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一閑張り考 |
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15年ほど前、熊本城天守閣に加藤清正の兜が展示してありました。 「一閑張り」という説明書きがしてありました。 ご存じ烏帽子の兜です。ちょっと小振りでしたが、実戦用の物ではないと思われます。 崩れかけている部分には麻布が見えていました。 ネット上で唐津の曳山の製法について論議したことがありました。 問題になったのは「一閑張り」という表現です。 この「一閑張り」、誰が言い出したのか。 京町の相談役、江頭義輝先輩から貴重な情報入手しました。 呉服町の式年祭の際、当時の総取締脇山英治氏が祝辞で次のように述べられたそうです。 「唐津の曳山の製法を「一閑張り」と呼ぶことに決めました。」と そこで、それがいつだったかを検証してみました。 まずはこれ! 一閑張 唐津 これで検索しましたら、@神田中村さんの次の記事が最初に引っかかります。 |
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http://jamfunk.net/~karatsu/nakamura/ikkan.htm 唐津人の常識、「一閑張り」に物申す 作:@神田中村 編:唐津人@巣鴨 2005年11月23日制作 〔唐松板・研究序説スレ648-652番レス 2005/11/22〕 唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・1 いつかこういう事を言われるだろうと、かなり前から危惧してはいましたが、実際面と向かって言われると結構こたえました・・・それでは久々に考察シリーズです。 自分の趣味の一つに、休日に時間が出来ると曳山展示場でぼーっと過ごす事があります。先日も久々に14台に囲まれて至福の時を過ごしておりました・・・が・・・。 展示場で流れるくんち紹介のDVDを見ていたご婦人が一言、 「あら!これって一閑張りなの?へぇー・・・そうは見えんねえ・・・。」 正直、ついに来たかと思いました。その時、自分はそのご婦人のすぐ後ろに立っていたので、一応曳山の造りを説明しました。すると・・・ 「さっきビデオで2トンから5トンって言ってたけど大袈裟じゃない?だって一閑張りでしょ?」と、かなり困惑されています。もしやと思ってご職業を聞いてみると、案の定、ハンドクラフトの先生との事でした・・・。それではこの件についての説明と自分の考証を書き綴っていきます。 唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・2 ~「一閑張り」の起源~ 唐津の人間でくんちと曳山に興味のある者にとっては、「一閑張り」と言う言葉はもはや常識となっています。それがどんなものか、おそらくは概要は一通りみなさん説明はできるでしょう。 唐津市ポータルサイトの説明 『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』 くんちに関わるほとんどの方はこう理解されているでしょう。しかし、残念ながらこれは実は日本中でも唐津でしか通用しない「常識」です。 『一閑張りの歴史と洗練』 それでは真の一閑張りとはどのような物なのでしょう。時代は桃山時代まで遡ります。 中国では明から清へ時代が移ろうとしていた激動の時代。その時代の流れを避けるように日本へ亡命してきた一人の男がいました。その名を「飛来一閑(ひきいっかん)」。 彼は日本の静かなたたずまいに感銘を受け、有名な茶人でもあったある住職様のもとで茶の湯に親しむ事になります。身一つで亡命してきた彼は、茶道具を揃えたくても財が無い。そこで身の回りにあった紙を木型に張って塗りを施し、棗や茶盆をこしらえて清貧なる茶の湯を楽しんでいました。 やがてその素朴で朴訥な張子の味わいに感銘を受けた茶道裏千家第三代宗匠、千宗旦によって茶道具の作成を依頼されるまでになったのです。「一閑張り」の誕生です。 唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・3 ~一般常識としての「一閑張り」~ さて、最初に戻ります。なぜあのハンドクラフトの先生は「一閑張り」と聞いてあんな反応をしたのか・・・・・。 実は今日本で「一閑張り」と言えば、ほとんどの方はこういったものを思い浮かべるはずです。 試しにYAHOOなりGoogleなりで「一閑張り」を検索してみてください。 でるわでるわ、柿渋で手作り・ざる張り教室・・・・・・・・・ 前述した本来の一閑張りは、最終的には漆塗りの芸術品の高みに上りつめました。 しかし、一閑張りが生まれたばかりの頃は素人の手習いであり、言い換えれば素人さんの手習いにはぴったりだったわけです。比較的簡単に、しかも安価に、できばえは結構見栄えがすると言う事で、そのテの教室が日本中に広まっていきました。唐津でもカルチャーセンターで教室が開かれているくらいです。・・・・・・・ ここで再び要約します。つまり一般的に言う「一閑張り」とは『古くなったザルや籠に紙を張り、柿渋で塗り固めて再利用できるようにした日用品』の事です。 ・・・・・このイメージで赤獅子を想像してみて下さい・・・・・ヽ( ;´Д`)ノ 唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・4 ~唐津曳山の「一閑張り」そして「脱乾漆」~ これまで、「本来の一閑張り」と「一般的に言う一閑張り」の違いを説明してきました。 いよいよここで曳山の登場です。しつこいようですが、再度書きます。 唐津市ポータルサイトの説明 『「漆の一閑張」、本体を木組みし粘土の原型や木型の上に和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもの。』 本来、一閑張りは茶道具の為に生まれたもので、このような巨大なものを造るための技法ではありません。 実は曳山作成の工程では、「紙を張り抜く」「漆で仕上げる」という2点しか一閑張りとの共通点が無いのです。 じゃあ曳山はどういう造りなのでしょう・・・。調べに調べました、約一ヶ月・・・。キーポイントは「麻布」でした。 一閑張りと曳山造りとの最大の相違点はその大きさと「麻布張り」です。 [画像1](リンク切れ) [画像2](リンク切れ) 上は魚屋町の尻尾蓋、下は呉服町の喉当てです。両方共、何百枚もの和紙と、それを覆い尽くす麻布の存在が見て取れます。単なる補強にしては、各町内とも作成方法に統一性があります。 もしかすると麻布を使った巨大構造物の造り方があったのではないかとアタリをつけました。 ・・・・・・・・・そしてようやくこれにたどりつきました。 『脱乾漆』 http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/zaishitu/kanshitu.html リンク切れ 唐津人の常識、「一閑張り」に物申す・5 ~曳山作成法の呼称への提言~ 型を使った張り抜きの技法、漆を幾重にも塗り重ねる、巨大な物体を軽く造るための技術、歪みを防ぐ為の芯木(竜骨)の存在。・・・・・脱乾漆のあらゆる技術が曳山の作成法と重なります。 但し、ここには唐津曳山のもう一つの特徴である「和紙」の存在が全く出てきません。 「一閑張り」と「脱乾漆」。この二つの優れた技術を掛け合わせた時、初めて唐津曳山はその姿を現したのではないでしょうか。仏像製作技術である脱乾漆だけでも曳山は造れたはずです。そこに美術工芸品製作技術である一閑張りの技法をミックスさせた唐津の先人こそ、賞賛に値する人々だったと自分は思います。 であれば、唐津独自の呼称を与えるべきだったのではないでしょうか。 今更「漆の一閑張り」という呼称は変えられないでしょう・・・しかし、これからも「一閑張り」と聞いて柿渋張子を思い浮かべる観光客の方はいらっしゃる事でしょうし自分的にはあまり納得がいかないのも事実です。「からつ張り」?「ヤマ漆」? ・・・・・・・・・どなたか、良い知恵をお貸し下さい・・・・・・・・・ 終了。 |
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また、くんちマニアのおじゃがさんも次のような独り言を | ||||||||||
~曳山まにあ・おじゃがの独り言~ その22 『曳山のはなし』を斬る! ②一閑張りの語源 曳山の事ば少々知っとる人に曳山は何で出来とるとやろうか?っち訊いたら 和紙ば張り合わせて出来とる、て言わすやろ。 もっと詳しい人に訊いたら『一閑張り』で出来とる、て言わすて思ちょります。 更に踏み込んで一閑張りちゃ何ね?て訊いても答えは出らんて思います。 そして『曳山のはなし』では次の通り。 >最初に粘土で原型を作る。その上を良質な和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。 >乾かしては張り乾かしては張りして200枚位張る。2寸乃至3寸位(約6~9cm) >希望の厚さになるまで貼る。これを「いっかんばり」という。(以下略 とあるとです。一閑張りの説明はあるけども当時は漠然と一閑張りとだけ。 きっと他の唐津ん者に聞いてもそこまでしか解らんやったとでしょう。 そこでネットで調べたら次の様な内容の出てくるとです。 >一閑張りは、紙を張り合わせて柿渋と漆で加工し、いろいろな器物をつくる技法で、 >明人の飛来一閑(1578-1657)が寛永のころ(1624-44) 京都に来て伝えたものである。 つまり一閑張りの語源は飛来一閑さんの名前からとった工法って事で良かごたるとです。 ネットで検索すると複数の一閑張りの情報が検索されてきますが、工法はどれも同じです。 由来は兎も角、しっかりと細かい処まで工法が伝わっている事に感心してしまいます。 |
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江頭相談役の話、呉服町の式典がいつだったのかを先ずはっきりさせなければなりません。そしてその時に脇山英治さんが総取締をしておられることが必須条件。
つまり昭和48年9月23日、市民会館の大会議室で行われた祝宴の祝辞で「一閑張り」は公式となったわけです。 しかし、この「一閑張り」という表現を脇山英治氏が如何にして思いつかれたのか。 昭和48年9月23日以前のくんち関係資料に一閑張りの文字が登場するかを調べてみました。 社報には第30号 昭和50年10月1日発行で初めて登場します。 その中でも当時の宮司戸川健太郎さんは次のように書き記しておられます。
