唐津くんちの曳山行事は、唐津神社の秋祭りで行われる行事で、唐津曳山と称する一閑張りによる豪華な作り物が曳きまわされる。最も古い刀町の赤獅子が、伊勢参りの帰途、京都祇園祭りを見た者により作られたと伝えられ、その後、各町で獅子、兜、鯛、飛龍などが作られ、曳山は今日14台を数える。
                              文化庁文化遺産データベースより

(これは文化財指定の際に提出して採用された文言です。)

一閑張りはおかしいのではと思いながらも、文化庁に登録してあるので仕方ないとするか、間違いを認めて言ったり書いたりしないかは、本人の意思任せ。恥ずかしくない唐津くんちを伝えていきたい。.

(AIによる唐津くんちは文化庁のサイトを認識して一閑張りを使用している。これは由々しき事。文化庁の文言を替えることが必要となった。
令和6年12月6日

                         管理人:吉冨寛 令和元年5月27日
 一閑張り考

15年ほど前、熊本城天守閣に加藤清正の兜が展示してありました。
「一閑張り」という説明書きがしてありました。
ご存じ烏帽子の兜です。ちょっと小振りでしたが、実戦用の物ではないと思われます。
崩れかけている部分には麻布が見えていました。

 ット上で唐津の曳山の製法について論議したことがありました。
問題になったのは「一閑張り」という表現です。

この「一閑張り」、誰が言い出したのか。

京町の相談役、江頭義輝先輩から貴重な情報入手しました。

呉服町の式年祭の際、当時の総取締脇山英治氏が祝辞で次のように述べられたそうです。
「唐津の曳山の製法を「一閑張り」と呼ぶことに決めました。」と

そこで、それがいつだったかを検証してみました。


まずはこれ!

一閑張 唐津

これで検索しましたら、@神田中村さんの次の記事が最初に引っかかります。


http://jamfunk.net/~karatsu/nakamura/ikkan.htm


唐津人の常識、「一閑張り」に物申す

作:@神田中村 編:唐津人@巣鴨
2005年11月23日制作
〔唐松板・研究序説スレ648-652番レス 2005/11/22〕



唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・1

いつかこういう事を言われるだろうと、かなり前から危惧してはいましたが、実際面と向かって言われると結構こたえました・・・それでは久々に考察シリーズです。

自分の趣味の一つに、休日に時間が出来ると曳山展示場でぼーっと過ごす事があります。先日も久々に14台に囲まれて至福の時を過ごしておりました・・・が・・・。

展示場で流れるくんち紹介のDVDを見ていたご婦人が一言、
「あら!これって一閑張りなの?へぇー・・・そうは見えんねえ・・・。」
正直、ついに来たかと思いました。その時、自分はそのご婦人のすぐ後ろに立っていたので、一応曳山の造りを説明しました。すると・・・
「さっきビデオで2トンから5トンって言ってたけど大袈裟じゃない?だって一閑張りでしょ?」と、かなり困惑されています。もしやと思ってご職業を聞いてみると、案の定、ハンドクラフトの先生との事でした・・・。それではこの件についての説明と自分の考証を書き綴っていきます。


唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・2 ~「一閑張り」の起源~

唐津の人間でくんちと曳山に興味のある者にとっては、「一閑張り」と言う言葉はもはや常識となっています。それがどんなものか、おそらくは概要は一通りみなさん説明はできるでしょう。

唐津市ポータルサイトの説明
『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』

くんちに関わるほとんどの方はこう理解されているでしょう。しかし、残念ながらこれは実は日本中でも唐津でしか通用しない「常識」です。

『一閑張りの歴史と洗練』
それでは真の一閑張りとはどのような物なのでしょう。時代は桃山時代まで遡ります。
中国では明から清へ時代が移ろうとしていた激動の時代。その時代の流れを避けるように日本へ亡命してきた一人の男がいました。その名を「飛来一閑(ひきいっかん)」。
彼は日本の静かなたたずまいに感銘を受け、有名な茶人でもあったある住職様のもとで茶の湯に親しむ事になります。身一つで亡命してきた彼は、茶道具を揃えたくても財が無い。そこで身の回りにあった紙を木型に張って塗りを施し、棗や茶盆をこしらえて清貧なる茶の湯を楽しんでいました。

やがてその素朴で朴訥な張子の味わいに感銘を受けた茶道裏千家第三代宗匠、千宗旦によって茶道具の作成を依頼されるまでになったのです。「一閑張り」の誕生です。


唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・3 ~一般常識としての「一閑張り」~

さて、最初に戻ります。なぜあのハンドクラフトの先生は「一閑張り」と聞いてあんな反応をしたのか・・・・・。

実は今日本で「一閑張り」と言えば、ほとんどの方はこういったものを思い浮かべるはずです。

試しにYAHOOなりGoogleなりで「一閑張り」を検索してみてください。
でるわでるわ、柿渋で手作り・ざる張り教室・・・・・・・・・

前述した本来の一閑張りは、最終的には漆塗りの芸術品の高みに上りつめました。
しかし、一閑張りが生まれたばかりの頃は素人の手習いであり、言い換えれば素人さんの手習いにはぴったりだったわけです。比較的簡単に、しかも安価に、できばえは結構見栄えがすると言う事で、そのテの教室が日本中に広まっていきました。唐津でもカルチャーセンターで教室が開かれているくらいです。・・・・・・・

ここで再び要約します。つまり一般的に言う「一閑張り」とは『古くなったザルや籠に紙を張り、柿渋で塗り固めて再利用できるようにした日用品』の事です。

・・・・・このイメージで赤獅子を想像してみて下さい・・・・・ヽ( ;´Д`)ノ



唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・4 ~唐津曳山の「一閑張り」そして「脱乾漆」~

これまで、「本来の一閑張り」と「一般的に言う一閑張り」の違いを説明してきました。
いよいよここで曳山の登場です。しつこいようですが、再度書きます。
唐津市ポータルサイトの説明
『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』

本来、一閑張りは茶道具の為に生まれたもので、このような巨大なものを造るための技法ではありません。
実は曳山作成の工程では、「紙を張り抜く」「漆で仕上げる」という2点しか一閑張りとの共通点が無いのです。
じゃあ曳山はどういう造りなのでしょう・・・。調べに調べました、約一ヶ月・・・。キーポイントは「麻布」でした。

