佐賀県文化財調査報告書 第八集
    −唐津山笠−

佐賀県教育委員会
昭和34年3月10日印刷
昭和34年3月31日発行
   
  編纂 佐賀県教育庁社会教育課
発行 佐賀県教育委員会
印刷 佐賀県印刷局


      緒    言

 衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習及びこれに用いられる衣服・器具家屋その他の物件でわが国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないものを民俗資料というと、文化財保護法には定義づけてあります。
 この民俗資料は私たちの日常生活に最も身近なものであって、一面から見れば日常生活それ自体が民俗資料であるともいえるのであります。これらの有形・無形の民俗資料は私たちのおかれた歴史的・地理的環境によって形成されたもので、これを正しく理解することは極めて大切なことであると思うのであります。
 有形民俗資料の一つに、古くからわが国民の信仰の一表現として神社の祭典に用いられたヤマがありますが、このヤマは時の経過と共に多くの形式に分れ、また全国各地に用いられるに至っております。佐賀県に於ても現在数ヶ所にその存在が知られています。
 その中で昨年佐賀県重要民俗資料として指定された唐津山笠は、全国的に見ても極めて特色のある注目すべきものでありますが、これについて学問的に究明されたことはいまだ一度もないという現状でありました。
 今般、佐賀県文化財専門委員飯田一郎氏が唐津山笠の関係資料を各方面に亘って調査し考証された玉稿をこの報告書に登載する機会を得ましたことは、これら民俗資料に対する関心と理解を深める上からも極めて意義深いものがあることを思い欣快に存ずると共に、筆者に深甚の謝意を表する次第であります。


    昭和三十四年三月

           佐賀県教育委員会 教育長 坂 井 隆 治



唐津のヤマについて 

佐賀県文化財専門委員
  飯田一郎

佐賀県内所在の山笠一覧    社会教育課編

   所在地  祭典期日  台数  概要
 1  唐津市城内 唐津神社  10月29日・30日
(唐津くんち)
 14 佐賀県重要民俗資料(指定)
本調査報告書に登載 
 2  東松浦郡呼子町小友八坂神社  旧暦6月14日・15日  1 山笠は高さ十米余にのぼる豪華な飾り山笠であって、毎年飾りつけが行われ勢子四十人でかつぐ。
鐘や太鼓の「山ばやし」で町内を練り歩き、そろいの法被・鉢巻の若者にかつがれて海中に入り、約三〇分間海中を練るので「海を渡る山笠」として知られている。
凡そ百二十年前厄除け祭りとして、笹竹に御幣をつけて部落内を練り廻ったのが起原で、いつの間にか現在のような山笠になったと伝えられる。身を浄めるために山笠をかついで海に入るようになったもので、豊漁祈願や悪疫退散を祈願するための行事であるといわれる。別に子供飾り山が一台ある。 
 3  鳥栖市鳥栖町吉野 八坂神社  7月13日・14日・15日
(祗園祭)
 6 山笠の規格は縦六米、横五米八、高さ五米で毎年意匠をこらして飾りつけが行われる。 旧鳥栖町内の各部落から一台ずつ出されており、現在は山笠奉賛会があって、山飾りには、補助が出されている。
七月十三日の日の出発前山笠参加者全員が旧鳥栖町の北東にあたる大木川上流で御禊斎をとり、神社参拝後各家に帰って山笠を引き出し、掛声をかけて町内を廻る。
十四日は午前九時に鳥栖駅前に集合して後、一番山笠から順次町内を通って八坂神社に到着、境内で御祓を受けた後再び駅前に集合して更に町内の大通りを廻る。十五日は正午まで山笠を引き午後は各部落に引揚げ各部落内を廻って終了する。
この山笠行事は昭和七年から悪疫退散、健康増進の趣旨の下に始められ、戦後一時中断し、昭和二十四年から復活されたものである。 
 4  東松浦郡浜崎玉島町浜崎 諏訪神社  旧暦6月14日・15日
(浜崎祗園)
 3 高さ一五米に及ぶ飾り山笠で、浜崎東区・浜崎西区。浜崎浜区の三部落から一台ずつ出され、笛・太鼓のはやしにのって町内を廻り、夜は浜に勢揃いする。
 5  小城郡小城町上町 須賀神社  旧暦6月14日・15日
(祗園祭)
 3 飾り山笠で、上町・中町・下町の三町から出されており、笛・鉦・太鼓の祗園ばやしで町内を練る。
この須賀神社の山笠については、「小城藩祖鍋島元茂公御年譜書」「肥前古跡集」「直茂公譜」等に記録されていて、その由緒の古さを知ることができる。これらの記録を綜合して考察すると、源頼朝の時干葉常胤が肥前国小城郡晴気庄を給わり、その子孫が小城郡の地頭となった。 九代胤貞が正和五年始めて下総から小城へ下向して晴気城に居住し、後に牛頭城を築いて山上に祗園社を建立し京都から持越した神像を安置すると共に井楼組を摸して上の山・下の山の二つの山鉾を造った。この山鉾を飾って笛・太鼓を用いて軍兵の駈引を督する仕組にて下の宮から川原に引き届け、再び始めの所に引き据えたのが山引きの始まりで、それから毎年六月十五日の祇園会の際には山引きの神事を行うに至ったものであると伝えられる。
藩政時代になると小城藩主鍋島氏が之を継承し、毎年藩主から金銭・竹木、氏子及び藩内から山鉾組立の材料・打藁・組縄・竹木等を出して山鉾を造り、山引神事を行った。
明治時代になって、山鉾の形を小さくし、上・中・下の三山となし、上・中の二山は三階の楼を造って飾山と称し、下の山だけ旧形を存して本山と称した。各山鉾には古武士の面影を偲ばしむる人形を飾るに至った。
明治の末年電線の取付けられると共に、これに障害を及ぼさぬように山鉾の規模を更に縮小して今日に至っている。
 
 6  杵島郡白石町 八坂神社 7月13日・14日
(白石祗園祭) 
 1 当番町で毎年趣向をこらして飾り付けが行われる。十三日夜五〇米の長い二本の網で山笠引が行われ、太鼓の音で囃される。 
 7  多久市多久町莇原  8月20日
(山笠祗園祭) 
 2 毎年意匠をこらして作られる飾り山笠で、祇園囃で莇原から砂原まで二回にわたって練り廻る。 
 8  東松浦郡北波多村徳須恵 八坂神社 旧暦6月15日   1 起原は不明であるが、岸岳城主波多氏の項に既に始められたのではないかといわれている。
毎年意匠をこらして作られる豪華な飾り山笠であって、笛・太鼓の祇園囃で山引きが行われる。 
 9  唐津市湊 八坂神社  旧暦6月14日・15日
(祗園祭)
 2 岡区と浜区からそれぞれ一台ずつの飾り山笠が出され、十四日・十五日の両日の昼夜にわたって、区内を練り廻る。 
 10  唐津市唐房 八坂神社  旧暦6月14日・15日
(祗園祭)
 6 意匠をこらした飾り山笠である。 
 11  唐津市西唐津 妙見神社 4月7日・8日   4 飾り山笠である。 
 12  唐津市湊屋形石 八坂神社  旧暦6月14日・15日
(祗園祭) 
  昭和三十一年から山笠引は中止された 
 13  佐賀郡富士村 中原観世音  8月18日   山笠引は明治初年頃から行われていたが、大正九年電線のため山笠の高さを低くし、大正十年まで行われた。大正十一年から山笠引は中止され、大正十三年に火災のため諸道具は全部焼失してしまって、完全に廃絶した 



一 ヤマの名称

 唐津のヤマは普通に 「ヤマ」 という名で人々に親しまれている。事がついているので、大勢でこれを引いて廻るのであるが、そのことを「ヤマヒキ」と言い、それを観覧するために出かけることを 「ヤマバミーギャイク」乃至 「ヤマヲ、ミニユク」などと言っている。突然に話を持ち出して子供などが感違いをするかも知れないという懸念のあるときには「ドンチキヤマ」と呼ばれることがある。これはヤマを引くときの囃しが、「ドンドンチキチキドンチキチ」という調子を主調としているからである。
 明治の初頃には 「囃山」または「曳山」 と呼ばれていたことが、次の文書によって知られる。(一)明治八年四月氏子惣代などが唐津神社の春祭にヤマを引出して賑やかに参拝したいという旨を佐賀県令に届けたもので、この文書の全文は次の如くである。

    届

 本月九日第五大区四小区郷社唐津神社春祭ニ就テハ兼テ奉納之囃山引出シ氏子一同賑々敷参拝仕候条此段御届仕候以上

  明治八年四月四日 氏子惣代杉山慎儀
           出征ニ付代印草場利兵衛
           祠官     戸川俊雄

  佐賀県令  北島秀朝殿
 本書之通ニ付則進達仕候也
            副戸長    麻生芳助
            同       菊池音蔵

   書面届之超聞置候事
     明治八年四月八日    佐賀県

 右は唐津神社に蔵されるもので、一枚の紙に「書面届之趣」以下の行は朱書されている。なお明治十年四月の春祭に関する届書も蔵されているが、当時は長崎県となり、前の第五大区が第三拾六大区となっており、また春祭の日取りが四月十六日となっていること、その他氏子惣代の名前などが違っているだけで、全体の形式や「兼テ奉納之囃山引出シ」という文面は八年のそれと同じである。(二)江川町吉村茂雄氏所蔵で、年号を欠いでいるが文中に「当明治九年秋祭之儀者」云々の語があるところから明治九年のものに相違ないと推定されるもので本町以下十四力町の十戸長が連署して江川町十戸長御中に宛てた文書で、その見出しが

 江川町 水主町 両町新規曳山出来ニ付順序約定書左之通

と書かれている。
 以上のごとく通称ヤマと呼ばれ、文字を以て書表わすときには「囃山」または「曳山」とするのが通例であったと思われるのに、最近は多く「山笠」と書かれるようになった。管見によれば、「山笠」の語は昭和三年刀町のヤマが修覆された時の銘に区長・会計・世話人などと並んで 「山笠係」が挙げられているのが初見のようで、其後昭和十五年には 「山笠取締役会」なるものがあり、昭和三十一年には「唐津山笠保存会」が結成され、現在「山笠格納庫」の建設が計画されている。どうしてこのように「山笠」と言うことになったのか、これには暗々のうちに福岡方面の影響が強く作用したものと思われるが、当地の関係者たちもはっきりした意識を有っていない。かって囃山または曳山と書かれたことは忘れられて、文字に書く場合、特に熟して使う場合、「ヤマ」と言うのでは何か物足りないからという感じで、いつとはなしにこうなったもののごとくである。


二 ヤマの歴史


  このようなものがどうしてヤマと呼ばれるのか、ここに我が民族の長い生活の歴史が秘められていると思うので、ヤマの特殊な例だと思われる唐津のヤマについて述べるに先だって、一般的に見られるヤマの起源とその歴史について概略触れておきたいと思う。


 (一)標 山

  要点から先に言えば、このヤマはやはりあの草木の茂る山、背振山とか霧島山とかいう山と同義で、神の祭に際して山の格好をしたものが作られ、それが 「ヤマ」と呼ばれたのがこの種のヤマの初まりである。そして文献の記すところ、仁明天皇天長十年(八三三)の大嘗祭にこの種の山が作られたのが初まりのようである。続日本後紀によれば、仁明天皇 は天長十年三月に即位の礼を行われたが、その年 の十一月十五・六両日大嘗祭を行われた。
 大嘗祭というのは天皇御即位の後初めて新穀を以て天照大神及び天神地祗を祭る一代一度の大事なお祭である。十一月十六日に天皇は豊楽院に御して終日宴楽されたが、このとき悠紀主基共に標(しめ)を立てた。その標が山の形をしていたので、これが「標ノ山」と呼ばれた。この事を記した続日本後紀の文章は次の如くである。

  悠紀主基共立標 共標悠紀則山上栽梧桐両鳳集其上 従其樹中起五色雲雲上懸悠紀近江四字 其上有日像日上 有半月像其山前有天老及麟像其後有連理呉竹 主基則慶山之上栽恒春樹樹上泛五色卿雲雲上有霞霞中掛主基備中四字 旦其山上有西王母献益地図及偸王母仙桃童子鸞麒麟等像 其下鶴立矣 於是悠紀標忽被風吹折 工人扶持乃興復之(後略)