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曳山のバイブルのひとつである古舘正右衛門著「曳山のはなし」では 既に一閑張りという表現が定着している。 この本は昭和60年2月の出版。しかし、没後の出版である。氏は昭和54年11月17日歿。取材はと言うと、その数年前から。京町の取材は向かいの岩下正忠さんを呼んで、うちの店先で行われた。氏が無類のヤマキチとは言え、他町(米屋町以外)の事はやはり詳しくない。恐らく昭和48年以降の取材。 ここでは次のように表現している。
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では、正右衛門に対する飯田一郎先生は、「神と佛の民俗学」ではというと
初版は1966年9月30日、つまり昭和41年。 しかし、この原稿はそれ以前の物で、この章の最後に(昭和34年3月佐賀県文化財調査報告書第八集)と記されている。昭和34年には既に一閑張りという表現が取り入れてある。言い出しっぺはどうも一色健太郎氏のようである。 『曳山のはなし』の中のいっかんばりは『神と佛の民俗学』の記述から引用してあるようである。しかし、この「一閑張り(いっかんばり・いつかんばり)と言う」は何を挿しているのか。粘土型の上に何枚もの和紙を蕨煎で貼っていき二寸乃至三寸位(約六~九センチメートル)の厚さにすることを挿しているのか。 それに続く工程、粘土型を抜いて内側外側共に漆と麦粉を混ぜた物で麻布を貼る作業から始まるは、もはや一閑張りとは言わない |
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唐津曳山考 坂本智生ではどうでしょうか? 検索しましたが出てきません。 |
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だめ押し! 戸川鐵さんではどうでしょう?
昭和47年ですね。 この頃には一閑張りはしっかりと市民権を得ている。 |
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これまでのものを纏めて、私なりに推理するならば次の通りである。
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昨年(2008年)の京町珠取獅子総塗替の際、専門家委員の先生方が開催される審議会の席で、当事者として臨席させていただき、審議会終了後、柳橋教授に「一閑張り」の呼び名について質問した。「脱活乾漆像ではないでしょうか」と。 教授は「強いて申せば紙胎でしょう」と。 紙胎? 一閑張り? 分からなくなった。??? やはり神田中村氏が書かれたように、ここで麻布が登場して脱活乾漆像という表現が正しいような気がする。 |
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ここで大切な資料を忘れておりました。 坂本智生さんの「唐津曳山の歴史」 そこには実に詳しく製法が書かれています。
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![]() もう一度本来の一閑張りというものを見てみましょう。 一閑張りで検索してみました。
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次に脱活乾漆で検索してみましたら 面白い動画を見つけました。 その1:興福寺仏像 脱活乾漆造りの技法 その2:復元技術 (2)文化財の復元~甦る脱活乾漆技法~ これらを見ることで、唐津の曳山は脱活乾漆製法によりつくられたと確信しました。 巨大な脱活乾漆像は唐津名産だった和紙の両サイドを麻布と漆で挟み込んで造形したもので、実際にくんちには動かすので引きやネジレが生じます。強度を増すために木組みで補強をしています。 動画を見終わった方、 想像してみて下さい。 工程1:先ず骨組みの周りに藁や籾殻を芯にしてその上に粘土型を作ります。 工程2:その上に麻布を漆で固めていき、二層ほど重ねていき固化します。 工程3: 次に表面に和紙をわらび糊で貼り合わせ何層も重ねていきます。ここで紙胎を作っていきます。一寸位の厚さにします。 工程4:紙胎が乾いたところで再びその上に麻布を乗せ漆で固めていきます。 工程5:完全に固まったところで内側の粘土型を外します。 工程6:内側に梁や竜骨や木組みを施す。 工程7:竜骨など曳山本体に接した部分は麻布を着せて漆で固めていく。 工程8:表面は麦漆や木屎漆で整形し、錆漆を塗り表面をなめらかにする。研ぎ出し、更に色彩を施して完成 いかがでしょうか? 違っていたらご指導下さい。 ![]() |
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最後に本年(平成26年)7月11日に開催されました、「日本民藝夏期学校」が唐津虹ノ松原ホテルで開催され、「民藝」編集委員会、木曽の漆工、佐藤阡朗さんがご講演され、唐津の曳山にも触れられたそうです。また、その冊子「民藝七月号 第739号には、編輯後記に木曽の漆工、佐藤阡朗さんが次のように書き記しておられました。
過ちては改むるに憚ること勿れ |
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乾漆造 と表現してはいかがかな いかがでしょうか? 違っていたらご指導下さい。 ![]() |