一閑張りと曳山造りとの最大の相違点はその大きさと「麻布張り」です。
[画像1](リンク切れ)
[画像2](リンク切れ)

上は魚屋町の尻尾蓋、下は呉服町の喉当てです。両方共、何百枚もの和紙と、それを覆い尽くす麻布の存在が見て取れます。単なる補強にしては、各町内とも作成方法に統一性があります。
もしかすると麻布を使った巨大構造物の造り方があったのではないかとアタリをつけました。
・・・・・・・・・そしてようやくこれにたどりつきました。

『脱乾漆』
http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/zaishitu/kanshitu.html リンク切れ



唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・5 ~曳山作成法の呼称への提言~

型を使った張り抜きの技法、漆を幾重にも塗り重ねる、巨大な物体を軽く造るための技術、歪みを防ぐ為の芯木(竜骨)の存在。・・・・・脱乾漆のあらゆる技術が曳山の作成法と重なります。

但し、ここには唐津曳山のもう一つの特徴である「和紙」の存在が全く出てきません。

「一閑張り」と「脱乾漆」。この二つの優れた技術を掛け合わせた時、初めて唐津曳山はその姿を現したのではないでしょうか。仏像製作技術である脱乾漆だけでも曳山は造れたはずです。そこに美術工芸品製作技術である一閑張りの技法をミックスさせた唐津の先人こそ、賞賛に値する人々だったと自分は思います。

であれば、唐津独自の呼称を与えるべきだったのではないでしょうか。

今更「漆の一閑張り」という呼称は変えられないでしょう・・・しかし、これからも「一閑張り」と聞いて柿渋張子を思い浮かべる観光客の方はいらっしゃる事でしょうし自分的にはあまり納得がいかないのも事実です。「からつ張り」?「ヤマ漆」?

・・・・・・・・・どなたか、良い知恵をお貸し下さい・・・・・・・・・


                                        終了。
 また、くんちマニアのおじゃがさんも次のような独り言を
 ~曳山まにあ・おじゃがの独り言~ その22
『曳山のはなし』を斬る! ②一閑張りの語源

曳山の事ば少々知っとる人に曳山は何で出来とるとやろうか?っち訊いたら
和紙ば張り合わせて出来とる、て言わすやろ。
もっと詳しい人に訊いたら『一閑張り』で出来とる、て言わすて思ちょります。
更に踏み込んで一閑張りちゃ何ね?て訊いても答えは出らんて思います。
そして『曳山のはなし』では次の通り。
>最初に粘土で原型を作る。その上を良質な和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。
>乾かしては張り乾かしては張りして200枚位張る。2寸乃至3寸位(約6~9cm)
>希望の厚さになるまで貼る。これを「いっかんばり」という。(以下略
とあるとです。一閑張りの説明はあるけども当時は漠然と一閑張りとだけ。
きっと他の唐津ん者に聞いてもそこまでしか解らんやったとでしょう。
そこでネットで調べたら次の様な内容の出てくるとです。
>一閑張りは、紙を張り合わせて柿渋と漆で加工し、いろいろな器物をつくる技法で、
>明人の飛来一閑(1578-1657)が寛永のころ(1624-44) 京都に来て伝えたものである。
つまり一閑張りの語源は飛来一閑さんの名前からとった工法って事で良かごたるとです。


ネットで検索すると複数の一閑張りの情報が検索されてきますが、工法はどれも同じです。
由来は兎も角、しっかりと細かい処まで工法が伝わっている事に感心してしまいます。

江頭相談役の話、呉服町の式典がいつだったのかを先ずはっきりさせなければなりません。そしてその時に脇山英治さんが総取締をしておられることが必須条件。

唐津神社社報
第26号  昭和48年10月1日発行にありました。

二番曳山中町青獅子と四番曳山呉服町義経の兜は誕生以来百五十年と百三十年のめでたい式年の年を迎えた。
 中町は文政七年、呉服町は天保十五年に夫々製作し奉納されたものである。
 唐津神社のおくんち祭は寛文年中にはじめて神輿渡御が行われ、それから九十一年の後、宝歴2年から氏子の町々から傘鉾山がお供をした。又その後五十年を経て享和年中には走り山が作られたが、それから十八年後の文政二年に現在の刀町赤獅子が生れ、明治九年水主町まで五十七年間に十五台の曳山が生れた。
 寛文年中に神輿のおでましがはじまってから実に三百年を超える年月である。その中で中町と呉服町の曳山は、三番山材木町をはさんで二十年の隔りがある。
 当時はいわゆる化政文化が花ひらいた時代で、明治維新の変革期までのよき時代であったのであろう。

今年このめでたい年を迎えた中町では十月十二日文化会館で披露をし、式年祭を執行し、その後曳山を中町に曳据え、町内で神酒を披露をして祝福した。
 又、呉服町は九月二十三日の秋分の日を卜して式年祭を執り行ない、文化会館に於て来賓多数を招いて式典を催し、曳山は呉服町へ曳出し町内式典を行った。



つまり昭和48年9月23日、市民会館の大会議室で行われた祝宴の祝辞で「一閑張り」は公式となったわけです。

しかし、この「一閑張り」という表現を脇山英治氏が如何にして思いつかれたのか。
昭和48年9月23日以前のくんち関係資料に一閑張りの文字が登場するかを調べてみました。

社報には第30号 昭和50年10月1日発行で初めて登場します。
その中でも当時の宮司戸川健太郎さんは次のように書き記しておられます。

 尚この曳山は漉の紙を、渋を加えたる蕨糊にて何枚も何枚も貼り固めたるものを更に漆塗にしたるものにて、所謂一閑張としては実に大きく美しくそして強く世にも珍らしきものなり。


曳山のバイブルのひとつである古舘正右衛門著「曳山のはなし」では
既に一閑張りという表現が定着している。

この本は昭和60年2月の出版。しかし、没後の出版である。氏は昭和54年11月17日歿。取材はと言うと、その数年前から。京町の取材は向かいの岩下正忠さんを呼んで、うちの店先で行われた。氏が無類のヤマキチとは言え、他町(米屋町以外)の事はやはり詳しくない。恐らく昭和48年以降の取材。

