唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第101号  平成22年10月1日発行
発行人 戸川 惟継
編集人 戸川 忠俊
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
就任の御挨拶    宮司 戸川忠俊

 謹んで御挨拶申し上げます。
         私儀、
此度、前任の戸川惟継宮司の後任として、唐津神社宮司を拝命致しました。同時に、満島八幡神社・和多田天満神社・舞鶴公園稲荷神社の兼務宮司を拝命致しました。
 唐津神社は、唐津の産土の大神様として氏子崇敬者の皆様の篤い御崇敬のもとに、氏子の街々里々と共に発展して参りました。その悠久の歴史、父祖の永い奉務の道のりを思いますと、四肢の震える思いです。
 私は平成十四年四月から唐津神社の御神前で禰宜として奉務して参りました。幼少の頃より父祖の奉務を身近で拝見しながら育った身の上でございますが、改めて宮司就任の命を受け、唯々浅学非才の我が身を恥じるばかりでございます。 これからも、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清き誠をもって祭祀に勤しみ、御神前に御奉仕申し上げ、代々の氏子の皆様が育んで来られた郷土唐津の心、里々の伝統を、氏子崇敬者の皆様方と共に、大切に守り伝えていく所存でございますので、父祖・先代同様の御指導御交誼を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

退任の御挨拶    戸川惟継

 ご無沙汰しております。今年の夏は気象観測史上始まって以来の、一番暑い夏だったそうで遅ればせながら、御機嫌を伺い、お見舞い申し上げます。
       さて私儀、
この度、一身上の都合により、本務である唐津神社を始め、兼務の満島八幡神社・和多田天満神社・舞鶴公園稲荷社の宮司を退任致しました。
 思い起こしますと、昭和四十四年春、東京都八王子市鎮座「子安神社」に神務研修生として神主の御奉務を始めましてより、昭和四十六年春には、奈良県鎮座「檀原神宮」臨時出仕(その後、権禰宜を拝命)に任ぜられ、正式な神主としての御奉務が、神社本庁より承認されて、ただひたすら神前御奉務に専念し、昭和四十八年春、父祖伝祀の「唐津神社」権禰宜を拝命しました。その後、禰宜としての奉務を経て、平成九年秋、先代 戸川省吾宮司の退任に伴い、その後任として、第十四代(戸川神主奉仕として判明している中)唐津神社宮司を神社本庁より拝命し、今日まで氏子の皆様、曳山関係各位はもとより多くの御参拝の方々のお蔭をもいただきまして、恙なく大過なく御神前の御事を執り進め、祀り続けて来ることが出来ました。
 誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
 幸い後任の宮司として、長男 戸川忠俊が、禰宜には、次男 戸川健士が、先の役員会により承認をいただき、両人ともその任を全うすべく一意専心、神前の御奉務に専念しておりますので、安寧のうちに退任できますことを心嬉しく思っております。
 これからもお寄せ頂いております御指導御交誼を、新宮司、新禰宜共々賜りますようよろしくお願い申し上げまして、唐津神社宮司退任の御挨拶を申し上げます。
 平成二十二年九月三十日
       戸川 惟継
※追而、斯界の先例に神習い、唐津神社名誉宮司に推戴したい旨、新宮司様より再三お話がございましたが、私個人といたしまして、一身上の都合上その任にあらずと固辞し、改めて大神様のお側近く「出仕」として奉仕したいと申し出ましたところ、ご快諾をいただきました。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。
※九月中旬に佐賀県神社庁に進達完了。
 