  これによって大体の構造がわかり、また風のために忽ちに吹折られたというからその作り方もかなり簡略なものであったろうことが察せられる。その後、醍醐天皇寛平九年(八九七)村上天皇天慶九年(九四六)後三条天皇治暦四年(一〇六八)掘河天皇寛治元年(一〇八七)鳥羽天皇天仁元年(一一〇八)近衛天皇康治元年(一一四二)の大嘗祭に夫々悠紀主基の標山が作られたことが記され、殊に後三条天皇の場合及び其以後は、「標を曳く」「曳退く」「引入る」などと記されているので、車に乗せて引くように作られていたことが知られる(以上日本世記)。祭に際して山を引くという事実は既に八九〇年前平安時代の中頃近くから行われていたのである。
 このように祭の時に作られ、または引かれた山は一体いかなる意味をもつものであっただろうか。このことについては、種々の解説がなされるであろうが、結局私は次の如く、そして時代と共に其の意味も変化して行ったものと考える。先ず第一に、山は我が古代の民族にとって神そのものであった。山に限らず、あらゆる自然物や自然現象が神であった時代があったのであるが、その中でも山は神聖なるもの即ち神として重要なる存在であった。そうした信仰の名残りを信州の諏訪や戸隠で今も山そのものを御神体とする神社に於て見ることが出来るのである。次に第二に、前の段階から進んで山は神の住むところ、神聖なる神の住所と考えられたのである。このことは今も実に多くの山に神が祭られてあり、また里に神を祭る場合にも必ずと言ってよい程神社に森が作られているということから証されることである。標山に樹が栽えられたのは、山の森を如実に象徴するものであったろうし、そこに標を立てて神の宿りたもうことを示したものであろう。ヤマの起源をなす標山はこの段階における山の意味を帯びたものであった。この意味においてむしろ後代の神輿に該当するものであった。けれども、続日本後紀の前に引いた個所に示されているように、当初から幾分か装飾的要素の萌芽を含んでいたようであり、後にはこの萌芽が次第に成長して、本来の神の憑代としての意義を神輿に譲って、ヤマは祭の荘厳乃至景気づけの用を果すものとなって行った。


 (二) 祗園の山

 こうして次に出現したのが、京都祇園の作山である。祇園社本線録という書に、一条天皇長徳四年(九九八)無骨という猿楽法師が祭の余興に作山をこしらえて引いたところ、藤原道長の圧迫を受けたけれども、人気は益々高まったということが書いてあるようである。道長が之を圧迫したのは何故であったのか、恐らくは私に大嘗祭の標山を模して民衆の人気に投じたのが、公の尊厳を害するものと考えられたからであったのだろう。併し、その後朝廷・藤原氏の権勢は衰える一方であり、またたとえ権勢を以てしても民衆の歓迎するものは圧迫しても圧迫しおうせるものではなかった筈で、其の後祇園の祭は京都第一の盛大さを誇るに至り、それに伴って祇園山も遂に今日のような隆盛を見るに至っている。

 京都の祇園山についで、古く出現するのが博多の祇園山である。山田兵衛氏の「日本人形史」に「石城遺聞に引く康正二年(一四五六)の筥崎八幡の文書に祇園の作り物などにすると称して筥崎の松を伐りとることを禁じている」というから、室町時代の中頃以前既に博多祇園山があったことが知られる。唐津附近に現存する多くのヤマ、例えば、浜崎や呼子の小友の祇園ヤマ、鏡・相知などのクンチに引かれるヤマは多く博多の祇園ヤマの系統を引くものと思われる。
 祭のヤマが当初の神の憑代たる意義を減じて、余興のための作物としての意義を増大するに従って種々の趣好が加えられて、其の形もほたらきも種々様々に変化した。一方祭の行列に持ち出されていた鉾を原型として種々に変化を遂げたものがあり、後にはヤマを原型として発達したものと、ホコを原型としたものと区別し難くなるまでに交錯してしまったということが考えられる。現在各地にヤマ・ホコ・ダシなどの名称を以て呼ばれているものが多く、そのほかにも同類のものが種々様々の名称を以て呼ばれている。


三 ヤマの製作

 (一)製作の動機

 現存する十四台のヤマのうち、一番古いのは文政二年(一八一九)に作られた刀町の赤獅子と呼ばれるもので、この製作ついては次のようなことが伝えられている。それは当時刀町に住んでいた石崎嘉兵衛なるものが、伊勢参宮の途次京都に立寄り、偶々祇園のヤマを見て大いに感ずるところがあり、帰郷の後、大木小助らとはかってこのヤマを作ったのである、という。このことは専ら口碑として伝承されているもので、遺憾ながら文献の徴すべきものが一つも残されていない。たゞ製作年代と作者などについては後述の如くヤマそのものに漆書の銘があるので、間違いないと思われるが、問題はその動機についてである。祇園のヤマを見て赤獅子を作ったという事実は動かぬものであったとしても、京都で見たという祇園のヤマと唐津で作られた刀町の赤獅子とは、神祭のときに引かれるものであること、かなり大きなもので之を引くのに多人数を要し、多くの人出を予想するものであること、従って神祭の賑かさを増すものであること、などの点に於ては共通だと思われるけれども、先ず一見しただけでもヤマの形態は全く異っている。従って、京都に於て感激を覚えたとすれば、先にあげた共通の諸点に関してであって、その結果作られたものが赤獅子(獅子頭)であったという点についてはまた別個の影響があったとせねばならない。

 (二) 動機についての異説

 小笠原氏が水野氏に代って入部してから町民の景気を振興するために作らせたのだ、或は小笠原氏の前任地奥州棚倉の行事を模したものだとの説が一部に行われている。このことは小笠原氏の入部が文化十四年(一八一七)であり、最初の唐津のヤマが出来たのが丁度其の二年後であるところから、いかにも真実らしく唱えられ、或は城内の旧家にこのような口碑が伝えられているというようなことさえ言われているけれども、これらの証拠はすべて確認されていない。私が聞いた限りではこうした口碑は城内の旧家にも全く伝わっていないし、唐津神社の宮司戸川顕氏の長男健太郎氏(国学院大学出身四十八歳)の調査されたところでは、奥州棚倉にはこれに類似した行事は見当らないとのことである。よってこれらの説は偶然なる年代の契合から作り上げられた憶説に過ぎぬものとせねばならない。なお若しこれが藩公若しくは其の周辺からの奨励ないし指導があったとすれば、各町内のヤマの製作がもっと年代的に接近し歩調を揃えて出来たであろうと思われるのに、事実はそうでなかったこと、それからまた第二番目の中町の青獅子は刀町の赤獅子に五年おくれて製作されているが、中町の人達がこれをつくるときその作りかたを刀町の人達に教えて貰おうとしたが、教えてくれなかったので、それではということで、中町の人たちがわざわざ京都まで出掛けて習って来た、という話が中町の古老の間に伝えられているということ、この二つの事実も右のような異説の成立を困難にするものというべきであろう。

 いま一つ、「これらのヤマは武士に対する町人のレジスタンスとして作られたものと伝えられておりまして…」というようなことが一部観光関係者によって解説されている。実はこうした「伝え」は決して古人からあったものではなく、ごく最近それも終戦後何年か立って新しい歴史の見方が一般化する頃から言い出されたのに外ならない。「伝えられた」という点を除いて、武士に対する町人のレジスタンスであったかどうかということについて考えるならば、それは、全く歴史解釈の立場の上の問題で、どちらの解釈に従うのも一応は自由であろうが、確実な史料の徴すべきものを見出さぬ限り、一方的にかくと決めてしまうことはむしろ慎しむべきであろう。ヤマ引きの場合に限って町人も場内を闊歩することが出来たし、武士に対しても無礼講たることを許されていたらしいから、レジスタンスであったごとく解されないこともない。けれども、それが果して現代的な意味における所謂レジスタンスというものか否かについて問題があると思われるし、所謂無礼講もヤマ引きの結果として許されたもので、初めからこれを予想してヤマを作ったかどうかについては更に大きな問題がある。今はまだ断定すべき段階ではないと思う。


 (三) 獅子舞とヤマの製作

 最初に出来た刀町のヤマが赤獅子であり、次に五年おくれて出来た中町のヤマが青獅子である。更に後のものだけれども、本町の金獅子、今は現存しないが紺屋町の黒獅子が作られ、また京町の珠取獅子が作られたというように、十五台作られた中に五台まで獅子であったという事は、先に述べたように、祇園のヤマから直接に影響されたものとは考えられないので、これは獅子舞の獅子にヒントを得たものだと私は思っている。唐津神社の現宮司戸川顕氏(八十歳)の叔父戸川真菅氏が昭和八年十月十八日朝鮮済州島にあって顕氏に寄せられた書信(書名を「唐津神事思出草」という)の中に、
町田神田のカブカブ獅子七八御輿の前後に従へり
とある。真菅氏は当時老体七十五歳というから、安政六年(一八五九)生れで、その少年時代十二三歳の頃は明治四・五年頃に当っている。思出草にいうカブカブ獅子が七つ八つ御輿の前後に従ったというのは、その頃のことであろう。戸川顕氏や江川町の吉村茂雄氏らの古老の談話によれば、当時はカブカブ獅子を持っていたのは町田、神田の外、菜畑・双子・江川町・京町などの部落があったという。それらの多くがいつの間にか廃れてしまって、今は神田の獅子が雌雄二つ残されているだけである。

 神田の獅子は今も秋祭の十月廿九日には必ず若者らにかつがれて、午前五時に神社に参拝して獅子舞を奉納し、それから以前は御神幸の行列に参加していたけれども、今はそれをやめて、二手に分れて東西から神田部落の家を一軒一軒打って廻わり、最後に飯田の観音堂で落合って、そこに置いてある箱の中に納まることになっている。行列の参加を止めるに至った理由については、他の町内のヤマ引の若者どもが面白がって貸せと言って仕様がなかったこと、それからこのカブカブ獅子が果物店の前に立って大きな口を開けると、店の者はその店先にある柿なり梨なりみかんなりを一つずつ口の中に投入れてやるという風習であったのを、いつか乞食のようだと 悪口を言われたのに憤慨したからというようなことなどが伝えられている。

 そこで現存の神田のカブカブ獅子を調査したところ、其の大きさは次の表の如くである。

耳幅 頬幅 前後 全高 角ノ高サ 口周 (単位 糎)
雄獅子 八〇 三八 五〇 五八 二三 七三
雌 〃 七二 三九 四九 五二 二二、五 七一、五


木造漆塗りで、下顎は金具で以て上下に動くように作られ、若者が頭に被ったまま、取手を以てカブカブとやることになっている。縁の木心に深く判然とした刻銘があって次のように記されている。

  享和二戌年 神田村       大工又蔵四十三歳作

享和二年は一八〇二年で、刀町の赤獅子が出来た文政二年(一八一九)より十七年前に当っている。町田、菜畑・双子等のものについては今知るよしもないが、少なくとも神田のカブカブ獅子は現在の唐津のヤマの作られる以前から厳然として存在していたことが知られるのである。

 さてこの神田のカブカブ獅子を見ると、写真でもわかるように、その雄獅子の方は耳・角・目・鼻・口などそれから後に頭髪を垂れているところまで、全体の格好が中町の青獅子にそっくりである。写真ではわからないけれども、この両者は色まで全く同じである。これは一体どうしたわけであろうか。両者に共通な祖型があって、各々がそれを模したものと考えられないこともないが、そうした祖型に当るものは、今のところ見当らない。とすれば、中町のヤマが神田のシシを模して作られたものとするのが最も順当な考え方であろう。

 このように考えて来ると、最初に刀町の赤獅子が作られたときも、その原型を遠くまで求める必要はなかったのではないか。今は廃滅してその姿を見ることが出来ないけれども、町田か菜畑か或は双子かにこれが原型になるカブカブ獅子があったに違いないと考えていいのではないかと思われる。
(原本にはなぜか赤獅子の横に珠取獅子が)

 このようなカブカブ獅子がいつ頃から唐津神社の御神幸におともをしていたのか、それはまだ全くわからない。併し、浜崎にも佐志にも湊にもシシがあって神祭のときに出るそうだから、この地方にもかなり古くからこうした風習が行われたものと思われる。この地方ばかりでなく、これは日本各地に広く見られる風習で、古くは 「年中行事絵巻」の中に獅子舞の絵を見ることが出来る。この絵巻の原本は後白河天皇(一一二七−九二)の勅命によって藤原光長が画いたもの、そして松殿関白(藤原基房一一七二関白任一一七九貶)に進ぜられたものと伝えられる(大百科事典)ので、大体の見当では一一七年頃即ち今から凡そ七百八十余年前のものとしてよいであろう。

その頃京都に行なわれていた風習が其ののち全国津々浦々に及んで各地各様の獅子舞となり、例えば三日月村の面浮立の如きも其の一変形と見るべきものであろうが、割合に品の良く美しい正統的な流れを汲んだものがこの地方に伝えられて町田神田のカブカブ獅子となり、それが或る機縁に触れて一躍数倍乃至十倍近くに拡大されてデンと納まったのが唐津のヤマであると、概論的にはこのように考えてよいだろうと思われる。

