『末廬國』昭和46年12月20日刊 第39号より


 唐津の草場一族
“志摩さま”以来の由緒

    坂本智生

 唐津町の草場氏(平田屋)は、石崎氏(菊屋)、山内氏(木屋)などとともに、志摩さま″以来の由緒を誇りとし、その一族は、それぞれ数家に分れて、惣町の大年寄、居住町の年寄、組頭、或は藩庁の御用達、或は医師として、城下町唐津の貴族的存在であった。

 草場氏の出自は、鬼ケ城主草野氏に始まるという。鬼ケ城最後の城主草野中務小輔鎮永は、天正十六年八月、豊臣秀吉に疎まれ、筑前高祖の原田信種とともに、肥後の佐々成政の手下に移され、肥前の草野領は秀吉の蔵入地となって、佐賀の鍋島が代官を仰せつかり、筑前の草野領は小早川隆景に与えられた。原田信種は草野鎮永の実子、鎮永の嗣子となる鎮信は、佐賀龍造寺(鍋島)から養子に来た人、このあたりは戦国末の地方豪族間の政略が渦巻いている。

 ところで鎮永には一人男の子がいたわけで、その人を鎮恒という。鎮恒は、初め深江二丈岳城の奈良崎氏の養子となるが、原田草野の肥後転出後、平原村の草場に蟄居、のちに寺沢志摩守に仕えて二百石を宛行れ、その折、氏を草場と改めている。

 因みに、鎮信はのちに佐賀に帰って鍋島の家臣となり、信種は朝鮮役に従軍して戦死、その子嘉種は寺沢志摩守の家臣となった。

 鎮恒の子の永吉も寺沢氏に仕え、寺沢氏改易のあと、大久保氏が就封するに及んで、大久保氏にも仕えたが程なく致仕して市中に住むこととなる。この永吉に三男一女があり長男の永常は刀町に住して酒造を業とし、家号を丹波屋と称して、屋敷は現在の山口病院辺りであった。永常の妻は、新町河内屋(竹内氏)の娘、丹波屋という家号は、のちに大石町の酒造家にみられるが、はやく没落している。

 次男の義空は、初め本町に住し、のちに京町に移って平田屋と号し、呉服兼質商であった。屋敷は現在の西日本相互辺り、妻は同町内の平野屋(舟越氏)から。
 義空の子孫は鎮之、滋広、嘉根、嘉邦と続き、嘉邦の子が草場猪之吉。滋広即ち草場太郎左衛門は三十七才の時(明和八年)大町年寄となるが、十二年後の天明二年三月四十九才で死去、当時、長男の嘉根は二才で家業に従事できず、そのうち生活も苦しくなったので、京町の屋敷を常安九右衛門に売渡し、魚屋町に移って薬屋を開いたが、これが当って、のちには京町時代以上の富を築きあげた。嘉根、その子の嘉邦ともに、太郎左衛門或は三右衛門と称し、大町年寄を勤めた。

 草場永吉の三男宗益は京町に住し、医を以って業とした。屋敷は現在の古賀家具店辺り、妻は呉服町安楽寺から来ている。宗益の子孫は、豊顕、軌、敬、益太郎と続いて、益太郎の長男友次郎が二世見節。宗益の系統はそれぞれ、宗益または見節と称しており、益太郎は三世宗益ということであって、代々医業精勤ということで、苗字帯刀を許された。

 唐津町草場氏の大半は、義空、宗益両家の分れであったが、今日では、消息の知られる家も二、三に過ぎなくなった。

 草場猪之吉、草場見節は、いずれも郷土の先覚者として顕彰碑に合祀されており、その業績については冊子が刊行されているので、ここでは略するが、草場見節の嗣子草場栄喜と、三男で山内家(中ノ木屋)を継いだ末喜について少し書いておきたい。

 草場栄喜は見節の次男だが、長男が若くして没したので嗣子となった。明治六年九月一日の生れ。明治三十三年七月、札幌農学校本科を卒業。爾来、地方農学校教諭校長、岐阜高等農林学校教授、校長を勤め、昭和十年九月退職。在職中、「実用土壌学」「果樹園芸学」などの著書があり、退職後は、神道に道を求めて神宮皇学館研究科に入学、神祇と家格″なる論文を提出して業を卒え、神宮徴古館農業館顧問を勤めた。唐津に帰郷、大土井に十年余り住んだが、のち唐津を引揚げて間もなく昭和二十八年六月十九日、藤沢市鵠沼海岸の自宅で没した。享年八十一才。

 三男末喜は明治八年の生れ。幼い頃、母の実家山内茂兵衛家に養子となる。長じて山内末吉と改む。
 大成校を卒業後、京町で印刷業を開いたが、向学心やみがたく、印刷所を同町内の志戸銘三郎に譲って上京し、慶応義塾の理財科を了えて帰郷、たまたま父見節が唐津焼の復興を念願、試焼を重ねてようやく企業としての目論見ができていたので、これに全力を打込み、町田谷町に窯を築き、松島?(弥五郎)などを招へいして陶刻などによる新市場をも開拓せんと、多額の資金を投じ、東京銀座にも唐津焼の販売店を設けたりしたが、特殊な製品で市場も狭く、商法不馴のため経営も意の如く進展せず、奮斗のすえは健康を損うに至ったが、明治四十三年十一月十五日、三十七才で没した。

