曳山の思い出尽きず

                       唐津神社宮司 戸川 省吾

初めて唐津を出る

昭和26年初の遠征
  博多の中心部突っ走る


 昭和二十六年四月でした。門外不出の唐津曳山が初めて唐津の町から出て行ったのは。私は三十五歳。夕刊フクニチの「九州観光祭り」への出場です。私の最も印象に残っているのが、このとき唐津を出た三つの曳山が博多の町で大観衆の人気を得たこと。それに初めて鯛山が海外に遠征してフランスのニースで開かれた海のカーニバル≠ナ人気を独占したときです。両方とも私は実際にこの目で確かめました。本当に感激でした。
 初めて曳山が唐津を出ることは大きな問題でした。まだ総取締になって間もない花田繁二さんに前年の暮れにフクニチから出場の依頼がありました
 「唐津ん山ば、よそさい持ち出すとはもってのほかばい」と、あちこちから強い反対の声が起きたのですが、花田さんは「私にとって生涯の記念になることを一つやってみたい」と大張り切りで、説得を重ね、ついに実現したのです。
 輸送も大変でした。いまのようにクレーンはなく、.駅の荷降し場を利崩してトラックに曳山を積み込み、いざ出発して虹の松原にさしかかると、荷が大きすぎてトラックが通り放けられない。そこで技を切ったのですが、営林署から大目玉を食いましたよ。出場したのは刀町・新町・米屋町の三台です。

 博多では大歓迎

 さあ福岡市天神の、いまのマツヤレディースの前に勢ぞろい。スズラン灯を新町の飛龍の尾がパンパンと二つ三つ割ったので一同ヒヤリ。
 「エンヤエンヤ」で博多五町や新柳町を練りましたが、当時はまだ敗戦の傷跡が大きく、娯楽らしいものは何もなかったころなので大歓迎です。博多五町では酒・サカナで歓待、私たちも、くんち気分になりましたよ。おひるごろ県庁前を通ったときは電車もストップして道をあけてくれたのです。アーケードの町では、
 「縁起もんだ。アーケードが少々壊れてもよいから引き込んでください」と、強い要望。こちらの曳山は壊れては困るので、おそるおそる入れたのですが、私たちも、こんなに喜んでもらえるとは思っていなかったですね。ジーンときました。
フクニチ新聞社の前を通って岩田屋デパートの裏側に出てきたのですが、くんちの大手口より多い人出で、大歓声があがりました。
 曳子たちは曳山の姿で唐津−博多間を汽車に乗ったのですが、乗客から見られてウキウキ気分。
 博多の人はチエがあるなあと感心したのは、唐津に帰る曳山をトラックに乗せたときです。地面に穴を掘っていて、トラックを穴の中に入れ、地面と荷台を同じ高さにして、ヒョイと簡単に積み込んでしまったからです。

 唐津に負けんゾ

 これは後日談ですが、唐津の曳山を見た博多っ子たちは「エーイ、唐津に負けたばい。こんな立派なものがあるとは知らなかった。よーし、祗園山笠ばハデに作って、こちらも負けんごとしようや」と、それから飾り山笠が豪華なものにな
ったと本で読んだことがあります。

緊張したニース

 ニースは初の海外遽征だけに緊張の連続、準備は徹底してやりました。飛行機がニース空港に着いたときは、ミゾレが降っていて、せっかく来たのにこれではねーと、脇山団長以下空を見上げて暗い気分になったのです。ところが一夜明けてみると天候も回復。ヤレヤレと胸をなでおろしたものです。

安全祈願すませて

 鯛山をちょうちんで飾って、イザ出動。宵山、つまり前夜祭ですね。
 出番を待つ山車(だし)を見渡すと、どれもジャンボで、イルミネーションで飾りつけられたものばかり。
 「これでは鯛山も、あまり見栄えせんばい」と、ビクビク。それでも「せっかくはるばる来たんじゃけん、張り切っていこう!」と声をかけあってスタートしました。われわれが受ける観衆の手ごたえは、まんざらでもなく「これならあすの本番はいけるぞ」と大いに気を強くしました。
 翌日は快晴。早春のさわやかな日差しがふりそそいで、気分もさわやか。マセナ広場で安全所願のお祭りをすませたあとパレード隊に加わって、さあ出発です。