 先に述べたように、現在は消滅している紺屋町の黒獅子まで加えて合計五台の獅子ヤマが作られたが、刀町・中町についで第三番目に出来た材木町のヤマは浦島に亀、四番目の呉服町のは義経の兜、次の五番目の魚屋町のは鯛といった工合で、全部が全部獅子ではなく、獅子でないものが合計十台、全体としてはむしろ獅子よりも多く作られている。思うに、第三番目辺りから、獅子ばかり作るのも能のない話で何とか別に気の利いた趣向はないものかと各町内が工夫を凝らすことになった所為であろう。一々についてこれを確証する文献も見当らないし、口碑のようなのもまだ聞くことが出来ない。要するところ、各町内が競って負けじ劣らじと工夫を凝らして夫々特徴のあるものをこしらえたということになるようである。


 (四)製作年代と作者

 ヤマは町単位で町内で費用を負担して製作し、唐津神社に奉納したものである。その製作年代と作者を表記す
れば次の如くである。

町 名 ヤマの名称 製作年月 年代 作者 塗師
刀 町 赤獅子 文政二年九月 一八一九 石崎嘉兵衛 川添武右衛門
中 町 青獅子 文政七年九月 一八二四 辻利吉 儀七
材木町 浦島ニ亀 天保十二年九月 一八四一 須賀仲三郎 (不明)
呉服町 義経の兜 天保十五年九月 一八四四 石崎八右衛門 脇山卯太郎
魚屋町 弘化二年九月 一八九一 (不明) (不明)
大石町 鳳凰丸 弘化三年 一八四六 永田勇吉 小川次郎兵衛
新 町 飛竜 弘化三年九月 一八四六 中里守衛重広 中島良吉春近
本 町 金獅子 弘化四年八月 一八四七 (不明) 原口勘二郎
紺屋町 黒獅子 安政五年 一八五八 (不明) (不明)
木綿町 信玄の兜 明治二年 一八六九 近藤藤兵衛 畑重兵衛
平野町 謙信の兜 明治二年八月 一八六九 富野式蔵 須賀仲三郎
米星町 酒呑童子と
   頼光の兜
明治二年九月 一八六九 吉村藤右衛門 同人
京 町 珠取獅子 明治八年十月 一八七五 富野淇淵 大木卯兵衛
江川町 蛇宝丸 明治九年十月 一八七六 宮崎和助 須賀仲三郎
水主町 明治九年十一月 一八七六 富野淇淵 川崎峰治


 このように、文政二年から明治九年に至る五十七年間という長い間に互って一つずつ次々と作り加えられたものであるが、こうしたヤマの世界にも自然の妙用とでもいうべきものがはたらいたと見えて、出来上ったものはすべて其の格調を同じくし、夫々堂々たる風格を持して特色のある個性を主張しながら、全体として均整のとれたまとまりを保っている。ただ前にも述べたように、紺屋町の黒獅子は現在既に存在しない。これがなくなった理由については、ヤマ引きのとき誤って溝の中に落込んでこわれたとも、実は他のヤマに比べて出来が悪くて見劣りするものであったので、わざとそうしてこわしたのだともいうようなことが伝えられている。或はまた火災にあったのだとも伝えられているが、真偽のほどはよくわからない。前述明治九年の十戸長の連署には紺屋町も見えるので、その頃まではヤマに関する発言力があったとすれば、ヤマもまだあったと見るべきであろうが、恐らくはそれから遠からずして消失したものであろう。

 なお右にあげた表のうち、作者と塗師は各々その代表者をあげたに過ぎない。大概はヤマの内側に漆書された作者銘がある。修覆の場合も同様であるが、いま製作当時の状況を示すために、作者銘の一二の例を記しておこう

刀町の赤獅子の場合、

文政二年卯九月吉祥日

年寄
吉田仲治
喜田又吉
組頭
石崎兵左衛門
石崎常七
獅子作者
石崎嘉兵衛
石崎常七
同儀右衛門
塗師
川添武右衛門
熊川休平
大工
高崎茂吉
高崎兵蔵
鍛治
進藤清左衛門
前川治兵左衛門
古館儀兵衛
勝木哲吉
吉田武助
篠崎政兵衛

以上


中町の青獅子の場合

文政七年九月吉日
年寄
前田友左衛門
高橋太郎兵衛
組頭
前田喜兵衛
松永吉助
世話人
安川利左衛門
亀山仲兵衛
獅子細工人 辻利吉
塗師 儀七
大工棟梁
小川太郎兵衛
小川定助
小川善七
若者
持永吉助
前田久兵衛
古賀利三治
小宮甚吉
吉村利兵衛
増山甚兵衛
前田敬七
太田嘉吉
宮川新兵衛
佐々木伊兵衛
高橋太三郎
浦田七蔵





四 ヤマの構造と製作技術


 (一)構  造

 ヤマはすべて車のついた台に乗せて大きな二本の綱で引くようになっている、車は四つ。台は樫造りの頑丈なもので、茶漆塗り。大きさは刀町のヤマで高さ一米、前後二米二五、横二米二五、中町のヤマが高さ一米、前後二米四〇、横二米一〇、其他大同少異である。台の中央に四角で中空な筒型の大きな心棒が立てられ、一方獅子頭の重心を支える心棒が上から下に吊されて中空の筒の中に入り、この交錯する二つの心棒を滑車と綱とを以て結びつけ、適当の高さに上下し、心棒の間にセンギを通して一定の高さを保つようになっている。センギは三段で、それによって刀町の場合、台まで含めて最高六米三〇、最低三米七〇、中町の場合最高五米六〇、最低三米七〇の間を上下することになる。このように上下することを、「センギを上げる、(下げる)」 または 「ロクロを上げる(おろす)」と言っている。ロクロとは滑車のことである。
 材木町・大石町・江川町のヤマは前後に長いので、心棒が二本立ててある、其他はすべて一本である。


 (二) 製作技術

 ヤマの主要部分をなす獅子頭乃至兜の部分は漆器である。恐らく日本国中従って世界でも最大級の漆器なのではあるまいか。重心を支える心棒の支点には内側に板を張り、その板をネジ釘式に漆器にボルトで止め、その板を心棒が支えて前後左右に動くようになっている。水主町のヤマで一度心棒がはずれて漆張りのところに直接当ったけれども、その重量(水主町のヤマは二トン)を支えてなおかつ漆張りの部分が破損しなかったそうである。
 このようにして鉄骨も木心も全く使っていない、完全な漆器なのである。
 その製法はその法を伝えたという米屋町の一色健太郎氏の談によると次の如くであるという。最初に粘土で原型を作る。その上を良質の和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。乾かしては張り乾かしては張りして二百枚位張る。二寸乃至三寸位希望の厚さになるまで貼る。これは「いつかんばり」と言う。適当な厚さになったとき、中の粘土をとりはずす。次に内側も外側もきうるしと麦粉とまぜたもので麻布を貼る。少くとも二回は貼る。
 次に外側で凸凹を是正し、細かい細工を必要とする箇所は「こくそ」(細かい鋸くずとうるしとをまぜたもの)を塗る。次に砥の粉とうるしとまぜたもので塗る。一回毎によく乾かして、少くとも七八回は塗る。これを「シタジ」と言う。こうして乾燥したものを砥石で磨く。初め荒砥を使い、のち仕上砥を使う。
 こうした後で、中塗りうるし(きうるしを精製したもの)を少くとも二三回塗る。毎回乾かして、その都度静岡炭で磨く。
 最後に上塗りをする。上塗りうるし (きうるしを精製し−中塗りうるしとは製法が少し異っている−染料を加えて色をつけたもの)を塗って、一回毎に蝋色炭で磨き上げる。上塗りも少くとも二三回行うのである。そうしてその上に角石(かくせき)と称して鹿の角を白焼きした粉と種油と「すりうるし」(艶つけ専用に作ったもの)とをまぜたもので塗り、手箱または綿につけて丹念に磨き上げる。その上に金箔また銀箔などを施すのである。
 こうした製作には略半歳を要し、製作費も従って莫大で、記録によれば大石町の鳳凰丸が弘化三年製作当時一千七百五十両を要したという。一色氏の記憶によると、同氏が施工された昭和廿八年本町金獅子の塗替は塗替だけで六十五万円、翌廿九年塗替した材木町の浦島に亀は同じく六十五万円を要したとのことである。



五 神祭とヤマ引き


  
(一)唐津神社

 ヤマは各町内が作って唐津神社に奉納したもので、神祭のときに町内の若者たちが之を引いて御神幸の行列に供奉するものである。昔は春祭にもヤマを引いたらしいことが前にあげた明治八年同十年の届書によって知られるけれども、現在は春祭には其事がない。専ら秋祭に限られている。なおまた臨時にヤマを引くこともあったことが、明治九年の十戸長の署名に
一、春祭臨時曳順之儀者都テ江川町
ヲ先トシテ水主町ヲ後に致候事
とあることから知られる。但し、之も春祭には引かないことを原則とするがその春祭のとき臨時に引こうという場合には、という意味にもとられ、戸川老宮司の談話によってもその意味かと思われる。併し、終戦後も一頃唐津で「みなと祭」というのが五月頃に行われたとき、ヤマ引きがあった。けれども、どうもこれでは本調子でないような格好で、みなと祭そのものも二三年続いた位で自然消滅となり、今では臨時のヤマ引きということも殆ど考えられない状態である。何と言ってもヤマは明神さまのもので、秋の神祭におともをするのがヤマの生命ということになる。

 このように、多くのヤマを従えて十月廿九日(昔は旧暦九月廿九日)の秋祭に御神幸を試みられる唐津の明神さまというのは、もともと住吉の三神を祭ったものと伝えられている。古く神功皇后新羅征伐の伝説にゆかりを有し、其後、社伝によれば、「孝謙天皇の御宇地頭神田宗次の霊夢に上りて海上一の異筐を得之を開きて一宝鏡を得たり、是正しく神功皇后の捧げ給ひしものならんと基由を奏聞せしに、叡感斜ならず、即ち勅を下し号を唐津大明神と賜ふ。是実に天井勝宝七年九月廿九日なり、尓来神田氏を始め、里人の崇敬益し加はり、文治二年神田広の代に至り、社殿を改築し、且つ其祖宗次の霊をも合祀せり。」(佐賀県神社誌要)と言われている。神田とは前にあげたカブカブ獅子を現在もなお保存している部落の名で、こゝに古く神田氏があり、それが松浦党の一族として活躍したのは平安末期から中世にかけてのことであったと思われる。神田五郎宗次なるものはこの土地で「五郎さま」として今に崇敬されているが、果して何時頃の人であったかは全く明かにする由がなく、或は御霊信仰に関係するものかとも思われる。ともあれ社伝の伝えるところによれば、略々中世の頃神田氏によって創始されたものと見て大過ないであろう。近世の初め寺沢氏が初めてこゝに場下町を築くに当っていくつかの社寺を移転したことが伝えられているけれども、唐津神社についてはその事がなかったところを見ると、その前後を通じて現在の地に鎮座せられたものと見てよいであろう。古く其の祭祀を司ったと思われる神田氏は今当地になく、藩地時代最も勢力を有した社僧歓松院(または寛正院)は維新の神仏分離に際して市内真宗の大聖院に合併して自然に消滅し、社家に安藤・内山・戸川の三家があったうち、戸川家だけが今に残って宮司として奉仕しておられる。一宮には住吉三神を祭り、二宮には神田五郎宗次を祭るものとされ、神輿は全く同等のものが二つ、一は一宮の神輿、一は二宮の神輿とされている。


  
(二) 昔の神祭

 右に言う神輿は二つながら明和二年(一七六五)の作で、戸川家の口碑によれば、御神幸は寛文年間(一六六一−七二)から始まったということである。寛文以前のことはともかく、寛文頃から御神幸が行われたとすれば、現在のようなヤマが作られる以前にも、そうした御神幸には必ず何物かがおともをしていたであろうと思われる。古老の口伝には、本町は左大臣右大臣を、塩屋町は天狗の像を、木綿町は仁王様を、江川町は赤鳥居を、京町は「オドリヤマ」(舞台を拵えてその上で人間がおどるもの)を出していたという。それらは「走りヤマ」と呼ばれていたというが、いつの頃のことであるか、確かなことはよくわからない。

 文献の徴すべきものを探求した結果、一二求め得たものは次の如くである。其の一はもと県庁の社寺兵事課の田中治八氏(現に久保田駅近くに居住せられ、六十七歳になられるだろう−戸川老宮司談)が、佐賀の内庫所で得られた史料で、もと唐津藩の庄屋福本氏(当主素太郎氏は唐津市新築町に居住、七十七歳位)から出たと推察される文書を戸川健太郎氏が写されたもので、末尾に
 未五月 土井大炒頭内 大森治郎兵衛
とあって、恐らく宝暦十三年(一七六三)土井水野両藩公の交替に関する覚書と推定されるものの一節に

一、城内唐津大明神九月廿九日祭祀の節西ノ浜へ神輿の行列御座候故寺
社役の内より一人同心****相勤目付並組足軽致出役候惣町より傘鉾等差出於西の浜角力有之候ニ付代官手代頭組の者立会差出候

