唐津神社社報より唐津神祭に関わる記事を抜粋してネット化致します。
唐津神社社報   第1号  昭和35年10月1日発行
発行人 戸川 顕
編集人 戸川健太郎
印刷所 (有)サゝキ高綱堂
はじめのことば

 唐津神社は「明神さま」の敬称をもって、千二百年という遠い時代に、この松浦地方の総鎮
守として御鎮座以来、神徳の輝きを仰ぎつゝ、いや継々にその信仰を伝えて今日に至ったのであります。
 人は神より生れ、神によって生かされ、やがては神に還るという。実に神人のきずなは断ち難いものであります。
産土(うぶすな)信仰は吾々が住んでいる土地に生じた信仰でありまして、人間はその生存の上から言って、土地の恩恵の偉大さを識り、やがてそれは氏神信仰となって参ったのであります。
 同じ土地に住む人が同じ土地の神様を拝むといふことは自然のことで、当社もこの地縁によって結ばれた人々即ち同じ氏人が神格高く而もこの松浦の地に由縁の深い住吉三神を氏神として奉齋したのであります。
 お宮にお詣りする時は必ず鳥居をくぐらなければなりません。鳥居は実に神社の象徴であり、氏神様と氏子との行き通う門と申すべきでありましょう。
 この社報がこの鳥居の役目を果してくれることを念願しています。
 何卒御高覧を賜わり、将来神社に対する御理解御協力を頂ければ幸いと存ずるものであります。


唐津神社由緒


御祭神

一ノ宮 住吉三神

底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)

二ノ官 神田宗次(コウダ ムネツグ)、相殿 水波能女神(ミズハノメノカミ)

 神功皇后三韓を征し給ふや、西海茫々として一望際なく舟師向ふ所を知るに由なし。時に皇后「願くば一条の舟路を示せ」と住吉の三神に祈り給へば間もなく風波治まり、凱旋の後神徳著しきを感じ松浦の海浜に鏡を捧げて三神を祀り給ふ。然るに其後数百年を径て漸く衰頽し社殿自ら廃滅に頻せんとする時恰も孝謙天皇の御宇地頭神由宗次一夕神夢を得て海浜に至れば、一筐の波に浮び来るあり。之を採りて開けば一宝鏡なり。これ正しく皇后の祀り給ひし宝鏡ならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を下して「唐津大明神」と賜ふ。時に天平勝宝七年九月二十九日なり。爾来郷党の崇敬加はり文治二年神田広に至り社殿を再建し、祖先神田五郎宗次の功を追慕し其の霊を合祀して二の宮とす。文安六年領主波多三河守親田地を寄進して尊崇す。
 慶長七年寺沢志摩守広高唐津築城に際し現在地に社地を設定し、社殿を改築し領内守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿に勧請す。その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、広く領内の総社として益々崇敬せり。
 明治六年郷社に列し唐津神社と改称す。其の後境内拡張、社殿の総改築成り昭和十七年県社に昇格す。
 戦後杜他社殿旧に変ることなく四時祭礼も怠ることなく、杜頭愈殷賑なり。
唐津神社の主な祭典

〇一月  一日     歳旦祭
〇一月  五日     新年祭
〇二月  三日(四日)節分祭
〇四月二十九日   春 祭
〇七月十九日     夏 祭
○十月二十九日   神幸祭(おくんち)
○十一月 九日    新嘗祭
○十一月十五日   七五三祈請祭


神幸祭(からつぐんち)の諸行事
「おくんち」も恒例により十月二十九日、三十日に亘り齋行されますが、今年は恰も天皇陛下、皇后陛下がお出で遊ばすとか、自慢の山笠を是非天覧に供し度いものであります。
 この山笠も戦後世の中の落着きと共に、その塗替等もぼつぼつ始められ、去る昭和二十九年本町の山笠を始めに材木町、新町、中町、魚屋町と昨年まで五ケ町の山笠が塗替を終り、見違える様な姿になりました。
 今年に入っては、木綿町、平野町の二ケ町が目下鋭意工事中であります。秋の祭りには金銀青丹輝くばかりの雄姿を見せて、一段とその盛儀が待たれることであります。
 さて神幸祭は、当日の神輿渡御の祭儀を中心に種々の行事が加わって行われるものであります。

○初供日祭 十月九日

 昔からこの日ともなれば、山笠各町では、その飾付や、車の工合等を調べて、囃しながらその町内を曳き廻して、二十日の後に迫ったお祭りを楽しみつゝ、氏神様と共に喜び合うのであります。これがこの祭の由来で、この日午後七時から祭典奉仕の後、各町より山笠囃しの奉奏があります。又絵馬殿では「唐津神祭行列図」の絵巻物を展覧し、秋の一夜をなごやかに過すもので、おくんちの前奏曲というべきものであります。

