明治大正編
京町の歴史
唐津の城下ができたときの町割りでできた町。内町の玄関口、札の辻があり、そこには町奉行所があった。江戸中期唐津では捕鯨が盛んで京町には鯨組の豪商日野屋(常安家)が有名。江戸末期になると益々賑やかになり、大石町・魚屋町に連なる唐津随一の通りとなった。明治に入って鉄道が敷かれ唐津駅ができて更に町は栄えた。
曳山の歴史の中で注目しなければならないのは、かつぎ山(鉾山)から走りヤマの時代が続き、その時に京町は踊り屋台を出していたこと。巡行の際、札の辻、名護屋口で京町の娘が屋台の上で優雅に踊りを披露していた。屋台には勿論囃子方もいたと思われ、最初の囃子ヤマである刀町の赤獅子ができるまでは唐津くんちでの音曲は京町の屋台の囃子だけだったとも考えられる。御旅所では明神台の前で踊りを披露したとも言われ唐津くんちの名物ともなっていた。しかし、刀町の赤獅子に続き、走りヤマを出していた町々もそれに習って趣向を凝らした曳山を作り始め、紺屋町黒獅子を含めれば12台の勇壮な曳山が作られていった。京町の若者等は踊り屋台の甚だ活気なきに鑑み新に珠取獅子の製作を試みた。明治8年の制作当時はまだ大手門が残っていたと考えられ、それをくぐって行くため尻尾の上半分には細工をしてある。曳山は鯨組イトヤ草場家の倉庫で作られたという。最初は松の緑色だったが時を経ると色がさめ、大正10年に朱に色を変えた。しかし昭和38年の塗り替えにはもとの緑に戻すが、これも早々と色がさめ、昭和58年の塗り替えには色が褪めないようにと深い緑に。平成20年の塗り替えには顔料の進歩により以前のような退色はないということを知り、制作当初の色に戻そうと現在の色になった。
詳しくは旧家の由来京町をご覧下さい。