とある。宝暦十三年は大約二百年前、現存の神輿が新調される直前、神輿の行列があり、惣町より傘鉾など差出したということが注目されるがそれは当然ありそうなことと想像される。「傘鉾など」とは如何なるものであったか、これだけでは具体的なことはわからない。けれども、一般的に言って、傘とは恐らくヤマの粗朴な原初形態に近いもの、鉾とは古く神社の祭り、近くは大名行列などに立てた鉾の類で、それらに適当な装飾が施されたものを言うので、いずれも広義のヤマに含まれる。併し、それらが変形を遂げる過程に於て中間的形態のものも生ずる筈だから、「傘鉾」は「傘と鉾」との二種でなく、「傘鉾」という一つのものであったろう。いずれにしてもやはりヤマの一種であることは同じである。なお惣町とは場下の町々を一括して言うときに使う言葉で、惣町という一つのものがあるのではないから、「傘鉾等」は言うまでもなく複数で、最も普通に考えて、十五六の町々が夫々工夫をこらしたものを造って出したのだと解すべきである。

 時代は下って幕末に近くなった頃、材木町の年寄平松儀右衛門という人の手記にやゝ詳しく当時の神祭の状況を知るべきものがある。この手記は「唐津藩御触書御願書諸記録控」という外題を附して目下九州大学の図書館に蔵されているのを、檜垣元吉教授の好意によって借覧の便を得た。その中に、安政六年九月廿七日大年寄から各町の年寄に配付された神祭関係の文書が記録されている。その文面は次の如くである。


引山順番
一ノ宮 江川町・塩屋町・木綿町・京町・米屋町
二ノ宮 刀町・中町・材木町・呉服町・魚屋町・大石町・新町・本町


 右之通順番ニ有之候間当日朝六ツ半時社前へ相揃候様御取計可被成候也大手前ヘ相揃候上大手御門へ引入来侯得共御幸刻限差急候ニ付直ニ社前へ引入侯様相達置候間左様御承知可被成候
一、年寄組頭中ハ麻上下着用にて御附添被成行烈区々ニ不相成様御取計可被成候猶又通幸之節も同様御心得可被成候

一、廿八日廿九日両夜御神燈之儀御届申候間差出被成候
一、御幸御通筋繰庇取除候様御申付可被成侯
一、御通筋住蓮縄之儀歓松院より御受取御張置可被成候
一、大手前広場並坂下札之辻新町広物掃除之儀当町より御取計可被成候者
  九月廿七日    大年寄

これらによって神祭が町を挙げての行事であり、そのため種々の準備や配慮がなされた様子が知られる。ところで、最初にあげられた「引山順番」というのは、同手記の三年後の文久二年九月廿八日付の同様の文書に

 当年引山順左之通
  江 塩 刀 中 材 呉 米 一ノ宮
  魚 大 新 本 紺 木 京 二ノ宮

とあるのと比較して知られるように、恒久不変のものでなく、其年々によって変更されていた。ここで注意すべきことは、安政六年の場合十三力町があげられており、文久二年には十四力町が数えられているが、この当時までに作られていた現存のヤマは町名の頭字だけを挙げて数えると、刀・中・材・呉・魚・大・新・本・紺の九つで、其他の町々のものはまだ作られていない。然るに安政六年の場合も文久二年の場合も、江・塩・木・京・米の五力町が、これらに伍してヤマを引いたとすれば、現存のヤマが出来る以前やはりこれに類似のヤマがあって、それを引いていたとしなければならない。先に述べた口碑に伝えられる江川町の赤鳥居・塩屋町の天狗像・木綿町の仁王さま・京町のオドリヤマなどは、恐らくはこの当時のものであろうか。たゞ米屋町のものは何とも伝えられていないし、今のところこれを知る術も見つからない。

 右の手記によって明かなように、紺屋町のヤマは文久二年に引かれ、安政六年には引かれていない。紺屋町のヤマは現存しないので、現物の漆書銘によって確める方法がなく、古伝のまゝに安政五年の製作として前述の一覧表にも記しておいたが、安政五年の製作だとすれば翌六年の神祭にこれだけ除外される道理がない。よって、この手記に書き落しなどの誤りがないかぎり、紺屋町のヤマは安政六年以後文久二年以前という期間に製作されたものとせねばならない。
 なおこの手記によれば、当時定例の神祭のほかに五穀成就とか悪病除けなどのため臨時の御祈祷があって、山曳きや三味せんを許され、昼夜兼行で相当の賑いを呈することがあったようである。これまた神祭並びにヤマ引きに関して貴重な資料となるものと思われるので、その一二例を記しておこう。 次のものは安政六年の記事である。

 八月六日より八日迄三日之処山曳並三味せん御見遁しの処又々九日より十一日迄三日之間日延願済之由造山之儘曳歩行候外造物灯もの余計灯し候儀不相成旨呉々沙汰有之候由八月六日より内町外町別々に付拙者忌中にて見分ハ不致候へ共見聞之分印ス

十一日鯉の滝登り之着物並夏帯にて造物
扇之地 形二灯余計 之由
古田打之由最上との事
兎の腕に金羽之形のよし
始終山之燼灯し物 脇並より減し取り方
並役中差閊旁遠慮歟
色々板物 之よし 十一日ヨ豆太鼓ニヒンヒン鯛
するめれんの形 上出来のよし
九日祇園山形 昼二見ケ浦 竹皮笠類にて 十日ハなし歟
九日ヨ阿蘭陀凧 ヨマ迄小てふちん 灯数余計極上
十日山伏 祈念造候由
祇園山 之よし 灯数余計之由
虎進居候由
仁王山之儀 てふちん廿位


八月九日大石町
昼は竹皮笠アミ笠笠の紐類にて二見浦傘赤にして日之出之形

  昼夜祇園山造荷ひ歩行賑々敷
   十日朝せん征伐のよし
   十一日昼大神官ニ暦 深更蝶ニ扇のよし

 これによれば、初め三日間の予定が日延になって倍の六日間も連日山曳き三昧せん入りで深更まで賑わったらしく、出しものも昼と夜或は日によって変えられ、各町が夫々趣好を競った様子が察せられる。本町・八百屋町・刀町・紺屋町については全く記載がない。そしてその理由も今はわからない。翌万延元年(一八六〇)には三月十五日から五日五晩五穀成就病難除けの御祈祷が行われた。その時のことは次のように記録されている。

 三月十五日より五夜五日五穀成就病難除御祈祷上より被仰付候よし右ニ付御輿之修覆成就……三日三夜引続き廿二日迄八日八夜御祈祷奉納之品左之通
  奉燈は町々不残差出場所ハくじ取にて三月十五日ヨ歓松院宅にて大年寄石崎魚草場両人出勤候て取極了草場次郎右衛門は下鯨組に出浮留守中に付此間申出勤なし


作りもの其外奉納之品
夜ハ歌人形出ス鳴物入
昼ハ石炭殻にて大ワクドを廿一日より出ス
本町
行ケバ左側東向島井元
壱番に小家がけ
白黒
元結
鼈甲の櫛
尾首ハ髪と
はし
すきくし
木は木櫛
たけなか
未年儘
子供の赤き
髪とはし
呉服町
二番左り側
 塀下
生花  中町
金物一式
田植
食くそにて山、道は鉄略はセンクズ
田苗釘 田植簑釘 笠は油皿
苗荷ひ物塵ダメ秤 松之木厚紙
牛の首金槌背薬研馬矢立之類
木わた町 夜は松明 拝殿左側
東向塀側
茶接待 干魚物にて鷹造候筈之処止メ 材木町 拝殿右側手水鉢の傍
       西向
両覆なし メゴにて石燈籠一対不入 京町 社人物加波前辺
松皮にて
床の間置もの
獅子一匹 刀町 二番
昼は子供小踊り並三味線うた
夜ハ浄瑠璃
大石町 歓松院壁脇畑ケ岸
西向
さらし木綿にて白鵞子供狂言の打かけにて岩組 魚屋町 塀外行還り鳥井元
一番に小家かけ西向
昼 共小唄浄瑠璃
夜 廻り舞台 
新町 鐘撞堂前北向
草刈サンロ八百屋もの一式
牛の体ヒジキ角連根総テ芋茎
童子干物のり類
江川町 三番
惣行事につき何もなし 紺屋町
やうし鉄・筆之類にて太鼓ニ鶏
つがひかんこ鳥歟
米屋町 八幡社前南向
二丁摸合にて御輿堂前ニ南向浄瑠璃小家ざつと掛る 八百屋町平の町
いつれも燈籠 塩屋町
東うら町
水主町
新 堀
あま町


 この手記のうち、呉服町の造物のうち「竹」の註に「未年儘」とあるのは、、その前年が己未の年で、前のに造ったものをそのまま出したという意味であろう。当時こうした催しが毎年或は一年のうちにも何回か行われることが予想される状態であり、そのために造物の一部がそのまま大切に保存されていた様子がうかがわれる。

 こうした催しが、時折行われ、それが日延日延で六日間も八日間も続くということであれば、近郷近在からの見物人も大勢集まって来たに違いない。そうしたことを考えると、いわゆる「五穀成就の御祈祷」はまた町民の景気振興策でもあったろうと考えられなくもない。

  (三)ヤマ引きの順序

 十月廿九日唐津大明神の御神幸があり、その行列にヤマが並んで行く。その順序は現在では次の如く一定していて、ヤマは製作年代順にならび、神輿の前後についてゆく格好である。

  御神幸行列の順序
 刀町 中町 材木町 一宮神輿 二宮神輿 呉服町 魚屋町 大石町 新町 本町 大石大神社神輿 木綿町 平野町 米屋町 京町 江川町 水主町

 このうち最後の江川町と水主町とは毎年その順序を交代することになっている。それはこの二つのヤマが明治九年同時に出来て、どちらを先にするかで大変な喧嘩となり、水主町に組するもの、水主町の外に大石町・材木町・魚屋町・木綿町・本町・京町の六力町があり、江川町を推すもの、新町・刀町・平野町・米屋町・紺屋町・呉服町・中町の七力町があって、いわゆる七町組・八町組の争いがあった。結局仲裁が入って折合がついたが、そのためには四斗樽が二三丁要ったとのことがある。そうして氏子十六力町の十戸長が天神山に会して、次のような約定書を作った。この約定書の見出しと、第一条の「春祭臨時曳順之儀は」 云々の文面とは、先に夫々別々に引用したことがあるが、こゝでまとめて全文を掲げると次の如くである。


 江川町 水主町 両町新規曳山出来ニ付順序約定書左之通
 一、春祭臨時曳順之儀者都テ江川町ヲ先トシテ水主町ヲ後二致候事
 二、秋祭之儀者右両町隔年ニ而前後致候様取極メ申候尤当明治九年秋祭之儀者江川町ヲ先山同十年水主町先山之事

 右之通り惣町協議之上約定取極メ申候間後年ニ至迄相違無之候依之約定証為後日如件

 この後に続いて、江川町・水主町を除く十四力町の十戸長が署名捺印したものを「江川町十戸長御中に宛てて出している。この約定書が其後よくそのままに遵奉され八十余年後の今日もなお生きていてその通りに行われているわけである。


 なお行列の中に一宮・二宮の神輿があることは当然すぎるほど当然なことに違いないけれども、大石大神社の神輿が入っていることについては、一応奇異の感が懐かれる。この理由については、一部に七町組八町組の紛争があったとき、大石大神社の神官の仲裁でそれがおさまったので、それからこの神社の神輿が行列に入ることなったということが伝えられている。戸川老宮司の談話によれば、たゞ明治十年から行列に入れてくれんかと言うことで、そうなったと言われる。併し、神幸のことは双方の神社にとって重大事であるに相違ないので、ただ理由なくこうしたことになる筈はない。従って前述のいわゆる一部の伝承が或は真実を伝えているのではあるまいか。大石大神社はまた大石権現と呼ばれ、もとは別に十月十日に海士町の弁天さまで御神幸がおこなわれたという。独立の宮司がなく、大石天神の八島宮司の兼掌で、今では宮司八島元太郎氏の騎馬姿が神祭の行列の一異彩となっている。


