宗益草場家系図譜
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序言
孝の本拠たる「家」の絶対性は、我が国家の超越性にして、「家」の絶対性は「人」の霊的顕幽一体の信仰に基づくものである。されば「家」に背く者は国家に背く者で、「人」は感覚性の存在としてのみでは、人生なるものは解決し能わざるべく、「家」なるものも成立せざるものである。夫れ然り、祖先の家風家格を崇敬する観念は、是れ寔に人道の花たる、大和民族の性格を形成する基礎をなしつつ、「家」を尊ぶ精神は、実は国に殉する精神となるのである。されば家格は「家」の品格たり。性格であって、家名と家門は家長が家族と共に活動精励、家風家憲の事蹟を発暢。其の存在性が認識せらるることとなるのである。宜しく家系を重んじ、其の家格を向上、益々「家」の弥栄を期せねばならぬ。
我が草場家系図は、文政四辛己歳、六代の祖先第二世宗益(敬)之を著述せるが、譜序に曰く、
「印図于茲之家系者従我家之祖而上及大祖旁至親戚欲徴之垂不朽而数百歳之久不能無闕漏焉永久以上不審矣、姓藤原草野氏後改草場事審於焉且嘉根所述之譜牒可照見矣嗚呼歴代之久至于流裔恐忘故舊子々孫々承予業勿忽諸」 又概括的記述には、「草場氏元草野氏也。姓藤原往昔白雉年中之間筑後国御井郡草野之領主太朗藤原常門者、為長智勇而傳名於後世焉、*永之間子孫草野太郎永平者、源平之戦九国之諸家多属平氏、独永平随源家、有無二之忠勤、而鎌倉右幕下一統而後賞其功与舊領御井郡之城、於嫡子某而永平於肥前松浦郡賜別地焉今也松浦郡之邑各則後草野邑各也、是永平不勝右郷之懐而移之云、元弘之乱草野四郎入道圓種者属宮方、軍功依之賜綸旨云々、従是以下長洲永久君之間、累代之各跡未審故略焉」とあり。降りて明治二十二三年頃より、第八代二世見節、我が家系に於ける未審を正訂すべく、各方面に亘り之が資料を蒐集完整せんと努力し、浅草弾左衛門藤原氏由緒なるものを始め、上松浦郡南山邑功岳寺境内、草野姓廟藤原永久公墓法各併碑文写草野家系図略伝記、吉井合戦併草野来歴、萬歳山龍圀禅寺記録等を収拾せるも、遂に本意を果たすを得ずして逝去せらるるあり。不肖明治四十一年一月、島根県在職中帰省に際し、元春(敬)祖先の執筆にかかる系図を整理し、又第二宗益時代と推察せらるる綴冊子等に於ける、極めて趣味多き祖先の筆蹟を偲ぶべく、其の儘整頓調整したりしが、爾来推移今日に及べり。
余は先考見節逝去年齢を標準となし、予定計画の通り、昭和十年九月、六十四歳に及び、後進に途を開くべく、官途最後の公職、岐阜高等農林学校長及教授を辞し、幾多の憬望的育英理想を樹立し、京都嵐山桂川の畔、松尾山の麓邊に居を卜し、歸詠山荘と称し、農的特殊の自適生活を進むる。茲に六星霜を経過するに至れるも、愛弟茂一一家の不幸に續き、日支事変及大東亜聖戦の勃発等、国家的激甚なる大変異に遭遇、自然既往に於ける理想的企画の達成は、種々なる事情により、到底達成すること、容易の業にあらざるを、認識せざるを得ざる環境を形成するに至れるを、自覚せしを以て、客年以来、新規更生企画を念願し、退職後に於ける第二線的生活より、所謂晩年的第三線生活に推移すべく、人生行路の考察を樹立し、幾多討究を進め来れるか、昨春に及び、漸くにして腹案成り故山に帰復すべく、決意を得たるを以て、之が進捗の準備行動を開始すると共に、又一面、余は昨秋九月を以て古稀を、貞子は還暦の寿齢を迎え、共に頑強幸福に、又、更に加うるに、我等夫婦は末子宗雄一昨春、早稲田大学商科卒業と共に東都の会社に就職し、大体子供教育の予定責務も略々完結せる等、我が「家」の繁栄隆昌なる前述を祝福感謝すべく、之が行事の一として先祖祭挙行の前提たる、草場家系図譜を編纂整調、之を刊行領布し、記念に資することにしたのが、即ち本冊子である。惜しむらくは祖先第五代義齋は、博識の聞こえ高く、医術のみならず、当時に於ける政治経済文化に対する造詣深く、之に関し、ものせる貴重な写本記録等を始め、当時蒐集せる、和漢の珍貴すべき書籍の幾部は、不幸にして故山に於ける蔵倉庫の上棟腐朽落下に伴う暴雨曝露の災難により殊に宗益医始祖時代に於ける家系に関する貴重資料も、破滅廃棄の已むなきに至れるは、管理の迂遠疎雑ありしに因るべく、一言を附記し詑辞となすのである。
昭和十八年四月
五十有余年にして故山に帰復しつつ
宗益草場家第九代 詠歸識
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五代先祖義齋の「家」及び「業」に関する自警書
義齋は享保十八年より文化十年間在世八十一の高齢にて逝く太宰春経済録写本中より見出せるもの也
可守之覚
御善政。御上盛隆。御恩澤。下迄奉蒙安身住居仕。常難有奉存。上片時茂不可忘候。
御定法毛頭。祖父父巳相背申候覚無之。子孫至候而茂相違不可有候段厳希候。
越界問國之大禁入。
孝之一字専要也。仔事モ親ミ面目ニ縣候故、孝之心ノ有之者、悪不仕候筈也。孝ノ弟ハ為仁之本。
衣食宅ハ要物也。唯飢寒風雨ヲ凌候為ト存知。木綿布、廉宅疏食ニ而可足候
素富貴行乎富貴、素貧賤行乎貧賤
家業専可勤
医ハ仁術也。慾不可有候。時運ノ義可知候。
貧ハ君子之常也。
顧祖以下牌前日 可拝。祭神如在。
暇之時ニ論語孟子学可熟。其後ハ己之力ニ応可学。行有余力学文。
学文ハ道徳ヲ知為ニ而。文字ヲ知為ト申事ニ無段可存候。飯米之覚悟ハ第一也。
宅之瓦不落様ニ心可付。屋上雨不漏様ニ心可添候。壁不破様ニ可守也。
以上ノ事ヲ人ニ語ル。知タル事ヲ申ステ笑者有共、忘却者儘有之也。予正月朔日毎ニ家ニ於而申聞セ候
心不在焉視不見聴不聞食不知其味
右守来候趣也。
義 齋 草 場 軌 記
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家長訓
一、「すめらみこと」に帰一し奉る。わが国体の精華。肇國の精神に徹し、皇国民たること夢忘れざること
一、「家」は祖先よりの一家にして、又子孫代々の一家なれば、自己の一家にあらざるを以て、一意専心、家格家風の隆昌発暢を期すべく、遠き祖先の追慕報恩も、遠き子孫への愛撫訓育も、是即ち自己の尊貴と、自己完成の要鍵たることを自覚すべきである。
一、「家」は国家の基礎にして、個人の本拠なり。「家」は栄枯盛衰遷転すべきも、祖先の神霊は常に存在し、其の霊光は絶えざる家暦を生かし、惹いては、家長家人の動静行為に融合し、其の端高なる訓致は、家門の繁栄、子孫の継承を司掌する。
一、常時、時代進展の趨嚮に順応し、家風家憲の精神に生き、「家」を継ぐべく、業的人格の涵養に励み、清くして誠なれば、祖先の神霊に触れ得べく、所謂「神人一致」の心境は、偉大にして美妙。而も端厳なる「家」の精霊そのものとして、家人を訓化し、活動の源泉となり、以て絶えざる発奮、振興の基礎を固むる。
一、家長は祖先に対する重大なる絶対任務あるべき覚悟と共に、心的誓願の儀典に従い、創家累代祖先の神霊を祀り、千古長へに、報恩崇敬の誠を顯揚すべく、正確なる家系譜を整調継承し、以て神秘的祖先の恩恵加護に徹底すべく、認識がなくてはならぬ。
昭和十八年七月
従三位勲二等七十一老 第九代 草場栄喜識
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系図
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長寿之秘訣
予嘗観天下之人。凡気温和者壽。質之慈良者壽。量之寛洪者壽。貌之重厚者壽。言之簡黙者壽。蓋温和也。慈良也。寛洪也。重厚也。簡黙也。皆仁之一端。其壽之長。決非猛氏B残忍。偏狭。軽薄。浅躁者之所能及也。 (呉臨川)
欲治其疾。先治其心。使病者尽去心中一切思想。放下身心以我之天而合所事之天。則心身然心君泰寧。性地平和。疾病自然安痊。薬未至口病已忘矣。 (太白眞人)
心を和平に保ちて、敢えて激情することなく、常に楽みを失わざるを力むべし。 (益軒の養生訓)
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草野家は、中の関白鎌足の第十世藤原通隆より出て、累世筑後國に任す。嘉永年中、平家の一門都を落ち九州へ逃下の時、多くは平家に従いけるが、通隆より九代の正二位草野次郎太夫又但馬守永平は、終始源氏に忠誠を尽くし、殊に源平の戦には、源氏方として忠節を致せるにより、頼朝禄を賜り、文治二年閏七月廿六日、筑後國在國司押領職不可有相違旨。勅許を蒙り、同年十二月、肥前國松浦郡鏡社司職に補せらる。此の時より、草野家は両家に分かれ、嫡家は筑後國に留まり、永平*子は松浦に移り鏡城に居城す。其の後数代を経て、弘安四年蒙古合戦の時、草野次郎太夫貞永功労により領地増加せられ、深江の二重岳城を築けりと云う。
其の後、世を経て、草野長門守永久に至る。永久の弟二人あり。一人は草野和泉守にして、松尾城に居城せるを以て松尾氏とも云い、他は草野次郎大輔にて、二城岳に居城し青木氏とも云えり。 |
藤原永久
武治の長男にして、草野長門守正二位草野次郎大夫上松浦郡草野郷七百余町之領主也。
居城は松尾城。引地城。或いは楠山に居城す。共に五反田村にあり。
配は多治見伯耆守の女なり。
天文二十二年壬子八月十一日逝。謚して勝運院殿功淨勲大居士。塔廟南山村功岳寺に有り。
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鎮永(シゲナガ)
正二位草野次郎大夫号中務大輔。世に草野宗揚と云う是なり。二重ケ嶽に居城す。
鎮永実は筑前怡土郡高祖城主、原田劉雲軒 栄入道の三男にて、次郎種尚之弟種吉也。
永久無嗣子。因て養子となせる也。永久の弟。松尾和泉守直永の女を室となす。而して原田家草野家故有りて無嗣時は、嫡よりも継と云う約ありしと云う。
豊臣秀吉公朝鮮征伐之砌に、故有って改易。領地を失うと云い、或いは僅かに領地を賜うと云い、其の実不詳とあり。然るに天正十五年、秀吉公征西の時、五島大村草野等、筑後高良山の御陣に参ず。九州平定の上、上松浦草野の郷は、草野中務太夫に給うとあり。然らば城陥にはあらず。筑後に行て帰陣せし故、秀吉舊領の内を与えられしもの也とも伝えらる。又其の以前、天正元年に、竜蔵寺隆信松浦を征す。正月元日鏡城を攻む。城主鎮永戦に利あらず、筑前に落去す。
原田信種は実父なれば、急ぎ城に呼び入れ、竜蔵寺と和解せしむとも伝えられ、審かならず、。
元和三年丁巳二月九日逝。謚。融光院殿梅岩宗揚大居士。功岳寺境内に在るは之が石碑なり。
(註)先祖敬の記述によれば、鎮永は従五位下朝 大夫号中務大輔とあり。本文は青木氏蔵する草野系図に因る。 |
鎮信(シゲノブ)
鎮永は実子に跡を譲らざりしは幾多の事情に因るべきも、竜蔵寺隆信の三男、竜蔵寺三平を長女に養子と迎えたり。是草野三平鎮信なり。蓋し隆信鎮永間にありて、和睦上よりの理由に因ると伝えらるるも審かならず。其の他鎮信に関する記載なきは遺憾となす。
草野系図略伝記によれば、草野家も鎮永以来は、或いは諸侯の臣たるものあり。或いは他家を継承せるものあり。或いは氏姓を替えるもの頻繁にして、三平鎮信の如きも、異氏を継げる一人たるべく、尚青木民部少輔永光、青木*(采女)、青木仔勢丸、青木直永等、居城始末等不可知云々として記述なし。
我が草場家としての第一代たるべき鎮恒の如きも、氏姓を草場と替えたるものにして、永吉を経て、永常、義空及び我が医業の始祖宗益にありては、全く庶民に下り業を営み、義空の如き或いは商家として新系統を樹立するに至れり。
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第一代
鎮恒(シゲツネ)
草野五郎鎮恒は、始め筑前怡土郡深江二城嶽の城主。奈良崎備前守永祐入道淨香の養子となる。淨香為和睦其娘を以て鎮恒に嫁せしむ。同郡吉井の館に居住す。後松浦郡に帰りて平原村草場に蟄居す。而後に、唐津の城主寺沢志洲候に奉仕して待臣となる禄弐百石を賜る。其時氏を草場と改む。吉井村に陣屋跡ありたりと云う。延宝七年己未十一月廿四日卒す。謚。慶室涼賀居士。墓長得寺に有り。
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第二代
永吉
久兵衞と呼び、寺澤家の臣下なり。
寛永十五年。天草の役に際し寺澤兵庫頭堅高候に随い、彼の地に到り戦場に臨み、城乗取等の始末書を起草し、後上書せる由にて、其直筆の書、嘉根の家(猪之吉氏祖先)に寶秘せらる。戦功著大なりと云う。
寺澤家断絶に及び、處士となり、後に大久保賀州候に仕え又程なく致仕せり。
寛文六年丙午九月十二日卒す。
謚。月江秋圓居士。墓長得寺に有り。
配は、寺澤家の家臣大久保儀左衛門之女にして、名を百子と云う。九十余歳にして卒す。時は享保四年己亥十一月十五日。謚して繁室妙昌大姉。
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亥開和尚
覚譽上人。亥開大和尚。何寺の住職なりしか追って穿鑿すべしと。敬祖記述せらるるも不審。
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永常
庄左衛門と呼び、商家となり、唐津刀町に住す。酒造を業となす。家号を丹波屋と云う。現時喜田氏の屋舗也。
謚。江山松月居士。墓長得寺に有り。
配は新町の住、河内屋と号し、竹内弥市良入道行心の女にして元文三年戊午八月八日卒。謚。圓心妙意大姉。
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義空
初め市右衞門と呼び、後に太郎左衛門と改む。初め唐津本町に住し、後京町に転宅す。家号を平田屋と改む。丹波屋の二男なれども、別に自立して蒼創し、新に号を改めたるものかは不審なれども、当家の元祖たるは義空に帰すべし。呉服を売り、旁ら質を屋業とせり。其の時、松平泉洲候の時代にして、京町の長と成り、為人質素にして家業を専らに、貨を殖し、草場家の為に大功ありし也。故猪之吉氏の祖先なり。
享保十八年癸丑四月五日卒す。齢七十七歳。
謚。一超義空居士。墓長得寺に有り。
配は、船越氏の女、即ち京町平野屋の別家也。(延宝元癸丑歳生) 延享二年乙巳八月廿七日卒す。七十三歳。謚。厚屋智恩大姉。墓長得寺に有り。