 今に残る「見節窯」
第二世草場見節のくらし


 草場家でいう第二代は草場永吉、第三代は草場宗益といって京町に住んで医業を営んだ。草場家ではこの第三代を医業第一代としている。医業第二代は豊顕といったが、実は宗益に子が無いため筑前黒田侯の家臣原田喜八の子が養嗣子となったのである。医業第三代は軋または義斎と称し、水野侯時代に独特の技術を認められ、官米一苞、御酒を賜わるなどの栄誉に浴した。

 第四代敬は、小笠原侯の時、医業特に精励につき帯刀を許された。医学ばかりでなく四書五経にも精通し博学であったが惜しむらく文政十年八月二十二日齢五十歳で卒去。
 医業第五代は益太郎といったが、のち宗益と改め第三代宗益となる。医術書の写本のほかに唐詩選、義士定論(浅見先生定論・佐藤先生異説・三宅先生両可説)の如きもあり、俳諧、古家歌集、許六の瓢の辞など丁重に写録するなど趣味の広い人であった。慶応元年七月十四日、五十四歳で卒去。

 医業第六代は第三代医業宗益の長男で第二世見節として祖名を継承した。

 草場見節は弘化元年(一八四四)二月九日の生れ。文久元年十七歳で熊本の旧藩医深水玄門に就いて七ヵ年間、漢法医学、特に内科を修業して帰郷、明治元年唐津市京町で医者を開業した。明治三年十月には、当時唐津藩の医学校であった橘葉黌の盟主に任ぜられたが、間もなく翌四年七月に唐津藩の命によって今度は肥後玉名郡立花村田尻宗彦先生に就て約一年間産科学の修業に励み、特に産科手術の奥義を修得して帰郷した。明治八年のころには、一般妊産婦の保養救護のため家伝薬を創製して広汎な分布と名声を博した。

 草場見節はかような状態で、当時産科医としてその名声は遠近に及んだが、明治二十五年には漢方医術の病院として九州一円に名声高かった熊本の春雨社病院の唐津支社を設置して自らその幹事となり、和漢医学講究会などを開いてその実績を発揚する一方、西洋の医訳書を渉猟しては医学の推移する大勢に順応していった。

 草場見節の父、即ち三世宗益は医業を営み、学者であり趣味人ではあったが、これという人気も出ず、医者としては貧困なくらしに明け暮れた。

 為に見節はその修業時代に学資がとぽしかったことが身にこたえたと見え、乏しきに耐えることも一つの家訓となし、日を卜して粟飯を炊いて家族みんなで食べる家風を作った。見節は肥後で医学修業時代に呼子の「捕鯨玉国」中尾甚六の援助を受けたこともあって、その後、落魄した中尾家の令嬢を養女にして恩返ししたこともあった。また子供たちの東京遊学に際してはそれぞれ一刀をあたえて魂となさしめ、卒業するまでは中途帰省を許さなかったほどの剛情な性格もあった。

 草場見節は名声高まるにつれ仕ごとは繁忙を極めたが、その代償としては財力は日増しにゆたかになった。六十二歳を迎えては断然医者を廃業して西の浜に別荘を構え、茶室を建てて悠々自適のくらしに入った。(現在の九電舞鶴荘)親戚知友を招待して盛宴を張るなど余生をたのしんだが、それも束の間、僅か一年余。明治三十九年九月廿八日、齢六十三歳で卒去。
 西の浜に別荘を構える以前にも京町邸内に茶室を建てて遠洲流の茶をたのしんでは茶器に興味を寄せ、唐津焼の研究にも頗る熱中していた。

 当時は、御用窯の「中里」も休業状態だったので、まず唐津焼の復興を志し、同志とはからって町田の御茶*?窯に日毎通っては中里十一代天祐に指導を請い、たまたま東京美術学校で木彫を修業していたという青年松島弥五郎の来唐をつかまえて、陶彫に手を出すなど、またロクロは三川内から雇い入れ、中里窯を借り試焼を重ねること前後九回にも及んだ。明治二十九年以後のことである。のちには中里窯から敬遠されたので大名小路の小笠原長世(大名小笠原家の一統)の屋敷に窯を築いて焼いた。今日、唐津焼のある時代の作品を「見節窯」というのは右のように草場見節の首唱によって杜絶えていた時代に製作された唐津焼のことを指すのである。この窯の出資者は草場見節を筆頭に小笠原長世。京町橘葉黌の学監であった保利文冥。銀行家大島小太郎の先考大島興義。大乗寺住職たちで各自の出資金は千円だった。−と中里十二代無庵の回想である。

 草場見節は、茶人としてもその名が知れていたので、小笠原流の指南番前場行景に就いて諸礼式を会得し、唐津礼式婦人会を組織してその代表者ともなるかたわら、笑山と号し俳句の趣味にも丈けていた。


宗益草場家系図譜

平成25年5月6日UP 「唐津やきもん祭 2013.4/29〜5/5」を記念して

秘蔵の写真公開



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