○神輿飾り  十月二十五日

 吉例により今年は唐津神祭総行司呉服町、八百屋町の奉仕によって行われます。
 総行司とは古く藩政時代唐津総町の年間の運営から総ての行事を司る当番町を指したもので、唐津の総町とは本町、呉服町、八百屋町、中町、木綿町、材木町、京町、刀町、米屋町、大石町、紺屋町、魚屋町、平野町、新町、江川町、水主町の十六ケ町のことで之等の町々は唐津の中心街をなし、その当時は各町に年寄、その上に大年寄が三人居て総町の運営に当りました。これは明治以後の地方自治の根元だとも言えましょう。
 さて唐津神祭神輿のこともこの総町運営の一つとして昔から執り行われて参りました。今年は年番順により呉服町、八百屋町とで廿五日の神輿飾りから二十九日当日の神幸警固、御旅所祭のことは勿論一年間神輿に関しての責任町となる訳であります。
 年番順と言いますと、唐津の城下町の成立の順に二ケ町づつ総行司を勤めるというわけで昔から「本呉八中木材京刀米大石紺屋の魚 平新江水(ほんごはちちゅうきざいきょう とうべいやいせきこんやのうお へいしんこうすい)」という工合に口拍子に覚えていたものです。
 序いでながらこの総町の運営と申しましても如何なることをしたかは今日では詳にしませんが、当時の火消組等もこの順番を以て編成されたらしく、本呉八中の順にいろはを附してありました。現在判明の町々は本町のい組、木綿町のほ組、京町のと組、刀町のち組、米屋町のり組、平野町のわ組、江川町のよ組等七ケ町であります。近年は地方行政もだんだん変って総行司のことも、唐津神祭にのみ用いられるのみとなり唐津人から忘れ去られようとしていますが、氏神氏子の関係が古い形で残っていることは貴重なこととなりました。

○山笠飾り    十月二十七日頃

 神輿飾りが終れば各町山笠は夫々神幸供奉に備えて飾り付けを致します。

○宵祭 十月ニ十八日

 神幸祭を明日にひかえて、二十八日深夜神儀を神輿に移御する祭で、神職のみの奉仕で齋行されます。

○宵山笠曳き

 宵祭の始る頃から各町山笠は万燈を施し、優美な山笠囃しにつれて町々を廻り、やがて一の鳥居をくぐって思い思いに社頭に曳込み朝五時頃迄には全山笠が勢揃いし、九時の発輿を待つのであります。

○神幸祭 十月二十九日

 午前九時煙火三発を合図に刀町山笠を先頭に発輿氏子各町を巡幸すること三時間、正午西の浜御旅所着御の後御旅所祭齋行。山笠も盛んな意気を見せて神前に勢揃いし「おくんち気分」が最高潮に達するのであります。
 午後三時発輿、五時還御となるのであります。

○翌日祭 十月三十日

 祭典齋行の後十時神輿の渡御はなく山笠のみ曳出し、各町を廻り、五時頃帰還となります。

○神輿納め 十一月一日
 本年総行司は明年総行司へ、神輿に関する一切を申し送り、新総行司は申し受けの後神輿の飾りを解き庫に納めて明年神祭奉仕迄の奉仕責任町となるわけであります。


唐津神社氏子総代人名
 (順不同敬称略)

 当神社氏子総代は、本年一月二十六日恰も改選の時に当り、規則の定めに従って、推薦された人々を宮司より委嘱しました。

 木下吉六、花田繁二、岸川欽ー、大西安之助、平野松太郎、大橋喜一、白井新作、隈本芳太郎、古川安兵衛、牧原繁蔵、平岡栄一、岩下定蔵、大塚幸二郎、花田明治、辻庚一、平田常治、田中守、吉田至、小井手徳次郎、水上敬一、中山仁太郎、山口琢、尾島繁一、稲次亀萬太、松尾貞太郎、太田尾隆蔵、近藤匡香、山口大司、常安弘通、石田安智賀、馬渡藤男、古舘正右衛門、天野イト、青木嘉三治、河村檪、藤原藤吉、渡辺ハナ、増山鉄治、永江金之助、須藤恒子、豊田初音、三輪ちよ、蒲原小一、後藤利一、井上鉄司、野口信一、加茂好吉、川添泰伸、横尾佐六、久田秀雄、渡辺吉作、石井小枝、高田重男、田中厳、井上貢、中島太、山口毅、佳博、野田久八、岩隈啓助、池田好太郎、浜本精十郎、松尾照司、安延時雄、荻野朝陽、小林嘉六、柴田朝次郎

 尚名誉総代として次の四氏が推薦されました。
金子道雄、松尾九一、桑原民冶、畑山敬太郎