  (四)時間と道順

 ヤマは廿八日ヤマ小屋から出て各自の町内の然るべきところに鎮座する。若者たちはこの日ヤマ引きの用意をし、子供たちは勝手にヤマに乗って大鼓をたたいたりして楽しい一日を過ごす。夜半過ぎになって多くの提灯をともしたヤマが明神さまの前の広場に集まる。勢揃いをして囃しをはやしながら夜を明かすのが本当なのかも知れないが今は若者たちは一旦帰宅して休養する。そして廿九日朝八時頃再び勢揃して神輿を迎え、刀町の一番ヤマを先頭に、賑かで情緒豊かなヤマ囃しをはやし、エイヤエイヤのかけ声も勇ましく町をまわるのである。昔は明神さまの前の広場から東に明神横小路を通って大名小路に出、それから南に行って大手門を出て内町に入り、本町を通って京町を東に曲り、札之辻橋を渡って魚屋町・大石町・水主町を通り、新堀から材木町を通って塩屋町に入り魚屋町から再び逆に札之辻橋を渡り、京町・紺屋町・平野町から新町を通って浄泰寺前に出、そこから名護屋口の難所を通って近松寺前にゆき、そこの角を曲って坊主町の通りを真直ぐ北に行って西の浜の御旅所に着いたのだという。そして帰りは逆に坊主町を通り名護屋口を過ぎた辺りから各自自由に自分の町内に行ったとのこと。現今では、明神さまの前からまっすぐに大手口広場に出、それから東して中央大橋を渡って材木町を東に進み、新堀の辺りから水主町・大石町・魚屋町と西に進み・札之辻橋を渡って京町・紺屋町・平野町を通り、新町を経て浄泰寺前に出、そこから東して刀町を通って、再び大手口広場に出国、道通りを西へ進み、坊主町の四ッ角を北へ曲って西の浜の御旅行に着く。そこに着くのが大よそひる頃である。神輿が明神台というのに鎮座されると、十四台のヤマは明神台を取巻くような格好に行儀よく整列する。ヤマ引きの人たちも神輿の前に整列して参拝し、終って休憩に入る。以前は広い砂浜に各町内毎にまん幕を張りめぐらし、その中で持参の弁当をひらき、また浜では宮相撲其他の催物があって仲々の賑いだったらしいが、いつの頃からかヤマ引きの人たちが各自町内の家まで中食をとりに帰るようになって、浜の催物などは多く見られないようになっている。しかし、この間十四台のヤマはいずれ劣らぬ豪華絢らんの姿を競い、太鼓と鉦と笛と入乱れて山囃しの一大コンクールが続けられる。神祭の感激はここにおいて最高頂に達するのである。



 かえりは西の浜から西寄りに江川町を突抜けて国道通りに出、東して坊主町・西寺町・弓鷹町を通って大手口から神輿は神社におかえりになる。ヤマは夫々便宜のところから、自分の町内にかえる。そしてその晩は町内の然るべきところで、殆ど徹夜の山囃しに守られながら 夜をあかすのである。

 明くれば翌三十日、神輿の御出ましはないけれども、ヤマだけは前日と同じコースを廻ってひるは大方京町の角の辺りに並んで休み、ヤマ引きの連中が中食をすましてから、午後の活躍を続け、この日は全部ヤマ小屋に入る。大正時代には天長節祝日の故を以て三十一日も続いてヤマ引きが行われていたことがあったそうであるが、今は三十一日町内の若者たちがヤマを小屋から引出して掃除をし、きれいに整頓して格納する。それから打揃って神社に参拝し、今年の御願成就をし、来年の祈願をして、めでたく終了ということになる。


  (五) 山囃し

 豪華けんらんたる十四台のヤマもさることながら、これに生命の息吹きを与えて躍動させ、唐津神祭の印象を強く特徴づけているものは山囃しである。山囃しの或は急に或は緩になるにつれて、若者達は或は勢を増し或は力を抜いて休む。遠く其の旋律を耳にすれば、見物の人々は其の方向に足を早め、近づくに従って人々の脳は其の旋律に共鳴して次第に高鳴って来るのである。

 この山囃しは十月九日初供日の日各町内のヤマの引初めに続いて夕刻から神社前に集って囃し初めの儀が行われ、それから後は町々で毎晩夜おそくまで囃しの稽古が行われる。こうして次第に町を挙げて神祭気分が高まってゆくのである。楽器は笛が三本か四本、大太鼓・しめ太鼓(小太鼓)・鉦が各、一つずつ。そしてこの外には何も使わない。囃しの旋律には大別して、道ばやし・セリヤマ囃し・タテヤマ囃しの三種がある。道ばやしは普通の速度でヤマを引張ってゆくときのはやしで、セリヤマ囃しは駆け足の速さで勢をつけて引張るときのはやし、そしてタテヤマ囃しはヤマが停止しているときに囃すはやしである。これらの三種は卒然として聞けばどの町のものも同じように聞えるけれども、よく注意して聞くと、町々によって夫々に特徴のあることがわかって来る。道ばやし・セリヤマ囃しに於て、特にそうでヤマの大きな町のは大太鼓を多く打ってしかも調子がやや急であり、ヤマの小さな町では大太鼓を少くして調子が軽く緩やかである。

 こうした特徴のある旋律を有った山囃しは各町内で長年にわたって伝承され、之を得意とする古老から次の人達へと教え込まれるのである。併し、例えば共同で椿古するような場合には、一番ヤマをもつ刀町のそれを一応の基準とする例である。先年東町の松下又彦氏がこれを採譜したものがあり、関係方面に紹介されてる。大太鼓はベテラン木下又一氏であったが、昨年惜しくも物故されてもうその実演を聞くことが出来なくなった。





六 ヤマ引き仲間とその機能


  (一)総行事

 神祭並にヤマ引きに関する役割に総行事と呼ばれるものがある。これはかなり古い伝統を有つものらしく、各町内が順番で一年に二ケ町宛これに当っている。其の順番は古来一定して動かない。そしてこの順番はヤマ引きの順序とは全く関係なく、独特の順序で、次の如くである。

 本町 呉服町 八百屋町 中町 木綿町 材木町 京町 刀町 米屋町 大石町、紺屋町、魚屋町、平野町、新町、江川町、

どうしてこの順序が決められたのか、また城下町には昔からこの外に塩屋町・弓町・鷹匠町などがあったのにどうしてこれらが除外されたのか、その辺のところはまだよくわからない。或る時代に総町と呼ばれたときの町々の顔ぶれであろうか、とも思われるがいつの頃そうであったかも今ではよくわかっていない。たゞ後にも述べるごとく、こうした町名の順序には江川町の次に水主町が並ぶのであるが、水主町は特に総行事免除となっており、その理由は伝えられるところによれば、水主町は別に大石権現即ち大石大神社を祭っているからということであるらしい。

 総行事というのは神祭の御神幸の行われる四日前の十月廿五日神社に参詣して「お宮飾り」をする。「お宮飾り」とは神輿を拝殿に出して飾りつけをし神幸の準備を整えることである。このとき、総行事の当番の町は一軒から必ず男一人宛出てこの仕事に当るのである。神祭神幸の当日は羽織袴で神輿のお伴をする。たゞし、ヤマのある町が多く、一方ヤマ引きの人数も必要なので、神輿のお伴は殆ど老人だけということになる。

 因みに、神輿をかつぎ、また神輿に附随する諸道具を運ぶのは、昔から神田の部落の者が之を奉仕することに決っている。白装束に冠をかぶり、わらの草履をはいて奉仕している。
 神祭がすんだあと、十一月一日になって総行事は神社に参集して神祭のあと片づけをする。神祭のとき神社にあがったお賽銭をかぞえて宮司に渡す。この日は特に来年総行事の当番になる町の人達も参集して、神輿や附属品入れの箱を譲り受け、員数を確めて箱を倉庫に蔵める。こうして総行事の受渡しをし、あとで神酒一杯を頂戴する。一方はこれでめでたく役目を終ることになり、一方はこの日から新しい役目を仰せつかることになる。


 (二) 若 者

 ヤマ引き行事の中堅をなし、責任を負うことになっているのは「若者」である。「若者」は「ワッカモン」または 「ワカイモン」と呼ばれ、普通は複数の意味に使われている。そして注目すべきことは、ヤマ引き仲間を呼ぶ特定の呼び方は外にはなく、だゞ「ワッカモンが引くのだ」と言うだけのことである。

 若者の仲間に入るのはもとは十八歳位、今は二十歳位だという。町の青年がこの年になると、先ず「幕洗い」という行事に参加する。幕洗いというのは、夏の土用の天気のよい日を見て、ヤマを引張り出して虫ぼしをし、そのとき幕を全部はずして町田川に持って行って洗い、乾かして持って帰るのをいうのである。そしてこの晩若者仲間が一杯傾ける習わしで、はじめて若者仲間に入るものが酒一本を買うことになっている。

 ずっと以前、恐らくは旧藩時代からの事であろう、もと各町内に火消組があり、その組織がそのまゝヤマ引きの責任を果すことになっていた。火消組にはイロハ順の略号が附してあり、ヤマ引きの道具にもイ組ロ組のしるしが附けてあったそうである。その順序は次の如くであったという。(町名は頭文字だけ)


其後は消防図組織が之を継承していたが、昭和十四年四月消防団組織が解消されてからのち、今日では専らヤマ引きのためだけの若者組織が残って昔ながらの行事の責任を果している。
 若者はヤマ引きの当の責任者として前に述べたような一切の準備をととのえ、当日もヤマ引きの中堅となって働くのであるが、当日は若者だけではヤマは動かない。次に述べる仲老または二番組と呼ばれる人達の加勢があるのは勿論、もっと若い、現在の中学校小学校生徒の加勢を受ける。戦前関係学校は授業を休んで神祭に参加していたが、戦後は休むことが出来ないので、関係の生徒は朝のうち出席をとってすぐ帰えすことにしてヤマ引きに協力させている。

 神祭が終って三十一日お願成就のお参りをしたあと若者だけナオライと称して祝宴をやる。勿論各町内別で、相当景気よくやるらしい。団体で一泊旅行を試みるところもあるようである。


 (三) 仲 老

 二番組、若者がその役目を勤めあげて四十歳位に達すると現役を退いて予備役に入る。予備役の仲間の呼び方は町内によって違うようだけれども、仲老または二番組と言うのが普通のようである。二番組というのは若者を一番組というに対するもので、大きな町内ではもとは三番組というのもあったそうである。併し、二番組と三番組との間にははっきりした区別はなかったらしい。昨年から特別な長老には「山笠元老」という記章を差上げることにして大変喜ばれたということ、この記章は後にいう山笠取締会が決めて大きな町内に四人乃至五人、小さな町内は三人ということにして配付したという。

 仲老または二番組と呼ばれるものの仲間に入るときの作法は町内によって違いがあるようである。江川町の場合は若者としてヤマを引いた最後の後、ナオライ祝の宴に客分として招待される。当人はそこで会費を出さぬ代りに酒一本を買って出す。こうして若者の勤めを終ったことによって自動的に仲老の仲間に入ったことになる。
京町の場合は俗にいう「ヤク入り」の慣習と関連があると思われるもので、毎年四月十日に「ヤク祝い」というものがあり、四十二歳の者が世話役を勤め、四十一歳の者がヤク入りを祝って貰う。祝って貰う者は酒一本を買うのが慣例である。

 こうして仲老または二番組に入ると、年令に制限なく達者なあいだはその役目を勤めるということになる。仲老の役目はヤマのカジ棒を把ることである。若者以下はすべてヤマの前方にあってヤマを引くだけ、綱は前方に二本長さ二十間乃至三十間、そこで一番大事な役目は「根綱がかり」といって、ヤマ車の直前にいて綱の根元を握っているもので、これは古参格の若者が勤める。また道中ヤマの上に登って釆配を振るもの、長い綱の途中にいて釆配を振るもの、これもいずれも古参格の若者の勤めである。仲老はヤマのうしろに突出した二本のカジ棒にかかって、ヤマの動く方向を定める役を勤める。走りながら町角を曲るときなど非常に危険で、カジ棒の把り方は最も緊急且つ熟練を要する。古来カジ棒は非常に大切なものとされ、行列が停滞してどんなにヤマとヤマとの間が接近しても、うしろのヤマの綱は決して前のヤマのカジ棒に触ってはならない、必ず一定の距離を保ってはなれて停止せねばならぬことになっている。

 ヤマの中に在って大太鼓を打つものは多く仲老のうち技能の秀れた者が之に当り、また選ばれて山笠取締になるのも仲老の中から出るのが普通のようである。
 神祭がすんで若者たちがヤマの掃除をし、御礼参りをしてナオライをする頃、仲老は別に仕舞祝いだけをして一年の行事を終ったことを喜びあうことになっている。


 
(四) 取締総取締、取締会

 むかし消防組の組織でもってヤマを引いていたときは、消防組の役職にあるものが、そのままヤマ引きのときの責任者としてその役割を果していた。消防組が解散してから各町内に山笠の取締・副取締というものが出来、それらが集って、山笠取締会なるものを組織し、総取締を選んで其の統制に服することになった。昭和十四年四月消防組が解散し、其の直後に取締・総取締・取締会などいう名称や機構が始まったらしい。
昭和十五年十月十五日に山笠取締会から出された「山笠に関してお願ひ」並びにそれに附した「決定事項」なる文章はこれらの構成と其の機能とを物語る好箇の資料であると思われるので、その全文を次に掲載することにしよう。