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清素
善兵衞初め市郎兵衞と呼べり。享保六年丑閏七月九日卒す。三十一歳。
謚。清雲素涼居士。墓長得寺に有り。
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重知
清次右衞門。後に善右衞門と改む。京町に別家して街長となる。宝暦十三年癸未五月十二日卒す。
謚。實容素朴居士。墓長得寺に有り。
配は、筑前福岡の家中の女にして、享保十一丙午十二月に卒す。
謚。単如妙勇信女。
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鎮之
兄清素早世して嗣子なし。依て本家を継ぐ。
土井候の時に京町の長となり、若冠より老年に至る。又御封内造酒の長役を兼ぬ。為人質直にして、礼譲を重んじ、愼深にして人を憐む。古語に云う、
「非徳不行見眼前之小利被徳」とは、敬先祖の記述にして、尊敬の意を表せる大句なり。元禄九年丙子歳に生まれ、明和四年丁亥八月四日卒す。齢七十二。
謚。宝山道居士。墓長得寺に有り。
配は、同姓宗益の長女。名は初子なり。宝永三丙戌年生まれ、安永四年乙未三月廿一日卒す。齢七十歳。
謚。桃岳理仙大姉。鎮之に二男三女あり。女子早世せり。
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滋廣
幼名太蔵。又太良次。後に太郎左衛門と改む。
水野公の時代なるか。齢三十七歳にして総街の長に命ぜられ、役名を「大年寄」と云う。二字両刀を赦さる。役に居ること十有二年。天明二壬寅三月卒す。齢四十九歳。謚。瑩嶽春茂居士。配は同姓見節の女にして菊子と云う。不幸短命。明和元甲申七月七日卒す。謚。明室圓珠大姉。墓長得寺に有り。
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祐甫
幼にして吉次と呼び、後庄助と改む。別家して京町に住す。松岡次郎兵衛の次女を娶る。
元文三戊午年に生まれ、寛政十三年辛酉正月七日卒す。齢六十四歳。謚。南翁祐甫居士。
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根廣
茂一郎と呼ぶ。是則滋廣の三男なり。庄助に嗣子なし之を養子となし其の娘元子を之に娶らす。
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嘉根
幼名万蔵。後に三右衞門又太郎左衛門と改む。明和八年辛卯二月十二日生まれ。十二歳の時父に別れ、幼年にして家業ならず。遂に家貧しく拠なく京町旧家を常安某に売り、魚屋町に家を買い転宅し薬肆を開き、漸くにして家富み、新宅を作り京町旧家に勝り繁昌す。京町に住する時、京町の長となり、それより「大年寄」の役を水野候より小笠原候に至り、役勤の功により褒賞を賜ること数々なり。
敬先祖畏敬して「是積善の余慶にして其の身に於いては孝と云うべし」と記せらるるあり。
配は大川野吉田氏の長女名は敬子と云う。
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根陳
幼名角蔵。後次郎助。大石町綿屋新兵衞嗣子なく往て嗣となり、新兵衞と改む。
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第三代 医業一代
宗益
宗益は号なり。分産して別家京町に住し、医を以て業とす。是則我が家に於ける医業の始祖なり。
之よりして世々其の業を承けて産となす。万治三年生まれ。寛延二己三月廿九日卒す。齢八十八歳。(紀元二千四百〇八年) 謚。養庵宗益居士。
配。呉服町安楽寺の女也。寛保二壬戌三月十四日卒す。齢五十五歳。謚。釈尼*(玄少)智。墓安楽寺に有り。
詠歸曰く、我が家医の始祖宗益時代は、史に徴するに東山、中御門、桜町天皇の御世にして、養生訓の著ある貝原益軒。医として名ある後藤艮山の在世。又清医趙湘陽の来朝を見たるあり。而して其の当時にありては、医術を学ぶは容易の業にあらずして、医は所謂漢法なるが故、勢い漢文漢学に精通するの要ありしなるべし。従って医師は概ね儒者として其の知能を発揮せるもの頗る多し。我が始祖宗益は号也と記せらるも、初名性格履歴などの記述として伝えらるるものなきは、之を知るに由なく、極めて遺憾に堪えず、而も八十八歳の高齢を以て逝去せられたるは、健康上極めて稀なる事実にして、凡人の能くせざる処なれば、心身共に健康にして、平和温厚なる性格など窃に推測するに難からず。又一面、配として其の当時名声高かりし安楽寺より「くす」女を迎えたるが如き、高僧などとの交情をも推察するを得べきかなと。徒に創造を逞うしたのであった。 |
第四代 医業二代
豊顯
見節と号す。実は筑前黒田候の家臣原田喜八の子也。宗益無嗣子来て継業す。戸谷子を以て之に娶す。
土井候の時、医術経験多く、成績優良なるを以て捧米五口を賜る。天明六丙午十一月七日卒す。齢八十七歳。(紀元二千四百四十一年)。長得寺に葬る。
謚。密翁豊顯居士。
見節の妻、戸谷子は、為人貞而守節賢婦として名あり。
正徳三癸巳生まれ。寛政二年庚戌八月廿日卒す。謚。松屋貞操大姉。長得寺に葬る。
(附記)見節の母即原田喜八の妻は博多芳屋庄兵衛より出て、享保十八年丑八月廿五日卒す。謚。美譽妙慶信女。博多の竜宮寺に葬る。父即喜八は享保十巳八月廿二日卒す。積譽遊慶居士と謚し墓同寺にあり。
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第五代 医業三代
軌(義齋)
義齋名は軌。字は伯容。幼にして友彌と呼び、弱にして道益と号す。
「為長博文的礼好書読和漢紀事不侫仏学医於原氏」。水野候の代に義齋齢八十歳の時。水野候一國養老之礼を行われ、八十歳以上を沙汰し、考も亦其の中に在り、於官府米一苞を賜る。又御酒を賜る。其の杯器は別に之を蔵む。独特の医家として技能を発揮し、其の名を博せり。享保十八年癸丑歳生まれ。文化十年癸酉五月二日逝。齢八十一歳。(紀元二千四百六十四年)。
配。名は曽与子。松岡次郎兵衞之女にして、家号伊豫屋と称し京町に住す。一男敬を生む。文政八乙酉六月十四日卒す。六十九歳。謚。白峰妙蓮大姉。同寺に葬る。
(附記)義齋医術の師は、原尚庵にして、当時土井利里候之医官たりし人なり。後儒官となる。尚庵は伊藤仁齋の門人にして、医は山脇道作に学ぶ。土井公移封に従い、後に平安にて私断を見すと云う。姓は源氏。瑜公瑶は字なり。
明和四亥九月四日逝去。齢五十歳。江戸吉祥禅寺塔頭に葬る。謚。見了院別外慶天居士。
義齋に関する逸話一二
「其の一」敬(第二宗益)記録。
「義齋弱冠の頃原先生に従学す。常に和漢の記事を読むことを好み、凡て書を読む時、日暮れになれば縁先に出で、冬日の寒さも厭わず、食を忘れ、不驕不貪。戦々兢々。既に死に至るまで、身に軽衣を着せず。口に美味を食することを好まず。人珍味を振る舞うと雖も、敢えて甘とせず。脈を乞うことの不敬なる時は、富豪と雖も不屈。経験ありと雖も敢えて人に語らず、医は素仁術なり。功ありと雖も言うに足らずと云うて、人に語ることを好まず、賤卑に安んじ、仕官を欲せず云々」。
碑陰に。
是草場義齋之墓也。先生名軌。字伯容。義齋其号也。以享保十八年癸丑七月十二日。生於唐津府京坊。娶松岡氏。生一男。為人謹慎。重厚。非皎々霞外非汲々勢利自淑不貧声名焉而已。家世脩医其術甚至矣。此故英萃外発声名亦籍甚矣。
文化十年癸酉五月二日卒。春秋八十一。以長得寺境内為壽城。銘曰不随死亡不待生存。斯此仁術臨碑可原。
世 重 遠 撰 之
孝子 草敬 建 之
「其の二」二三の詩
淤松川側
松覆河北宅春溝樹林中明鏡交雲白彩虹対日紅詩成玄海色酒碧蜻蜒風処々多佳景親明亦不空
遇豊後義翁宅
誰道山翁厭草廬柴門近日俗人疎*(テヘンニ康)棠花准黄金色紅葉照衣錦不如
「義翁初は冨み今貧し庭機と棣堂あり。賞すべし云々と附記せらるるあり」
避暑山寺
聊厭塵中雑因憐法侶情時忘炎熱若
自有冷風生池廣芙蓉秀 山明薜蒻
過寺
一與高僧雑怱忘倍士情、只聞除徳厚偏欲覚無生
同友入虹松原
虹紅春日夕 載酒入松間撫子頗能語渾似醉者顔
某壽筵
神仙延壽酒 飲尽一身強君慕蓬莱客可期千歳長
読菅家文章有感
仰高神徳美自似宝珠清遺草々猶在累代道益明
詠鏡山孤松
孤松長鏡山深春色将開池水濤萃蓋影疑黄鶴
寒声自混老*吟
孤樹参天黛色奇山中巳老紫龍姿今冬風景時難昼
非是子雲誰得詩
歳晩
病客年之苔**(クサカンムリに鹿土)而今二十有余春近来惟悴慵時事
首歳恐驚白髪新
乙酉元旦
川邊雲樹照高台雪尽園林絶景開蜻蜒山頭双
鶴集漢津城上一鴻廻天明幽鳥含花去、風声親明
載酒来兄弟喜春新暦日 屠蘇傳飲醉紅来
義齋「読書を好み博文」云々と記述せらるるが如く、独り医書のみならず、其の方面廣く、読書せば之に関し意見感想等を紙片に記入し、特殊の書類に就きては、之を又写本せるものなきにあらざるも、法帖を模すること極めて尠きが如し。
されば義齋の筆記記述せる紙片的の綴冊子は、暴雨の災難により破滅せるもの多く、又現時最も恰好の記念として興味多きは、感想録或いは特殊日誌とも称すべき、義齋先人の読書其の他。而も晩年に於ける随想執筆せる、所謂義齋式とも称すべき、片々たる楮帋に任意筆にまかせて、記述せる綴巻数冊にして、三世宗益貴秀先人が、「此の本乱破散敗予補之以重寶而已」と註記して整理せられたるものの如きは、義齋先人の博学にして各方面に亘り如何に鴻儒なりしかを偲ぶのみならず、其の時代各界の実相趨嚮か、義齋先人の心鏡に映せる現象を窮知し得べき、貴重の遺書として一層の妙味を惹起させるのである。現在我が家に蔵せる閑散余録(上下二冊)の下巻の如き、享和二年壬戌十二月写之とあり、而して之が内容は、仁齋、東涯、木村源之進、徂徠、南郭、冨春(田中省吾)、水足平之允、山田大佐、兄宇野三平、弟宇野士朗、武子忠、松子潤、台廟謚号、東野、春台、石川大山、元政、雪山、廣澤、織田梅笑等に関する記述である。蓋し恰適な記念物であり。
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辨教(僧)
浄泰寺辨智和尚之弟子となり、為修学東都芝増上寺の塔頭花岳院に遊ぶ。不幸にして短命なり。
元文三戊午に生まれ、宝暦八年戊寅十月十一日*(シンニュウに十)化す。齢二十一歳。同院に葬る。
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敏
字子行玄壽と号す。別家して材木町に住む。医を以て業となす。寛保三癸年生まれにして、文化十三丙子十一月七日卒す。
齢七十四歳。謚。鶴量玄壽居士。長得寺に葬る。
配は材木町より迎え、二女を産む。長女早世。次女を安子と云う。
嗣子なきにより材木町伊兵衞の弟茂兵衞を養子に迎え、之に娶らす。現今東京在住草場仙之助氏は其の後裔なり。
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第六代 医業四代
敬 二世宗益
字。子信。幼名を友次郎と呼び、後宗益と号す。医を筑前艪元原先生木邸徐莽に学ぶ。小笠原公の時、医業精勤につき、二字を免ぜられ、又二年を経て帯刀を許さる。
佐渡守公之時也。候有病侍医療養効少なし。於爰敬に拜診を命ぜらる。后執匕を命ぜられて、即ち薬を調進し奉る。候之病平快を得たまう。(病症治方記別に記述す)。
依之扶助地を賜るの上意ありたるも、敬辞して之を不受。因って御垢着御服を賜るの上意あり。其の時敬病臥不得受月余。不癒遂に文政十丁亥年八月廿二日卒す。(紀元二千四百七十八年)齢五十歳。謚。厚道宗敬居士。長得寺に葬る。
配。名は熊子。刀町喜田氏米屋又吉之養女而。実は天野氏の女也。(天野氏は水野候之大夫水野平馬君の家老にして天野氏常名を十蔵と云う)。安政四年六月十一日卒す。謚。壽室貞厚大姉。同寺に葬る。
二世宗益元春は、性敦厚にして、深*(サンズイニ冗)。医業は昌歴堂と称し術極めて堪能。其の名高く、又父義齋に似て、博学なる。独り医学のみならず、各方面に亘り研鑽。趣味に富み、精励なる。其の当時にありては書籍の購入困難なりしかば、医書の如きは勿論、四書五経、其の他特殊著述に関する写本の今日に伝えられるもの極めて多く、其の数々たる勤勉努力の至大なる、只営驚異を感ぜざるを得ない。「周易経略徴解」なる著書の如きは冠弱時代のものなるが如く、惜しむらくは、造詣の博識、愈々実地熟達発揮されんとするの時、不幸僅かに五十歳にして幽明処を異にせられたる。実に悼痛悲哀の情に堪えず。噫。
敬の教育は、父義齋の頗る意を致せるは、医の師たる*(魚廬)先生より義齋への書簡。又は義齋より遊学中の敬へ送れる詩文などにより、之を窺うを得べく、又*(魚廬)先生の医術教授に熱心なりしかば、修行後に於ける先生の書簡に徴っして之を知るべく、而も先生の独り医術の師たりしのみならず、「人としての修養に意を用いられたる、敬の写本中にも其の方面のものも尠からざるのみならず、*(魚廬)先生の元春の需めに応じて贈られたる下の所謂座右の銘によりても明らかなり。
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陳孔璋曰、逢人只説三分話、未可全抛一片心、人鎮不與我相好、花鎮無與春盛開、昨友今日寇誰、昨花今日塵埃、門内有君子、門外有小人、門外小人至、人間私語天聞如雷、暗室欺心神月如電、謹則無憂、忍則無辱、静則安、倹則足、食舌味多則終作疾、快心事過、必為殃、愈々要如臨敵曰、心々常、似過槁時、得忍且忍、得戒且戒、不忍不戒小事成大事、掃除自家門前雪、莫管他人屋上霜、慮巳不管他、終身無過、忌巳管他、非則火焔中苦投身、出門如見賓、入室如有人、抽大忠則如無忠、持大理如無理、君許*?臣言則其国易已。夫畏妬婦*則其家必傾、逢槁項下馬有路行船、不遠危不愼殃則憂患不離身、右不知出向書、余昔年観人見友元之所書、其文章者余不知也、然言々切実、有要行之無窮、所謂日用之間須更不可離者也、書応草元春需。
寛政十一年己未仲秋日。 六十翁 徐*(クサカンムリ+合+廾:いおり)
