唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。 |
唐津神社社報 第9号 昭和39年10月1日発行 |
発行人 戸川 健太郎 編集人 戸川 省吾 印刷所 (有)サゝキ高綱堂 |
今年これからの祭 〇 神 幸 祭 一、初供日祭 十月九日 山囃奉納 神祭行列図展覧 一、神輿飾り 十月二十五日 総行事大石町、紺屋町 一、宵 祭 十月二十八日 一、宵山曳き 十月二十八日 一、神幸祭 十月二十九日 曳山順行 一、翌日祭 十月三十日 一、神輿納め 十一月一日 〇新 嘗 祭 十一月九日 今年の新穀を神前にお供えして、その収穫を感謝する祭です。 この祭は、春祭、神幸祭と共に三大祭といわれるものゝ一つです。氏子総代参列の上執行されます。 〇 七五三宮まつり 十一月十五日 この祭は、三歳の男女子、五歳の男子、七歳の女 子の祝日として、氏神様 に参詣して、神様の御恩頼を謝し、子供の健康を 祈り、立派に成長して、 世のため、人のためにつ くす良い人となるようお 祈りする祭です。 この御祝を十一月にするわけは、十一月は一陽初めて開き、萬物の発生する時であるとして、これを行うのであります。又この頃の年頃は、子供の発育する、区切りで、三歳頃には親兄弟の言葉も判り、自分でも片言交りの話もし、運動も活溌になり、人の見知りもつくという可愛い時分、五歳頃には更に発育して。知恵も進み幼稚園にも行かれる年頃、七歳頃は心身ともに発育して、歯も生え代る時で、小学校にも上る年頃です。従って精神や身体の発達が著しいと同時に病気にも罹り易く、子供を育てる上で最も心を配る時です。そこで思わしい親心として氏神様にお詣りして且つ祝い、且つ祈るという次第であります。 次に七五三祝の由来を申上げましょう。昔は子供が生れると髪を剃り落して置いて、二三歳に成長した時それをのばす例があってこれを髪置きといゝました。江戸時代になって武家方では十一月十五日にこの式を行って氏神様に参詣するようになり、又平安朝頃から男子五歳となれば「袴着」の式が行われ、又女子七歳の祝は「帯解」といゝ着物の附け紐を取って、別に帯をしめさせたものです。子は家の宝、国の宝、やがては日本の柱となる宝です。その無事の成長を祝いましょう。 ○年米年始諸祭典 ○大麻頒布 十二月中旬 ○大 祓 十二月三十一日 今年中のお祓いをして新年を迎える。 ○古神札焼納祭 十二月三十一日 古いお神札やお守りをお焼上げする祭り。 ○除夜祭 十二月三十一日 今年最後の祭りを終えて静かに新年を迎える。 氏子総代就任 今回城内より金丸源一氏元旗町より坂本吉之肋氏が氏子総代に推薦されました 米屋町曳山修覆 第十一番曳山米屋町「頼光の兜」は今回三十二年振りに修覆することなり、目下一色健太郎氏の手で工事が進められている。 この秋のおくんちには色も鮮かなその雄姿が見られることでしょう。 因に、この山は、明治二年に作られたもので、今年は九十五年というわけです 作者は米屋町の吉村藤右ヱ門と近藤藤兵衛といわれています。 当時作者は酒顛童子が頼光の兜に。噛みついているその形相凄ましい形が、仲々作れず苦心していたところ、或る日猫が玉にぢゃれている様子を見て、ヒントを得、それを元にして作ったといわれています。 又作者は一計を案じ、ほゞ出来た山を路上に置き、自分等はひそかに山の中に入って、じっと耳をすませていた。通行人はそんなことは知らず、勝手に素直な批評をして通った。それらを大いに参考にして、悪い所を直し、直して、今日見るような、絶品が生まれたと伝えられています。 唐津の山は米屋町に限らず十四台全部が、その町その町の人々が、いわば素人が苦心して作ったもので、秋のおくんちには自分たちが作った山を奉納して、祭を盛大にしようという心意気がうかゞわれます。 尚米屋町の落成奉告祭と曳き初めは、十月二十日頃行われます。 これで、戦後に於ける塗替えは十二台を数へ、残りは刀町と水主町の二台のみとなりました。 |