社を始め、兼務の「満島八幡社」「和多田天満神社」「舞鶴公園稲荷社」の宮司を退任し、一氏子に戻りました。その間、氏子の皆様方を始め曳山関係は勿論のこと、多くの方々の御指導・御交誼を賜り、恙なく四十年間の御神前の御奉務を全うすることが出来ました。茲に改めて御礼申し上げますと共に、新しい宮司、禰宜、職員に至るまで、これまで同様の御指導・御鞭撻・御交誼を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
 さて私は、昭和二十一年に出生し、多少のアルバイト経験を除いては只管、神職としての道を、祖父・父・叔父の足跡を辿りながら、歩み進めて参りました。とは言え、幼少の頃は終戦直後の食糧難、栄養失調などで体調整い難く、育つかどうか心配な子どもであったようです。そのような中、それこそ大神様の御加護をいただき何とか人の世の道を歩み始めるまでに体調も整い、顧みますと物心ついた頃から「くんち」と一緒に育ってきたというより、「くんち」に育てられながら気がつけば神主になっていた、と言う思いがしています。
 こうして幼少の頃からの「くんち」の思い出を、思い出すまま書き綴って、私的なくんちの記録になればと思い、茲に筆を執りました。時代が前後したり、大小の記憶違いが有ったりするはずですが、後刻お叱りを頂いたり、お目こぼしを願いつつ進める事と致します。

『宵山のこと』
 ガキの頃、父親に手を引かれての(父親の手を頼りにしての)宵山見参は、ただただ寒かったと言うのが、第一番の印象である。ブルブルは通り越して、体の芯からの震えに歯を食いしばっていても、歯がガチガチ鳴って止まらない体に、ありったけの服を重ね着して、大手ビル前あたりから宵山を見参するのが、くんちの始まりであった。勿論それより前、神社大広前には高物(サーカス小屋)や、縁起物の小屋が掛けられてくんちの気分は一杯であったが、宵山見参は、格別のくんち気分が有った。幼稚園入園前後からのことだと思う。
 当時、唐津くんちはまだ大正年間に定められた祭日で齋行されていた。つまり、
 十月  九日 初供日
   二十五日 神輿飾り
   二十八日 帰り曳山
   二十九日
   午前零時 宵山曳出
    (但し、勝手曳き)
   午前五時 獅子舞
   午前九時 発輿祭
   三十日  翌日祭
   三十一日 神輿納め
と言う祭典次第で齋行されていた。
 十月二十九日午前零時を期して、先ず曳き出されていたのが材木町、続いて魚屋町・大石町等々だったようだ。その当時、材木町・大石町・水主町・江川町は山小屋が町内にあり(他の十ケ町は、今の通称・明神ビルの所に曳山小屋があった。)ので、うかがい知れない部分も多い。社頭勢揃の位置も、今の市民会館前ではなく、明神ビル前を中心に少し拡大した状態であった。
 父に手を引かれ私は興奮のうちに、宵山を待っていた。軈、家並みに曳山嚇子を響かせて、提灯を揺らしながら宵山が参着する。材木町の姿が宵闇の中に提灯の明かりに、おぼろげながら浮かび近づいてくる。並ぶ定位置は毎年通り、今の喫茶店エスポアール入り口付近を背にして、ヤヤ南方向を向き(少し斜めに)着御する。毎年のことながら、この場所には、必ず茶碗店が出店を仮設していた。町の人はその出店の天幕を斜めにたくし上げ、何事もなかったように曳山を定位置に据え納めて、最後に必ず危険防止のためだろう、亀の舌の部分に提灯をぶら下げて、町へ引き揚げて行かれた。
 再び大手ビル前に戻り呉服町のずっと先の方(ヤマトヤ付近)を見通せば、提灯が上下に揺れるを見、そのすぐ後には提灯が綺麗に上下二列になった曳山が続く。あれは正しく魚屋町・大石町なるべしと父と語らいつつ待つこと暫し。家並みに一段と響く鉦の音が聞こえてくる。米屋町の鉦の音ならんと、目をこらせば暗闇のなか、怖さ・すごみを効かせて米屋町が大手口に出てくる。暫くすると、さっきの通り、魚屋町・大石町が大手口に曳き出てくる。
 これくらいの宵山を見参すれば、早朝の神事に差し障りがあってはならぬと、後を振り返り振り返りつつ帰宅した。冷え切った体で布団に潜り込んでも、興奮と寒さと遠聞こえする曳山囃子等々でなかなか寝付かれない。布団に潜り込むこと暫し、暖まる間もなく、ザラザラ・シャラシャラと音が近づいて来る。もう午前五時に近い。神田区青年団奉納の獅子舞の時間。当時、神田区青年団は多くの団員がおられたと聞く。今にして思えば、あのザラザラ・シャラシャラは、祓いのための「ささら」の音なるか、草履の歩みならんや。こうしてくんちの朝は寒さの中、寝たり起きたり興奮のうちに明るくなっていった。
 午前七時「火矢」が打ち上がり、いよいよ唐津くんちが始まった。