ここでは次のように表現している。


古舘正右衛門著「曳山のはなし」
より

 (2) 製作技術

 曳山の主要部分をなす獅子頭乃至兜の部分は漆器である。恐らく日本一、世界でも最大級の漆器であろう。重心を支える心棒の支点には内側に板を張り、その板をネヂ釘式に漆器にボルトで止め、その板を心棒が支えて前後左右に動くようになっている。

 水主町の曳山で一度心棒がはずれて漆張りのところに直接当ったけれどもその重量(水主町の曳山は約二頓)を支えてなおかつ漆張りの部分が破損しなかったそうである。このようにして鉄骨も木心も全く使っていない完全な漆器である。

 なお、漆器部(一閑張)の製作方法については刀町の曳山の項に記載している。

中略

この曳山の本体の作り方がその後のヤマの作り方の手本となっているので、その方法を書きとどめておく。

 一色健太郎氏の話によれば、最初に粘土で原型を作る。その上を良質の和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。乾かしては張り乾かしては張りして二百枚位張る。二寸乃至三寸位(約六~九センチメートル)希望の厚さになるまで貼る。これを「いっかんばり」という。適当な厚さになったとき、中の粘土をとりはずす。

 次に内側も生漆と麦粉とまぜたもので麻布を貼る。少くとも二回は貼る。次に外側で凹凸を是正し細かい細工を必要とする箇所は「こくそ」(細かい鋸くずと漆とをまぜたもの)を塗る。次に砥の粉と漆とをまぜたもので塗る。一回毎によく乾かして、少くとも七・八回は塗る。これを「シタジ」という。こうして乾燥したものを砥石で磨く。初め荒砥を使い、のち仕上砥を使う。

 最後に上塗りをする。上塗り漆(生漆を精製し-中塗り漆とは製法が少し異っている、染料を加えて色をつけたもの)を塗って、一回毎に蝋色炭で磨き上げる。上塗りも少くとも二、三回行う。そうして、その上に角石(かくせき)と称して鹿の角を白焼きした粉と種油と「すりうるし」(艶つけ専用に作ったもの)とをまぜたもので塗り、手指または綿につけて丹念に磨き上げる。その上に金箔または銀箔などを施す。



では、正右衛門に対する飯田一郎先生は、「神と佛の民俗学」ではというと


飯田一郎先生「神と佛の民俗学」
より


(二) 製作技術

 ヤマの主要部分をなす獅子頭乃至兜の部分は漆器である。恐らく日本国中従って世界でも最大級の漆器なのではあるまいか。重心を支える心棒の支点には内側に板を張り、その板をネジ釘式に漆器にボルトで止め、その板を心棒が支えて前後左右に動くようになっている。水主町のヤマで一度心棒がはずれて漆張りのところに直接当ったけれども、その重量(水主町のヤマは二トン)を支えてなおかつ漆張りの部分が破損しなかったそうである。
 このようにして鉄骨も木心も全く使っていない、完全な漆器なのである。
 その製法はその法を伝えたという米屋町の一色健太郎氏の談によると次の如くであるという。最初に粘土で原型を作る。その上を良質の和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。乾かしては張り乾かしては張りして二百枚位張る。二寸乃至三寸位希望の厚さになるまで貼る。これは「いつかんばり」と言う。適当な厚さになったとき、中の粘土をとりはずす。次に内側も外側もきうるしと麦粉とまぜたもので麻布を貼る。少くとも二回は貼る。
 次に外側で凸凹を是正し、細かい細工を必要とする箇所は「こくそ」(細かい鋸くずとうるしとをまぜたもの)を塗る。次に砥の粉とうるしとまぜたもので塗る。一回毎によく乾かして、少くとも七八回は塗る。これを「シタジ」と言う。こうして乾燥したものを砥石で磨く。初め荒砥を使い、のち仕上砥を使う。
 こうした後で、中塗りうるし(きうるしを精製したもの)を少くとも二三回塗る。毎回乾かして、その都度静岡炭で磨く。
 最後に上塗りをする。上塗りうるし (きうるしを精製し-中塗りうるしとは製法が少し異っている-染料を加えて色をつけたもの)を塗って、一回毎に蝋色炭で磨き上げる。上塗りも少くとも二三回行うのである。そうしてその上に角石(かくせき)と称して鹿の角を白焼きした粉と種油と「すりうるし」(艶つけ専用に作ったもの)とをまぜたもので塗り、手箱または綿につけて丹念に磨き上げる。その上に金箔また銀箔などを施すのである。
 こうした製作には略半歳を要し、製作費も従って莫大で、記録によれば大石町の鳳凰丸が弘化三年製作当時一千七百五十両を要したという。一色氏の記憶によると、同氏が施工された昭和廿八年本町金獅子の塗替は塗替だけで六十五万円、翌廿九年塗替した材木町の浦島に亀は同じく六十五万円を要したとのことである。
 

初版は1966年9月30日、つまり昭和41年。
 しかし、この原稿はそれ以前の物で、この章の最後に(昭和34年3月佐賀県文化財調査報告書第八集)と記されている。昭和34年には既に一閑張りという表現が取り入れてある。言い出しっぺはどうも一色健太郎氏のようである。

『曳山のはなし』の中のいっかんばりは『神と佛の民俗学』の記述から引用してあるようである。しかし、この「一閑張り(いっかんばり・いつかんばり)と言う」は何を挿しているのか。粘土型の上に何枚もの和紙を蕨煎で貼っていき二寸乃至三寸位(約六~九センチメートル)の厚さにすることを挿しているのか。

それに続く工程、粘土型を抜いて内側外側共に漆と麦粉を混ぜた物で麻布を貼る作業から始まるは、もはや一閑張りとは言わない


唐津曳山考 坂本智生ではどうでしょうか?
検索しましたが出てきません。

だめ
押し!
戸川鐵さんではどうでしょう?