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敬二世宗益に三男四女あり。長女廣子次男敬三郎及び四女常子は早世す。 |
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縫子
敬の次女にして大石町綿屋新兵衞小島家に嫁し。
麻子
敬の三女にして呉服町瀬戸屋源助峰家に嫁し。
才五郎
敬の三男にして元政九丙戌十二月六日生まれ。宗右衞門と改名す。東の木屋山内久助長女久子の養子として山内家に入籍す。而して一男一女をあげ、長女愛子は米屋町古舘庄助氏に嫁す。則ち古舘家先々代正右衞門氏の配にして、先代正右衞門氏(常次郎)及び九一氏の御令母である。
長男久助氏は、西の木屋を継承せられた先代小兵衞(勘蔵氏)の尊父にして、現在東の木屋にありて、八十六才の長寿を迎えられ、今尚矍鑠たる「かね」子母堂は、実に其の配たり。芽出度き極みにして可慶祝也。東の木屋は現代久助(音次郎氏)及新進有為の俊美氏を迎えて家運彌々盛なり。 |
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第七代医業五代
三世宗益
幼名友次郎。壮年に及び益太郎と呼び、後宗益を改む。医業に及び礼和堂貴秀と号し又允彦明後又允執中とも云えり。
医業精励につき二字を、後帯刀を許さる。
慶応元年七月十四日卒す。謚。旨徳院儀道宗益居士。齢五十四歳(紀元二千五百二十五年)長得寺に葬る。
配。新堀心城坊松本松倫氏の三女にしてみね子と云う。明治十一年八月十四日卒す。謚。眞鏡院儀室眞圓大姉。
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我の医家は、先考見節時代にありても、一般に宗益様と呼ばれ、名声遠近に傳わりたるは蓋し医一代宗益より、二世宗益三世宗益として医業連続せるが為なりと云うべし。
三世宗益、允執中、性温和渾厚にして、敬父に従い医術を学ぶも、又竹坪後藤先生に就けるは、古方抄録なる医書、姫路神田直吉愚。唐津草場貴秀子蘭共輯著書に門人として署名せると共に、師として竹坪先生の校閲せらるるによりて之を知るべく、執中の遺せる医書の写本も、又尠からざるも、写本中には又唐詩選全編の如き、義士定論(浅見先生定論佐藤先生異説三宅先生両可説)の如きあり。又雑記帳内に謄写せるもの山水譜。諸抄註釈之詞抜粋、俳諧二十五箇条、通題古家歌集、瓢の辞、(許六)示曽古鏡辞、(李由)芭蕉翁。紫門辞、許大射御辨等。丁重に写録せることより、其の趣味方面をも推察するを得べき*。
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第八代 医業六代
二世見節
第三世医家宗益の長男として。弘化元年(紀元2504)申辰2月9日生る。幼名を友次郎と称し、壮年に及び見節と改む。蓋し医祖先見節の二世として祖名を継承せるものである。
文久元年辛酉8月より明治元年戊申10月に至る7ヶ年3ヶ月間、肥後白川県熊本旧藩医深水玄門先生に就き、漢法医学殊に内科を修業帰郷し、明治元年戊申11月唐津京町に於いて医術を開業す。
任盟主。明治3庚午閏10月。唐津藩。橘葉黌
申渡。 其方儀医学寮世話方申付候ニ付帯刀差免候此上医生引立方丹精相勤可申候此段申渡候。 庚午 市井少属 印
明治4年辛未7月元唐津藩の命を奉し、肥後国玉名郡立花村田尻宗彦先生に就き、産科学を修業。同5年壬申4月殊に産科手術奥儀を修得帰国す。
申渡 其方儀産科為修業熊本藩に被差遣候。此段申渡候也。未4月28日
免許 京都水原先生産科母子両全探頷術奥儀令皆伝候也。
明治5年壬申 首夏 田尻宗彦有文 印
見節其当時に於ける、所謂産科医術の新知識と、手術奥儀を会得すると共に、熱心に産科学の実地及研鑽に励み、年次熟達。之が手術上、新方面を開拓進展せしめ、明治8年頃には一般妊婦の保養救護に資すべく、家伝として水原流による、産前産後薬を創製し、開業中は継続領布し、広凡なる分布と名声を博せり。其後「水原流探頷秘術図説及器式」を著述し当年医界に発表。独特秘術の気勢を挙げた。されば産科医として其名遠近に高く、就中肥後殊に山鹿地方より来って数旬或は年余滞在実地探頷術の教へを受くるもの多く、繁昌を致せり。其得意とせる水原流産科手術の熟達せる、極めて難産を能く救助し、幾多の感状に接し、今尚我家に蔵せる小笠原明山公の掛軸の如き、鈴木某。公より拝受のものを、特に感激寄贈せる旨記されている。
又見節独り産科方面のみならず、内科にありて特種の病症治療には、能く著しき効果を揚げ、患者の喜悦的満足を得たものと称せられたのである。
医書としては、弁太陽病脉証弁治に関する著述の如きは、傷寒論中の一問題に関する解説なるが如く、水原家方秘録の如きは、深水先生伝授の治療に関する実験談である。其他弁陽明病脉証弁治の写本6冊の如き「他見堅禁」と記されている。
明治25年1月には、漢方医術の病院として名ある熊本春雨社病院唐津支社の新設せらると共に、幹事の嘱託を受け、或いは和漢医学講究会あとを開会し、漢法名医の来講来診を求め、其実績を発暢し、一面にありては、当時漢法医の大家としての待医、東京浅田宗伯先生の名声綽々たる実績に鑑み、西洋医学の普及に伴い、漸次漢法医の頽退を嘆し、漢法医学の内科的比較研究と共に、漢法医術の順応的刷新に努力せるも、大勢既に推移し、法的にも順応を得ざるに至れり。
輓近漢法医学の一部的再興は、種々なる意義にありて面目を新にし、京城医科大学に於ける之に関する特殊研究の如き、斯界の注意惹起せられ、近くは京都の地にありても、黒川博士の如き、漢法の医薬を実用、優良なる成績により其名声喧しき一二の事象に想致せば、蓋し漢法医学没落に於ける一抹の惜劇であったと共に、見節先考に対し敬意を表せざるを得ない。
見節62歳の頽令を迎ふるに当り、特に西の浜に別荘を新築すると共に、晩年趣味の唐津焼の紀念領布など、新戚辱知に感謝的なる佳祝を挙ぐると共に、断然医業を廃し、悠々自適余命を楽しみつつありしも、尚幾多の理想を果たさず、明治39年9月28日、齢63歳を以て逝去せり。(紀元2565年)西寺町長得寺に葬り。謚して洪徳院実翁笑山居士と伝えり。
東松浦郡及唐津市教育会は、皇紀2600年の記念事業として郷黨千載不朽の徳を慕う亀鑑を画せられ、先覚者顕彰碑を建設せらるるに当たり、先考見節も加祀。先覚者の一人として年次慰霊祭典の光栄を得たるは欣幸となすのである。
性行逸事の一二
資性温籍、能く謹勤。草場家を復興繁昌せしめ、公事に努力貢献した。見節の父三世宗益は医業を営みしも、家極めて貧にして、見節肥後へ医学修行中は、自然学資乏しく、苦学の悲痛は深く骨に銘せるに基き見節の子弟教育に、資材を惜しまず熱中し、能く六男凡てを訓諭発奮。高等教育を受けしめたるが如きは、自己昔時の苦学追想心理も、慥に其一要素だと思われる。況んや繁昌せる家庭にありても、時日を卜して、特に粟飯を炊き家族一同之を喫せしむるが如き家風なと。「治に居て乱を忘れず」「富んで貧を忘れず」の一家訓として厳守せんが為にして、又我家繁昌せし時、嘗て肥後医学修業時代に呼子の水産家たり資産家として名ありたる中尾甚六氏より、援助的恩恵に浴せることありたる由縁により、中尾家落魄し、今や令嬢は熊本にあるを聞くや、昔日の感銘禁じ能わず自ら熊本に至り捜索し、伴い帰りて、我が家の養女として教養せるが如き、性格の一端が窺われるのである。
志操廉隅なるが故に、自己の慰楽となれる囲碁の如きも、職務的に不可なりと確信すれば、全然之を廃棄するに躊躇せざるが如き熱をも有し、子供の東都遊学に際しては、一刀を与えて魂となし卒業するまでは決して中途帰省を許さざるが如き、往々にして厳属の偏性もあった。されば壮年時代にありては、業務そのものの外、所謂道楽趣味は極めて乏しかりしも、漸次業務の多忙を加るに当たり、休養慰安に留意し、多年に亘り頼山陽の書体を学び、一角の能績を挙げ、或いは俳句を学びて笑山の名を恥ずかしめず。謚名にも附せられたるが如き。或いは興味の読物としては、武勇伝殊に太閤記の如きは、最も好めるものにして、就中遠州流の茶道は、太田清翁等により修道し、之が趣味は、晩年に及び、漸次に昂進。時に遠く師を京に迎え、或いは京町邸内及び西の浜別荘に茶室を設け、惹いては茶器に対する嗜好は、自然陶器古物の蒐集趣向を増長し、遂には能く古からつ物鑑定識別の知能を発揮し、進んでは、全く廃滅せる古唐津焼の研究となり、之が道楽は自ら特殊唐津茶器を始め、各種唐津焼を製作するに至れり。
かくして唐津焼の復興を念願するの動機となった。唐津焼沿革調査の記述に際し、其の緒言に、「余唐津焼の沿革を知らんとするや久し、されど其依りて取り調ぶべき書類なきに苦しむ自ら処々を探索し参考物書を集むる茲に二十年の久しきに渉り漸く一編を構成するを得たり云々」と記している。
明治29年同志と唐津焼の再興を企画し、私財を投じて試焼を重ねること9回に及び、其の結果良好なるを慥め得たるを以て、之が産業的完備を図るべく、補助願を佐賀県知事に出願する等、唐津焼再興上幾多の功績を認識せらるるに至れるが如きは又其の性格の一端と称すべき歟。
見節晩年にありては、茶人として其の名高く、諸礼儀殊に小笠原諸礼などを調え、明治35年頃には、礼式教師の前場行景先生に就き諸礼式作法を会得したるが如き。されば唐津礼式婦人会などの代表者として力を致せるあり。其他公私逸事の記すべきもの尠からざるも、要は資性の温籍にして、而も謹勤志棟の廉過を、時代的環境的に発現せるものである。
其の二
「本草綱目に就て」。明治25年和漢医学講究会に於ける講演の概要として遺されている。原稿の一端
*******先づ本草の大意を述べれば、本邦では太古神聖医事を創設し賜い、大巳貴命と少彦名命が、之れが緒を開かせ賜える本邦医事の祖先とも云うべく、国史略によるも二命。病を療し医薬を定む云々とある。又「大和本草」の序中にも、本邦太古百薬を嘗め疾病を治する者あり。但しその事を聞いて其緒を見す。果たして本草を作り物を弁し性を識る者ありしや。その名を聞いて未だその書を見ずとあり。*****此等の事実によりて、?焉たる太古を今世より推せば、医事方法は慥に存在せしものなれども、遙遠となれる今日なれば、姑く之を措くも、目下現然たる漢土炎黄の本草を説ける。本草綱目序中に、神農百草を嘗め、有害無毒を知り本草を作る。*******本草経三巻を、上経、中経、下経と区分し、君臣佐使を以て各々其主なる処を弁別せるもので、上薬一百廿種を君となし、命を養うことを司り、以て天に応ず。毒なし多く服し、久しく服して人を傷わず。身を軽くし気を益し、不老延年せんと欲する者上経に基く。中薬一百廿種を臣となし、性を養うを司る、以て人に応す云々****毒なく毒あり其宜しきを斟酌し、病を遏め虚羸を補わんと欲する者中経に基く。下薬一百廿五種佐使と為し、病を治することを、司る、以て地に応す。毒多し、久しく服すべからず。寒熱邪気を除き、積聚を破り、疾を癒さんと欲する者下経に基く。******三経合して三百六十五種である。此の三経を神農の本旨と致します。*******夫れより漢梁唐宗及び下も国朝に至る迄、註解の羣氏八百余家か。著述して五十二巻となし、集成に非ずと雖も、亦規模大に備り。之を名けて本草綱目と申します。******則ち巻を開けば薬毎に正名を標して、綱となし、釈名を附して目と為し、次に其土産形状を詳にし、次に気味主治附方を以て体用を著し、上之金玉石土より、草木鳥獣虫魚の類に至る迄、凡て相関することあれば、備え採らざることなく、実に金谷の園に入って、種色の目を奪うが如く、龍君の宮に登り、寶蔵悉く陳るが如く、本を原ぬれば則ち物を開き、務を成すの聖人に非ずんば、之を作ること能わざるものである。******又衛生家の心を尽さずんばあるべからざるものである。*****夫れ天地生育の理と云う者は、誠に奇とや云わん。妙とやいわん。此土にして其病あれば、必ず此土に生産する果実草根にして其病を癒する物があります。又人身の奇疾怪病も測るべからざるもの。「然るに又一草の根一樹の果瞥然として之を癒すも亦奇なるものである。人の癒すことを知るも亦妙なるものである。********実に天地自然、万物生育の仁理かと考えられる。******当今専ら医事衛生のことを尽されますること、誠に復古の体面を備え、仁政を率土の遠きに施設せられ、国を壽し日月と光りを同うする所の恵沢を蒙りますれば、我が職掌を精研し、治術の精巧を究め、斯民を壽域に躋し、聖思の万一に酬答せんことを図るの一端として、本会も起こった所以である云々。」亦以て当時に於ける先考の意見を窺知する資料たるべき歟。
「其三」笑山俳句一二の収拾
身動の自由さうなる井の蛙
月志ろの
順礼のあと追ふやうな春の風
高く来る汐のにほいや秋の月
白雪をあさむく軒のさくら哉
咲並ふ花に床しきかくれ里
立並ふ社の前のま祢き茶屋
汲むや茶 祝ふ家の風呂手前
坂ひとつこへて若葉の光りか南
根わけして幾末栄ふ牡丹か南
この奥は猶更てらす紅葉哉
色かへぬ松や稀なる枝配り
艶々と稀な古木の若葉かな
風呂の茶に汲む養老の流かな
「其四」笑山の唐津焼沿革調査書
夫れ製陶の事業たる太古は?たり人類ありしより其火食する者は埴土を採り土岳を造り以て之れが用を為さざる者なし、人皇の始めに方り丹生の川上に於いて天神地祇を祭祀し椎根彦をして香具山の土を採り平瓮厳瓮を造らしむるの事は載せて書紀に在り。又た姓氏に土師あるは因て来る所の者久し。之粘土を挺埴し器物を製造するの職を奉ずる者の姓氏にして後に出雲の人野見宿祢に賜う所の者も亦た是なり。然りと雖も太古人智未だ発達せざる時代に於いて製造せられたる器類は此所謂土兵(ポツターリー)にして日用器具に適する単純なる製陶なりしのみ其の彩料を施し表面を装飾すと云うが如き美術的の方法は是れを支那に学び得たる者に非ざるは莫し。古代に於ける支那の文明技術の夙に発達し居たるは歴史家の称道する所にして恰かも欧州に於ける市臘羅馬の文明が他の諸国に輸入せられたるが如く支那の文明も亦東洋の諸国に輸出せられたるは疑を容れざるなり。之を以て支那の文明は朝鮮半島を経て直ちに我が国に輸入せられ上古に於ける我土芸技術に一大革新を与え爾来引て明治維新に至る迄、我が国唯一の文明泉源とも称す可かりしを以て我陶器に彩料を施せる器物の製造せらるるに至りたるも、亦神功皇后三韓征服の結果に外ならざるなり。仲哀天皇の崩御後神功皇后の三韓を征定せられ上松浦郡草野郡鬼ヶ城仮御所へ御凱陣せらるるに当たり、三韓より太郎冠者小次郎冠者藤平冠者の三人を伴い各々一定の住居地を賜い小次郎冠者の住地に陶器竈を建設し以て陶器を製する事を始む。是れ実に唐津焼の起源なりとす。蓋し此の三冠者は神功皇后が朝鮮王、新羅王、百済王の質人として伴い来りしを武内宿弥始めて各冠者の名を附したる者にして現今の太郎村、次郎村、藤平村は冠者の住居地たりしなり。