  
山笠に関してお願ひ

 従来山笠に関する諸行事については山笠取締会の決議によって総てを処理執行されておりました。ところが御承知の通り昨年四月全国的に消防組の組織が解消せられ、新に警防団の結成ということになりましたので、今迄の様に、消防組頭を山笠総取締に消防小頭を取締に同副小頭を副取締にといふ制度が各町とも出来なくなりました。しかし昨年は解消当時で準備も整はず本格的でないまゝな状態で神祭山笠曳行事を執行致しましたが、今後このままの状態では山笠に関する諸行事が完全且つ円満に遂行して行けるか如何かと云ふ事を憂ふるのあまり、去る十月十三日午後七時より魚屋町宮崎氏宅へ現在各区で定められた山笠取締方々のお集りを願ひ(京町欠席)、まず総取締の件を附議し、全員(十三名)一致を以て木下吉六氏をお願致すことになり、全員で木下氏を訪問の上就任方を懇願致しましたるところ、熟考の上御承諾を得ましたので、緊急な事項もありましたので、御迷惑をも顧みず引続き神祭に於ける諸行事並に役員の選定収支に関する件などを協議致まして左記の様に決議致しました。つきましては特に区長方の御盡力をお願致しまして此会に要する一ケ年の経費として大町(材木町・大石町・水主町・江川町)の四ケ町(正副三人)金拾参円也を他の並町(正副二人)は金拾円也だけを出費して頂くようになりましたので、来る二十日の集会迄に山笠取締へお渡し下さいます様お願申します
 終りに一言申させて頂きます。それでは今迄永年の間取締会の経費はどうしていたかといふ符に落ちない点がありはしないかと思はれますから簡単に申上げます。一昨年迄は内町も外町も消防も山笠も一体の統制下に有りましたので、市から補助されていた消防手当の内から天引してそれを本部にまとめて山笠取締会の方の経費を補っていました有様で御座いました。がそれが前に申しました如く警防団といふ事になりまして内町と外町は分離するし、従前の小頭は大半変ってしまふしと申します様な訳で、費用の出所がなくなりましたので山笠所有の各区へ御相談申し上る次第で御座いますから、其意を諒せられまして何卒御出費方お願申します

    昭和十五年十月十五日 山笠取締会



   役員名
山笠総取締 木下吉六 大手口 電一九
同副取締(会計) 宮崎覚之助 魚屋町 電一二七
同取締会評議員 花田明治 刀町
川添惣兵衛 大石町
同  (庶務) 平田常治 米屋町 電八六五
吉田精一 水主町


    決定事節
一、 神祭の山笠曳は二十九日三十日の二日間
一、 二十九日は各山笠八時揃ひ九時引出し、三十日は九時揃ひ十時引出し
一、 第一日は明神社の御輿と共に行動し、第二日目は一番山笠刀町と行動を共にす。依而刀町山笠は左の場所に左の時間を休憩し、他は進行を続く。

 @日の出館前三十分 A大石町姪子小路角三十分 B停車場通り角昼食に付一時間 C刀町清水洋服店角三十分 D江川町終点一時間
一、 当番町は本年を基順として一番山笠より順次にて本年は刀町とす
一、 当番町は神祭前に山笠引に差支へなき程度に電燈線看板其他の件をそれぞれ交渉し、山笠引に支障なき様完全ならしめておく事
一、 当番町は西の浜で山笠のならぶ位置に町各入の標札を建てておく事
一、 当番町は集会外臨時の出来事や通達ある場合はこれを迅速に名町取締若くは副取締に通報する事
一、 山笠所有並区町金拾円大町金拾参円(一カ年の経費)納入の事


   主なる経費
  通信費 被服襟代 役員徽章代 消耗品費 協議会席料 同茶菓料 其他
こうして木下吉六氏が初代の総取締に就任され、昭和二十五年十一月二十一日年来の病気を理由として辞任されるまで満十年間其の任に在って取締会のために尽力された。木下氏辞任後は中町の花田繁二氏が其の後を襲い第二代の総取締となって今日に及んでいる。各町の取締はもっと早く一、二年乃至四、五年位で交代している。

 各町の取締は取締会を構成して全体としての問題を協議決定しその執行の責任を負うほか、各自其の町内の問題について最高幹部としての責任を負うことになっている。ヤマ引きの際は必ず釆配を取ってヤマに附従い、例えば、ヤマが軒先に触れて瓦を落した場合、或は前または後のヤマ引きの仲間に触れてもんちゃくを起したような場合、取締が一切の責任を負って其の解決に当るのである。

 昭和十八年は大平洋戦争の最中で、恒例の廿九日も山引きは不可能であった。よって山笠取締会は次のようなことを決定し、執行している。

   昭和十八年神祭山笠取締会決定事項
一、 唐津神祭は本年に限り十月三十日三十一日の二日間とす。
一、 山笠曳は三十日一日のみにて二日目は飾置山笠をもなさず 特に例年の如き供日詣の慣例を絶対に廃止する事
一、 十月三十日各町山笠は八時揃の九時引出し
一、 正副取締は八時四十分迄に明神社々前に集合し、宰領旗及徽章を受領せられたし。其際神官によりて修祓の式行はるるにつき時間励行にて是非とも御参集ありたし。


  西の浜に於ける行事

一、 一番山笠以下西の浜所定の位置に配列終れば最終山笠の配列を待ちて各山笠取締を先頭に町名入りの立札を持ちて全員明神台前に集合す、そして次の如き式典を行ふ
一、 今年は唐津神社県社昇格最初の御幸祭につき大東亜決戦必勝祈願祭をも併行す。


           司会者 平田取締


  唐津神社参拝の儀 式順

一、 一同敬礼
一、 修抜
一、 玉串奉典
   木下総取締玉串奉典拝礼と同時に全員二拝二拍手一拝の礼を行ふ 休め


大東亜決戦必勝祈願祭
一、 一同敬礼
一、 開会の辞(吉田副総取締)
一、 宮城遥拝
一、 君ヵ代奉唱(三四の合図にて二回)
一、 祈念
一、 祝詞(神職によりて)
一、 玉串奉典(木下総取締)一同々時に拝礼
一、 万歳三唱(木下総取締の音頭)
一、 閉会の辞(花田取締)
一、 解散

解散の命により元の位置に復し解散昼食
一、 本年の当番町 呉服町
一、 各町の経費負担は昨年通り
一、 役員名を省略す、異動の町は庶務迄御通知を乞う。



 悪夢のような大戦争がすみ、敗戦後の社会が一応安定した頃、そして木下花田両総取締の交代が行われた昭和二十五年の終頃にかなり進歩的で民主的な唐津山笠取締会規約なるものが作られてた。その第二条に目的を次のように定めてある。

 本会は唐津神祭神輿渡御に供奉する山笠曳氏子の志気を作興し勇壮に運行する山笠行事を和楽ならしめ、以て祭礼を盛大にし、一面山笠曳相互の親睦を図り敬神愛郷の精神を養成し郷土発展に寄与するを以て目的とする。

そして第七条は「第二条の目的を達成するために左の業務に勤める」ことを決めている。

 一、山笠曳による氏神氏子の情操的志操の堅固並に愛郷心の養成
 二、山笠曳行事に関する一切の業務遂行
 三、山笠及び山笠曳の歴史的研究
 四、山笠構造の美術科学的研究
 五、山笠の保存対策
 六、山囃の保存並に之が普及対策
 七、山笠曳行事の郷土経済面に及ぼす影響の調査
 八、山笠曳行事に際し市内諸官衙公共団体と連絡接衝
 九、山笠各町による体育競技会の開催
 十、其他本会の目的達成に必要なる業務



昭和二十六年の神祭のとき小城町の某氏(同氏の名誉のため特に本名を秘す)が中町のヤマに狼籍をはたらいたときは、山笠取締会が相当強硬な態度を以て臨んだらしく、次のような御詫び状なるものが事務所たる社務所に蔵されている。


   御詑び状
昭和二十六年十月二十九日唐津神祭の饗応にあづかり、友人宅四五軒を廻るうち大酔し帰宅の途次貴中町の山笠の太鼓を乱打破損せしめ、剰へ三百年の伝統を誇る神聖なる山笠の一部を穢しましたる不祥事件を惹起しましたる事は泥酔の上とは申せ、誠に申訳もなき次第でありますこの事については万死にも価する不遜の行動にも拘りませず山笠取締会御一同様におかれましては御寛大なる御取計ひにより告訴御取下げの上御寛容下さいました事に対して唯々感泣するのみであります。就きましては皆様の心を心として今後は自粛自戒し皆様の御意志に副ひ、今後かかる事のなき様更生の道を辿り度い念願であります。故に謹んで陳謝致します。

  昭和二十六年十一月六日
          佐賀県小城郡小城町大門
                     氏 各  

  山笠取締会殿



七 ヤマ引きに関する慣習


 ヤマ引に関しては既に前述した事項の外になお種々の慣習が古くから行われている。それらについて気づいたことを、次に述べておきたいと思う。


 (一)御幣張り
      
 十四台のヤマのうち一番ヤマの刀町の赤獅子は他と違って頭のうえ角の後に白い大きな御幣を立てている。刀町の人達が伝えているところによれば、これはヤマ引きの行事が無事にすむようにとの意味合で立てるのだとのことであるが、これはヤマの最初が標の山であった当時、即ちまだ神輿なるものが出現しなかった当時、ヤマが神の憑代であることを意味していた当時からの古い故実を今に保存しているものではないかと思われる。この御幣を毎年新しく張りかえることが刀町の若者たちに課せられた、他町に比すれば余分だと思われる勤めになっている。勿論町の人たちが余計な負担だと思っている様子は少しも見られない。神事に奉仕することは当然の勤めだと感じているようである。御幣は木製で紙を張ってあるので、このことを「御幣張り」と呼んでいる。

 御幣張りはもとは十月九日初供日の日に行われたのではないかと思われる節があるけれども、近年は必ずしも一定せず、其の時の都合によるらしい。最近の 「刀町若者記録」によれば、二十九年度は十月廿四日、三十二年度は十月廿三日、三十三年度は十月廿五日に行われている。三十二年十月廿三日は午後三時から「山笠飾付」をし、午後七時から「御幣張り」を行った。出席者は太田氏はじめ十七名で、御幣張りのた酒二升を要したことが記録されている。この「刀町若者記録」という帳面の表紙裏から扉にかけて
御幣裁断之寸法鯨尺の事
として、次のような図が描かれている。左下に「傘紙六十枚大奉書七枚」という文字もある。
 此日若者たちは町のクラブに集まって右の御幣に合わせて奉書の紙を切って丁寧にのりで張りつけ、別に丈夫な唐津紙(障子紙の様なもの)をのりでつぎ合せたものを左の図の如く切り抜き、それを規定の方法で折って、別にこしらえたコヨリで御幣の左右に足の如く出た部分に結びつける。これらの作業に凡そ約三時間を要するという。



 こうして出来上った御幣は神祭の日までクラブに保管し、神祭の日の朝早く恭して奉拝して神前に至り、神官によって祓い清めて貰ったのち赤獅子の頭上に之を安置するのである。


  (二)カジ棒願い

 中町と京町では神祭の二三日前若者仲間の主だった者が二三人連立って仲老(二番組)のところに、「どうぞ今年もカジ棒をお願いします」と挨拶にゆく。その際ヤマ引き用の草履一足を持ってゆく、というならわしがある。もとは鉢巻と草履と持って行ったが、今は草履だけである。江川町でもこうした慣習があった。刀町と材木町では行われていないというが、現在でも中町京町の外にこうした慣習が行われているところがあるかも知れないし、これはきっと古くからの慣習であろうと言われている。


  (三)ヤマ引きの作法

 神幸の行列は前に述べたように、三つの神輿をはさんで十四台のヤマが縦一列に並んで行くのだから、前後の距離が最も詰った場合でもざっと見積って七百米を下らない長さであり、普通実際は千米を越す行列となっている。従って何人も一時に其の全貌を見通すことは不可能である。

 行列の進行速度には緩急の調子があり、従って時によって後のヤマの速度が増して前のヤマに追付いてしまうことがある。こうした場合、後のヤマの綱の先端は必ず前のヤマのカジ棒から二三間離れたところで停止しなければならない。カジ棒に触れることは勿論余りに接近することは禁物である。

 西の浜に到着したとき、一番ヤマが一定の位置を占めて停止し綱を下ろしてしまう迄、二番ヤマは決して綱を下ろしてはならないということになっている。また浜で並ぶとき後のヤマのカジ棒は前のヤマのカジ棒の線から出てはならない、ということになっている。西の浜から引出すとき浜の砂が軟かで車がめり込むので、引出すのが中々容易でない。困っているときは隣同志加勢し合うのが礼儀である。

 ところが、当日はいわゆるお祭騒ぎでみんな威勢がついているので、何かの間違いで禁を破り礼に背くことがないとも限らない。そうした場合若者同志の喧嘩が起ることになるわけであるけれども、御神幸当日は喧嘩をしてはならないことになっており、このことはみんな承知しているから、この日は喧嘩はない。翌日神輿なしでヤマだけ町を引いて廻るとき、「お前達は不都合じゃないか」 ということから喧嘩をはじめる。暫らく渡り合っているうち取締が出て詫びを入れるべきは詫びを入れて一杯やっておさまることになる。