【付記10】漆の一閑張りの曳山
  (昭47.11.11.記)
 刀町曳山「赤獅子」は唐津で初めてできた漆の一閑張の曳山です。漆の一閑張とは、木型の上に和紙を幾重にも貼り重ね、漆で固めてから木型をはずしたもので、唐津では旧藩時代、紙方役所というものがあって、和紙の生産には特に力を入れていました。
 日本各地で産土(うぶすな)の祭りに山鉾を曳き廻すところは多いのですが、唐津の曳山に類するものは例を見ません。現在は県の重要民俗資料(注4)に指定されています。
 漆一閑張の作りかたについての詳細は、「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)の36頁と37頁を参照してください。
    (以上、唐津市文化会館発行の案内書による)

注4)唐津くんちの祭り行事は、その後、昭和55年1月28日に、国の重要無形民俗文化財に指定されました。(平2.10.30.追記)

 

昭和47年ですね。
この頃には一閑張りはしっかりと市民権を得ている。

 
これまでのものを纏めて、私なりに推理するならば次の通りである。

昭和34年3月佐賀県文化財調査報告書第八集を書き上げるために飯田一郎さんが一色健太郎さんに製法を尋ねたところ、「いっかんばり」という単語を聞き出し、それを報告書に記載した。
 ② 曳山の出動は昭和26年に始まるが、次の昭和39年宝塚出動以降、対外的にも構造の正式な名称が必要になり10数年間、総取締は花田繁二氏から脇山英治氏に変わり、昭和48年9月23日の呉服町130年祭式典の際、文化会館大会議室での祝辞の中で製法・工法の正式名称を「一閑張り」とすると明言された。
   次に疑問点
昭和34年以前も一色さんの中では「一閑張り」が通っていたのか?
 ② 昭和48年9月23日の新聞記事にヒントがあるのではないか。


昨年(2008年)の京町珠取獅子総塗替の際、専門家委員の先生方が開催される審議会の席で、当事者として臨席させていただき、審議会終了後、柳橋教授に「一閑張り」の呼び名について質問した。「脱活乾漆像ではないでしょうか」と。
教授は「強いて申せば紙胎でしょう」と。

紙胎?
一閑張り

分からなくなった。???

やはり神田中村氏が書かれたように、ここで麻布が登場して脱活乾漆像という表現が正しいような気がする。
 
ここで大切な資料を忘れておりました。
坂本智生さんの「唐津曳山の歴史」
そこには実に詳しく製法が書かれています。


坂本智生さんの「唐津曳山の歴史」より

 四、「ヤマ」 の構造と製作技法
 唐津曳山の特徴は、頑丈で素朴な台車の造りと、優美でしかも巨大、堅牢な漆細工の本体である。
 台車には四つの車がついて、大きな綱で引き廻るようになっている。一つ一つの車は、厚さ十五糎ほどの平角材を板目で接ぎ合せ、径一米五糎ほどの円板に切り出し、周りを鉄輪で締め付けた、鈍重な感じのベカ車である京都の祇園山や飛騨高山の屋台にみられる御所車風の大八とは対象的といえる。
 台の部分も樫造りの頑丈な、底の浅い箱状のもので全部を茶漆で仕上げてある。その大きさは刀町で地上から一米(車が半分ほどをみえる)、前後二米四五、幅二米三五ほど、中町で高さ一米、前後二米四〇、幅二米一〇、其の他も大差なく、ただ大石町や江川町など本体が前後に長い場合は台もいくらか大きい。三つ囃子と称される、笛、鐘、太鼓の山囃子はここではやされる。
 台の中央には、中空の筒状の大きな柱がたてられる。その中には、ヤマの本体である漆細工の獅子頭などを、その重心で支える心棒が差込まれる格好となる。柱と心棒とは滑車と綱で連結されているので、綱の巻具合でヤマの高さを調整できる。刀町のヤマで最高六米三〇から最低三米七〇、中町で最高五米六〇、最低三米七〇。一定の高さに固定するためには、柱と心棒に柄穴(せいけつ)があるので、そこに栓木(せんぎ)を差込んで止める。柱と心棒は、大きなヤマの場合それぞれ二本となり、支柱がつくこともある。
 この様に、ヤマの高低を変化させることを「センギを上げる(下げる)」とか、「ロクロを上げる(下げる)」というが、栓木を通す心棒の柄穴は三段となっていて、上段は停止して展示する場合、下段は収蔵の姿勢となっている。

 漆細工のヤマ本体は次のようにして造形され、彩色される。
 最初に粘土で原型が作られる。その上に良質の和紙を何枚も貼り重ねる。使はれる糊は蕨煎或は渋煎といい、蕨をせんじて作った糊に渋を加えたもの。乾いては貼り乾いては貼りして二百枚ほども重ねていくと二寸三寸と希望の厚さに達する。その上で原型を抜き、形が崩れない様に木の枠で内側から補強する。
 次に生漆と麦粉とを混ぜ合せて作ったもので、内側と外側に二回ほど麻布を貼る。それから外側の凹凸を調整し、細かい細工を必要とする所には「こくそ」(細かい鋸屑と漆を混ぜて作ったもの)を盛り上げる。次に、砥の粉と漆を混ぜたものを、一回一回よく乾かして少なくとも七、八回は塗る。これを下地といい、こうして乾燥したものを砥石で磨く、初めは荒砥を使い、のちに仕上砥を使う。こうしたあとで中塗漆(生漆を精製したもの)を二、三回は塗る。塗る度によく乾かし、静岡炭で磨く。
 最後に上塗りをするが、上塗漆は、中塗漆を更に異なる方法で精製したもので、これに染料を加えて着色したものを二、三回は塗る。この場もその都度、蝋色炭で磨き上げ、最後に角石(かくせき)と称する鹿の角を白焼きした粉と種油と、「すり漆」という艶つけ専用の漆を混ぜたもので、手指かまたは綿につけて丹念に磨き上げる。後は、金箔、銀箔などを施して仕上りとする。
 以上の様な製法を昔の人は「張り抜き」とか「張子細工」とか称したが、最近ではこれを「いつかんばり」といっている。所謂「一閑張」と同様のものと理解されているものと思う。
 ところで、この様にして造られた曳山は、何日くらいの日数を要したものだろうか。昔のことは全く不明なので、たまたま昭和五年に古いヤマを放棄して新らしくヤマを作り変えた水主町の例を参考に取り上げてみると、原型を作るのに三十五日、これは市内東町住の瓦師が作った。紙張り、即ち和紙を貼重ねて型抜きするまでが六百五十日、漆塗りが百九日となっている。
紙張りは専ら町内の女達が公役(くやく)として勤め、漆塗りは能登輪島から笹屋が出張してきて仕事をしている。笹屋は明治以前から唐津地方を丁場とした塗師である。尤も塗師は輪島に限らず、筑後の榎津や地元の者もヤマ作りに参加した例も多い。
 最後にヤマ作りに要した経費だが、大石町のヤマが弘化三年の製作で一千七百五十両を要したと伝えられているほかは知らない。水主町の場合、四千円の予算だったが足が出たと話す人もいる。


