平成12年1月1日 唐津新聞より

熊野原神社に思う

原口*決泰 (*さんずいに央)

 西暦二千年の新春を迎えた。元日には、二千年とい大きな区切りの年というある種の緊張と、二十世紀最後の年という感慨とで、いつもの年よりも改まった気持ちで初詣でをされた方も多かったのではないだろうか。初詣でをされた神社はそれぞれだろうが、そのなかで私は、熊野原神社にはとくに大きな関心を抱いている。それは熊野原神社に伝えられている由緒に、見逃すことのできない、注目すべきことが書かれているからである。そこでその由緒を、「佐賀県神社誌要】によってみると、次のようにある。
 祭神
・速玉男命(はやたまのおのみこと)
・家津御子大神(けつみこのおおかみ)
・夫須美大神(ふすみのおおかみ)
・大山祗命(おおやまつみのみこと)
・応神天皇
・猿田彦命
・神田五郎霊

 神功皇后征韓の砌(みぎり)、此の松原の上に白光現はれ、海上を照し、舟師の方向を示ししかば、諸軍遥かに之を拝し、有難き不知火の擁護かなと称へ、此の地に祠を立て不知火神社と称へたり。天武天皇白鳳五年、郡内疫癘(えきれい)流行し、死するもの少なからず。里人之を嘆き、不知火神社に祈りしに、六月初旬、胸白の烏十二羽来り、社頭の古木に止まり、夜に入り霊光を放つ。里人あやしみて之を〆せしに、十二の鳥は熊野大神の神霊なりと。之より熊野原神社と称す。

一読してわかるように、この由緒は二つの説話で構成されている。一つは神功皇后にまつわる伝説であり、いま一つは天武天皇の時代の伝承である。神功皇后にかかわる話はあてになるものではないが、このとき立てられた不知火神社という名称はともかく、それ以前からこの地の里人によってまつられていた祠があったことを物語るものであろう。これにたいして、後段の説話は重要である。
 そこで後段の記事をかんたんに鋭明すると、天武天皇の時代(六七二〜六八六)−白鳳五年とあるが、白鳳という年号はない−に伝染病(疫癘)が流行したことがあったのであろう。衛生思想もきわめて低く、防疫・予防・治療の技術も未発達の時代であるから、ひとたび伝染病が発生すればたちまち蔓延し、手のほどこしようもなかった。里人は古くからまつってきた祠に祈りを捧げて、一日も早い鎮静を願うほかはなかった。ところが、その祈りにこたえるかのように、「胸白の鳥】がどこからともなく飛来して、「社頭の古木」に止まった。この奇瑞によって、さしもの「疫癘」はようやくおさまったのであった。この「十二の烏は熊野大神の神霊」であったので、それ以来この祠を熊野原神社と称するようになった、というのである。

 とかく神社や寺院の由緒や縁起は、あてにならないものが多い。しかし、この熊野原神社の由緒のこの部分には、たあいもない話として見逃すことのできないものがある。その一つは、どこからともなく飛んできた十二羽のカラスが、「熊野大神の神聖であったといっていることである。熊野大神とは、紀伊半島の南端、和歌山県の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の、いわゆる熊野三山の祭神のことであろう。この三山は総称して熊野大社とよばれている。そして、この熊野大社の神の使いとされているのは、私たちがふだん見なれている色の黒いカラス(鴉)である。
 ところが、熊野原神社(不知火神社)に飛来したのは色の黒い鴉ではなく、「胸白の烏】であった。だといえば、すぐに思い浮ぶのはカササギ(鵲)である。カササギは朝鮮半島南部に広く生息している鳥である。最近ではその生息範囲が拡大して、唐津の市内でも上場の各地ででもよく見かけるが、かつては佐賀平野にしかいなかった。これは豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、従軍した佐賀の鍋島直茂が、この鳥の啼き声によって敵の偽計を見破って勝利したとか、啼き声が「カチカチ」と聞えて縁起がよいとかいうことで、捕えて帰り佐賀平野に放ったものといわれている。またそういうことからカチガラスともよばれている。しかし、カササギは朝鮮語でカチ(@@)というのであるから、カチガラスのいわれもあまりあてにはならない。

 それはともかく、もともとカササギは日本には生息していない鳥である。朝鮮にしかいないはずのカササギ(胸白の鳥)が飛んできて、「社頭の古木」に止まったというのである。この「社頭の古木」というのは、百済地方の古い習俗である「ソッテ」のことにちがいない。ソッテというのは、村の入口に立てられるもので、長い木の棒の先端に鳥形の木製品をとりつけたものである。鳥越憲三郎氏によれば、村の入口の道をはさんで両側の木に注連縄を張り渡し、そこにこのソッテを立てるのだという。