心と心のふれあい

 ほかの山車は皆、自動車なのでスイスイと進むだけです。ところがわれわれは法被(はっぴ)のいなせな婆。鯛山を約百人で「エンヤ、エンヤ」と、引くのですが、山ばやしの音色が、またひときわ高く流れます。エキゾチックに見えるのでしょう、大観衆はもう熱狂的「タイザメ」「タイザメ」と叫びます。曳山観光団もスタンドの一角に陣取って 「エンヤ、エンヤ」。
 スプレー式の紙吹雪を持ったヤングたちが鯛山に近づいて打ち込みます。曳子の後ろから肩を叩き、振り返ったとたんパッと打ち込む者もいます。ノドの奥まで紙が入り込んで目をパチクリする曳子−。観衆は大喜び、異国の人との心のふれあいは、たまらなくうれしいもの。博多に行ったときいらいの感激でした。
 子供たちも飛び出してくるので、車輪に巻き込まれないように脇山団長以下、ハラハラし通しでした。
 われわれの曳山の先導を務める女性のリーダーは、私たちの曳山に断然人気が集中しているのを知って、ほかのコースまでグルブル回らせるのですから疲れましたよ。

 パレードも終わり、出発点に戻って万歳を三唱したところ、フランス人たちが大勢寄ってきたので法被、ちょうちん、ぞうり、手ぬぐいなど、せがまれるままにどんどんやりましたよ。
 そこから曳子たちはトラックに鯛山と同乗して格納庫まで帰りました。私は真っすぐ車でホテルに帰って、後で聞くと、トラックで帰る途中が又大変よかったそうで、山ばやしも披露してゆっくり走ったところで、本番よりも歓迎され、最高だったそうです。
 観光団の人たちは立派な着物に着替えて、ホテルで開かれた慰労のパーティーに出席していました。.魚屋町の関係者も九時ごろやってきて午前零時まで大騒ぎです。みんな大任を果たして、心から晴れやかな顔を見せていましたね。

 昨年はアメリ力へ

 昨年のディズニーランドにも行かせてもらいましたが、東京でのディズニー側との打ち合せでは、かまいませんと言ったのにヤマを走らせない。ベニア板を道格に敷いたりしてね。でも二日目は走らせてくれましたのでモトは取りました。
 私が常に感謝しているのは曳山総務で唐津商工会議所の尾花明さんです。曳山の生き字引で、裏方さんに徹してよくやっておられると頭が下がる思いです。 


曳山に男の生きがい

                    曳山副総取締   中野 陶痴


市制50周年で出動
  感激した三笠宮ご来唐


秋祭りの群抜く

 唐津のおくんちの曳山行事は全国の秋祭りでも群を抜いていますよ。曳山参加者が各町二百人くらいはいるでしょう。四百人のところもいますしね。それが十四町合わせますと、三千人くらいの人が参加します。こんなにぎやかな秋祭りは全国にも例を見ないはずです。唐津っ子は確かに海洋民族だと思います。博多も祗園山笠があり、小倉にも祗園太鼓がありますね。北部九州の人にはお祭り好きという共通した性格があるようです。博多あたりと比べると人口の割には、唐津はがんばっていますよ。唐津くんちを見た外人は口をそろえて「小さな町にこれだけの大規模のお祭りがあるのはワンダフル」と言いますね。
 こういう行事は長い伝統がなくては続きません。伝統といえば、いつの間にか消えてしまった黒獅子ですね。ある中学校の先生が私のところへ来ましてね、「黒獅子を復活しようではありませんか」と、熱心に言われました。しかし私は反対です。というのは、今の技術ならば、立派な黒獅子が出来ます。でも伝統がありません。伝統があったればこそ「唐津くんちと曳山行事」が、国の重要無形民俗文化財の指定を受けたのですからね。

山ばやしで育つ

 唐津っ子の代表か山キチと思います。私はこの山キチのなかの山キチです。私の父が昔、水主町と本町のヤマの修理をしています。私は産湯のときからヤマばやしで育って大きくなりました。本町の金獅子のツノが大きすぎたので小さく作り変えたのは私です。

正月より、くんち

 よその町の人は皆は盆と正月というでしょう。私たち唐津っ子は、唐津くんちを中心にして一年があるわけです。“唐津くんちの三月倒れ≠ニいうでしょう。私が「ああ、あと一月ばい。待ち遠しかなあ」と、つぶやくと、よその人は「あと一月?正月までは三カ月もあるよ」と言うのです。唐津の人たちは正月や盆よりもくんち≠ノ帰るのがいちばん故郷に帰った味≠ェするとですよ。
 くんちがすむと、ほんとに気が抜けたようになります。