鬼ヶ城に関する歴史は唐津焼の沿革と最も密接の関係を有する者なれば、茲に同城の変遷と共に唐津焼の沿革を記述す可し。鬼ヶ城は当唐津を去る東北二里余玉島川付近にして今や既に廃頽に帰し其城址を止めずと雖も其の地勢位置特に近傍より種々の式器を時々採掘するより見れば猶往昔一の城郭なりしや疑なし。鬼ヶ城は神功皇后の建設に係わる所にして皇后の玉島川垂綸の古事とは三韓征服に於ける前後の関係を保つ者なり。皇后は此の城に於いて三冠者に命じ製陶せしなり。而して其の製品は皆日用器具にして現今茶器の名に「米量り」と称する者あるは、此時代に於いて米の量を数ふる度量の用を為したるを以てなる可し。之より以後三韓より朝貢絶ゆる事なく、紀元1280年推古天皇の朝に至る迄で四百二十有余年間鬼ヶ城に守護人を置き三韓の朝貢物を受け取らしむ。当時三韓よりの朝貢物は
高麗より 茶碗・織物
新羅より 茶壺・織物
百済より アンナン石焼茶壺其他
等の如き者なりしなり。之より三韓よりの朝貢年々盛大に趣き、右の外書籍其他種々の産物を持ち来りたるは極めて明かなる事実なり。即ち応神天皇の朝百済より河直岐来り皇子?道稚郎子に文学を説き或いは王仁来りて論語十巻千字文一巻を献じ、其他織縫鍛冶醸酒の業盛に輸入せられ我技術上に大なる進歩を与えたり。三韓一たび我に藩附せしより朝貢絶えざりしが、交通の不便なり。韓人の狡獪なるより動もすれば反乱を謀ることありて征討撫緩の労歴世止まず。顕宗宣化の朝に於いて益々甚だしく終に全新百済を放棄し三韓との交絶遁え、従って朝貢も茲に中絶するに至れり。然りと雖も神功皇后三韓征服の遺物たる陶器製造の業は此の時代に於いても絶えず太郎冠者次郎冠者藤平冠者等の子孫に依りて行はれ太郎村次郎村藤平村等は陶器の製造所として日用器具を広く供給したるを以て其名広く世に伝わり古来より陶器を総称して唐津と呼ぶに至りたる者なるべし。現今に至りても右三ヶ村より再々陶器の破片を採掘する事挙げて数う可からざるが如き今猶、小次郎冠者の墳墓の存する等は以上の理由あるを以てなる可し。
寺沢氏正保四年没収せられ幕府領となり従て陶器竈も其の所有に帰せり。慶安二年、大久保加賀守の封地となり、其後又延宝六年に松平和泉守の封地となれり。此時に至る迄中里、大島等の後裔代々此の業に従事し居れり。元禄四年に至り、土井周防守の封地と為れり。此の時、西の浜坊主町の陶竈を現在の製陶竈所在地たる唐人町へ移し製陶せり。其後宝暦13年水野和泉守の封地となり、後亦文政元年小笠原生殿頭尉の地となり明治維新に至る迄往古高麗小次郎冠者の伝ふる所の伝法を不失絶えず製陶の業を継続せし者なりとす。
以上の沿革に依りて案ずるに唐津焼は我が国に於ける唯一の古き沿革を有する陶器にして神功皇后歴代の天子より下諸侯に至る迄、凡て之を珍重し維新に至る迄御用竈として城主の独占事業となし、濫に人民の製造を許さず且つ之が売買を禁じたる如きに貴族社会の使用と為されたらうは其の最も古き歴史を有するに止まらず、実に唐津焼高尚佳美にして一種云う可からざる風致を有し使用するに従って益々変化限りなく以て茶器に適せるが故なる可し。製造の数寡かりしを以て容易に之得がたき為め、俄に其の価額騰貴し古へ廃物として土中に埋めたる者も今は掘り出し者として大なる価を有するに至れり。維新以来全く斯業廃れ、今や其の跡を絶やさんとするを恐れ、近来当地有志家の発起に依り、従来の竈に修理を加え古来より伝わる方法に依り唐津焼の再興を企画し、今日まで数回の試焼に満足の結果を得たるを以て、進んで斯業の遠久持続を謀らんが為、目下県会へ補助出願中なり。余輩は之が成功を願うに切なる者なるを以て聊か唐津焼沿革の大略を記し以て斯業の発達を祈る。 |
配。政子
山内定兵衞の長女にして、安政元年十二月朔日生まれ。明治二年四月廿六日草場家へ入籍す。
資性寛重にして、愼密健爽なり。而かも稟性技芸に堪能創製せる服及敷物尠からず。能く家政に励み、多数の男子を産みて撫愛訓育し、我が家の繁栄に伴う内助の功又極めて大なるものあり。
見節の逝去により晩年遂に頽令を加え、未だ子供等の成人発展を見ずして僅に五十五歳にして明治四十一年一月廿六日逝去せられたるは、実に悼痛悲哀に堪えざるなり。謚して仁敬院徳室妙壽大姉。長得寺に葬る。
政子の里たる山内家
西の木屋山内本家は、旧家にして、山内小兵衞氏の先代より旧藩主小笠原公に対する金融機関たりしが如く、累代富豪として其の名高く、代々山内小兵衞を襲名せり。而も先代小兵衞(蔵六)は資性端荘。奉公忠勤。仁義に厚く、名望家として知られてあった。
魚屋町否唐津にあっては、西の木屋と平田屋とは、権威ある家格として並び称せられ、汎く敬意が払われていたものである。又東の木屋は其の分家にして代々久助を襲名し、西の木屋に次ぎ家格を保有し又、古屋古舘家は、西の木屋蔵六小兵衞氏の令弟庄助氏養子となり正右衛門を襲名継承せられ、共々酒造家として繁栄せり。
正右衛門(庄助)氏の長男先代正右衛門氏(常次郎)は、実に同家中興の名主にして、資性遜譲にして徳望高く、而も賢明業務に篤く、醸造にかかる銘酒は「太閤」の名により声価を博し、一流の資産家として発展。現主正右衛門(正之輔)は、時代的新進の偉材にして、独り親戚中の牛耳たるのみならず、斯界の重鎮として、市商業会議所会長を始め、各方面に参興し活動中である。
西の木屋先々代小兵衞(蔵六)氏に、女二人男一人あり。長女は東の木屋久助氏に嫁し、(故勘蔵氏の尊母)、次女常子は中の木屋を再興。長男幸之助氏は不幸中年にして逝去せられたるを以て、東の木屋より勘蔵氏を迎え、継承せられたものである。
先代小兵衞氏(勘蔵)は、長崎藤瀬家より政子令室を迎えられ、四男二女を挙げらる。左衞門、右衞門、兵衞及び衞門(悼むべし早世)氏、みき子、ふき子是なり。
現主小兵衞(左衞門)は少壮にして家業を継承経営せられ、憬望を以て活動中である。悦子令閨を迎え即子、誉子、礼子を挙げらる。
見節先考の配、政子の父山内定兵衞氏は、西の木屋本家先代の折、大石町小牧家より小兵衞氏(蔵六氏)の姉ひろ子の養子として山内家に入籍し、新たに掛持を分家として相続せるに因る。
然るにひろ子、嘉永四年八月二十六日、不幸逝去により、後配として東の木屋山内久助氏の次女、きち子を迎え、二女一男を出産す。長女政子二女岩子。及び長男豊五郎是なり。定兵衞氏万延元年九月十三日逝去されたるを以て、不遇無拠、子供三人を伴い、東の木屋里方に復籍するに至れり。
京町草場清次右衞門氏の長女に、養子として惣右衞門氏入籍ありたるが、不幸配女の逝去を見たるを以て、新たに東の木屋久助氏次女、きち子、惣右衞門氏に再縁するに至れり。されば長女政子及び長男豊五郎は西の木屋に、次女岩子は東の木屋にて、養育さるることになれり。
惣右衞門氏に再嫁せるきち子は、二男一女を挙げたるが、慶応三年十一月廿三日長子僅かに六歳の時、逝去あり。是れ長男辰太郎氏次男久次郎氏一女せい子は呉服町辻千代太朗氏に嫁せるなり。
西の木屋にて養育成長の政子は、先考見節に嫁し、東の木屋にて成長せる岩子は平松定兵衞氏に嫁するに至れり。
如此、山内定兵衞一家は豊五郎の逝去により、絶家せるが故に、之を再興せしむべく、見節三男末喜を末吉と改名、山内家に入籍せしめたものであるも、不幸、業務半ばにして逝去し、未だ再興を見る能わざるは実に遺憾となす処である。 |
育之助
見節の弟にして学校を了えると共に、実地小島新兵衞氏宅にて商訓育を受け、長ずるに及び、平田屋を家号となし、呉服町に新宅を構え、呉服店を開業し、漸次繁昌「志んみせ」と称えられ、盛に進展せり。
大正三年九月廿四日逝去。謚して大顯院郭態道保居士という。
配は、紺屋町博多屋本店山口喜兵衞の三女にして、愛子と云う。
一女清子を産み、明治十九年八月十四日卒す。謚。貞照院眞淨妙諦大姉。
故に後配として筑前博多原田家より末子令室として入籍家政を整理す。
養子として明治三十四年一月、近江國蒲生郡馬淵村字東川、松本喜兵衞氏次男喜十郎氏を迎え、清子に娶らす。喜十郎氏は多年長崎にあり斯業に関する経験多く、性謹直精励にして業務愈々進展せり。
清子は大正六年十一月十八日逝去。謚して清光院實相妙圓大姉と云い、又惜しむべし。喜十郎氏も大正九年一月十九日に卒せられ、謚して義老院喜法道見居士と云う。清子三男を産めるも、長男孝一及び三男弥太郎は何れも早世。次男虎夫唐津商業学校より福岡商業学校へ転校卒業し、喜十郎を襲名せるも、呉服商を廃業し、目下支那に於ける会社方面に就職中なり。
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草場本家と猪之吉氏
昔より我等は、現主草場六一氏の平田屋薬舗を本家又は本屋と呼びなしてゐたことを記憶する。呉服町に育之助氏が新店開業の場合、猪之吉氏の令父三右衞門氏より、平田屋なる屋号の称が特に恵与せられたと云うので非常なる喜悦と感謝で、将来の発展が祝福されたことも、未だ忘れていない。
平田屋と云えば、西の木屋と併び唱えられた唐津の富豪で、旧き家門。権威ある商店として繁昌し、而も西の木屋山内小兵衞氏、平田屋草場三右衞門氏が共に富豪として高節な人格と、商業上の信望、果た亦社会上存在的位置は、慥に其当時至大なるものがあったからである。要するに格式の高い平田屋を本家と唱ふることは、草場一門の矜持であったに相違ない。蓋し我が家の三代先祖にして、医祖第一代の宗益は、平田屋本家の始祖義空氏の次弟であって、義空氏より鎮之、滋廣、嘉根氏と漸次継承、三右衞門氏より六一氏の令父猪之吉氏の時代に至り、甚大なる社会公共事業に貢献が発暢。累代に於ける平田屋の内容充実力は、外容的にも進展を見るに至ったのである。是れ実に猪之吉氏其人を赤裸々に発揮せられたものである。
猪之吉氏の玲瓏にして、而も賢明なる卓見と、広遠にして理智的信念は、独り家業のみならず、否既に業に積み上げられたる家業の継承任務は、猪之吉氏にあっては、極めて平凡にして且つ過小業務だったに違いない。猪之吉氏の理想によれば、尊敬せられた平田屋の存在は、家業的業務にあらずして、郷土商業の革新的隆盛にあり。先ず以て交通機関の施設こそ、一日も放棄する能わずとなし、*テヘンニ延身的に企画、熱心なる主張を見たるは、県庁所在地を結ぶ、佐賀唐津間の鉄道敷設事業であった。幾多の辛酸を経て、氏の主張は実現せらるるに当たり、次ぎに之に伴うは福岡唐津を連結する北九州鐵道の創設事業であった。其の他社会的公共事業枚挙に遑あらずして、その功績は実に偉大なるものが存する。
余は嘗て帰省の際、猪之吉氏の広遠なる理想として、祖先の遺産は増殖するのみが能でなく、如何に有益に消費するかも、重要なる業務で、自分は家の為にも、郷土にも存在せねばならぬ、との卓越した高見を聞いたことがあった。是れ恰も彼の世界的米の富豪「カーネギー」が消費学を研究して、理想の公共事業を世界的に遂行したのも、大小の相違はあっても理想の原理は同一であると云うべきである。草場家本家を継承に伴う猪之吉氏の超越せる心構えは、その時より基礎づけられて居ったことが窺われる。茲に「唐津市先覚者小伝」より転載し、我が本家の畏敬すべき偉人故猪之吉氏に敬意を捧ぐ。
「草場猪之吉は草場三右衞門の長子なり。明治元年八月唐津魚屋町に生まる。家世々薬種商を営む。猪之吉唐津中学校を経、福岡薬学校に入り十八歳を以て薬剤師の肩書きを得、家業を嗣ぐ。佐賀中央銀行の前身、唐津銀行の創立せらるるや、取締役として就任。地方財界に重きをなす。当時電信電話の架設なきを遺憾とし、平松定兵衞、山内小兵衞等と相謀り、寄付金を募集し、幾多の困難を経、遂に之が実現を見るに至れり。二十九年県立唐津病院の廃止せらるるや、有志と謀り私立唐津病院を設置し、刀圭界に貢献す。三十年二月唐津貯蓄銀行を発起し、昭和四年肥前合同貯蓄銀行に合併せらるるに至るまで、三十有余年間頭取として終始せり。大正五年北九州鐵道の創設を提唱し、どう八年会社の設立せらるるや、選ばれて社長となり、献身的に社運の隆昌と交通の発達を謀れり。其の他新聞紙の創刊に力を尽くし、青年団の設立に思いを致す等、社会に寄与せる事蹟枚挙に遑あらず。実に公共事業に没頭し、全精神を社会に提供せるものと云うべし。惜しむべし、晩年社運少しく停滞を見るに至り、粉骨砕身之が挽回を謀る中、昭和五年四月十四日、不幸東上中病魔に冒され、六十三歳を一期として病歿せり。聞くもの痛惜せざるはなし。」
現今平田屋薬舗は篤実賢明なる六一氏により雄然継承せられ、家運彌々隆盛に斯界に嘱望せられている。
令妹萩枝子は久保家に、若枝子は西川家に嫁せられ、六一氏令室美知子を福岡県糸島郡乃北町浦部家より迎えられ、愛嬢くみ子を挙げらる。前述の繁昌祝福っすべし。
以上は草場家一代より八代に及ぶ系図及び関係事項の概要にして、各社先に関して詳細に亘り記録すべき資料を得ること能わざりしは、極めて遺憾となすも、我が家系図草場家は医家として第一代宗益より、第六代見節に至る二百八十余年間に亘る医家の継承は、時に或いは盛衰なしとせざるも、医家としての家門は、累代其の時代時勢に順応し、各先人の個性によりて、特色が発揮せられ、家運進展事業を見るは、後継者の窃に欣喜矜持となす処にして、而も始祖宗益は之を措くも、第三代義齋の如き畏敬すべき博識豁達に、人格高潔に、稀に見る医家としての儒者たりしを始め、第六代敬二世宗益の如きも、義齋に次ぐ篤学温雅の医家であった。而して各先代に於ける個性的に共通視すべきは、「医は仁術なり」との信条に、医を以て所謂業を営めるに拘わらず極めて名利に淡白にして、超然たりしが如き性行である。然るに六代見節に至りては、明治維新の革変に伴い、採長捨短能く時代の推移に鑑み、自己苦学の体験により、家政上資産に留意し、祖先各自の所謂儒者根性により、貧に安んじ敢えて産を需めざる行為は、君子の常道として、寧ろ尊重せる偏頗を悟り、物的方面に対しても之を徒閑に附せざる用意の周到なりしは、敬意を表すべきである。