 棒の先端にとりつけられた鳥の形象物は、天の神が降臨するときの乗り物、つまり、天の神はその鳥に乗って天降ってくると信じられているのである。天の神を招き降らせることによって、村への邪霊の侵入を防ぎ、村人の平穏無事と五穀の豊饒を守ろうとするのである。
したがってソッテが立てられているところは、神聖な場所とされている(鳥越憲三郎「古代朝鮮倭族」中公新書)。

 このソッテを立てる習俗は早く日本に伝来しており、大阪の池上遺跡や四ツ池遺跡をはじめ、弥生時代の中期から後期にかけての各地の遺跡から、数多くの鳥形木製品が発見されており、棒の先端に装着されたことを示すものも多くある。このことは、弥生時代のムラでも、その入口にソッテが立てられていたことを物語っている。

 私は、熊野原神社の由緒に語られている「里人」というのは、百済からの渡来系の人たちではなかったかと考えている。悪疫が流行して多くの人がばたばたと倒れ、手のほどこしようもなくなったとき、かれらはより霊験あらたかな、もっとも頼りになる神を招き寄せることによって、一日も早い「疫癘】の鎮静を願った。もっとも神聖で信頼できる神、それはかつて故国百済で深く信じ、崇めていた神であったにちがいない。その神を降臨させるためには、故国の鳥カササギを、故国の習俗であるソッテにとりつけて立てた方が、もっとも期待できると考えたであろう。熊野原神社の由緒は、そのことを反映したものと考えている。また、神功皇后にまつわる祠(不知火神社)というのは、かれら百済系渡来集団の祖霊をまつった祖神廟を意味しているのであろう。

 さきに「胸白の鳥」は「熊野大神の神霊」ではないと書いたが、もし由緒がいう通りであれば、社号は【熊野原神社」ではなく、「熊野神社」でよいはずである。そうではなく「原」という一字がつけ加わっていることからも、紀伊の熊野大社とは関係がないと考えている。祭神のうちの速玉之男命・家津御子大神・夫須美大神の山柱は熊野三山の祭神であるが、これらは後世、「熊野」という共通する社号に付会されて加えられたものにちがいない。当社の本来の祭神は、その次に書かれている大山祗命であろう。

興味深いことに、大山祗命については「伊予国風土記」逸文に、次のようにある(吉野裕訳「風土記」平凡社東洋文庫)。
 乎知(おち)の郡(こおり)、御島(みしま)においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(わたし)(渡海)の大神である。……
 この神は百済の国から渡っておいでになりまして、 摂津の国の御島においでになった、云々。……
 はじめの「乎知の郡、御島」というのが、現在の愛媛県越智郡大三島で、ここには全国各地の大山祗神社の総本社がある。そして注目すべきことに、「この神は百済の国から渡っておいでになりまして」と、百済からの渡来神であることを「風土記」は明記している。
 「熊野原」という社号や地名が何に由来するのか、くわしく検討する余裕はないが、熊は朝鮮ではもっとも神聖な動物とされ、その朝鮮語読みの「コム」が、朝鮮の代名詞コマ(高麗)となり、日本ではカミ(神)となった。野と原はどちらも「ナラ」で、国という意味もある。したがって熊野は「コムナラ」であって、「聖なる土地」「神聖な祖霊を祀る所」という意味になろう。さらに「原」を重ねることによって、その意味を強調したのではないだろうか。
 そして、この地域一帯に百済(古くは馬韓)から人びとが渡来し、生産活動を展開したのは、縄文時代終末期から弥生時代にかけてであった。熊野原の西方、ほど近いところに菜畑遺跡があり、日本最初の稲作遺跡として有名である。この菜畑遺跡からは多数の朝鮮系、とくに百済系の磨製石器が出土し、日本への稲作伝来のルートが百済を経由していることが明らかになった。菜畑ではじめて稲作をはじめたのは、縄文時代終末期に百済(馬韓)地方からの渡来人であったと考えられる。
 熊野原と莱畑の中間の桜馬場一帯は弥生時代のカメ棺墓遺跡で、そのなかの一基からは後漢鏡である方格泉矩四神鏡や巴形銅器、有鉤鋼釧などが出土していて(いずれも国の重要文化財指定)末露国の後期の王墓であろうとされている。桜馬場遺跡のカメ棺墓に葬られた人びとも、百済地方からの渡来系の人びとだったのかもしれない。
 韓国は「近くて遠い国」とよくいわれるが、古い時代にさかのばってみると、近くて近い関係にあったことがわかる。熊野原神社はその一つで、たいへん古い起源をもっていると考えている。