三笠宮がご来唐
 さて私の思い出深いものは、三笠宮殿下同妃殿下を、くんちにご招待したときのことです。
 昭和四十九年十月に瀬戸市長と脇山総取締と私の三人で三笠宮家にお伺いして「十一月二日に全国レクリエーション大会が唐津で開かれます。 唐津くんちでもありますのでぜひご来唐ください」とお誘いしたのです。私たちの願いを聞き入れられまして両殿下がご来唐になりました。 二日の宵ヤマ、三日の御神幸引き出しと、唐津神祭のもようを、ご覧になって大そう喜ばれた様子でした。
 翌年の五十年一月十日、三笠宮妃殿下には新春「歌会始の儀」で御題「祭り」で我もまた祭に酔いぬ獅子の山車、兜の山車と続さ行く見て≠ニご詠進になりました。私たちは心からうれしく思いました。

海外遠征も思い出

 曳山の海外遠征も大きな思い出です。ヨーロッパの歴史を誇るフランスと、文化の高いアメリカ両国に行き、それこそ”人気独占″だったのですから。ヤマに生きる私たちは、男冥利に尽きるといっても過言ではないでしょう。それも、こちらから押しかけたのではなく、招待されて行ったのですからね。

国指定を記念して

 ことしは市制五十周年ですから五月には十四台全部が、くんちのように出動する予定です。五十五年には国の指定を妃念して引き回しました.昨年は十四台全部を唐津神社前に展示しました。五十四年には「獅子まつり」をして獅子ヤマだけか刀町−中町−本町−京町を回りました。刀町の赤獅子が百六十年祭をやりましたので共賛行事としたわけです。
 私は日本の祭りは、これからも盛んになると思っています。日本に平和が訪れて三十六年になりますね。
平和は何にも代えがたいものです。不景気が来ても、祭りをやって不景気風"を吹きとばさなければなりません。景気づけのためにも.唐津くんちの行事"は必妻です。アメリカやヨーロッパ遠征にしても、これは平和の民間外交です。祖先から受け継いだ“宝物≠守りながら、この美しい唐津の自然の中で生きるということは全く幸せだと思うのです。

中野副総取締から引き込みの説明をお聞きになる三笠宮妃殿下、左は故保利茂氏夫人豊子さん(昭和52年)
 
 私たちの山を紹介します
一一番山 頼光兜 (米屋町

これまで三回も遠征
 故保利茂氏とも“共演”


