唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第8号  昭和39年 4月27日発行                                  
発行人 戸川 顕
編集人 戸川健太郎
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
山笠の名称変更について
 今回宝塚への出動を期して、従来の山笠の名称を曳山と変更することゝなり、正式に決定した。
 その理由とするところは歴史的考証によるもので、このことについては、去る昭和三十四年に県文化財専門委員である飯田一郎氏が許しい論文を発表しておられるので、こゝに転載させていたゞくことにする。



 ヤマの歴史と名称
  一、ヤマの歴史
 唐津神祭のヤマが浜崎の祗園さんのヤマと随分違った形をしていながら、同じくヤマと呼ばれるのは長い歴史的な理由があるからでもともと山の形をしたものをお祭りのときに曳いていた。それが段々に形が変って初めのヤマとは似てもつかぬものになってしまったのだけれども、名称だけもとのまゝに伝えられたからである。
 記録によれは、今から一千二十六年前平安朝の初頃仁明天皇が即位せられ、その秋の大嘗祭のときに悠紀主基の新穀を献上するものが共に山を作り、山の上に木を植え標を張った。これが標の山と言われ、以後歴代天皇の大嘗祭の度毎に作られ、後には車に乗せて引張るようになった。もともとこの標の山は神様のお出ましを表示したもので、彼の神輿と同じ意味のものであったが、藤原道長の頃、京都の祗園の祭に或る猿楽法師が山を作り囃しをはやしながら引いて廻ったところ非常な人気を呼んだ。当局は不謹慎であるとして圧迫を加えたが、祗園の山は年とともに盛んになった。そして次第に地方にもひろがり、宝町の中頃には博多の祗園祭にもヤマが出るようになった。
 近世の初め封建制の再編成が完了し民衆の生活が一応安定してくると、各地の神祭が盛んに行われるようになった。この頃から急に全国各地に種々様々のヤマが出来るようになった。
 ヤマは車に乗せて引いて廻るのが最も普通だけれども、若者たちがかついで廻るのもあり、一ケ所に据えつけておくのもあり、信州訪訪湖の辺り.や柳川等の如く舟に乗せて廻るのもある。その呼び方も種々様々で、ヒキヤマ、オキヤマ、チャンギリ、チャンチキヤマ、チヤンチヤコチヤン、オフネサマ、カサブキ、オフネマツリ、カサポコ、コソデヤマ、シンシユ、ダシ、ネツゼダイコ、ノリツケポウ、ハナダイ、ブテン、ホコヤマ、ヨヤシヨ、ダンジリなどと呼ばれている。伊万里の有名なトンテントンの祭りにオミコシと喧嘩をするダンジリのようなのは其の土地の人々もこれがヤマの一種であることを知らずにいる人が多いであろう。こんなにして、形も名称も既にヤマでなくなってしまったものも全国的に見ればいくらかはあるだろうけれども、一般的にはなおヤマと通称されているのが一番多い。


 二、唐津のヤマは曳山または囃山
 現在ある唐津のヤマは周知のごとく文政二年(一八一九年)から明治九年(一八六九年)まで丁度五十年の間に亘って次々と作られたものである。このヤマが作られる前、各町々に定例或は臨時の神祭に出すダシモノがあったことは勿論で、そうした先行習慣があったればこそ、刀町の石崎嘉兵衛が京都の祇園のヤマを見て感激し、帰郷して同志にはかった時、たやすくその同意を得ることが出来たのだと思われる。これらのヤマが一体何と呼ばれていたであろうか。古いことはよくわからないが、幕末に近い頃には「引山」と呼ばれていた。九大の図書館に蔵されている材木町の平松氏の手記(唐津藩御触書御願書諸記録控)によれば当時は疫病除けや五穀成就のために臨時の御祈祷がひんぱんに行われているが、そうした臨時の神祭に出されるものは「作りもの」または「造山」と呼ばれ、定例の神祭に出されるものは「引山」と呼ばれていた。安政六年(一八五九)九月二十七日大年寄から町々の年寄に出された触書の冒頭に「引山」順番として江川町以下十三ケ町の名があげられており、文久二年(一八六二)九月二十八日同趣旨の触書にて江川町以下十四ケ町の名が連ねられている。そしてこの触書の中には「神事翌朝引山之儀」云々という言葉もつかわれている。
 明治九年(一八七六)に江川町のヤマと水主町のヤマと殆ど時を同じうし、相前後して出来たとき、どちらのヤマを先きに引くか、その順番のことで喧嘩がおこり、いわゆる七町組八町組の紛争になったことは有名で、今なお故老の間に語り伝えられているが、その喧嘩の仲なおりが出来たときの覚書が当時江川町の十戸長だった吉村氏宅に蔵されているが、その見出しには 