  (四)ヤマ引きの里帰り

 笛や太鼓の賑やかな山囃しにつれて 「アーエイヤエイヤ」の掛声勇ましくヤマを引いた思い出は、この町に育ったものにとっては生涯忘れることの出来ないものとなっている。他郷に在れば一入、神祭が近づくにつれて郷愁は堪え難いものとなる。この町に育って近郷近在は勿論、北九州方面遠くは神戸大阪方面に働いている若者たちが、神祭には「ヤマを引きに」帰って来る風習が今もなお盛んに行われている。そして昔なじみの法被を着てヤマ引きに参加する。それで神祭の当日実際にヤマ引きに参加する若者の数は不断町内に居住する若者の殆ど二倍に近い数になるようである。


  (五)無礼講

 神祭の日は無礼講だと言われている。これは古くからの慣習であるらしい。その意味を考えるのに、およそ次の二つの面があるようである。第一はヤマの行列が誤って家の軒先などに触れた場合、損傷を与えてもそれは一切お構いなしであったということ。戸川老宮司の談話によれば、或る町の角の家の親爺は仲々のやかましやだったが、ヤマがよく突き当って軒先をこわしたけれども、ヤマのことだけは文句を言わなかった。そして後には予めその辺の瓦をはずしておくようにしていたという。
また昔ある町の角の家の主人は札幌農学校出身の農学士で、若い頃官途について長く郷里にいなかった。後に帰郷してこの角の家に住んでいたが、或る年偶々ヤマがこゝの軒先にぶつかって家を少しこわした。農学士先生大いに怒って、不都合だ、弁償させてやるといきまいた。これを聞いた其の町の区長宮尾忠弘氏が、「お前そんなことを言ったらかえってにくまれてどうにもならんばい」と話してきかせて、其のまゝにおさまったという。このように昔は一切弁償の要なしですんでいたが、ともすると不断若者たちが快く思っていない家に対してこの際ということでいたずらをしないとも限らないので、お互に警戒をすることになったのであろうか、最近は場合によって弁償することもあるらしい。

 第二はヤマ引きの姿の若者はどこの家に入りこんで御馳走を頂いてもよいということ。唐津神祭はいつの頃からか三月倒れと言われるようになったほど、各家々が御馳走をして親戚知友を招くという習慣になっている。全く見ず知らずの家であっても、友達に誘われたからとか、何かの序にという、一寸した引掛りをつけて入りこめば、そこの家では一応お客として歓待し御馳走を振舞うという慣習になっているが、思うに之は第二義的のもので、第一義的にはヤマ引き姿の若者ほどこの家に入りこんでも、その家では之を歓待し、御馳走を振舞うことになっていた。そうした慣習が拡大されて一般の人々にも適用されるに至った結果であろうかと思われる。昔は士族と町人との身分の違いがやかましく、不断は滅多にうかがうことのない城内の士族の家々にも、神祭の日にはヤマ引き姿の若者がよく出入したということである。

 要するに、この神祭の二日間はヤマ引きの姿さえしておれば、若者たちにとっていわば一年中の最良の日であって、滅多に咎められることもなく、どこに行っても飲みたい放題食いたい放題のわがまゝの出来る日である。ヤマの綱から離れて三々五々肩をくみ、囃しはないのにエイヤエイヤの掛け声だけは威勢よく大道を闊歩し、或は大きな家に出入する光景は今でもなお珍らしくない光景である。


 (六)くんちの御馳走

 十月廿九日の秋祭は民俗学的に見れば、もと旧暦九月廿九日に行われていたいわゆる豊作祭であって、新穀で作った神酒や御飯を神前に供え、人間もたらふく飲み飽くほど沢山食って、お蔭でこんなに豊作で沢山頂戴致しましたと、神徳を奉謝するための行事なのである。それがまた遠近の親戚知友との親睦を図り旧交を温める絶好の機会ともなっている。そうしたわけで、唐津の神祭でも三月倒れと言われるほどの御馳走をしてお客に振舞うのであるが、くんちの御馳走として各家毎にこしらえるものの通例は凡そ次の如きものである。

 酒は今では買物を用意する。そのほか必ず家で甘酒を作る。こわ飯は栗の入ったのが上等である。味噌汁とナマス。ナマス肴は青物で、アジかコノシロがよい。イワシかサバでもよい。そのほかに鯛かアラの尾頭つきの丸煮または丸焼がある。大家になるほど大きな魚を使う。以上がくんちの御馳走に一応なくてはならぬもので、このほかに、さしみ、ぬたもの、赤かぶの三杯酢、魚の煮付、里芋・人参・牛芳・蓮根などの煮〆、こんぶ巻など作っておくのが普通のようである。

 近年婦人会などでしきりに饗応廃止ということが叫ばれているけれども、旧来の伝統はなお根強いものがあり、容易に改まろうとしないのが実状のようである。

 なお御馳走とは別だけれども、神祭の日町家はどこも平常の商売を休み、定紋入りのまん幕を軒下に張りめぐらし、入口だけを上げておく。家の廻りをきれいに掃き清め、もとは町田川の砂を玄関の前に敷いていたそうである。



八 修覆と保管



       
  (一) 修 覆

 ヤマの製作は前に述べたように、一番古いのが既に一四〇年、最も新しいので八三年を経過したことになっている。この間数回の修覆をしたのが普通で、紺屋町の如く雲がくれしてしまったものもあり、また水主町のは明治九年に出来た第一代の鯱が五三年後の昭和四年に破損甚しきため遂に廃棄され、第二代の鯱が昭和三年三月六日に起工されて同五年八月三日に竣工したというような例もある。このような結果にならないために、破損の少いうちに修覆を加えるのが通例である。いま確実な記録の存するものについて各町のヤマの修覆年代のインターバルを計ってみると、最低八年が材木町と魚屋町に各一件宛、稀に五十年を越したのがあって、江川町が一八七六年から一九二八年まで五二年、木綿町が一八六幾年から一九二幾年まで六〇年、呉服町が一八五七年の第一回修覆から次の一九二八年迄の七一年といった工合、最後のものが最高の例である。


 最も丹念に修覆を加えたと思われる刀町・中町・材木町・魚屋町・大石町・新町の六町についてその修覆年代を表記すると次の如くである。

刀町
製 作  一八一九
第一回  一八四七   (二八)
第二回  一八七二   (二五)
第三回  一八九三   (二一)
第四回  一九二八   (三五)
第五回  一九五六   (二八)

中町
製 作  一八二四
第一回  一八四七   (二三)
第二回  一八六九   (二二)
第三回  一八九七   (二八)
第四回  一九二八   (三一)
第五回  一九五九   (三一)

材木町
製 作  一八四一
第一回  一八七五   (三四)
第二回  一九一四   (三九)
第三回  一九二五   (一一)
第四回  一九三三   (八)
第五回  一九五五   (二二) 

魚屋町
製 作  一八四五
第一回  一八六九   (二四)
第二回  一八七七   (八)
第三回  一九二四   (四七)
第四回  一九五九   (三五)

大石町
製 作  一八四六
第一回  一八六七   (二一)
第二回  一八九〇   (二三)
第三回  一九二一   (三一)
第四回  一九三二   (一一)
第五回  一九六一   (二九)

新町
製 作  一八四六
第一回  一八六四   (一八)
第二回  一八九三   (二九)
第三回  一九二七   (三四)
第四回  一九五八   (三一)

 各町のインターバルの平均は次の如くである
 二七、四  二七、〇  二二、八  二八、五  二三、〇 二八、○

 年にこれらの値を全部加えて平均してみると、二五・六となる。即ち、ヤマの保存のためには平均二十五年に一回の修覆を必要とするという結論を得たことになる。こうした修覆の一例を示すものとして、昭和二十九年九月材木町のヤマの第四回修覆の場合の記録を次に掲げておくことにしよう。
 第四回修覆  昭和二十九年九月
     塗師  唐津市米屋町一色健太郎
     経費  六拾八万弐千参百参拾四円
     内訳  山笠塗替 五十五万円
          山笠台塗 壱万五千円
          山笠台新造壱万七千参百参拾四円


  (二)山笠保存会

 ヤマは各町内が之を製作して神社に奉納したものである。併し一般には各町内のヤマと観念され、神祭にこれを引くことは夫々の町内の若者達の権利であり且つ義務でもあると解されている。と同前にまた保管や修理については専ら其の町内の責任とされて来た。ところで、ヤマを有っている町内は毎年ヤマ引きに要する費用だけでも相当な負担である。刀町の場合、「若者記録」に記録されている表面上の経費だけでも二万円を下らない金額が毎年入要とされており其他に記録されていない経費やまた各家々で別々に支出されるものなどを合わせると、相当莫大なる金額になるものと想像される。その上に毎年或は数年毎に行われる小修理と山二三十年毎に行わねばならぬ大修覆に要する経費は大変な金額である。市内にはヤマを有たぬ町も多いのに、ヤマを有った町だけがこうした費用を負担せねばならぬというのは苦痛であり、何とか経費負担の合理化を図りたいものだという声が次第に大きくなりつゝあった。昭和三十一年九月二十四日有志の人々が集って仮称唐津山笠振興会の結成を発起し、同十月一日付を以て発起花田繁二(総取締)戸川顕(宮司)竜渓顕亮(史談会長)外十三氏の連名を以て広く有志に呼びかけ、同十月六日午後七時から唐津神社彰敬院に於て最初の集会が催された。その結果、唐津山笠保存会なるものが結成され、総取締の花田繁二氏が初代会長に就任し、事務所を社務所に置くこととなった。保存会は其後山笠取締会と表裏一体となして活動し、唐津市観光課や教育委員会及び観光協会などと密接な連繋をとって、唐津のヤマについて一般の関心を深めることに努力、また重要文化財として指定されるに至る過程に於て奔命の労を奉仕し、特にまた今回の格納庫建設の決定を見る迄に盡痒するところが少くなかったようである。


 
(三)格納庫

 従来江川町と材木町、大石町、水主町の四町のヤマは夫々其の町内のヤマ小屋に、他の十ケ町のヤマは唐津神社前参道東側のヤマ小屋に格納保管されていた。これらのうち神社前のヤマ小屋の中には老朽して今にも倒壊するのではないかとの懸念を抱かしむるものがあり、取締会や保存会が大いに動き、市当局もその熱意に応えて遂に市費を以て格納庫を建設することとなった。新設の格納庫は神社前にあった十台分のヤマ小屋の敷地を整理し更に僅かに其の敷地を拡張して、十四台全部のヤマを格納し得るもので、鉄筋コンクリート建て、高さ五米八〇、間口合計四七、六四米。奥行は場所により必要に応じて異なり、四、一七米乃至六、一五米。間口の区劃もヤマの大きによって分ち、大は三、四〇米から小は二、七三米まで、正面扉は鉄製のいわゆる簡易シャッターで下から上に開くようにする。内部地面は三和土のタタキで固める。総工費四百五十万円を市から支出し、外に敷地拡張費若干を町内が共同で負担することになっている。去る二月六日にここに在った十台のヤマは夫々町内の若者に引かれて和多田大土井のもと玄界興業の工場跡に移って新格納庫の完成を待っている。一方旧ヤマ小屋は直ちに解体され、目下着々工事中で四月一杯、おそくとも五月中頃までには竣工の見込みであるという。これが完成の暁には保管上殆ど完壁に近いものを期待し得るものと信じ、慶祝の意を表すると共に、期待に背かぬようなものが完成されることを念願して止まない。







九 唐津神祭行列図について


 唐津のヤマ引きの光景を措いた古図として極めて貴重なるものである。もと襖絵であったらしく、引手あとの空処があるが、今は軸物として表装されている。縦一六七糎、横九二糎のものが七軸ある。七杖続きでヤマ引きの全場面を描いた一大絵巻を成している。今唐津神社の所有に帰して社務所に蔵されているが、もとは魚屋町の西ノ木屋山内家に蔵されていたもの。之を容れる箱の蓋に、「唐津神祭行列図」と書かれ、その裏には

  明治十六癸未年当地富野棋園先生描写之       山内所蔵

と記されている。これによって製作年代を知るべきである。富野棋園はこれより先、明治八年京町の、同九年水主町のヤマの製作者たる富野棋淵と同一人物であると思われ、後佐賀師範学校の図画の先生となった人である。
明治二十年四月七日五十八歳を以て歿し、戒名を我常院行道日種居士と号し、唐津市十人町の法蓮寺に葬られた。法蓮寺の境内にはまた発起人山内小兵衛など十五人の男子と山内ハナなど十七人の女人の連名を記銘した「淇園先生碑」なるものが立っている。

