末廬國より
(昭和39年11月30日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 京町

大阪までも知れた 日野屋の豪勢

 郵便局辺りは藩用地




 小笠原時代、天保の頃の、唐津藩の大阪御蔵元は大根屋小兵衛・長崎屋平石衛門の両人だが、この京町にも大根屋庄九郎・長崎屋利兵衛と呼ばれる人がいて、御蔵元京町出張手代″とも呼ばれていた。長崎屋の方は、早く京町を引払っているので、どの辺りにあったか不明だが、大根屋の方は明治初年の頃まで、今のフランスベットの店辺りにいた。

*註:フランスベットは現在のマキシム辺り
    大根屋さんは西銀が出来るまで角で旅館をなさっていました。




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日野屋こと常安家は初め、今のノグチ呉服店辺りに住んだらしいが、九右衛門の頃には、今の亀井洋服店から西銀に至る二倍を占めて豪勢なものだったらしい。九右衛門の活動の舞台は呼子で、中尾甚六と並んでその名は、唐津藩の領域を超え、九州の豪商として大阪辺まで聞えたものである。


註:ノグチ呉服店は現在のはぎお絣店、亀井洋服店は古賀家具の前、西銀は現在パラカの有料駐車場



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 京町には、大町年寄を勤めた糸屋草場家と、代々町医者を続けた平田屋草場家とがあった。糸屋草場家の本家は今の大塚フトンの新店辺りで、新家はその筋向いの竹屋辺り。新家の方も町年寄を勤めたりしたが家業は酢屋。この新家の屋敷はもと、椛屋と呼ばれた船問屋。


註:代々町医者を続けた平田屋草場家は平田屋の分家である。本家は平田屋薬舗。医者の草場宗益家は現在の古賀家具店、糸屋草場家の本家は今の大塚フトンの新店辺りとは、現在の大塚ふとん店前の空き店舗、新屋はその前竹屋とは現在のビーム。



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 平田屋草場家の本家は、今の古賀家具店辺りに住んだ草場宗益の家だが、横尾商店となっている草場清次右衛門家はその分家。呉服町で呉服屋をやっていた草場育之助・刀町の草場藤兵衛・魚屋町の平田屋薬店なども分家だが、同じく平田屋と号した京町の三浦家はノレン分けの別家である。


註:平田屋草場家の本家は、今の古賀家具店辺りに住んだ草場宗益の家、この記述は間違いで、ここは分家である。横尾商店は現在のマキシム?魚屋町の平田屋薬店が草場の本家である。三浦の場所に平田屋薬舗があったが、魚屋町に移転するときに同じ造りで作ったと聞く。



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 平野屋薬店と呼ばれた舟越家も町医者草場家と関係がありそうだが、水野時代には盛んであったらしい。舟越家の西隣辺に志戸家があったが、ここの屋号は油屋か、油屋喜左衛門という酒造家の名がみえる。志戸家は明治になって印刷所を始め、明治二十九年発刊の唐津新報もここに事務所をおいたが後、糸屋新家に移った。明治末の水火騒動の時には糸屋新家が水力派の参謀本部となっている。


註:船越家は古賀家具店の西隣、
草場見節の三男草場(山内)末喜が印刷業を始め、京町に一家を構え其の当時にありては新斬みちすな職業視せられたる印刷業を開業するに及び、兄弟皆学事に進むに鑑み、東都遊学の念願制し難く、遂に断念印刷所の経営を志戸昭三郎氏に譲り上京し、慶應義塾へ入学。
印刷業は草場(山内)末喜→志戸家→糸屋新屋へと変わっている。




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 於釜屋の岩下家は呉服町岩下家の分家と思われるが、ここの岩下勇左衛門という人は大町年寄格の待遇を受けている。於釜屋の筋向い、山内薬局のところが長門屋と呼ばれた吉富家。大塚フトン店のところは伊豫屋の松岡家だが、ここは後に壱岐屋ともいったらしい。松岡小兵衛は町年寄を勤めた。この辺りに松岡家と呼ばれる商家があったが、ここは後に油屋をやっていた松田家らしい。


註:山内薬局の所はトキヤ(研屋)の吉冨善兵衞で、長門屋はその父吉冨常左衛門と考えられる。長門屋は現在の京町中央の交差点南東部分。旧大塚洋装店の西側?



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 東の方をみてみみると、今の牧川書店の辺りが市丸仁兵衛の家。ここの屋号は明らかでないが糀屋と呼ばれたかもしれないフシがある。呉服反物の類を扱っていたらしい。尾崎履物屋辺が蝋燭屋の母里家。その東が金子屋の岡崎家、三州岡崎の出身とか。その東が鶴田屋と呼ばれた鶴田家、岩屋の獅子ケ城主鶴田家の流れといわれる。鶴田屋の前に吉野屋と呼ばれた石橋姓の船問屋があった。

註:牧川書店は現在の福花のビルの場所。尾崎履物屋は現在のシロヤマの西。



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 郵便局の辺りはもともと京町の領分ではなく、藩の御用地であり、字札の辻であった。今の局舎のある部分は大体空地となっており、橋詰の食堂附近にも勿論家はなく、札の辻惣門と呼ばれる門構があって桝形になっていた。
 局舎の本館裏辺りが土井の時代町奉行の役宅だったが、後に医者の保利文亮が藩立の医学館をここに設けた。医学館は廃藩後一時、志道小学校〜当時志道義舎とか志道学舎とも呼ばれた〜の分校として使われたこともあるが、明治九年には公立唐津病院になった。この病院も明治十八年には大名小路に移される。


註:郵便局は現在の札の辻公園。橋詰の食堂は「かき船」。医学館は橘葉館という。



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 郵便局がここに設けられたのは、魚屋町の山内久助が局長の時代で明治二十年頃らしい。それ以前の記録では八百屋町にあったことが知られるが、八百屋町から現在地に移る間一時魚屋町に開局されたこともあるらしい。


註:魚屋町の山内久助は東の木屋、管理人の曾祖父にあたる。



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 札の辻橋というのは、唐津築城以来の、外町と内町を結ぶ唯一の大橋だったが、明治三十三年に材木町筋に新大橋が出来ると、大橋といった感じが薄くなった。明治四十四年に鉄の欄干と街灯のともった新式の橋に掛替ったが、この頃町田川の大浚渫があって導水堤が生れた。


    覚
 兼々惣町の御為に相成候儀仕残しおき度き念願に存上候へども未だ不足のみに罷在侯へば存念の通りに行届き不申候
 然しながら表寸志はし候までにこの度七弐銭五貫目惣町へ之を進上し仕候御受納被下たく侯尤も相成るべくは右五貫目の銭お貸付被成れ年々その利銭を以て惣町にて難渋なる仁に御相談の上お救いつかはされ被下度候なほ又世間宜しくお救い用利銭より余り申候年は元銭におさし加えお貸付け被下べく候ように各各様お世話を以て遣々(ゆくゆく)は何卒銭高も相増し一際の御用にも相立ち申候ように相成侯へば本望至極に存上候(中略)
 すべて私身分不思義の念願なども数々相達し申候ように一生しばらくの中に罷成り本望に存上候
天明四年四月九日
 常安九右衛門保道
          押花

 写真は 常安九右衛門保道が唐津惣町に銀五貫目寄附に際し大町年寄や町年寄三十七人に宛てて認めた回章。和紙幅三二cm長さ、一八三cm。大町年寄筆頭石崎嘉左衛門・同森宗兵衛・同岡木善作以下面々。


註:は管理人吉冨 寛が記す
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