 江川町水主町両町新規曳
 山出来に付順序約定書左
 の通と記されている。

 引山も曳山も同じことでどちらも「ヒキヤマ」とよむので、唐津のヤマと呼ばれ、字で書くときは「引山「または 「曳山」 のいずれかであったことは以上の例で明らかである。
 一方またこのヤマのことを囃山とも呼んでいた。江川町水主町のヤマの出来たその前年、明治八年の四月に唐津神社の春祭にヤマを引きたいということを氏子総代らが願出たものが蔵されているが、それには

 兼テ奉納之囃山引出シ氏子一同賑々敷参拝仕候条
 云々と記されている。

翌々年明治十年の春祭にも同様の願出をしており、文面は「兼テ奉納之囃山引出シ」というところ、全く八年のと同様である。
 これによれば囃山と呼ばれていたことも亦事実であって、恐らく普通にはヤマと呼ばれ、カドあるときには曳山」あるいほ囃山といっていたのであろう。


  三、山笠の名は借りもの
 昭和十五年に山笠取締会というものが出来、昭和三十一年十月に山笠保存会というものが作られた。町の人が普通に話をするときはたゞ「ヤマ」というだけで決して「ヤマガサ」とはいわない。「ヤマガサ」ということばは何か耳ざわりがして、ガサガサした感じがする。このように感ずるのは私一人ではあるまいと思う。
 いつか保存会の席で、どうして「ヤマガサ」というようになっただろうかという問題を提起したところ、はっきりしたことを知っている人は無かったが、話が進むうちに、ヤマと言えはいゝのだけれども、文字に書くときはたゞヤマし」と書くだけでは物たりない感じかするから「山笠」と書くようになったのだろう。博多で山笠と言っているから、その真似をするようになったのだろう。ということであった。この話は恐らく事実に近いものだろうと思われる。
 富山県の高岡市教育委員会は、全国にわたって非常な経費と手数を贅してヤマの調査をし、その結果を発表されたが、それによると「山笠」という名称を使っているのは博多と直方と豊前市の苅田町と福岡県に三ケ所あるだけで、あとは佐賀県だけである。佐賀県のは大体福岡県の影響と考えて差支えないのじゃないかと思われるが、唐津のヤマは博多の山笠と形も全々違っているし、歴史的な系譜も別々なので、何も博多の山笠の名称を借りる必要はないと思う。ヤマの先祖である京都の祗園では今にたゞ「山」と言っているだけである。
 保存会の人たちも、唐津のヤマが、前に曳山または囃山と書かれていたことを知っておられる人は一人も無いようだった。勿論これはこの人たちの罪ではない。唐津の人たちが全部がこうした歴史を忘れていたのである。そしてことばとしてはたゞ「ヤマ」と呼ぶだけで少しも支障もなく毎年ヤマヒキは無事続けられて来たのであった。
 昭和十四年に消防団が解散し、藩政時代の火消組から引続きヤマヒキを担当して来た消防組がなくなってしまって、あらたまった組織を作らねはならぬ時になって「山笠取締会」というものが出来たのである。たゞし山笠の名が使われたのはこのときが最初ではなく、これより前に一二の用例も無いでもないので、大体の見当では、昭和の初頃からぼつぼつ使われだしたものと推定される。
 私たちは普通の会話で、「ヤマガサヒキ」とか「ヤマガサの行列」とか決していわない。「ヤマガサバヤシ」ともいわない。「ヤマヒキ」「ヤマバヤシ」の類である。
 古い「ヤマゴヤ」が取払われて新しい格納庫が建設されることになった。誠に結構なことであるが、この格納庫に例えば「山笠格納庫」と書かれたら、それで「ヤマ」の名称まで半永久的に決定されると思うので、私はこの際特に「ヤマ」の名称を以前のように「曳山」。又は「囃山」とするよう提唱したいのである。これは古く歴史的だというだけでなく、言葉のひゞきから言っても「ヤマガサ」よりずっと優れていると思う。
 保存会の席では、大方の意見は「ヒキヤマ」(曳山)とするがよいということであった。