                                    本部取締 浜辺 繁美

十四台の曳山のうち兜曳山は四台、その一番最後に製作されたのか酒呑童子と源頼光の兜。鯛(魚屋町)や浦島太郎と亀(材木町)の曳山が唐津の海と関係があるなら、源頼光の兜も唐津神社とゆかりがある住吉明神と関係がある曳山。
 伝説によれば、丹後大江山の童子征伐の命を受けた頼光が、住吉明神に武運を祈願したという。頼光は童子と酒を呑み、酔うのを待って童子の首を打ち落とした。そのとき勢いあまって首が頼光の兜の鍬型(くわがた)に食いついた−−という話を形どったもので、十四台の曳山のうち幅が最も広く、またガラス製の大眼球は、鋭さがあり、当時の町民の気慨をしのばせる。子供たちが一番怖がる山笠。
 一時、曳子が減りかけたこともあったが、町内出身者やOBの働きかけがあって「米若会」(約百人)が結成され、家族や子弟意識がより確かなものになり曳山を囲む集いの会のメンバーで年四回、親睦行事が続いている。 昭和五十四年の春には、町田川に三隻の船を浮べてヤマばやしを奏でながら十数年ぶりに幕洗いをした。
 十一番山・酒呑童子と源頼光の兜は、上杉謙信の兜{平野町)より約一ヵ月遅い明治二年九月の製作。作者は吉森藤右衛門さんと近藤藤兵衛さん、塗師は管忠三郎さん。一回目の塗り替えは、明治二十六年九月で塗師は一色さん。二回目の塗り替えは昭和七年十月、塗師は一色健太郎さん(米屋町)、同三回目は昭和三十九年十月で、塗師は同一色さん、また昭和五十一年に付け首などの大修理と四回目の塗り替えを、一色健太郎さんの次男の一色耕次郎さんが行った。
 同町の曳山はこれまで三度他県に遠征している。一回目は昭和二十六年五月で福岡県の博多に刀町の赤嫡子、新町の飛龍とともに出動、電車道を威勢よく走り電車が来ても、曳山が優先されたという。二回目は昭和四十年十月で、山口県柳井市の商工祭に出動した。柳井市では山笠を組み立てる時に雨が降りだしたため近くの自動車修理工場を惜りて組み立て、本番では柳井市の商店街を突っ走ったが、このとき銀行の看板を壊した。しかし、銀行からはもんくが出るどころか、神きまが寄られたと大喜び。酒を持ってお札に来たという。三回目は昭和五十三年で、東京での日商百年祭に出動のため、まず十月十五日は日本橋を引いたり 翌十六日から十八日までは銀座のソニービルに展示され、続いて十九、二十の両日は明治神宮外苑広場に展示した。 二十一日は日商百年祭のリハーサルで、二十二日の本番では、故保刊茂氏(元衆議院義長)も一緒に国立陸上競技場を二回引いて、都会っ子のド胆を抜いた。
 同町の山笠の頭の毛はヤク(うし科のホ乳動物。チベットに住む)の毛で出来ており、国内ではなかなか手に入らない。ところか接着剤の部分などに虫がついて最近では毛が短くなっていた。このため一昨年に約七キロを購入して補充した。
 浜辺さんは「最近は山笠の材料を手に入れるのにも一苦労する。新しいうちは色を塗り替えるたけでよかったが、百年、百五十年とたってくると骨組なども老朽化しており、表面だけの補修ではタメだ。いざ壊れてしまってからでは遅すぎる。五十五年一月には唐津くんちが国の重要無形民俗文化財に指定さたし、この機会に県・市・町全体で山笠の健康診断をする必要があるのではないか、もっと維持制をはっきりしていかなければ−−−と、提案したい」
と語った。
 
一二番山 珠取獅子 (京町) 

獅子の緑は松原の緑
 京若会が盛り立てる


                                    本部取締  藤野 光雄


 百獣の王、獅子が珠を取る姿は器量よしとはいえないが、珠を一人占めした獅子の表情は、唐津っ子の意地を表しており、人気のある曳山。また、獅子の深緑色は、唐津の緑であり、また虹の松原の緑でもある。唐津の特色を生かした曳山の一つといえる。
 終戦後は、一時若い後継者が二十人足らずに減ったこともあり、町内から曳子を集めるのに苦労した年もあったが、近年は、商店の二世≠フ集まり「京若会」のメンバーも四十人近くに増え、活気ある曳山町内となっている。
 同町では、ヤマばやしの練習を小学生のときから指導しているため、中学、高校生のリーダーを中心にまとまり、勇壮なはやしを奏でる。 また、二年前には約七十万円をかけて京紬で法被を新調し染めの鮮やかさが、チームワークを誇る曳子の熱血を一段と沸かせ、独特の伝統を守る絆は固い。
 十二番山・珠取獅子は、明治八年十月の製作。製作・企画者は富野淇園さん。塗師は大木夘兵術さん。富野さんは当時の唐津女学校の図画の先生(教諭)で、西十人町の法蓮寺に墓がある。一回目の塗り替えは、大正十三年ごろで米屋町の塗師・ー色健太郎さんが行ったが、このときはどういう理由か、赤色(本来は濃緑)に塗られ、当時は「赤の珠取獅子」と愛称があった。二回目の塗り替えは昭和三十七年九月、京町の本城塗師が行ったが この時本来の濃緑色にした.同年は珠取獅子が製作されて八十八年目で、人間でいうと米寿に当たるため、八十八年祭か盛大に催された。
 また、四十九年九月には藤野さんが実行委員長として製作百年祭を催した。まず、法蓮寺に眠る製作・企画者の富野さんの墓前に珠取獅子を引いて行き、百歳を報告してから内町を巡行した。このあと唐津市文化会館大ホールで、盛大に百年祭祝賀会を開催した。
 なお、来年は費用一千万円をかけて山笠の補修と三回目の塗り替えをすることに決まっている。
 同町の曳子は、曳山町内十四町のうちでは、おとなしい人が多く、山笠のむちゃな引き方はしない。このため十四台のうちでは一番故障が少ないという。重量は約四トン。 京町には約八十世帯あり、若者の「京若会」が約四十人、このほか子供や年配者を合わせて約百五十人が山笠を引き、唐津くんちには同町民だけでまかなうという。
 遠征は、昭和三十九年三月十五日に兵庫県宝塚市の宝塚で開催された日本博覧会の日本の祭りに呉服町、魚屋町、京町とともに出勤している。
 昔は道路が現在のようにアスファルトではなく、でこぼこ道が多く、また曳子の数も今も半分ぐらいしかいなかったため、力いっぱい引いてもやっと動く程度で、山笠巡行が終わるとへトへトに疲れ果てていた。
今は道もアスファルトになり、曳子も多いので、力を入れなくても楽に引ける。
半面スピードかつきすぎ、カーブではすべる危険もある。藤野さんは、ネ綱(スピードの加減をする所)を二十数年間務めたが、その間は酒は飲んでも酔ったことは一度もないという。
 また、町内の正取締になった年の昭和四十七年には采配をにぎっていたが、江川町通りで一休みしたあと出発するさい、各人が部所についているのを確認しなかったため、カジ捧に四人しかついていなかった(最低八人必要)のがわからず出発させ、同所の角を曲がり切れずに電柱に衝突、山笠の鼻を壊した苦い経験もあるという。
一三番山 鯱 (水主町)