 一閑張りに関する情報をお寄せ下さい。


もう一度本来の一閑張りというものを見てみましょう。

一閑張りで検索してみました。



一閑張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一閑張とは、日本伝統工芸品のこと。またはその伝統工芸品を作る方法のこと。一貫張と書かれることもある。

名前

から日本に亡命した飛来一閑が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説がある。農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので一閑張と呼ばれるようになったという説もある。

一貫の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方もある。

作り方
で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。張り子と作り方が似ている。

当時の農民や庶民に広まった「ボテ張り技術」を一閑張と名づけて伝統工芸になってることもあるので注意が必要。 ※ボテ張りはボンド・工業用のりや米のり等で和紙等を張り作るもので「庶民」が簡単に作ることが出来る技法の一つである。

用途
食器などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形お面などにも使われている。

食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない。

 
 三省堂大辞林
いっかんばり [0] 【一閑張(り)】
漆器の一。木型を使って紙を張り重ね,型から抜き取って漆を塗った器具木地に紙を張ったものもある。薄茶器香合・箱・などが作られた。
一閑張りの画像はこちら 

一閑張りの画像を見てエ!と驚く唐津の方が多いと思いますが、これらが俗に一閑張りと呼ばれるものなのです。
改めて唐津の曳山は全くの別物ですね。
 

展示場の曳山を見た漆芸家がこれは一閑張りではないと言われたとき、良い例えを示してくれたそうです。「ジャンボジェット機を指さして紙飛行機と呼ぶようなもの」と。蓋し名言なり。

 


次に脱活乾漆で検索してみましたら
面白い動画を見つけました。


その1:興福寺仏像 脱活乾漆造りの技法

その2:復元技術 (2)文化財の復元~甦る脱活乾漆技法~

これらを見ることで、唐津の曳山は脱活乾漆製法によりつくられたと確信しました。
巨大な脱活乾漆像は唐津名産だった和紙の両サイドを麻布と漆で挟み込んで造形したもので、実際にくんちには動かすので引きやネジレが生じます。強度を増すために木組みで補強をしています。


動画を見終わった方、
想像してみて下さい。

工程1:先ず骨組みの周りに藁や籾殻を芯にしてその上に粘土型を作ります。

工程2:その上に麻布を漆で固めていき、二層ほど重ねていき固化します。

工程3: 次に表面に和紙をわらび糊で貼り合わせ何層も重ねていきます。ここで紙胎を作っていきます。一寸位の厚さにします。

工程4:紙胎が乾いたところで再びその上に麻布を乗せ漆で固めていきます。

工程5:完全に固まったところで内側の粘土型を外します。

工程6:内側に梁や竜骨や木組みを施す。

工程7:竜骨など曳山本体に接した部分は麻布を着せて漆で固めていく。

工程8:表面は麦漆や木屎漆で整形し、錆漆を塗り表面をなめらかにする。研ぎ出し、更に色彩を施して完成
いかがでしょうか? 違っていたらご指導下さい。




最後に本年(平成26年)7月11日に開催されました、「日本民藝夏期学校」が唐津虹ノ松原ホテルで開催され、「民藝」編集委員会、木曽の漆工、佐藤阡朗さんがご講演され、唐津の曳山にも触れられたそうです。また、その冊子「民藝七月号 第739号には、編輯後記に木曽の漆工、佐藤阡朗さんが次のように書き記しておられました。

編輯後記
 唐津くんち曳山を飾る巨大な漆塗りのヤマは11月に巡行する。二トンにもなる曳山の工法は、いわば三尺球の花火の殻の何倍もの厚さと大きさを、局面の多い赤獅子など木型に粘土の肉付けしその上に和紙を数cm厚さに張り上げ更に麻布などを漆張りし、下地、塗りを重ね、中の粘土、木枠を抜き取って造形する。
 漆蝋色仕上げ後金銀蒔絵、箔置き彩色で仕上がっていて絢爛たる巨大型抜き乾漆像である。これは異例な「脱乾漆法」である。
 仏像の乾漆、茶道具の一閑張り、ダルマ等の張り披き一閑等、伝統の漆工技法名にはない稀な工法で器胎が作られていて、「くんち曳山、張込み一閑乾漆技法」とでも名づけるのか至当である。
 かなり重量は増すが形が歪まず、強靱な耐震、耐衝撃性を持つ。まことに稀な技法を継承して来たものだと驚く。今回夏期学校で現物が見れる。新しく物事を知るのは実にたのしい。 (佐藤)
 

更にfacebookで問題提起したところ多久島修さんが的確にお応えいただきました。敢えてそのままをUPいたしました。


多久島修
5月11日

今から10年ほど前に記載したレポートを再編しました。

唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・1

いつかこういう事を言われるだろうと、かなり前から危惧してはいましたが、実際面と向かって言われると結構こたえました・・・...
それでは、唐津で言う【一閑張り】について考察してみます。