古文書写真説明
 写真は江川町と水主町の約定書
 江川町曳山
七 宝 丸 の 由 来

 今まで江川町曳山は蛇宝丸と称していたが、此間同町の吉村茂雄氏から七宝丸と改めねばならぬとその由来を教わったので紹介する。
 今度の塗替の時曳山の鳥居の扁額から七宝丸と書いたものが見つかり、又雪塘の絵馬にも七宝丸と誌されてあって、古くは七宝丸と言ったものを前方の蛇頭を重く、宝の方を軽く見て斯くは称えたのであろう。
 ところで此の船の宝の七品とはどんなものがあるのであろうか。元来七宝とは金、銀、瑠璃、瑪瑙、シャコ、玻黎、真珠のことを言ったもので此様な宝は此船にはない。
 この宝とは別に昔の絵模様等に書いてある、鍵、小判打出の小槌差団扇等の宝物のあったのを思い出してだんだん調べて居たら、たまたま芳賀矢一博士の名数雑談の中の七の部に「七福神の持っている宝物に、隠れ笠、隠れ蓑、打出の小槌等色々ある」と出ているので七福神の桧を見ればなるほど大黒様の打出の小槌、布袋和尚の差団扇等明かになったが隠れ蓑や隠れ笠等が七福神の誰々の持物かそこまではわからないままに過しそれから間もなく二月四日の節分祭の豆を撒く福桝の絵模様に隠れ蓑、隠れ笠、小判、打出の小槌、鍵、花輪そして最後に一つ私には訳けのわからぬものと都合七つの宝が画いてあるを見つけ出した。之等は皆人間の理想とする宝物には違いなさそうだが何時ごろからの通念か、又もっと深い信仰のあったものかまだまだ明らかになるべくもないが、ただ昔から宝づくしと言って絵画又は柄模様等に
 如意宝珠、打出の小槌、隠れ笠、隠れ蓑、丁子、鍵、花輪、巻物、宝袋
等をとり合せて描いたものが古くよりあったことを知り得たのである。そして前記訳のわからぬ宝物は丁子と言うもので即ち燈心の燃えさしが固って丁子の木の実の様になるのて丁子頭と言い略して丁子と言う様になった。そしてこの燃えさしをつまみつぶして油壷の中に入れると財貨を得との言い伝えがあるのでこれも宝づくしの中の一つに入れたのであろうと言うこともわかった。
 さて江川町七宝丸曳山の成案者田中市治様は以上の中の宝物七品を選んで此船に格好よくそれぞれ配して又蛇頭に威巌を持たせる等余程考えて作成せられたことであろう。其の苦心の程は察するに余りあるものがある。
 即ち護身の宝である隠れ笠を以てこの船を上から覆い更にその上にはわが意の如くなると言う霊妙なる宝珠の玉を頂かせ、その後方に萬物を支配する差団扇と、振れば金出づ打出の小槌を打ち立て、下の方には隠れ簑を潜ませ、横の勾欄の枠の間間には財貨を得ると言う丁子を互違に配し、そして最後の後ろ見には宝袋を飾り」付けたるものであって、それぞれ金銀青丹の漆塗でそれは美しくも又世にも珍らしく、人々の宝を願う標しとして、お芽出度いお祭の曳山として誠に相応しい七宝丸ではある。
 と、ここまで書いた処へ今度の宝塚行の為にこの船の解体作業が行われたので詳細に見ると、笠の後方に長寿の巻物を開いた処があって、それには鍵が描いてあり、又宝袋の上には花輪模様が横に並べていくつも描かれ、正面勾欄の左右一対の巻物をはめこんである。その他まだまだあるだろうがよくもかくは集めたものだ。七宝どころではない。今頃になって気付くとは甚だ恐緒乍ら重ねて成案者の御苦労の程をお察し申し上げる次第である。

 この船はこの数々の宝を積んで奇しき由縁りのその名も宝塚の今度の美しき博へ賑々敷く船出するのである。
 船出する七宝丸は宝船
  はいる港は名も宝塚

江川町山曳写真説明
  写真は明治九年七宝丸完成を記念して奉納されたもので、
 筆者は当時唐津で名画伯と云われた長谷川雪塘である。

 新嘗祭
  氏子総代の表彰式も 今年の新穀を神に供え、すべての生産に対する神恩む奉謝する祭りが新嘗祭である。
 唐津神社では十一月九日午前十一時より、氏子総代、来賓参列の上行われた。
 祭典は新穀奉献、祝詞奏上と続き、次に宮司神幣を奉じて厳かに奉幣の儀を行い、次いで玉串を捧げて拝礼新穀感謝の祭典を終った この祭りに引続き、永年勤続奉仕の氏子総代、松尾貞太郎、古川安兵衛、牧原繁蔵、白井新作、平岡栄一、野田久八、平田常治、浜本精十郎の八氏に対する表彰式を行い、表彰状と記念品を贈ってその栄誉を表彰した。
 今度表彰を受けた八氏はいずれも去る昭和十三年社殿改築工事や県社昇格等に尽力され、終戦後は神社が極めて困難な時代に率先してその維持経営に協力され、二十有余年の永きに亘って奉仕されたものである。