七宝丸と製作を競う
 行列傾序で大ゲンカ


                                               本部取締 高田照男

 江川町の七宝丸と先を争って製作された。神社への奉納の日時をめぐって両町間で物言いがつき、唐津くんち一日目の三日は水主町の鯱が十三番曳山、二日目の四日は江川町の七宝丸が十三番曳山として町内を巡行することで決着がつい

 同町は、昔から職人や卸商人の町だったこともあって、古い仕来たりや伝統を大切にする慣習が守り継がれ、固い統率力は外の町内に負けない。
 若衆「水若会」(三十五歳まで)の一番組、中堅どころ(三十六歳から四十五歳まで)の二番組、年配者(四十六歳以上) の二番組が一体となって水姐≠組織しており、長の指揮のもとにまとまって、曳山の引き方がうまく、威勢が良い−−−と定評がある。
 神祭初日の三日のご幸巡行には、一の宮、二の宮に供奉して、氏神・大石大神杜(大石権現)の御輿(みこし)も繰り出し、四日夕方の曳山格納のあとの組別町内回りは、一段と町民の交流の輪を広げている。
 現在の曳山は昭和初期に大改造して、流線型の形となり、輪島塗りの本場職人が塗り替え、深紅の鮮やかな色となった。曳山町内では江川町、材木町などと並ぶ大きな町内だが、曳子の統制が素晴らしくとれており、釆配の振り方一つで、左右の綱が自由に動くだけに曳き方も勇壮である。

 十三番山・鯱は、明治九年九月の製作。作者は富野淇園さん{本町)大工棟梁は木村与兵衛さん(平野町)塗師は川崎峯次さん(久留米市)。現在の曳山は昭和三年三月から同五年七月にかけて、それまでより一回リ小さく改造され、生まれ変わったもので、製作は鍛冶・正田熊之進さん(木綿町)、図案師・竹谷雪渓さん(水生町)、原型師・中島嘉七郎さん(東町)、張師・竹谷関次郎さん(水主町)、大工・岩村万吉さん、塗師・笹谷宗右工門さん(石川県輪島市)がそれぞれ担当した。
 なお、ヒゲと台車は当初の物を使用した。その後一回目の塗り替え並びに修復作業が、昭和四十一年に、塗師・笹谷孝次郎さん(輪島市)箔師・王明昇さん、大工・松尾清次さんによって行われた。また、昭和五十年に、台車を新しく代えた。
 鯱は、伊勢の梅にいるといわれている海獣の名。宮殿または城の棟の両端に飾りつけるしゃち。ところが、水生町に住む唐津市史欄さん家(郷土史家)の岩下忠正さんの言葉によると、同町の曳山はオコゼ≠セという。鯱にはヒゲはないというのがその理由。
 水主町に、曳山が出来る前までは、唐津くんちに若い者が、道端にゴザを敷き酒を飲んで、丁・半バクチをしては、ケンカを始めていた。こういう情況を見た町内の有志たちが、これではいかんと、曳山作りを思いたったという。
 また、水主町と江川町の行列順序は、一日交代となっているが、最初は一年交代だった。当時どちらを先にするかで大変なケンカとなり、水主町に組するもの。水主町の外に大石町、材木町、魚屋町、木綿町、本町、京町の六カ町があり、江川町を推すもの、新町、刀町、平野町、米屋町、紺屋町、呉服町、中町の七力町があって、いわゆる七町組、八町組の争いがあった。結局仲裁が入って折り合いがついたが、そのためには四斗樽が二十三丁いったといわれる。なお行列の中に大石大神牡の神輿が入っているが、この理由については、一部に七町組、八町組の紛争があったとき、大石大神社の神官の仲裁でそれぞれがおさまったので、それからこの神社の神輿が行列に入ることになったと伝えられれている。  
一四番山 七宝丸 (江川町) 