 『まつり』が育む『絆』      宮司 戸川 忠俊
 私も、先代の宮司も、禰宜も、学生時代に「久敬社塾」という神奈川県にある唐津出身者のための学生寮にお世話になりました。
 そこでは十月になると「千代ヶ丘祭」「東京唐津くんち」というお祭りが開催されます。詳しくは禰宜が書いておりますので、詳細は省きますが、私も先輩諸兄が作成された一番曳山赤獅子の塗り替え作業に携わりました。同期入塾の仲間に刀町出身者がおりましたので、「刀町の赤い色」についてアーデモナイ、コーデモナイと色の調合をこだわったり、赤獅子の髪が少ないので増量する作業では、麻紐を大量に購入して墨汁で染め、おまけに自分の手まで真っ黒に染まってしまったことを覚えております。
 さて、「待つが、祭り」とはよく言ったもので、この言葉の意味を私なりに考えてみますと、これは「祭りの準備をしている時間も祭り」という意味ではないかと思います。祭りは準備の段階から総力戦です。久敬社塾では、準備は基本的に土曜日・日曜日に行われていましたが「今日は彼女とデートの約束が…」などと言おうものなら、先輩から張り倒されておりました(笑)。しかし、そのようにみんなで準備をする中で自分の立場を理解し、長年続く祭りに懸ける想いなど、多くの物を継承することも出来ました。
 また、この時期になると、地元の子ども達は三輪車に紐を付けて、ハタキを振り回すというような、「くんちごっこ」をする姿が見かけられ、父兄の皆様、お年寄りの皆様も、夜に久敬社塾から聞こえてくる曳山囃子の練習の音色にソワソワされていたようです。これも気持ちを高ぶらせ、祭りに備える意味で「待つが、祭り」なのでしょう。
 こんな話があります。アンケートで「本来、日本人が持っていなかった主義・考え方は?」という質問をしたところ、一番多かった答えは「個人主義」だったそうです。しかし、昨今を振り返れば「個人主義」が横行し、「自分だけ良ければそれでよし」と考える人間が増えてきたように思います。このような時代だからこそ「祭り」の果たす役目はこれから大きな物になるでしょう。なぜならば、「祭り」は一人では出来ないからです。地域の一部の人間だけでも出来ません。その地域の方々皆様が協力し合って想いを一つにしてこそ出来ることだからです。
 同じ空間で、同じ時間を過ごし、同じ目的、同じ目標を全力で追うからこそ、本気で怒り、本気で泣き、本気で笑い合うことが出来るのではないかと思います。そして、そのような仲間は、大変貴重であると思います。私は大学時代「久敬社塾」で、祭りの根本を学ばせて頂いたのだと思っています。
 「まつり」が育む「絆」これほど重要な物はありません。その絆は、人と人であったり、人と地域であったり、人と社会であったりします。また、その関係の中で後世に伝承する情報と、その重要性も莫大な物になります。言葉で伝えられることは言葉で、言葉で伝えられない物は行動で、親から子、子から孫へと伝わっていく「心」は、個人の想いの中心となり、その地域の誇りとなります。私は神職の家に生まれて、幼少の頃からお祭りに触れる機会も多く、その中で何となく「神主とはこういうものだ」というイメージはありましたが、生まれて初めて唐津くんちの「御旅所祭」に神主として奉仕した時、祝詞を奏上する先代の宮司を見て、言葉に表せない程の感動と誇りを覚えたことを記憶しております。そしてその記憶は薄れることはないでしょう。
 さあ、十月となりました。皆様方の「待つが、祭り」というお気持ちは、ダム決壊寸前の心境であられると思います。堰を切った想いで全てを押し流すような「個人主義」ではなく。想いの流れの後に、また新たな息吹が育つ、肥沃な大地を育めるような元気で楽しい唐津くんちが行えますよう、御祈念申し上げます。
※今年の東京唐津くんちは、十月二十四日(日)に開催されます。

もう一つの唐津くんち   禰宜 戸川健士
  神奈川県川崎市麻生区の千代ヶ丘という地に「久敬社塾」という唐津出身者の関東地区の大学に通う大学生寮があります。私も、平成九年四月より四年間お世話になった心の故郷でもあります。ここ久敬社では毎年十月の最後の日曜日に、東京で暮らす唐津出身者の方々をお招きして同郷人懇親会「東京唐津くんち」なるものが行われています。またその前の週には「千代ヶ丘祭」という地域の方々とのお祭りも行われています。
 久敬社には、過去に先輩塾生方が、唐津くんちの一番曳山赤獅子と見紛うくらい精巧にそっくりに作り上げられた赤獅子があります。祭り当日はその赤獅子を曳き出し、曳山囃子と「エンヤ、エンヤ」の掛け声で近くの住宅街を巡行します。唐津で曳山を曳いている者、そうでない者、東京で暮らす同郷の方々、また近隣の住民の方々も一緒になって祭りが盛り上がったのを思い出します。祭りの準備にしても唐津くんち同様に十月から囃子の練習に始まり、釆配作り、獅子頭塗り替え(ペンキを使用している為、すぐ色が変色することから、毎年祭り直前に塗り替えている)など塾生達がひとつになってこの行事を創り上げていきます。私が久敬社にいる時は、十月に入ると囃子の音色を楽しみにしていらっしゃる近くのご老人の方や、笛を練習したいという近くの子供もいて、地域にも根付いてきている祭りだということを、唐津出身者として嬉しく感じているところです。 そうした中で最近塾生の人数が減少してきていることが課題だと聞きました。確かに「学生寮」と聞くと、規則があり、当番や各種行事、門限などもあり、自由がきかないという捉え方もあって、敬遠する学生も多いかと思います。私も最初はきつかったですが、周りの先輩や仲間が心強く、次第に慣れてくると、すっかり唐津に帰っているような心地良い気持ちになり大学へ行きたくなくなるほどの・・・と書けば誤解を招きますが、それだけ四年間という人生の中では短い期間でありますが、東京で共に過ごした生涯の仲間ができるというのは素晴らしく、何よりも代え難い事だと今になって感じます。幸い、私は唐津に生まれ、唐津神社という特殊と言えば特殊な環境で育ち、唐津くんちと共に今まで生きて来た為に、何の違和感なく久敬社の祭りになじんでくることができましたが、塾生の中には唐津以外の出身の学生もいます。故郷の祭りではない祭りに参加するのは抵抗があって当然の事でしょう。しかし遠く離れた東京の地で唐津くんちに原形は置いても、また違うこの土地に根付く新しい祭りとして地域の方々に愛され、違う形で人と人、人と地域を繋ぐ祭りになっているということが意義深く、今後も守り続けられていかれなければならないと思います。
 お祭りの話題を中心に書いてきましたが、久敬社には東京唐津くんち以外にも様々な行事があり、それぞれ塾生の手でひとつひとつ創り上げる事に意味があり、単なる学生寮とは異なる集団生活を通して、久敬社は「塾」としての人間形成の場であるという良さがあります。
 唐津地区出身の、または唐津に縁のある関東地区の大学進学を希望されている学生諸君には、ひとりの時間や、勉学の時間、遊ぶ時間も大切でしょうが、このような貴重な体験は久敬社で味わうことができます。是非、気軽に迷わず久敬社塾の門を叩いて頂きたいと思います。