夫れ然り、我が草場家六代の医業は慥に医家の家門として、賞賛すべき明朗たる歴史は樹立された。然るに見節の長男橘雄は大望を抱き東都に遊学せるも目的を得ずして不幸早世。次男の余輩も亦、幼少時代より腕白にして、魂守的なる資性は到底医としての適正にあらずして、又多数の兄弟ありと雖も、遂に医を学ぶものを得ず。医家の系統に遷異を見たるは医家先代に対して聊か慙愧の感なき能わざる処である。然りと雖も家業そのものは、決して既往今昔と異なり、業に於いては必ずしも絶対的のものにあらずして、而も適材適所に、我が家継承の重要性及び存在性に背反せざる限り、亦沢して不可なる理由もなかるべく、「家」の魂「家」の神霊は亦之を容認せられ、堅実確固たる家運の躍進発展が促成せらるるものと考慮することも出来るのである。
草場家医業六代の系図記述に伴い、今尚我が家に蔵せる累代祖先の蒐集精読せる、漢法医学に関する貴重すべき和漢書籍其の他、及び各代先人の意を注げる写本等の目録を作成し、記念に附記し置かんとす。且つ将来にありては「草場文庫」として他に蔵書せる多数の書籍に加え、恰適の方法により合理化し、有効に保存すべく期待する。
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深齋先生著 傷寒論辨正 |
四巻 |
黄帝内経 霊枢 |
六巻 |
賀川子達 産論翼 |
二巻 |
本間棗軒 瘍科秘録 |
十巻 |
蘭山先生 重修本草綱目啓蒙 |
三十四巻 |
昌克兄子柔 経穴彙解 |
八巻 |
貝原益軒 大和本草 |
十巻 |
香川修上*太冲 一本堂余医言 |
二十巻 |
合信婦嬰新説 |
二巻 |
元簡*夫 金匱玉函要略輯 |
十巻 |
拓彰常順 萬難録 |
四巻 |
南豊李 編註医学入門 |
十三巻 |
図南傷寒論集成 |
十巻 |
龍居中保赤全書 |
四巻 |
桂里有持 校正方輿*(ゲイ) |
十四巻 |
牛山先生方考 |
三巻 |
第坤回春序鈔 |
三巻 |
搏天民 医学正伝 |
八巻 |
中西惟忠子文甫 傷寒論辨正 |
二巻 |
王叔和 金匱要略方 |
二巻 |
水原義博*郷醇生菴試験方 |
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胡迂訓 万病回春 |
五巻 |
林状元 済世全書 |
八巻 |
金匱要略方折義 |
五巻 |
南陽原先生叢桂亭医事小言 |
六巻 |
武貞徳夫 続処殊録 |
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重訂本草綱目 |
四十三巻 |
堀江道元 辨医断 |
二巻 |
黄帝内経 素問 |
九巻 |
臨川陳自明良甫 婦人良方大全 |
八巻 |
東洞吉益 古方便覧 |
二巻 |
仲景全書 |
二巻 |
秘伝眼科書 |
四巻 |
済生寶 |
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日用食性目録 |
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瘟疫論標註 |
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家伝預薬集 |
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歴代名医伝略 |
二巻 |
類聚方凡例 |
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温疫論答揮 |
二巻 |
医学至要鈔 |
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子玄子産論 |
二巻 |
岡本為竹一抱子医方大成論和語鈔 |
五巻 |
察病指南 |
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宗立八十一難経図要 |
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*集 |
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東洞吉益 建殊録 |
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北山医話 |
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東洞吉益 薬徴 |
二巻 |
怪*一得 |
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傷寒六書 |
四巻 |
医学正伝論 |
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水原義博*郷醇生菴 産育全書 |
十巻 |
養壽院医則 |
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獨嘯庵漫遊記及び獨嘯嚢語 |
二巻 |
察病指南抄 |
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用薬須知後編 |
四巻 |
西説医範提網釈義 |
五巻 |
外科正宗 |
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瑣言良方 |
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神応経 |
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薬徴 |
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脉訣刊誤 |
二巻 |
奇効医述 |
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傷風約言 |
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医学写本 |
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瘍科神書 |
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外台秘要方気論方 |
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薬選 |
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龍崔先生治験録 |
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服後薬効併瞑眩 |
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牛山 套抜萃 |
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蔵方漫録 |
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刻傷寒論 |
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五巻書肺之論 |
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*(ヤマイダレ難)疽 |
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妙薬集 |
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瘍科方筌 |
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香川先生雑話 |
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温疫抜萃 |
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十九方対証通覧 |
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傷寒本論講義 |
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外台秘要 |
七巻 |
傷寒金匱類証 |
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産育備急方 |
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辨治集 |
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用薬須知 |
三巻 |
傷寒論講義 |
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救備瑣言 |
二巻 |
圓機活法 |
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癩病療知口訣 |
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医事傍観 |
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痘瘡撮要 |
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久米正論 |
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傷寒論正文 |
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尚古堂附方録 |
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傷風約言解 |
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鼠咬考 |
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治験記 |
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五難集 |
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薬品小録 |
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小児必用記 |
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青洲医談萃 |
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産科瑣言 |
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古学碣銘行状 |
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小野蘭山人参考 |
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万回正伝 |
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有*方 |
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王*(合廾)州牘 |
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救偏瑣言 |
三巻 |
行余医言 |
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燈下余録 |
三巻 |
金匱方論存疑 |
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升求製法秘訣 |
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痘瘡一家僑併麻疹論咀薬 |
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医書外雑和本 |
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岡本為竹一抱子 運気論奥諺 |
四巻 |
書経 |
二巻 |
大和家礼 |
八巻 |
國史略 |
四巻 |
易学啓蒙図説 |
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蒙求拾遺 |
三巻 |
杜律七言集解 |
四巻 |
徂徠詩文国家牘 |
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礼記 |
三巻 |
茶道要録 |
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春秋 |
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頼山陽新居帖 |
三巻 |
徒然草諺解 |
二巻 |
五書剔髄 |
五巻 |
一休ばなし |
二巻 |
詩筌 |
二巻 |
南郊仲 近思録示掌句解 |
八巻 |
蒙求校本 |