 
節分祭
  
賑やかに豆まき
 唐津神社では今年も二月四日恒例の節分祭を行った 節分とは大寒の終る日、明日よりは立春に立還るという季節の分れる日を壊災招福の祈願の日として、古くから行われた祭りである。
 この祭りには、今年の干支に当る人や厄年に当る人が豆まきの儀を奉仕する年男となるのである。
 この日午後七時神鼓と共に参進昇殿、祭典は祝詞奏上と続き、今年の年男の氏名を奏上して厄難消除を祈願の後鳴絃の儀、撤豆の儀で四方を祓い、終って年男の豆まき行事となる。
 百余名に上る年男奉仕の人々が数回に亘って、拝殿正面より「福は内、鬼は外」の唱えとともに、勢よく豆や、みかんや餅がまかれ、これを受けて今年の福を授かろうとする参拝者で賑った。
 祭典の後社務所に於て直会が行われ、和気藹々の中に式を閉じた。

 
曳山宝塚へ行く
 唐津名物の曳山は毎日新聞社主催の美しき日本博に招かれて、三月二十日から五月末日まで宝塚ファミリーグランの特設館で、全国各地の有名なお祭りのだしものを集めて催される「日本の祭」に展観されることになり、目下同博で人気を集めている。
 今度出された曳山は呉服町、魚屋町、京町、江川町の四台で、このため市、商工会議所、観光協会等関係者で唐津曳山出動協賛会を結成、金子市長を会長に全市あげて出動に協力することになり、去る三月一日唐津神社に出動奉告と安全祈祭を行い、引続いて商工会議所会議室に於て壮行会を催しその行を壮んにした。
 四台の曳山は夫々分解の上完全な荷造りをなし、トラックで輸送されたもので.三月十五日花々しく出発した。
 今度の宝塚出動は曳山と同時に観光唐津の大きな宣伝にもなり、市では絵ハガキ、パンフレット等を大量に用意して、大いにPRにつとめることになっている。
 市民は無事にその大任を果して帰えることを祈っている。
 山崎盛三翁は得意の筆に託して次のような歌を寄せられた。

 
唐津曳山壮行譜

一、行くか曳山 七宝丸よ
   鯛よ兜よ玉取獅子よ
   お国名物 唐津の曳山が
   遠く行きます 宝塚
   ヨイヤヨイヤヨイヤサ
    エイヤエイヤエイヤサ

二、行くぞ曳山
      故郷を後に
   知らぬ他国へ
      不慣れの旅は
   さぞや辛らかろ
       疲れもしよが
   先様お待ちだ
        お待ちかね

三、行けよ曳山暫しの別れ
     仲よく並んでお姿見せて
    曳いてお貰い
       兄いの意気で
     聞いておもらい山ばやし

四、一人息子を
     手離すように
   何か寂しい気も
         するけれど
   キップ嬉しい
        浪華のお人
   甘えて抱かれて
        帰りゃんせ

五、何の土産も
      欲しくはないが
   せめて浪華と唐津の町を
   深い御縁に
      つないでおいで
   頼みますぞえそれだけは

 唐津神社
  氏子総代改選

 唐津神社氏子総代は、今年改選期に当り、次の七十四名が推薦されたので、来る三月十一日神前に奉告祭を行い宮司から委嘱状を交附した。
大西安之助、平野松太郎、大橋喜一、白井新作、山崎富雄、花田繁二、古川安兵衛、牧原繁蔵、大塚幸二郎、平間栄一、岩下定蔵、宮原宮三郎、辻庚一、平田常治、内野勝三郎、吉田至、小井手徳治郎、脇山英治、水上敬一、中山仁太郎、山口琢、尾島繁一、飯田猪之十、近藤匡香、太田尾隆蔵、山口大司、松尾貞太郎、岸川欽一、常安弘通、石田安智賀、馬渡藤男、古館正右衛門、天野静子、永富納、吉岡勝行、青木嘉三治、河村檪、薄敬雄、永江金之助、吉野小糸、鈴木従三、須藤恒子、豊田初音、松村おまき、蒲原小一、中島三郎、八幡哲夫、竹尾彦己、宮尾サイ、田代ふく、後藤利一、井上鉄司、宮崎のぶ、加茂好吉、横尾佐六、久田秀雄、渡辺吉作、戸川鉄、高田重男、田中巌、井上貢、藤原藤吉、中島太、西岡広志、野田久八、岩隅啓助、住博、山下大助、浜本精十郎、井口四雄造、古館九州男、荻野朝陽、小林嘉六、柴田朝次郎