「久敬社」 のこと  ホームページより
 久敬社の発足
 「久敬社」は旧唐津藩主・小笠原家を中心に、在京同郷人の懇親と向上を目的として、明治十一年 (一八七八年)十一月三日、東京市(現東京都)麹町番町の小笠原邸で弧々の声をあげました。
 「久敬」とは 『論語』 の公治長篇にある、「安平仲善く人と交わる久しくして之を敬す(人の交わりは、敬を久しうすべきこと)」との故事から名付けられたものです。
 久敬社塾の開設
 郷里から上京し、勉学する若者が次第に多くなった明治中頃。その学生たちを指導するためにも、また、学生たちが互いに励ましあい、戒め合って向上するためにも、さらには、経済上からも寄宿舎の必要が切望され、小笠原家の当主・小笠原長行(ながみち)の好意により、明治十九年(一八八六年)、同邸の一角に寄宿舎「久敬社塾」が開設されました。
 久敬社塾【伝通院時代】
 明治二十一年(一八八八年)四月、小石川表町八十六番地に移転しました。そこは、徳川家康の生母「伝通院殿」の菩提寺・無量山寿経寺(通称・伝通院)に隣接していたので、久敬社塾の伝通院時代と呼ばれています。
 翌年(一八八九年)には、長行の長男・小笠原長生(ながなり。通称・ちょうせい)が久敬社社長に就任(〜昭和二十年)。明治四十三年(一九一〇年)九月二日には、財団法人・久敬社となりました。
 その後、昭和十年(一九三五年)一月、東京市の道路拡張計画のため、久敬社塾敷地の主要部分を割譲することになり、当塾はやむなく閉鎖され、伝通院時代四十八年の歴史に幕を下ろしました。
 久敬社塾【西大久保時代】
 久敬社塾再興の声が、先輩や郷里の有職者たちからあがり、昭和十六年(一九四一年)六月に新宿・西大久保四丁目一七〇番地に塾舎が再建起工され、翌年四月から再開されました。
 この西大久保時代は、時あたかも太平洋戦争のさなかで、空襲のため周辺が焼け野原となりましたが、幸い塾生たちの努力によって戦災は免れました。テニスコートを耕して、戦中・戦後の一時期の食料難に対応するなど、まさに大変な時代でした。
 昭和四十一年(一九六六年)三月、現在の川崎市に移転するまで、一時仮住まいを含めて戦中・戦後のわずか二十五年間の西大久保時代でしたが、郷里の人たちの期待には大きく応えることになりました。
久敬社塾 【現在】
 昭和四十一年(一九六六年)四月、小田急線・百合ケ丘駅郊外の千代ヶ丘において現在の塾生活が始まります。そして平成二十年(二〇〇八年)十一月三日には、久敬社創立一三〇周年を迎えました。
 この一三〇年の間、久敬社塾は同郷人懇親と育英事業に成果をあげ、学会、官界、経済界など数多くの人材を送り出し、現在に至っています。
唐津神祭
十月九日(土)
 ◎午後七時 初供日奉告祭

十月二十九日(金)

 ◎午前九時 神輿飾ノ儀
    総行事  一ノ宮 魚屋町 二ノ宮 平野町
 ◎午前十一時 本殿祭

十一月二日(火)

 ◎午後七時三十分 宵曳山曳出
  各町曳山万灯をともして社頭勢揃(午後十時頃〜)

十一月三日(水・祝)

 ◎午前五時 神田獅子舞奉納
 ◎午前九時 発輿祭
 ◎午前九時三十分
       ☆御神幸発輿 (煙火五発合図−市内一巡)
 ◎正午 御旅所祭
 ◎午後三時 還御
       ☆御旅所発輿 (煙火五発合図−曳山は町内へ)

十一月四日(木)

 ◎午前十時三十分 翌日祭
  曳山社頭勢揃の後曳出
 ◎午後二時三十分 米屋町曳出
 ◎午後四時 江川町通曳出
 ◎午後五時頃 曳き納め (曳山展示場へ=煙火五発)

十一月五日(金)

 ◎神輿納ノ儀
   総行事 一ノ宮 新町 二ノ宮 江川町
inserted by FC2 system