自分の趣味の一つに、休日に時間が出来ると曳山展示場でぼーっと過ごす事があります。
先日も久々に14台に囲まれて至福の時を過ごしておりました。が。

展示場で流れるくんち紹介のDVDを見ていたご婦人が一言、
「あら!これって一閑張りなの?へぇー・・・そうは見えんねえ・・・。」
正直、ついに来たかと思いました。その時、自分はそのご婦人のすぐ後ろに立っていたので、一応曳山の造りを説明しました。すると・・・
「さっきビデオで2トンから5トンって言ってたけど大袈裟じゃない?だって一閑張りでしょ?」
と、かなり困惑されています。もしやと思ってご職業を聞いてみると、案の定、ハンドクラフトの先生との事でした・・・。
それではこの件についての説明と自分の考証を書き綴っていきます。

唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・2 ~「一閑張り」の起源~

唐津の人間でくんちと曳山に興味のある者にとっては、「一閑張り」と言う言葉はもはや常識となっています。それがどんなものか、おそらくは概要は一通りみなさん説明はできるでしょう。
唐津市ポータルサイトの説明
『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』

くんちに関わるほとんどの方はこう理解されているでしょう。しかし、残念ながらこれは実は日本中でも唐津でしか通用しない「常識」です。

『一閑張りの誕生と洗練』
それでは真の一閑張りとはどのような物なのでしょう。時代は桃山時代まで遡ります。
中国では明から清へ時代が移ろうとしていた激動の時代。その時代の流れを避けるように日本へ亡命してきた一人の男がいました。その名を「飛来一閑(ひきいっかん)」。
彼は日本の静かなたたずまいに感銘を受け、有名な茶人でもあったある住職様のもとで茶の湯に親しむ事になります。
身一つで亡命してきた彼は、茶道具を揃えたくても財が無い。そこで身の回りにあった紙を木型に張って塗りを施し、棗や茶盆をこしらえて清貧なる茶の湯を楽しんでいました。

やがてその素朴で朴訥な張子の味わいに感銘を受けた茶道裏千家第三代宗匠、千宗旦によって茶道具の作成を依頼されるまでになったのです。
この茶道具は評判となり一閑張りと呼ばれるようになりました。
これが「一閑張り」の誕生です。

唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・3 ~一般常識としての「一閑張り」~

さて、最初に戻ります。なぜあのハンドクラフトの先生は「一閑張り」と聞いてあんな反応をしたのか・・・・・。

実は今日本で「一閑張り」と言えば、ほとんどの方はこういったものを 思い浮かべるはずです。
http://blogs.c.yimg.jp/…/m…/folder/401979/96/27179196/img_1…

試しにYAHOOなりGoogleな りで「一閑張り」を検索してみてください。
出るわ出るわ、柿渋で手作り・ざる張り教室・・・・・・・・・

前述した本来の一閑張りは、最終的には漆塗りの芸術品の高みに上りつめました。
しかし、一閑張りが生まれたばかりの頃は素人の作品であり、言い換えれば素人さんの手習いにはぴったりだったわけです。比較的簡単に、しかも安価に、できばえは結構見栄えがすると言う事で、そのテの教室が日本中に広まっていきました。唐津でもカルチャーセンターで教室が開かれているくらいです。・・・・・・・

ここで再び要約します。つまり一般的に言う「一閑張り」とは
『古くなったザルや籠に紙を張り、柿渋で塗り固めて再利用できるようにした日用品』の事です。

このイメージで赤獅子を想像してみて下さい・・・ヽ( ;´Д`)ノ 。

唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・4 ~唐津曳山の「一閑張り」そして「脱乾漆」~

これまで、「本来の一閑張り」と「一般的に言う一閑張り」の違いを説明してきました。
いよいよここで曳山の登場です。しつこいようですが、再度書きます。
唐津市ポータルサイトの説明
『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』

本来、一閑張りは茶道具の為に生まれたもので、このような巨大なものを造るための技法ではありません。
実は曳山作成の工程では、「紙を張り抜く」「漆で仕上げる」という2点しか一閑張りとの共通点が無いのです。
じゃあ曳山はどういう造りなのでしょう・・・。調べに調べました、約一ヶ月・・・。キーポイントは「麻布」でした。

一閑張りと曳山造りとの最大の相違点はその大きさと「麻布張り」です。

下の 画像は魚屋町の尻尾蓋です。何百枚もの和紙と、それを覆い尽くす麻布の存在が見て取れます。単なる補強にしては、各町内とも作成方法に統一性があります。
もしかすると麻布を使った巨大構造物の造り方があったのではないかとアタリをつけました。
・・・・・・・・・そしてようやくこれにたどりつきました。

『脱活乾漆像』
http://ashura.kokaratu.com/04ashura04.html

唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・5 ~曳山作成法の呼称への提言~

型を使った張り抜きの技法、漆を幾重にも塗り重ねる、巨大な物体を軽く造るための技術、歪みを防ぐ為の芯木(竜骨)の存在。・・・・・脱乾漆のあらゆる技術が曳山の作成法と重なります。

但し、ここには唐津曳山のもう一つの特徴である「和紙」の存在が全く出てきません。

「一閑張り」と「脱乾漆」。この二つの優れた技術を掛け合わせた時、初めて唐津曳山はその姿を現したのではないでしょうか。仏像製作技術である脱乾漆だけでも曳山は造れたはずです。そこに美術工芸品製作技術である一閑張りの技法をミックスさせた唐津の先人こそ、賞賛に値する人々だったと自分は思います。

であれば、唐津独自の呼称を与えるべきだったのではないでしょうか。

今更「漆の一閑張り」という呼称は変えられないでしょう・・・しかし、これからも「一閑張り」と聞いて柿渋張子を思い浮かべる観光客の方はいらっしゃる事でしょうし自分的にはあまり納得がいかないのも事実です。「からつ張り」?「ヤマ漆」?

・・・どなたか、良い知恵をお貸し下さい・・・・。



吉冨寛
茶道具にはどの様に登場するのでしょうか?



多久島修

お茶の世界では、特に三千家(表・裏・武者小路)に道具を収めている職人衆の中で特に傑出した十家の職人達を「千家十職」と言う名の尊称で呼び習わしています。「茶碗師」「釜師」「塗師」「指物師」などの中に「一閑張細工師」として、現在は十六代飛来一閑氏が女性当主として作品を生み出しておられます。写真は、初代飛来一閑作『朱押紅葉棗』です。



吉冨寛
この棗は張り抜きによって作られているのですか?