曳山の中で最も重い
 多分に中国の影響が


                                      本部取締 福本 芳三

 水主町の鯱とともに最後に出来た曳山。中国の古事にでてくる七つの宝を積んだ宝船で、船首には竜の頭部を型どった豪華な屋形。七つの宝物を積んでいるというだけに重量も十四台のうちで最も重く七トン近くもある。 このため曳子も元気のある若衆がより必要となってくるが、大きな町内だけに曳子の数も多く、引き綱も長い。西の浜の砂場に入るとその勇壮さはほかの山笠には見られないものがあって唐津っ子の意気と力がみられる。
 毎年、唐津くんち前の宵山(十一月二日)の日には、「江若会」の若衆がそろって済生会の老人ホーム「めづら荘」を訪れ、寝た切りの老人らを慰問し、ヤマばやしを披露するのが恒例となっており、人園中の老人たちの楽しみの一つ。
 十四番山・七宝丸は、明治九年九月の製作。作者は宮崎和助さん、細工は田中さん、塗師は菅忠三郎さん。
昭和三年六月三日に一回目の塗り替えを佐賞市水ケ江町の塗師・江口鶴一さんが行った。(費用は当時で千四百五十円)。二回目の塗り替えが、昭和三十八年、塗師は江川町の宮口鍛さんで三回目の塗り替えは昭和六十二年頃に予定している。
 その後は三十年から五十年の間隔で塗り替えを行う予定にしている。
 唐津くんちの曳山巡行で大きな事故も発生した。昭和十年の神祭(十月二十九日)で、福本さんの叔父にあたる福本賢さん(江川町)が、大手口の辻藁店前で山笠の下敷になって市内の病院に数ヵ月間入院する大事故がおきた。
 また、昭和十年ごろには唐津市観光祭が行われており、山笠のない町は仮葬行列や造り山笠を作って参加している。昭和十年四月二十四日の観光祭に事加した江川町の七宝丸は、町内に帰る途中、大手口で後方の車輪が故障し、また旧唐津小学校(現在唐津市役所庁舎)前では、輪が破損してしまい、棒で後部をかついで、定刻より約一時間三十分も遅れて帰町したことがある。
 同町の七宝丸は、昭和三十九年三月十五日に兵庫県宝塚市の宝塚で開催された日本博覧会の日本の祭りに四番山・源義経の兜(呉服町)、五番山・鯛(魚屋町)、十二番山・珠取獅子(京町)とともに出動した。このとき運ぶのにほかの三台の山笠は二つに分離するだけで連べたが、七宝丸だけは、大型だったため頭、カサ、台車の三つに分解して、トラックで輸送された。
 昭和五十年には、七宝丸が製作されて満百歳となり同年五月五日に百年祭行事として、唐津神杜で神事を受けたあと、唐津市文化会館で百年祭祝賀会を盛大に催した。
 福本さんは「当町の七宝丸は、七つの宝をつんだ青龍であるが、京都の高山寺″にある、遣唐使船の図(国宝)を見ると、七宝丸と実によく似ており、多分に中国の文化の影響を受けているのではないかと思います。唐津の曳山も今や国際的(フランスのニース海のカーニバルやアメりカ・ロサンゼルスのディズニーランド日本祭出場など)になってきており、幸いに唐津市は、今年二月二十二日に中国江蘇省の揚州市と友好都市締結の調印式を揚州市で行うが、この機会に中国で、当町の七宝丸を引き回ることができたら素晴らしい」と初夢を描いている。
 昭和57年1月1日 唐津新聞