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易経 |
二巻 |
論語俚諺鈔 |
五巻 |
易学啓蒙 |
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千代考記大全 |
四巻 |
詩経 |
二巻 |
雑書写本 |
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貝原益軒 養生訓 |
四巻 |
近思録示蒙句解叙 |
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訓訳示学 |
五巻 |
鶴件仙齢 |
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学経済録 |
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訳文筌蹄 |
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漢書評林 |
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三体詩 |
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古文諺解抜書 |
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純台独語 |
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論語徴 甲乙丙丁戊己 |
六巻 |
道学標的 |
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太宰純 経済録 |
五巻 |
関ヶ原戦記 |
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周易経略微解 |
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中庸 |
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南郭先生文集 |
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大雅 |
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朱子詩集 |
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小学句読義詳解 |
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西溟余稿 |
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閑散余録 |
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徂徠文集 |
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漢節用集 |
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礼記註抜萃 |
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難波戦記 |
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蒙求拾遺解 |
二巻 |
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橘雄
見節の長男にして、明治三庚午五月十三日生まれ。故山の中学より医学修行の為、先考の熱意によりて上京せるが、其の当時にありては東都遊学など極めて稀に見る事実にして、蓋し既に遊学中の保利兄弟にならい、優秀なる医家継承を念願するに因るものであった。
橘雄上京後は、帝国大学医学部の学生なりし、保利眞直氏に就き独逸語の教授を受け、勤勉好く先進学生を抜く良成績を以て独逸協会学校に入学するを得たり。
性剛簡にして学業進むに従い、数学に関する学科を以て得意となし、自然、嗜好的に哲学及政治関係学科に興味を有し、当時同校に独逸留学よりの新帰朝者、北尾次郎博士の哲学的講話は、一層其の度を高め、個人的にも教導訓化を仰ぐに至り、医家関係学科は、徒に等閑視するに至り、常に辯膽鋭く、総理密にして、自信の念慮極めて強く、議論家として名をなせるあり。されば往々にして乖角を見ることなしとせざるは、之が為の一欠陥であった。
橘雄遂に高等学校に入学道程を進め得ずして、病となり、療養の為帰省せるも遂に立つ能わず。僅かに廿一歳の短命を以て、明治二十三年正月廿八日逝去するに至れり。謚して鉄心院天英雄道居士と云い、長得寺に葬る。
末吉
見節の三男にして明治八年生まれ、幼より母の里家山内茂兵衞家を相続すべく山内家に入り、末喜を山内末吉と改め、中学を終えたる後、京町に一家を構え其の当時にありては新斬みちすな職業視せられたる印刷業を開業するに及び、兄弟皆学事に進むに鑑み、東都遊学の念願制し難く、遂に断念印刷所の経営を志戸昭三郎氏に譲り上京し、慶應義塾へ入学。理財科卒業の上帰省したる時恰も先考唐津焼復興の為、焼窯等試験中なりしにより、之に伴う趣味よりして、唐津焼復興陶器業製造販売経営を企画し為に多額の私財を投じて、新規製品の献上等斯業発展上、中央東都銀座へ売店をも設置。山内実と改名し、一面努力に伴う賞賛を得て、憬望を樹立するに至れるも、需要区域の特殊にして而も狭隘なる新事業に加え、新規経営は容易に意の如く進展を見ず、悲痛なる奮闘は健康を損なう原因を致し、一層活動意儘ならず、遂に病勢を加え、明治四十四年十一月十五日企業中途にして逝去せるは可惜し。唐津焼復興上にありても極めて遺憾なりと云うべし。齢三十七歳。唐津来迎寺山内家墓地に葬る。謚して、一心院実譽至誠居士と云う。
配。水戸の人。在名古屋育英界の剣客故田中厚氏の長女哲子を迎え唐津焼復興事業上多大の内助の功を得て其の功績著し。資性利発超達一男一女出生男は早世一女常子(明治四十三年六月八日生)を撫育し不幸後にありて上京自ら一身を小学教育界に投じ、堅忍貞実教育に当たり、今尚貞潔東都に居住し、母子共に健全。哲子は家庭教育方面に活動中なり。常子は目下女子美術学校に在学中なれば、他日山内家復興の時期も到来すべし。
茂一
見節の四男にして明治十三年十一月十三日生る。故山小学及び中学を経て大阪に出て、大阪高等商業学校(現阪大学)に入学。明治三十三年卒業。進んで東都に遊学。東京和仏法律学校。及び外国語学校に入学し、法律及び語学を学び、殊に英語会話に就いては、築地英人サンマーに就き実地修練に励み、能く達成を見るに至れり。而して練習の為其の当時、横浜に於ける英人経営一商館の採用試験に応じて合格し、「クラーク」として雇用を見たるが如き、其の練習の一手段たるに過ぎず、職務としては、平野紡績株式会社に入社せるも、希望的理想に添わず、日本海上保険会社に転任勤務中。語学の堪能的自信は、海外発展の雄志禁じ難く、遂に奮然職を辞して、支那に渡り、上海に居を定め、個人経営的一二の業務を開始奮せるも、容易に門口開かず、微力を嘆して自己の個人的経営の方針を断念し、当時斯界の牛耳として、上海にありて活動中なりし、英国海法学者H.P「ウッドマン」の「クラーク」となり、海法業務に従事し、実地修業すること約八ヶ年に及べり。
大正四年。東京海上火災保険株式会社海損課長として帰朝と共に任命せられ、斯界に於ける海法実務の権威とし、殊に斯業の対外協定業務の自信的活動は、好成績を認識せらるるに至れり。
大正六年九月朝日海上火災保険株式会社に転勤。大正七年より翌年にかけ会場保険業務の視察の為欧米に出張。帰朝と共に岡崎藤吉社長に仕え、常務取締役として重務を負うに至る。茂一性貞潔にして謹審。企画緻密なり。岡崎社長の不幸逝去に遇うと共に同社を辞し、大正十一年吾妻汽船株式会社常務兼社長に就任す。時恰も海運業は未曾有の不況に当たり、会社事業も幾多甚大なる障碍蒙り、苦戦苦難交々起こり、加之弟正五郎個人経営海運事業に聯関し、一層時艱は倍加せるも、堅忍能く之を克服し、而も如此悲境に際し、川崎造船所に托し、俊秀汽船を建造し、斯界に於ける異様の視線を惹起せしめ、同会社隆昌の基礎たらしめたるは、卓見敏鋭なりとて称えられたものである。
昭和三年六甲苦楽園に居住関係より、西宮土地株式会社取締役社長に就任し、同社の新規発展に就き、憬望的に企画中なりしが悼むべき哉、昭和十三年七月に於ける神戸を中心とせる連日に亘る暴風雨による大洪水は、山崩れ家屋道路の破壊浸水による悲惨なる災害は死傷者千余に及び、当時六甲苦楽園新宅に休養中。突如山上の山崩れに伴う貯水の岩石土水の直下的奔流は、之を避けるの暇もあらばこそ、不慮の災難は、齢五十八歳多方面に関係参与し、事業企画漸く端緒を見んとするに際しこの不幸に遇う。実に断腸の思いが禁じ得なかった。噫々、之時昭和十三年七月五日である。
愛子夫人及び鎮枝子も共に死線を経て負傷せるも、西宮病院に療養を加え、経過順調月余にして恢復退院するに至れるは、不幸中の幸いなりき。
妻子の健康恢復を得て、同年八月丗日京都銀閣寺邸にありて正式葬式を営み、京都東福寺芬陀院に葬る。謚して慈徳院義山大勇居士と云う。
又翌丗一日神戸に於いて、吾妻汽船会社の後任常務及び社長佐藤得三郎氏主管として社葬が挙行せられ、勝田神戸市長始め斯界関係者多数の参列を得て、盛大なる式典は追悼悲哀の内に終わった。
配。島根松江藩の旧家。在東京鉄道局技師神谷萬次郎氏の長女志め子。大正六年五月入籍せり。賢夫人として名ああり能く家政に励み楽しき家庭に鎮枝子生まる。
大正八年八月茂一欧米視察より帰朝すると共に不幸病突発遂に逝去を見たるは、人生の悲劇、茂一心理の覚動には同情を禁じ能わざりし憫然さがあった。志め子は実に廿一歳にして嫁し来り茂一を欧米視察に送り廿三歳にして帰朝と共に逝去せるなり。
大正十一年廣島県福山の人。橘高新吉氏の長女愛子を迎え、愁鬱なりし家庭の悲境は更生せられた。愛子年少なりと雖も性頴悟而も極めて精勤にして、能く鎮枝を撫愛薫陶し、又家政に謹勤内助の功極めて多し。茂一不幸後にありても、貞潔家事に勤み、家運の整進に努む。
鎮枝子
大正七年四月生まれ。小林の聖心女学院小学校を卒え、京都同志社高等女学校及び英文専攻科一部卒業。家庭にありて教師を迎え家政始め家事技芸等を修業す。
昭和十六年六月四日。鹿児島の方。官弊大社近江神社宮司従三位勲二等平田貫一氏。(元神宮皇學館長)の二男敏郎氏を迎え、新家庭を建設。家運隆々進展す。昭和十七年四月長男昭彦生ます。
敏郎
鹿児島第七高等学校造士館を経て、京都帝国大学法科卒業と共に新進の法学士として三井銀行京都支店に勤務し、昭和十七年四月兵役応召福井県鯖江軍隊に入隊。幹部候補の受験に合格。直ぐに伍長に昇格。大阪第二十三部隊及び満州新京に転じ、幹候班卒業の際は関東軍司令官賞を授与され、目下大阪中部軍司令部経理部に勇健勤務中にして前途洋々寔に慶賀祝福しべき也。
正五郎
見節の五男にして明治十五年二月十一日生まれ。唐津中学校より余が石川県立農学校教諭在職中金沢第一中学校へ転校卒業と共に、高等学校受験せるも合格を得ず、一ヶ年受験準備をなし、自信的に熊本第五高等学校へ入学志願し受験する際、弟たる実治も中学四学年より鹿児島第七高等学校造士館を共々受験するに至れるが、不運なる哉実治弟の入学合格せるに反し、自ら任せる合格に失敗せるが故に慙愧の感念に堪えず、発奮して方針を変更し、直に実務の人たるべく、当時在上海の兄茂一を尋ね、進んでは渡米の希望をも達せんとせるも意の如くならず、茂一の業務を補佐し、実務的見習いをなせるも意に満ずして帰朝し、一時松江在職の余が宅にありて休養したる上、岡崎汽船会社小樽支店に就職し、海運業の実務に従事し後、大阪へ出て昌松洋行に就職し、山本唯三郎氏に仕えることとなれり。当時山本氏は朝鮮虎狩りの為、虎大人として実業界に雷名あり。幾多事業経営中なりしが、正五郎の業的活動は海運部にして、其の成績優良の故を以て、大阪昌松洋行支店長に昇格任命を受け、能く業務の好成績を挙ぐるを得たり。其の後将来に鑑みる処ありて断然支店長を辞し、運輸汽船業の自家経営を目論み、四千噸級汽船二艘を使役し、隆々乎として好運的に業務拡張中なりしが、世界的不景気なる悪影響は、惹いては我が国海運界の不振衰頽を致し、我が海運界の存在たる郵船会社にありてすら、業務渋滞し、処理困難にして、寧ろ繁舩を断行するが如き悲境に際会せる状勢なあるにより、業務漸く進展期を迎え得たるも、小資本家の悲痛は幾多の障碍之に伴い、経営業務は全く停止の悲運に陥り、大頓挫を見たるを以て、断然業務の持続経営を断念。業務の整理を決行して、故山唐津に引退し、捲土重来、窃に新「トロール」水産漁業を企画し、成案を得て、漁区の調査権利の収得等により長崎に出て、滞在月余に及び、業務進捗中。同市未曾有の「チブス」の大流行猖獗を極めたるに際会し、之に感染せるものか、帰省と共に発病快癒期に際して、余病併発、遂に昭和六年七月九日企業恨愧浜崎の客舎にて逝去せるは、実に憫然たる不遇。同情に堪えず。況や現今日支事変と大東亜戦の進展と共に、我が世界的なる海運の偉大なる躍進的威力を発揮するの秋に当たり、一層同情の涙禁じ能わざるものである。
齢僅かに四十九歳。謚して直指院正徳徹心居士。長得寺に葬る。
実治
見節の六男にして明治二十年十月八日生れ。唐津中学四学年より鹿児島第七高等学校造士館へ入学。在学中演説問題に関朕して其の名を知られ、卒業と共に大正一年東京帝国大学法学部に入学、同四年英法科卒業。直に司法官試補に任ぜられ、大阪裁判所へ勤務中。深く感ずる処あり之を辞職し、弁護士として大阪に開業するに至れり。
性質剛胆にして而も開廓。平素は謹黙するも、一度壇上の人となるや、熱弁*(コザトヘン肖)直、徹底的なる獅子吼をする。
