唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第7号  昭和38年10月1日発行
発行人 戸川 顕
編集人 戸川健太郎
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
春季例大祭
  
神前に 山笠を飾る

 恒例の春季例大祭は、去る四月二十九日午前十一時より戸川宮司斎主となり、神社庁より献幣使として、佐賀県神社庁長鍋島直玄氏が参向し、氏子総代参列の上、諸産業の発展を祈願して厳に執行された。
 この日は初めて、名物山笠も社頭に飾られ、唐津ッ子はもとより、折からの連休で遊びに来た観光客の目を楽しませた。
 夜は小桜舞踏団の奉納演芸で賑わった。


 神社の祭礼は、神徳を光かし、神功を著はし、而して神明む慰め通じて、人心にわたりて、何れの国までも同じく一すぢなり。
  (本居宣長玉くじげ)

 
夏 祭  茅の輪くぐり
 夏祭は七月二十九日午後七時より宮司以下奉仕、氏子総代、氏子多数参列して行われた。
 夜風の涼しい夏の一夜を輪くぐり、形代納めの参拝者で賑った。



 
曳山塗替え
 江川町曳山“蛇宝丸”は今塗替工事を急いでいる。
三十五年ぶりの化粧直しで、秋の神幸祭には、その華麗な雄姿を見せることであろう。
 この“蛇宝丸”は明治九年の製作で今年八十七歳、第一回の塗替えは昭和三年に行われて居り、今度が二度目である。
 これで戦後の塗替えは十一台を数え、残りは刀町、米屋町、水主町の三台のみとなった。


 
氏子総代就任
 今回桜馬場総代山口毅氏退任につき、後任として西岡広志氏が就任した。

 上図の“唐津神祭行列図”は明治十六年富野淇園の筆になるもので、魚屋町の旧家西木屋山内家にあったもので長く同家の所蔵であったものを、去る昭和三十年唐津神社御鎮座千二百年祭記念として、同家から奉納されたものである。
 この絵は唐津神祭に於ける神幸山曳き行列を七幅続きの大幅に画いたもので、西の浜御旅所から西の門附近を中心に十五台の山と、曳子のほか、大名行列、奉納相撲、武士、町人、力士物売りなど、一千人に上る人物を配して、江戸時代末期の風俗さながらに、何れも極彩色で画いた貴重な絵巻物である。
 筆者の富野淇園は、本町の御使屋(旧藩時代の使者宿)で私塾を開き良家の子女に学問を教えるかたわら絵を画いていたといわれ、五十四才の作品とされている。その後佐賀師範開校当時の絵の先生となり、明治二十四年四月七日五十八才で死去、その墓は西十人町法蓮寺にある。
 本町、平野町、水主町の山は淇園の製作になるものである。
(正しくは平野町の上杉謙信の兜、京町の珠取獅子、水主町の初代鯱です。)
 尚この絵は今年も十月九日初供日祭に拝殿に掲げて一般に公開される。


"おくんち”の諸行事
 神幸祭は今年も十月二十九、三十の両日行われるが、行事のあらましは次の通りである。

一、初供日祭 十月九日
 山囃奉納、神祭行列図の展覧

一、神輿飾りの儀   十月二十五日
 総行事刀町、米屋町奉仕で行われる。

一、注連下し、山飾り   十月二十七日
 神前の注連縄を新しく替え、社殿の装飾などをなす。各町の山は、その飾り付けをなす。

一、宵 祭 十月二十八日
 神儀を神輿に移御する祭りが行われる。前夜祭である。

一、宵山曳き   十月二十八日
午後十時大手口を曳出し各町は各自町より順に、行列に加わり、午前零時頃社頭へ曳込む。山は皆堤燈を掲げて、華麗な一大絵巻を展開する前夜祭の奉祝である。

一、神幸祭 十月二十九日
本まつりで、午前九時神輿発御、十四台の山が供奉しての神事である。正午卸旅所着御、祭典。全山は神前に勢揃い。午後三時発御、四時還御となる。

一、翌日祭  十月三十日
 午前十時祭典、同時山曳出し、午後五時帰還。

一、神輿納め 十一月一日
 新総行司大石町、紺屋町と交替、神輿庫に納める

 山笠も登場
  それは私ですの
     中継放送

 NHK唐津テレビ放送局開局記念「それは私です」の中継放送は、七月十日午後七時半から三十分間市立体育館で行われた。
 この放送の最後を飾る出演者に山笠総取締花田繁二さん等が登場すれば、会場は拍手と笑いの明るい空気につゝまれ、やがて唐津子の血をわかす山笠囃子で賑かに幕を閉じたが、山笠には東高校生が体育祭に作って幼稚園に贈っていた赤獅子が一役買ってフィナーレーを飾った。

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