多久島修
はい。張り抜きです。師匠から借り受けた棗に和紙を十数枚張り重ね、原型の棗を抜いた紙型を漆で塗り固めた物です。
例えば博多祇園山笠などは、竹組の骨格を作ってそれに衣装を着せるものなので、念入りに作るのは首から上や手足の先のみという事になりますよね。。。http://www.shinkyo-nakamura.jp/2012yamakasa.html



吉冨寛
唐津以外の山車に乗せる作り物などはどの様にして作っているのでしょうか。

紙胎というキーワードは外せません。




多久島修
中里紀元センセイによると、山車人形の中でも特に「江戸型山車」、中でも山王祭が唐津くんちの原型ではないかという説を述べてらっしゃいました。少々無理が有るのではないかとも思いますが、確かに行列形態は、かつての羽熊行列が有った頃のくんち行列に似ています。(これが当時の流行でもあった訳ですが)http://ja.wikipedia.org/・・・/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9E%8B・・・



吉冨寛
■ 紙胎(したい) 一閑張(いっかんばり)

木型に紙を張り重ね、漆で固める技法。紙も布と同様、漆との塗相性がいいので直接塗布する方法をとる。紙胎は2000年以上も前から行われていた技法だが、近世以降は中国から帰化した塗師・飛来一閑が創始した紙胎の技法にちなんで、一閑張とも呼ばれる。

またこんがらがってきました。



多久島修
吉富さん。「紙胎」≒「一閑張」に異論はありません。「一閑張とは何?」と聞かれたら、自分は「乾漆製作法の中でも紙を芯とした紙胎と呼ばれる物で、茶道具等に使われる美術工芸品の事です。」と答えます。しかし、「紙胎乾漆」には、唐津の曳山製作法のキモである『麻布』や『竜骨』が存在しないんです。そして『脱活乾漆』には、唐津の曳山製作法のもう一つのキモである『紙胎』が存在しない。つまり、『紙胎脱活乾漆』という、世界中で全く類を見ない超大型漆器こそが曳山の正体だと自分は思っています。



多久島修
【『夾紵』と『乾漆』】

唐津の曳山製作技術について調べを進めているのですが、ここに来て
『夾紵(きょうちょ)』という言葉が浮上して来ました。
「夾」...
きょう。挟み込む事。
「紵」
ちょ。カラムシ。繊維を取る為に栽培された植物の事。

即ち『夾紵』とは、漆工芸の技術で「植物繊維によって漆を挟み込んで整形した工芸品」の事のようです。
更に調べると、かなり古い言葉である事が判明しました。

http://www.lyu.org.tw/lyu/Q&A_37.htm

この中国の仏像解説のサイトに、興味深い一文が有りました。
「夾紵像是用漆、泥、麻布所製成脫胎之像。又名乾漆像」
(夾紵像とは、漆・泥・麻布で作った脱胎像。またの名を乾漆像。)

決まりですね。「夾紵=乾漆」。

更に、
「造像時先用泥塑成形,再以麻布貼於泥模上,然後層層慢慢塗漆,至所須厚度時,待漆乾燥凝固後,在除去其中的泥土,在表面上貼飾裝鑾,即成相好莊嚴的夾紵像。」
(像を造るには先ず塑像(粘土型)を作り、その上に麻布を貼り、漆で層を為す様に何回も貼り重ねる。適度な厚さになったら漆が凝固するまで待つ。その後、内部の塑像の泥土を取り除く。そして表面に装飾を施せば、荘厳な夾紵像が完成する。)

これはもう完全に『脱活乾漆』の事ですね(^^)。
ここに『和紙』のプロセスが加われば、唐津曳山が完成です。




5月22日
多久島修

先日UPした一閑張りについてのお話。
「唐津の曳山が紙胎になった理由」について、4年ほど前に
自分の考えを纏めておりましたので、この機会に再UP致します。
(あくまで自分個人の考えです。専門家の方のご意見をお聞きしたい!)

【真・一閑張りに物申す】

「唐津検定」検定日も間近となりました。(※2011年9月現在)
実を言うと、受験テキストである『唐津探訪』を読んだ事がなかった私。

何はともあれ、唐津くんちのページを開いてみました。
「九日(くんち)」の解説。担ぎヤマ、走りヤマの詳細。
そして何より・・・
ようやく「有力な商人」へと地位を改められた石崎翁の説明に目頭が熱くなりました。 と こ ろ が 

「曳山本体は一閑張りという手の込んだ作りとなっています。」

この表現は良いと思います。唐津での一閑張はそういう理解ですから。

しかし・・・

「竹などである程度の骨組を作り、和紙を幾重にも貼り合わせて
  厚みをつくり、その表面に漆を塗っています。内側には木枠を
   取り付けて支えています。こうした制作方法は
     一閑張りといわれています。」

この表現には問題があるのではないかと首を捻らざるを得ませんでした。

ここで再度『一閑張り』とは何なのか。唐津曳山の製作法は何だったのか。 纏めてみたいと思います。

1:『一閑張りとは何か』

まず「一閑張り」という言葉が既に一人歩きをしているという状況を理解してください。

A.「真の意味での一閑張り」
B.「唐津で言われる一閑張り」

Bについては今更説明の必要は無いと思いますので、Aについて解説します。

A.「真の意味での一閑張り」
西暦1600年頃、当時の中国が明から清へと移ろうとしていた激動の頃。
淅江省の飛来峰という山の麓に暮らしていた僧侶が、戦乱を避ける為に親交のあった京都の寺院、大徳寺の和尚様を頼って来日されました。

大徳寺での暮らしの中、茶人でもあった和尚様の紹介で彼は、千利休の孫である千宗旦と交流する事となります。

そんな中、清貧の生活を送っていた異国の僧侶は、茶道を嗜みたくとも茶道具の一つも持ち合わせが無かった為、大徳寺の和尚様の持つ茶道具を借り受け、それに和紙を貼って「張りぼて」を作り、それに漆を塗ってなけなしの茶道具としてお茶を楽しんでいました。