大阪に於ける弁護士開業は、商業都市にして訴訟業務も、其の事件も、新参弁護としての理想に背反、到底持続発展の地にあらざるを悟り、断然居住を東都に移し、弁護士業務に進路を求むるに至れり。実治道楽の一は、後輩青年の誘導啓発にして、大阪に東京に彼の居住は常に寮的合宿所の如き観あるを以て、寧ろ楽事となせり。蓋し鹿児島在学は、一層大南州を敬慕せる一面かも知れぬが、彼の侠客肌も助勢するのか、慥に親方式の法学士に相違ない批評は適中する。彼の所謂大言壮語の自信的行動は、誇大妄想なりと掫揄せるに、真剣に憤慨するが如く、真面目を顕出し、彼の人生観は独得にして、又将来に対する憬望は、極めて雄大にして豪渾なるが、而も利欲に冷淡なるが故に、実際貧窮なるも必ずしも意とせざる態度は慥に「変わり者」として認識せらるる一要素でもあった。
職務的とは云え、日常の行動極めて不規律にして、必要に応じては夜を徹するも稀ならずして、健康上極めて不合理なる、意至りて体之に伴わず、知らず識らず内に健康破壊を醸成せるが如く、而も時に病を認むるも、敢えて医師に依るを好まず、自分の病は自身一番能く知っている、病は気より生ずるとて、往々絶食療法などを実施し、恢復を図るが如き、「変わり者」は其れ何れの方面にあありても其の信念的性格を曝露せるものである。
元来、弱は体育に留意せざる結果にして、無理多き各業務に関係、常に過労的推移の覿面なる、遂に病を得て立たず。九段坂病院に入院保養中、昭和五年二月十二日逝去。齢僅かに四十二歳。東都芝公園内一寺院に於いて告別式を行い、故山にありて長得寺に葬る。謚して法林院実相圓成居士と云う。
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逸事の一二
吉村一郎氏は実治の郷友で、殊に病中懇切なる看護と容易ならざる高配を受けた方である。我が家系図譜編纂中、実治に関する逸事として、法学士、弁護士戸塚一郎氏及び法学士岩田繁治郎氏の談話の一端を、又同氏の追想などを綴り寄稿せられ、医学博士櫻井明治郎氏の談話として、山内哲子より報知を受けた。今其の若干を記載し各位の芳情に感謝の敬意を表す。
故人は寡黙で一見相手の心中を看破する閃々たる眼光を有するも、人に接するに礼厚く温厚であった。且つ理知的で、物事に動揺せざるも、神経は極めて細鋭に、自我の強き信念の人であった。頭脳は明晰で秀才であった。金銭に対しては無欲であった。身装は「キチン」として身回品等は常に高級品を使用されていた。故人をして今日健康を保持せしめたならば、学者として又政治的方面にても、偉大なる信念と頭脳を以て、必ずや非常時局の現今、最も渇望される人物であることは学友として否国家のため、誠に残念である。
七高合宿時代、故人と机を向き合わせ共に学習する時、勉強の程度は変わりないが、常に成績は一二番で、殊に語学は最も得意であった。されば、彼は上級生及び下級生の学友に、英語を教えたり又手伝いさして居った。故人は常に寡黙の人ではあるが、一度壇上の人とならんが、雄弁となり、其の識見は高邁思慮遠大なる蘊蓄を以て堂々と弁する態度は、別人の感がされ、校友をして傾聴せしめ、為に故人の存在は認められ、校友より尊敬されて居った。又教室内に於いても、先生の講義される原書など、故人は繙読聴講されるが故に、常に疑義を詰問し、先生も非常に困却されて居った故に、先生達には受けが頗る悪かったが、而も成績は何時も首位であった。
帝大学生時代も、高校時代と同様、金銭に対しては極めて無欲であったが、身廻品は常に格段の高級品を使用した。且つ金があればあるだけ使用し、特殊の性癖かの如く、さりとて金が無いとて別に心配も苦痛もなかった。学友間に金があるかと問い、「あったら貸してくれ」と云うのが故人の独特の言葉であった。
而も任意に借金が可能なのは、平素徳望の然らしむる為で、彼は又将来大成すべき人物であることが、学友間に認識されていた為でもある。
或時、故人の下宿に遊びに行った。吾輩の寝具を見てくれとて絹布団を出して得意であったが、其の後に至りて見れば、以前の影も型もなく綿は食出して汚損も甚だしきが、別に縫うてもなく、洗濯するでなく、其の儘使用して居った。物事に頓着せぬ性質の一例である。
帝大在学中。英作文の奨学金を貰われたことがあった。受賞者中に現在帝大教授として有名の方もあったが、其の人よりも優秀者であった。故人の自尊心及び自我の強固なる点より考うれば、学者として進まれたならば、勿論一派を形成され居ったと思う。 (平塚氏談片)
故人は在高校中は能く旅行されていた。勉強は余り為さなかった。然し常に一二番であったが、彼は眞に勉強して居ったら常に特々待生にあったに相違ない彼の無頓着は、知らず多少頭髪が伸びて居った。校則として長髪は厳禁されていたから、上級生より鉄拳制裁を受けんとしたことを、深く憤慨し、*今在校中は断髪せずと意地張り通した。故に故人は常々長髪で白袴に高下駄と云う出で立ちにて、身体は小柄なりしも、颯夾として登校して居った。丁度白虎隊士の様であった。彼が健康であったなら、恐らく学友中一番大成をなしていたことと思う。 (岩田氏談話)
昭和二年九月頃であった。二三年静かな処に借家して出版の決意をされたことがあったが、健康勝れざる為、大計画の事業も遂に実現を得ず中止せらるることとなった。又昭和四年の二月であったが、明年の衆議院の改選に出馬を勧誘立候補の決意はされたが、是又健康上より遂に中止されたが、其の間故犬飼、床次先輩などに時々面接されつつあったが、犬飼さんは皮肉屋であると云い、床次さんからは愛顧を受けて居た様であった。其の当時濱口雄幸氏を尊敬されて居った故、代議士として出馬するとせば、民政党であったと思う。郷里の新聞には第一の候補者として掲載されて居った。在京の学友は勿論出馬されるものと思料し、当然最高点で当選は間違いなかったと認められて居った。
弁護の事件など、概して債務者に対しては取り立てなどに就いては寛大であった。債務者には不利であった様の傾向は、畢竟故人の侠客肌の気魂の一顕れである。且つ又弁護事件の訴訟文など、頗る名論争文であったことは、直接相手弁護士より度々聞いた。論争文は名文で徹底的なる、而も論理的に寸亳の隙もないので知られていた。 (吉村氏談片)
故人の学業は特待生以上で、平均97であられ、文才に秀でられ、新聞に時々能く小説など投稿せられ、其の報酬は凡て後進学生の学資に提供されつつあった。逝去の年には代議士立候補の決意固く、準備が進められつつあった。故人の陰徳的なる徳望は今日にありても、毎年故人の忌日には、友人の方々数名は芝のお寺に集まりてお祭供養をしているのである。 (櫻井博士談片)
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静子
呼子に在住捕鯨及び水産業に従事し、代々中尾甚六の襲名として継承。斯界に其の名高く、業務発展隆盛を極めた。第八代甚六(綱太郎)の長女として生まれ、旧家たり資産家としての中尾家落魄するに至り離籍し、明治二十七年一月七日中尾ゑき子姉として、我が家見節の養女としなられた。蓋し先考見節の酬恩意志に因り相迎うに至れるもの。静子性温順我が家にあり家事に従うこと年余に及び、草場猪之吉氏に嫁するに至り、一男四女を出生す。
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因に八代甚六氏に二女あり。次女ゑき子は下関山下*走氏に嫁し、八代の甚六氏逝去後は実弟善平氏同家を継承せり |
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長女松枝子は藤田家へ、次女藤枝子は栗田家へ、三女菊枝子は市山家へ、四女芳枝子は石崎家へ嫁せられ、長男慎一氏は不幸早逝せられたるは悼痛すべきなり。 |
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詠歸曰、以上親愛なる故人となった兄弟等の在世中の概要を記述せるが、実に万感交々至り、残念至極に堪えざる恨事は、各自個性に従い其の知能を発揮すること能わずして、茂一の不可抗力の天災、或いは正五郎の思いがけなき不運の感染により、不幸を見たるは已むを得ざる事由を認めざるあらざるも、要するに、各自業務の進展に伴い、勢日常行為の多端に多忙を致すは自然の理なるも、体育上極めて安閑不注意にして、不規律不摂生に、禍されたるが如き推測観は決して等閑に附すべき問題にああらずして為に何れも遠大なる目標の彼岸に達すること能わざりしは、全く健康の無力に基因するものと断すべく、寔に我が家のため大にしては報国の為、只管痛恨事として、常に悼惜の感禁じ得ざる処である。されば彼の美妙にして偉大なる大自然に接する時、月明朗々不思議の反映は、寂寞の念と共に孤独の情恨を誘致し、ありし日の往時を偲びて、知らず識らず憫むべき幽暗の心理は、暗涙を催すこともある。寔に健康は萬動の源泉である。事業の根本資本であり、大勝利の基力であることは我が家に於ける小なる歴史に徴じても証せられ一層痛感せらるるのである。余は今や兄弟中の一人として古稀の令を迎う。孤独の感は決して都鄙住居事情に関するものでなく、山川風色に関するものでなく、友の多少でもなく、人間の幽暗、慥に「家」なるものの「人間」の間に見出され、何となく薄明の社会観を誘い、淋しき感想に撃たるる悲痛を覚えるのである。
誰も他人の身代わりに健康になることは出来ぬ。「家」としての健康も、個性的責任性を自覚して其の実顕性を顕出して居らねばならぬ。勿論健康は精神的の体操も、又必要に相違はないが、身体の体操訓致が先決的に肝要である。我が親愛なる兄弟が医家に生まれながら、健康力の発揚に処して多く落第の成績に結果して居るのは、洵に残念至極に堪えない。此の後は大に留意して「家」の健康力は精神体操にも、果た亦身体体操にも、偉力を発揮して、盤石の如く堅実なる根源を培養せねばならぬ。宗益第一は八十八、一世見節は八十六、医三代の義齋は八十一であったに拘わらず二世宗益は僅か五十、三世宗益は五十四、二世見節は六十三なるに徴し、比較討究するに、而も医師として健康力の劣性的下降傾向は、祖先に対して洵に慙愧の事実として、特に記述し置くのである。
今や余は、幸いに貞子と共に頑強、人生行路の第二線を終え、将に第三線的陣容に更生し、一層健康美を確保し、日本の世界的大発展の光栄ある余沢に浴せんことを期待する。
京都嵐山区域、桂川の畔に於ける、松尾山麓の詠歸山荘は、是我が人生行路農的自適の第二線であった。近く愈々晩年に処する静養的第三線生活を故山に建設せんとす。而して「神祇と村格」に関する趣味的研究及び「余が人生行路の追想」の起稿は、健康の許す限りに於いて、随時任意道楽的に執筆し、徐に完成を期するが故に、本冊子には稍々詳細に余の履歴書を綴りて之を保留し、又我が子供等にありても一同心身共に健康、今や学業を終え、各自職域に奮闘。家庭を建設し活動中なれば、現在に於ける履歴の一般を記録し、我が家の系図譜として結末となすのである。
茲に附言すべきは、今尚不遇に平凡に、安泰なるを得ざる福子の生活である。
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福子
我が兄弟中、只一人末子の女として明治二十三年十月四日生まれ。父母の愛護撫育に浴して成長し、遂には変則的にして、教育上最も忌むべき学びの道程を、無意義なる義理的事情により、故山の女学校より福岡女学校へ、福岡女学校より東京女子大学高等女学校へと、転々移動せしことである。然れども、何れの学校にありても学業成績極めて優良。教師の信任と賞賛を博した。而して此等急激なる変異に伴う衝動と、環境心理は、人間なるものの内最も人間的たる普遍性か、向上せられざるを得なかったのである。かくして遂には、所謂人間の普遍性を統禦するにあらずして、寧ろ之に酷使せらるるに至る矛盾は、往々にして幾多の悲劇を醸すこととなる事例は、頗る多いことなどを連想するに至った。
東京女子大学寄宿舎在学中、母の病気と逝去により退学を余儀なくされ後、余が松江在職中来って松江高等女学校に転校、卒業の後明治四十三年五月、島根県立濱田中学校教頭文学士厨川肇氏に嫁せるも、家庭の建設遂に成らず、大正二年十月協議離婚し、育英界に志願し再び上京中、実治兄の法律事務所開業に際し、家政に当たりたるが、縁あって実治の同郷の友、法学士吉冨磯太郎氏に再婚せるも、家庭的幾多の不遇なる事情は、再び吉冨家を去るに至り、再来各種の技芸的趣味に勤みつつ、故山に帰るに当たり、余は私見を綴りて之を贈り、至誠勤労、只管自愛を望めり。記念として特に之を揚ぐることとせり。
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人世は過去現在未来に亘りて存在する。深い理法を確と掴み、正しき所信を決然たる態度を以て、現社会に意識的に生活すべきである。思想が過去にのみ止まれば、行為は保守的となりて進歩がない。往々宿命観に随するものである。現在のみに止まれば、行為は刹那主義となり、行き当たり「ばったり」となる。又未来のみ向かうならば空想的となり、急進的となって、軽佻矯激を免れぬものであれば、宜しく過去現在未来の三世の関係を明にし、現在に於いて、過去によって指旨されたるものを知り、現在の中に来たるべき未来の因を正しく認識すること極めて肝要である。
古稀の令を迎え、既往を追想し、現在に照らし、将来に鑑み、最後の私見を概要文に綴りたり。「読書百篇義自適」とある如く、沈思黙考、以て甦生して、清貧なるも而も目に見えざる心の冨は偉数にして、幸福と大安と、光明と平和なる自己を自悟建設せよ。