『大手ビル』
 くんち見物には、各人こだわりの場所と言うか、好きな場所と言うのか、定位置的な場所があるように思う。父は、大手ビル付近、叔父は、旧・佐賀銀行付近、もう一人の叔父は、平野町付近か江川町東角辺りと、大体見参場所が決まっていた。
 又、宮司になって大神様に伺候随伴して御神事の途中、これまた不謹慎ながら神幸路を見渡すと、毎年同じ付近に同じお顔を良く見かけたものだった。何かしらホッとする気持ちが広がた。
 私にとってその場所は、大手ビルの屋上であった。不謹慎にも神様を見下ろして俯瞰的に見るのが、くんちの常であった。と言っても、昼前に刀町・中町・材木町の三台の曳山を、大手ビルの屋上から見届けたら、すぐ明神台へ走っていかねば曳き込みに間に合わないし、神輿のご到着の手伝いも出来ない。前三台を見届けたら、一目散に階段を降り出店の中を、人除け人除け駆け抜けて明神台へ走り込んでいた。間もなく曳き込み。神輿着御。それより前、御旅所では火を起こし御茶の用意が進んでおり、薬罐は、毎年ごつごつしたまっ黒けの、御旅所歴戦の薬罐だったのかもしれない。
 私にとって「大手ビル」は、祖父が懇意にして頂き、日露戦争に一緒に従軍し、「アンベラ会」なる集いの同人であり、なんと言っても、唐津曳山取締会の初代総取締であった、木下吉六氏のビルということで、実に安心感のある場所であった。

『明神台・御旅所』
 その頃、明神台(御旅所)は、今の大成地区公民館辺りの砂山状の高台に、石の階段付きの立派な物が造られていた。高台から曳き込みを俯瞰しながら、この後の楽しみを考えていた。軈、曳き出し。神輿は高台西側の砂の斜面を、富士山のスバシリ下りのように、皆が足並みそろえて、一歩踏み出せばサーと滑り降り、また一歩出せばまたサーッと滑り降り、見事な還御の風景であった。祖父や父達は、その進みの度にハラハラドキドキであった。
 曳山の曳き出しからの神幸路は、現在と大きく違い今の横断歩道橋近くに、明神台高台下を通る小路があり、その道を通って江川町中程の、変則五叉路へ曳き出されていた。この明神台高台下の小路が、なかなかの難所で砂地深く、また当時は曳子の数も今に比較すれば、物の数に入れられぬ程の少人数だった。そこで、前曳山に、すぐ前の曳山の曳子と、すぐ後の曳山の曳子が加勢し、後はこの順を繰り返し繰り返しして、ここの難所を曳き進んで行った。
 神輿の後、魚屋町くらいまで見たら、とって返して神社に帰り、神輿還御の手伝い、神田区神輿供揃いの方々の邪魔になりながらも、お手伝いのつもりをすること暫し。気も心も出店のことでいっぱい。明るい内に先ず一回り。サーカスの象・ライオン・トラなどを、飽きることなく見ながら、又、サーカス・因果物の口上を聞き覚えんとテントの前に佇み、出店で鉄砲を買い・カルメラを買い・地球独楽・正ちゃん独楽・十徳ナイフ・鋸・寿司造り器・バナナ売り等々、啖呵売の口上を聞き、嬉しい楽しい時間が過ぎて行った。

『高物・出店・夜店』
 その昔、藩政時代くんちの大賑わいは、常泰寺(えんま様)の前付近であったらしい。藩政時代はお城には大手門・西の門などがあり町内と隔絶された空間で町内の氏神様である唐津神社は城内鎮護・藩内祈願所とされ、今と同じ所の城内に鎮座していた。だから、くんちの三日間はいくら無礼講とは言え、城内にそれだけの歌舞音曲等々は許されなかっただろうし、場所もなかったようだ。
 サーカスは、高々とテントを張るところからか「高物・タカモノ」と呼ばれていたようだ。明治期になり、明神小路を拡幅し・石垣を切り通し・お堀を埋め立て・町の往還との往来を便利にし・さらに神社周辺の民有地をお譲り願い・今の大広前を作り、これにより社頭の景観おおいに整い、高物をはじめ出店に至るまで、神社界隈(大広前)を中心として、くんちの賑わいを創出出来るようになった。当時の関係者の悦びは一入であったらしい。
 昭和二十年か?聞き逃したが、終戦で引き揚げ者も多くなり、人はいっぱい居るけれど、ヤミ市場にも売るモノがないと言うことで、その年は香具師の方々の肝いりで、参道に御灯りだけを奉納された年があったと、先代宮司の談。
 サーカス小屋はくんちの随分前から設営が始まり、腰に長い縄をいっぱいぶら下げて、鳶職か元気なオッさんや兄さん達が、高いところに木材を引っ張り上げて、小屋掛けを手際よく進められていた。十月二十七日・二十八日になると、トラック隊が到着。象・ライオン・寅・馬・犬・猿など、又、地球儀と呼んでいたオートバイ曲乗り用の鉄球網などが、続々とあわただしく到着。二十八日には、唐津駅から神社前(興行場所)までデモ行進するサーカス団もあった。
 その頃、あんまり見かけない同級くらいの子ども達を見かけたし、学校でも合ったようだが、今にして思えばサーカス団や出店等の子ども達だったのだろう。サーカス団員の多くは「寝小屋?」と呼ばれる、サーカスの舞台の下で生活していたように思う。
 さて夜、出店の灯りは、カーバイト・アセチレンガスからの灯りであった。そしてその匂いが「くんちの匂い」であった。明るいでもなく暗いでもない「ポァッ」とした灯りが、くんちの夜の風情を嬉しく優しく包んでいた。−続く−
総代異動

本 町 中川 邦彦 退任

本 町 中野 正道 新任

南城内 河内野恒雄 退任