  この絵図左方に唐津大明神御廣前と書いた赤い幟を二本立てた御旅所があり、其の後方に土俵があって相撲が行われている。行司もいる。見物が大勢たかっていて、其の中には「今度は俺が出る」と力んでいるのがおり、それを「まあまあ」と抑えている格好の人がいる。画面の中央上方に松林の中にお城や楼門があり、その一部に三階菱の幕をめぐらしたお屋敷の部屋の真中に腰元数人を従えたお姫様が座ったままで行列を見物している様が描かれている。右の方に町家らしいものがあり、行列はその辺りから画面の上部を左に、中央で折れて右下に、それから画面の下部をまた右からから左に進んで浜の御旅所に向っている格好である。ヤマは紺屋町の黒獅子も入って十五台全部揃っている。

ただ林木町の浦島に亀はここでは浦島がなくて、亀が宝珠を背負った格好であり、京町の玉取獅子は現在赤だけれども、ここでは青色である。刀町のヤマが御幣を立てているのは昔も今も変らぬが、多くのヤマが出陣する大将の如く大きな職を立てているのは、今は見られぬ勇ましい光景である。神輿の前後に大名行列様のものがあり、また賽銭箱が運ばれていて、合掌して拝んでいるもの、お銭を紙に包んで箱に入れようとしているものなども描かれている。歓松院はかごに、三社家は各々馬に乗っている。画面一杯に無数の人物が描かれているが、みな生き生きとして特徴が生かされている。よく見ると、武士があり、町人があり、坊さんもお遍路さんもいる。また珍らしい眼鏡をかけたしたり顔の、薮井先生らしい人もあり、これから相撲とりに行こうという力士も見える。果物を荷負っている人がかなり多く、立売りの人もある。道引のお店もある。問題のカブカブ獅子は画面全部で合計六つ描かれていて、その中の一つは果物売りの前に頭を逆さにする芸当をやって果物を投げて貰っている。また獅子かぶりの服装をした若者が交代で休みながら果物を頬張っている場面もある。お旅所の前方浜には幕をめぐらした各町内の休憩所が作られてあり、「町内安全」と番いた箱から幕を取出してこれから張ろうとするところもある。見物の人にまじって弁当と思われるものを運んでいる人たちも描かれている。面白いことは、十五台のヤマが揃ったのは明治九年以後であるのに、画面には厳めしく大小をさした武士や丁髷姿の人物が多いことで、ヤマが揃っている点を除けば、大体のところは幕末頃の風俗を写したものかと思われる。ヤマ引きの連中の姿も町内毎に判然と特徴のある服装で、実に面白い。





一〇 唐津神事思出草について


 本文の中に触れた如く、本書は現唐津神社宮司戸川顕氏の叔父戸川真菅氏が昭和八年十月十八日朝鮮済州島朝天に在って郷土を偲び往時を懐んで書かれたものである。氏は城内の社家に生まれ、少年時代をそこで過ごされたのであるが、唐津に育った者が誰しも殊に他郷に在れば一入に感ずる唐津神祭への郷愁を、あわれにも見事に表現されたものである。氏は当時七十五歳の老体であったと言い、ただ往時の思出を綴られただけであろうから、若干の記憶違もあったようである。例えば、水主町の鯱の竣工した年代や、同時に出来て何れを先にするかの論争が行われたのを江川町と米屋町としたことなど、既に本文中に触れた如くで、戸川氏の記憶が間違っているにも拘らず、往時の神祭の状況を記述したものとして好箇の参考資料と思われるので、次に其の全文を掲載す
ることにした。

  
唐津神事思出草  戸川真菅筆

 唐津で一年の中一番楽しみの日はいつかと言はば唐津句日と誰も答ふるならん、御一新後は城廓も年々解け頽れて昔の面影次第に変りたれども例の囃山は今猶一の唐津名物としてもてはやさるると聞けり。吾等物心覚えしより十二三歳に至る頃は山とし言へば他を忘れて浮かれたりしものにて今より之を思ふも猶いとど懐しさを覚ゆるなり。当時は城廓の守り厳重にして追手の門は明け六つにならざれば開かれず、吾等は床の中に在りて耳を傾け聞けば城外諸所に鉦や太鼓の笛に和して移動する音を送り来る。直に床を蹴って一散に追手に向ふ。此時未だ寅の一刻追手の門は鎖されて内外共に出入を許さず。家中の腕白は争うて塀の上に跨り我は矢間より覗き見れば町々の山は何れも満燈を装うて門外の広場に集中し来る。やがて時打櫓に於ける明六つの一鼓朝霧を破って轟き渡るや城門始めて左右に開かる。

此に於て吾等は先を廻はして安藤の角に退く。山は何れもロクロを下して低くなり追手の門をくぐり明神前へと入り来る。時少しく移りて朝陽朝霧を破りて出初むるや安藤の角より見居れば長谷川の梅の枝を透して金光燦然現はれ来るものは或は飛竜或は鯛其大鼓の太く轟くは本町なるを知り其の囃の軽妙なるは刀町なるを予知し、鍾鼓の急噪なるは材木町なりと賭し、手の舞足の踏むを覚えざりし吾々なりき。斯くて山は宮前に順序を正し若者等は一旦家に食事を取りたる後何れも町々揃ひの出立にて再び集り来り前十一時頃より愈々御輿の発輦とはなれるなり。昔は鹵簿に大名行列様の出立ありて槍振、挟み箱等の身振は藩の仲間にて奉仕せしにて行列中の珍とせしなりき、他従扈の具としては多くの毛槍弓矢太刀天狗の面等ありて町田神田のカブカブ獅子も七八御輿の前後に従へり。社僧には寛正院社家には戸川、安藤、内山の三家是等は駕又は馬上にて御輿の後につきしなり、かくて大名小路より追手に出で本町を通りて材木町を過ぎ新堀に少憩し大石町京町新町を通り表坊主町より西の浜に着御旅所の献供三四時間の後再び表坊主町、新町、刀町を経て還幸となりしなり、三ッ子の魂百迄の諺の如く今七十五の老体としても昔の光景眼前に髣髴たるものあり。以下所詠に於て足らざる所を補はん。


神事諸詠

 引初め
大神のいでましの日の供振を今日はならさむ初めなりけり

 九月九日即ち菊の節句は栗のこわ飯を家々にしつらふ日なりき、此日を以て町々飾山の引き初めとす、吾等家中の腕白は朝より城外に出でて遊び暮せり、家中の婦女はしかし自由ならず堀の矢間より城外の光景をつまだてあこがるるのみなりき

 御輿飾
氏子らが飾る御輿は今日よりや神の心にかよひそむらむ

 九月廿五日の奉仕にて本呉八中木材京刀米大石紺屋の魚の順にてこれを承はり番に当りたる町方より出て輿を清掃し御輿堂に安置し廿八日宵宮にこれを出し社の左右に配し夜半人定まりて神体を移す、昔は神田村より御輿の人夫を出せり。

 宵宮
思出をあすにひかゆる宵宮の今こそ神も楽しからまし

 
こわ飯の香らむ頃は山囃し暁破る声ぞ賑はふ

 祭日の朝まだきより家々の前を過ぎればこわ飯のむせ上る香りしきりなり。吾等は山を見るの心しきりなるや顧みるいとまもなく遊びまわりやがて家に帰りて朝の膳に就く時一年一度の赤飯に神事の思出しきりなりき。

 遥拝
韓の海を汐井に汲みて産土の神の御幸を拝みまつらふ

 身は韓南孤島の一角にあり偶々、祭の当日に当りて望郷の念更に新なりおもむろに海浜に出てて東方に向ひ今日の御幸を拝みまつらふ

 幼時の思出
獅子の毛をうしろにぬきて肩上げの袂にひめし昔をぞ思ふ
 
赤獅子青獅子の毛は守りになるとてうしろに廻りてこれを脱ぎ或はカブカブ獅子のあとにしのびてこれを脱ぎ袂や縫上げの中にひめてほこりゐたりき

  社頭の光景
小屋小屋のよび物よりも立ち並ぶ獅子兜こそ見物なりけれ

 今は祭の前後宮前の広場は種々の見せ物小屋ありて殊の外賑へり。参集の人衆は佐賀福岡に広かり居れるも昔は他藩との往来自由ならず其参集も唐津領分内に止まりしなり。

  門前
てんぽこの梨も柘榴も吾が門の昔ながらにひさぎおれるかも

 てんぽこ梨といふは唐津にてはあまり見受けたることなかりき、ただ畑島村の道端に某家に此樹ありしを居たりしが今はいかが。其他は祭日に七山方面より持ち来りて毎年戸川の前にひさぎおれるを例とし、一年唯一回なりき、甘草の如き甘たるき枝様のものにてお祭のしるしに一把は必ず求むるものなりき。

 御発輦
祝等らが心つくしを大神もうずなひましていでたたすらむ

 西の浜
清めおける西の浜辺のかり宮に八十氏人の拝みつるらむ

 カブカブ獅子
梨子柿のならべる方をおのがせにしば口あけて獅子のとふ見る

 鹵簿
先供の獅子も兜も大神の道開きして清めゆくかも

 御還幸
元つ官に還らひまして今はしも神の大贄きこしめすらむ

 赤獅子 刀町
赤獅子の怒れる鼻を先立て道開きゆく状ぞ勇まし

 青獅子 中町
青こそは牝獅子とを知れ二またの角よりかけて耳襷せり

 他の獅子は何れも耳垂れ居れるもこれは耳そり上りて面ざし苦味を帯び角より耳に白と茶の鉢巻をなせり、動くときは上下の金歯の歯切りするを見る。

 亀 材木町
玉手箱未だ開かず亀の背におさまる君の面かはりなさ

 材木町の亀又は浦島太郎とし言へば一の呼び物となりて子供等推奨の山なりき。特に材木町は戸数多くして若者等気抜あり、其の囃は急調にして西の浜の坂を下る時の如き其活気当るべからざるものありき

 兜 呉明町
竜頭前楯にせる鍬形の兜の面はよにもやさしき

 元来竜頭の鍬形は武将の料として頗る威厳あれども此面は甚柔和にして他の兜に類なきところ、其囃亦緩調にして一般とは区別ありしが、今は果して如何

  鯛 魚屋町
味細はし鯛も交りて大神のけふの大贄仕へ奉らむ。

 西の浜の坂を下る時鰭を揮うて泳ぎ来るは喝釆に値せり、

  船 大石町
鳳のおへる屋形を船にして人波たてる中をねり来る

  飛竜 新町
天翔ける竜も下り来て大神のけふの御幸に仕へ奉らむ

  金獅子 本町
黄金色に足れる面輪を化粧せるこれもかはじや牝じしなるらむ

  諏訪法性の兜 木綿町
鹿の角の兜着けしは昔より古つはものの名に洩れぬかも

 信玄・本多忠勝・山中鹿之助等例多し


  黒獅子 紺屋町

名のみして今は昔の影も見ず深山かくりて思い絶えしか

 此獅子は他の三者に比して大に見劣りせるが如し、一つは色の配合当らざるに起因せるならん。余の十二三歳の頃なりしならん其時他の町々と共に引廻り八軒町の東端に於て横倒れとなりどぶの中に陥入りて大に物笑ひとなりし事あり若者等もこれを耻とし夫れよりは祭時に列する事あり列せざる事ありていと冷淡なりしが終に廃絶となりしは若者等に於て遺憾なきか、唐津名物の歴史より見て復活するか他の製作を試みては如何

  酒顛童子 米屋町
大江山ありし昔の世がたりを囃し立ててもひき廻るかな

  獅子兜 平野町
此兜見れば思ほゆ越の後国したがへし人の形見に

 謙信常に此形の兜を着せしは人の知る処

  蛇宝丸 江川町
新玉のそれならねども宝船足れるを見れば心地よき哉

 蛇宝丸と酒顛童子の兜の出来しは明治十一二年の頃なりしが、二者殆ど同時に竣功して何れを先列とすべきか決し難く、論争の末終に隔年先列を勤むる事となりて経過せしが今は如何なり居れるや。

  玉取獅子 京町
此獅子は玉とりおふせ今はしもそれのり据えてたはれおれるかも

 京町は元一の屋台を出し町家の踊り子をのせて引き廻はし辻々にて踊を演じて婦女子を悦ばせ居たりしが、若者等其甚活気なきに鑑み新に製作を試み、年月の順に由り米屋町の次に列する事となれり。

  鯱 水主町
何れも先に打たせてしんがりに逆立ち居れる鯱の魚かな

 鯱の竣工せしは明治十四五年の候にしてこれを最後として其後の製作を見ず、以上山と称するもの凡そて十六内紺屋町一欠け居れり ずっと以前には此外八百屋町は仁王を出し塩屋町は張り子の鳥居を出せしが、今は如何になり居れるを知らず

 裏日
ここをせに囃し連れても若もののけふを限りの名残おしさに
お祭りも今日にて終るかと思へば何ともなく物悲しく名残惜しかりしは子供心なりき。此日は朝より町を歩き廻はり辻々にて山を迎え見るを無上の楽しみとせしなり。


図版