心清浄なれば、一身は清浄なるものである。一身清浄ならざるは自己の環境も明朗であり得ない。無所得無一文の心境と云うは、自己を忘れることである。禅の別語は無所得の生活である。世間の生活は所得中心として流れて居て、禅では社会苦の根本たる所得を捨ててかかるものである。故に物質上の所得などは勿論進んでは、精神上の所得たる知識学門までも、一応先ず捨ててかかる「アラユル」雑念妄想を始めとしての最後の一念の心まで、すっかり放下する。真の無所得、無一物の処まで突っ込んで行く。其れ修養か。所謂座禅である。明眼の師の指導も、学む者の勇敢なる精進により、自己の身心を徹底して、未生以前の本分を開拓することが禅で云う「見性成仏」である。所得なくては第一に食えぬ故、人間は食うことが先決問題である。食わねば生きられぬが、生死さえ度外してかかる禅であることを悟らねばならぬ。然し又、無所得無一物の精神さ、実社会に活かして行く時は、勤労奉仕となりて、浪費節約などとなることは、能く会得せねばならぬ。無所得心を持って人世に処すれば、世上百般のこと、一として解決せられざるべく、ここに大安神、大安楽、大光明の世界があることを推究自覚せねばならぬ。仏教と云い、禅と云うも、変わった教えではない。不動の智を以て心とする外はなあいのである。参禅辨道は、この不動なる智を我が物にする修業を云うのである。
又、日本精神より云うも、心の邪しきものには、神は閉ざされている。心の清きもののみ神は見える。神は心の「カガミ」鏡である。鏡は清濁正邪をそのまま映する。神の前に於いてこそ、人間は自の心の清濁正邪を真に省みることがあ出来る。神が見えないのは、自ら見えないのである。心の汚濁の故に、見得ないのである。「知」と共に「信」を。「知」に即して「行」を重んずるが、惟神道を実現する。教育の理念もここにある。
要するに、教養訓化を受くる用意ある心構えは「自省」で、国民生活の訓育は結局、自化自育で、即ち人間らしく生きることである。普通位階勲等などのある人とか、又金富の所有者などが、往々立派の人であるが如く、連想さるるが、如此人でも、必ずしも立派な貴い人、人らしい生活の人とは限らない。畢竟、現在の社会は恃むべきは他人にあらず我である。自己以外の一切のものに頼らんとする心が、自己を萎縮させ、滅亡に導くものである。自己更生なる語は卑屈なる依頼心を去ることを云うのである。外なる力が、内なる自己に及す影響には限界がある。自己の信念力なくしては、よし外より救い手が伸ばされても、到底活躍することは出来ないものである。学門あり知識あっても、力なるものは湧き出ぬ。財産あり余力あっても不安を乗り切る確信は、決して付与されるものではない。自己の健康と、熱心と、努力とを恃むこと、即ち自己を知ることである。自己を知れば自信が出来る。信念も樹立され、勝利的に断行が出来る。是自化自育である」云々 (昭和十七年六月十四日 冨久子へ 兄より)
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第九代
栄喜 (詠歸)
明治六年九月一日見節次男として生る。故山小学校を卒え、少年時代より、変則なる学校道程を辿るべく余義され、帰省中の橘雄兄に伴われ、東都に出でたるも、性格嗜好等、到底医者に適せざるを自覚し、特に農学を学習するに至れり。蓋し恩師農学士志賀重ミ先生を始め、故山の先輩農芸化学士奥健蔵氏(旧姓牧野)、及び昆虫学の造詣深かりし小野孫三郎氏等の懇切なる奨導により健全而も札幌農学校に走った。同校は開拓使の直轄学校にして明治九年開拓使黒田清隆長官により、高等学府たる札幌学校の組織を改め、札幌農学校として、米国「マサチユセッツ」農科大学学長たり同時に札幌農学校教頭兼務として招聘に応じ来任せる、化学及び鉱物学者又南北戦争に於ける義勇軍大佐として有名なりし、ドクトル、フィロソフィエー。ドクトル、オヴ、ローズ。「ウイリアム、スミス、クラーク」博士により創設された一風異なった学校で人格陶治、個性尊重、教養的の学風に基づき、所謂「ダルトン」式の教授法。米国大農式の実務、実験、錬成等、独殊の農的教育に愉快にして而も多望なる学校生活を営み、選手として、体育の偉力をも発揮し、所定の学業を了え、其の当時は学位たりし農学士として、雄々しく実社会へ出陣したのであった。
官途生活六十四歳を以て勇退。後進に途を開きたるは、先考見節の一代を標準とせるものにして、京都嵐山、官弊大社松尾神社の邊、幾多の理想的憬望を楽しみ、農的に、山荘生活を営むこと、茲に七星霜に及べり。古稀の頽令を迎えたるも、幸に頑強なるが、時局的一大変異は、憬望の理想達成容易の業にあらざる鑑み、人生行路の第三線として、故山に帰復し、晩年的生活の更新を試みんとするのが現今の環境である。
「詠歸」は、第二線的京都生活を始むるに当たり、既往の号名「海南」を改めたるの、蓋し詠歸は、発音栄喜に通じ、学生生活時代にありて、由縁を得たる。漢学の師山崎益先生の賜れる称号である。即ち論語の所謂「曽点曰、莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞*(雨乞い)、詠而歸。夫子喟然歎曰、吾與點也」の詠歸に因るなり。 |
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後略 |
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地方史料として活用していただければ幸甚です。 管理人 吉冨 寛
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参考史料
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『末廬國』昭和46年12月20日刊 第39号より
唐津の草場一族
“志摩さま”以来の由緒
坂本智生
唐津町の草場氏(平田屋)は、石崎氏(菊屋)、山内氏(木屋)などとともに、志摩さま″以来の由緒を誇りとし、その一族は、それぞれ数家に分れて、惣町の大年寄、居住町の年寄、組頭、或は藩庁の御用達、或は医師として、城下町唐津の貴族的存在であった。
草場氏の出自は、鬼ケ城主草野氏に始まるという。鬼ケ城最後の城主草野中務小輔鎮永は、天正十六年八月、豊臣秀吉に疎まれ、筑前高祖の原田信種とともに、肥後の佐々成政の手下に移され、肥前の草野領は秀吉の蔵入地となって、佐賀の鍋島が代官を仰せつかり、筑前の草野領は小早川隆景に与えられた。原田信種は草野鎮永の実子、鎮永の嗣子となる鎮信は、佐賀龍造寺(鍋島)から養子に来た人、このあたりは戦国末の地方豪族間の政略が渦巻いている。
ところで鎮永には一人男の子がいたわけで、その人を鎮恒という。鎮恒は、初め深江二丈岳城の奈良崎氏の養子となるが、原田草野の肥後転出後、平原村の草場に蟄居、のちに寺沢志摩守に仕えて二百石を宛行れ、その折、氏を草場と改めている。
因みに、鎮信はのちに佐賀に帰って鍋島の家臣となり、信種は朝鮮役に従軍して戦死、その子嘉種は寺沢志摩守の家臣となった。
鎮恒の子の永吉も寺沢氏に仕え、寺沢氏改易のあと、大久保氏が就封するに及んで、大久保氏にも仕えたが程なく致仕して市中に住むこととなる。この永吉に三男一女があり長男の永常は刀町に住して酒造を業とし、家号を丹波屋と称して、屋敷は現在の山口病院辺りであった。永常の妻は、新町河内屋(竹内氏)の娘、丹波屋という家号は、のちに大石町の酒造家にみられるが、はやく没落している。
次男の義空は、初め本町に住し、のちに京町に移って平田屋と号し、呉服兼質商であった。屋敷は現在の西日本相互辺り、妻は同町内の平野屋(舟越氏)から。
義空の子孫は鎮之、滋広、嘉根、嘉邦と続き、嘉邦の子が草場猪之吉。滋広即ち草場太郎左衛門は三十七才の時(明和八年)大町年寄となるが、十二年後の天明二年三月四十九才で死去、当時、長男の嘉根は二才で家業に従事できず、そのうち生活も苦しくなったので、京町の屋敷を常安九右衛門に売渡し、魚屋町に移って薬屋を開いたが、これが当って、のちには京町時代以上の富を築きあげた。嘉根、その子の嘉邦ともに、太郎左衛門或は三右衛門と称し、大町年寄を勤めた。
草場永吉の三男宗益は京町に住し、医を以って業とした。屋敷は現在の古賀家具店辺り、妻は呉服町安楽寺から来ている。宗益の子孫は、豊顕、軌、敬、益太郎と続いて、益太郎の長男友次郎が二世見節。宗益の系統はそれぞれ、宗益または見節と称しており、益太郎は三世宗益ということであって、代々医業精勤ということで、苗字帯刀を許された。
唐津町草場氏の大半は、義空、宗益両家の分れであったが、今日では、消息の知られる家も二、三に過ぎなくなった。
草場猪之吉、草場見節は、いずれも郷土の先覚者として顕彰碑に合祀されており、その業績については冊子が刊行されているので、ここでは略するが、草場見節の嗣子草場栄喜と、三男で山内家(中ノ木屋)を継いだ末喜について少し書いておきたい。
草場栄喜は見節の次男だが、長男が若くして没したので嗣子となった。明治六年九月一日の生れ。明治三十三年七月、札幌農学校本科を卒業。爾来、地方農学校教諭校長、岐阜高等農林学校教授、校長を勤め、昭和十年九月退職。在職中、「実用土壌学」「果樹園芸学」などの著書があり、退職後は、神道に道を求めて神宮皇学館研究科に入学、神祇と家格″なる論文を提出して業を卒え、神宮徴古館農業館顧問を勤めた。唐津に帰郷、大土井に十年余り住んだが、のち唐津を引揚げて間もなく昭和二十八年六月十九日、藤沢市鵠沼海岸の自宅で没した。享年八十一才。
三男末喜は明治八年の生れ。幼い頃、母の実家山内茂兵衛家に養子となる。長じて山内末吉と改む。
大成校を卒業後、京町で印刷業を開いたが、向学心やみがたく、印刷所を同町内の志戸銘三郎に譲って上京し、慶応義塾の理財科を了えて帰郷、たまたま父見節が唐津焼の復興を念願、試焼を重ねてようやく企業としての目論見ができていたので、これに全力を打込み、町田谷町に窯を築き、松島?(弥五郎)などを招へいして陶刻などによる新市場をも開拓せんと、多額の資金を投じ、東京銀座にも唐津焼の販売店を設けたりしたが、特殊な製品で市場も狭く、商法不馴のため経営も意の如く進展せず、奮斗のすえは健康を損うに至ったが、明治四十三年十一月十五日、三十七才で没した。
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今に残る「見節窯」
第二世草場見節のくらし
草場家でいう第二代は草場永吉、第三代は草場宗益といって京町に住んで医業を営んだ。草場家ではこの第三代を医業第一代としている。医業第二代は豊顕といったが、実は宗益に子が無いため筑前黒田侯の家臣原田喜八の子が養嗣子となったのである。医業第三代は軋または義斎と称し、水野侯時代に独特の技術を認められ、官米一苞、御酒を賜わるなどの栄誉に浴した。
第四代敬は、小笠原侯の時、医業特に精励につき帯刀を許された。医学ばかりでなく四書五経にも精通し博学であったが惜しむらく文政十年八月二十二日齢五十歳で卒去。
医業第五代は益太郎といったが、のち宗益と改め第三代宗益となる。医術書の写本のほかに唐詩選、義士定論(浅見先生定論・佐藤先生異説・三宅先生両可説)の如きもあり、俳諧、古家歌集、許六の瓢の辞など丁重に写録するなど趣味の広い人であった。慶応元年七月十四日、五十四歳で卒去。
医業第六代は第三代医業宗益の長男で第二世見節として祖名を継承した。
草場見節は弘化元年(一八四四)二月九日の生れ。文久元年十七歳で熊本の旧藩医深水玄門に就いて七ヵ年間、漢法医学、特に内科を修業して帰郷、明治元年唐津市京町で医者を開業した。明治三年十月には、当時唐津藩の医学校であった橘葉黌の盟主に任ぜられたが、間もなく翌四年七月に唐津藩の命によって今度は肥後玉名郡立花村田尻宗彦先生に就て約一年間産科学の修業に励み、特に産科手術の奥義を修得して帰郷した。明治八年のころには、一般妊産婦の保養救護のため家伝薬を創製して広汎な分布と名声を博した。
草場見節はかような状態で、当時産科医としてその名声は遠近に及んだが、明治二十五年には漢方医術の病院として九州一円に名声高かった熊本の春雨社病院の唐津支社を設置して自らその幹事となり、和漢医学講究会などを開いてその実績を発揚する一方、西洋の医訳書を渉猟しては医学の推移する大勢に順応していった。
草場見節の父、即ち三世宗益は医業を営み、学者であり趣味人ではあったが、これという人気も出ず、医者としては貧困なくらしに明け暮れた。
為に見節はその修業時代に学資がとぼしかったことが身にこたえたと見え、乏しきに耐えることも一つの家訓となし、日を卜して粟飯を炊いて家族みんなで食べる家風を作った。見節は肥後で医学修業時代に呼子の「捕鯨王国」中尾甚六の援助を受けたこともあって、その後、落魄した中尾家の令嬢を養女にして恩返ししたこともあった。また子供たちの東京遊学に際してはそれぞれ一刀をあたえて魂となさしめ、卒業するまでは中途帰省を許さなかったほどの剛情な性格もあった。
草場見節は名声高まるにつれ仕ごとは繁忙を極めたが、その代償としては財力は日増しにゆたかになった。六十二歳を迎えては断然医者を廃業して西の浜に別荘を構え、茶室を建てて悠々自適のくらしに入った。(現在の九電舞鶴荘)親戚知友を招待して盛宴を張るなど余生をたのしんだが、それも束の間、僅か一年余。明治三十九年九月廿八日、齢六十三歳で卒去。
西の浜に別荘を構える以前にも京町邸内に茶室を建てて遠洲流の茶をたのしんでは茶器に興味を寄せ、唐津焼の研究にも頗る熱中していた。
当時は、御用窯の「中里」も休業状態だったので、まず唐津焼の復興を志し、同志とはからって町田の御茶碗窯に日毎通っては中里十一代天祐に指導を請い、たまたま東京美術学校で木彫を修業していたという青年松島弥五郎の来唐をつかまえて、陶彫に手を出すなど、またロクロは三川内から雇い入れ、中里窯を借り試焼を重ねること前後九回にも及んだ。明治二十九年以後のことである。のちには中里窯から敬遠されたので大名小路の小笠原長世(大名小笠原家の一統)の屋敷に窯を築いて焼いた。今日、唐津焼のある時代の作品を「見節窯」というのは右のように草場見節の首唱によって杜絶えていた時代に製作された唐津焼のことを指すのである。この窯の出資者は草場見節を筆頭に小笠原長世。京町橘葉黌の学監であった保利文冥。銀行家大島小太郎の先考大島興義。大乗寺住職たちで各自の出資金は千円だった。−と中里十二代無庵の回想である。
草場見節は、茶人としてもその名が知れていたので、小笠原流の指南番前場行景に就いて諸礼式を会得し、唐津礼式婦人会を組織してその代表者ともなるかたわら、笑山と号し俳句の趣味にも丈けていた。
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