ある日、その僧侶の作った張りぼてを見た千宗旦は、その侘びた風情に感じ入り、自ら茶道具製作の指導まで行うようになりました。

その後、その僧侶は大徳寺に帰依し、名を生まれ故郷にちなんで
「飛来一閑(ひきいっかん)」と名乗る事になったのです。

彼の作った茶道具は洗練の極みをたどり、名品『一閑張り』と称されるまでになりました。

初代飛来一閑作「朱押紅葉棗」 【写真1】

この黒棗は張貫きの技法で作られた物で、これが典型的な一閑張りです。
後で説明する「一閑塗り」と区別する為に『貼貫一閑』と呼ばれた事もありますが、つまり原型の上に和紙を貼って型を抜いた一閑張りの事です。

十五代飛来一閑作「寿色盆」 【写真2】

この漆盆は上の棗と違い、張貫きの技法を使わずに木製の素地に和紙を張り、そのまま漆で仕上げた物で「一閑塗り」と呼ばれます。素地の木目や凹凸がうっすらと現れ、一閑張りとはまた違った風情です。

現在の一閑は16代。女性当主で「千家十職」のお一人です。【写真3】

つまり、真の意味での一閑張りとは
「渡来僧飛来一閑が作り出した紙胎漆器の茶道具」 の事なのです。

2:『唐津曳山の製作法』

それでは、もし本来の一閑張りという製作方法で曳山を作ったとしましょう。多分、走り出した途端に支柱で支えている部分から自重で破壊していく事でしょう(^^;)。

そもそも茶道具の為に洗練された漆器ですから、このような巨大な物体を支える強度はありませんし、想定もしていません。

そこで今一度、唐津くんちの曳山の製作方法を紐解いてみます。

『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね 麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』

この表現には実は、ポイントになる部分と、足りない部分があるのです。

【ポイントの部分】→麻布等を張る。 【写真4】

この写真は、破損した鯛山の尻尾蓋です。
紙胎部分を完全に麻布が覆い、その上から漆で固められている事が分かります。

【足りない部分】→本体の補強。 【写真5】

こちらも鯛山ですが、内側から写した写真です。本体を補強する為に本体の全体に「梁」の木材が張り巡らされているのが見て取れます。

「大きな物体を軽く作るために、原型の上に麻布を張り、漆で塗り固めて原型を抜き、補強と歪み防止の為に内側を木枠で補強する。」

実はそんな大型漆器の製作方法が日本には大昔から存在するのです。

『脱活乾漆(だっかつかんしつ)』

これは、かつて日本の木造建築の最大の敵が「火事」だった時代、本尊である 仏像を、火が回る前に救出する為に「なるべく軽く作る技術」として生まれました。

代表作が 興福寺「阿修羅立像」です。

修復中の写真です。中が空洞になっているのがわかります。【写真6】

そして、曳山の製作法が詳細に書かれた飯田先生の「神と佛の民俗学」。

「最初に粘土で原型を作る。その上を良質の和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。乾かしては張り乾かしては張りして二百枚位張る。二寸乃至三寸位希望の厚さになるまで貼る。これは「いつかんばり」と言う。適当な厚さになったとき、中の粘土をとりはずす。次に内側も外側もきうるしと麦粉とまぜたもので麻布を貼る。少くとも二回は貼る。
 次に外側で凸凹を是正し、細かい細工を必要とする箇所は「こくそ」(細かい鋸くずとうるしとをまぜたもの)を塗る。次に砥の粉とうるしとまぜたもので塗る。一回毎によく乾かして、少くとも七八回は塗る。これを「シタジ」と言う。こうして乾燥したものを砥石で磨く。初め荒砥を使い、のち仕上砥を使う。
 こうした後で、中塗りうるし(きうるしを精製したもの)を少くとも二三回塗る。毎回乾かして、その都度静岡炭で磨く。
 最後に上塗りをする。上塗りうるし (きうるしを精製し-中塗りうるしとは製法が少し異っている-染料を加えて色をつけたもの)を塗って、一回毎に蝋色炭で磨き上げる。上塗りも少くとも二三回行うのである。そうしてその上に角石(かくせき)と称して鹿の角を白焼きした粉と種油と「すりうるし」(艶つけ専用に作ったもの)とをまぜたもので塗り、手箱または綿につけて丹念に磨き上げる。その上に金箔また銀箔などを施すのである。」

長文ですが、この文面をよく読んだ上で、
この映像を御覧下さい。

https://youtu.be/P-DcSrTYLY0

これはまさに、唐津曳山の製作方法そのものではないでしょうか。

ただし、

ここには『和紙』が全くその姿を現しません。

「唐津は和紙の産地であり、曳山の材料として適当であった。」

自分もこの説を鵜呑みにしていたのですが、この動画を何度も見返しているうちに、二つの事が引っ掛り始めました。

『漆糊を塗った麻布は乾燥に猛烈な時間がかかる。
          この仏像の完成には3年以上を要した。』

『大量の漆と麻布のみで固める脱乾漆は
       大変な費用がかかる為、天平時代で消滅した。』

唐津曳山はあの巨大な造型にもかかわらず2年前後で完成しています。
・・・つまり・・・

中に和紙を大量に使用する事で、脱活乾漆の最大のネックであった
「乾燥の遅さ」と「莫大な費用」を解決したのではないか。

と自分は考えました。

それならば、なおさら「一閑張り」という一言で片付けてはいけないと思うのです。

※江戸期には既に幻の技法であった「脱乾漆」を見つけ出し。
※更にその弱点を克服する為に「紙胎」の技法をミックスさせた。

素晴しきかな、唐津の先達達よ。
願わくばこの素晴しき製作法にふさわしき名が与えられん事を祈ります。





これらのfacebookでのやり取りをご覧いただき、然るべき名前がつけられますように。 吉冨寛


ここで一閑張り関係のものを比較してみよう。
これも多久島さんが纏めてくれた。

左から一閑張(茶道具)・唐津曳山・脱活乾漆像・ザル張(これも今では一閑張で通っている)

 

ご覧の通り。
やはり唐津の曳山は独自の製法と言うべきだろう。
 紙塑漆体という言葉があるが、これを調査中
 

過ちては改むるに憚ること勿れ

乾漆造 と表現してはいかがかな

いかがでしょうか? 違っていたらご指導下さい。







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