唐津神社で安全祈願
渡米を前に「上杉謙信の兜」


 アメリカ・ディズニーランド日本祭に参加する唐津市平野町の第十番曳山「上杉謙信の兜」の安全祈願祭が二十二日午前十時半から唐津神社で行われた。
 団長の脇山英治総取締、副団長の中野陶痴、瀬戸利一両副総取締、実行委員長山岡捷延氏、広報委員長宮田一男氏ら関係者、また保利耕輔参議院議員も参列、三月二十八、二十九の両日行われろ日本祭参加の無事成功を祈った。
 このあと曳山は予定を変更して平野町を練ることとなり、脇山総取締を先頭に神社−大手ロー市役所前−平野町のコースで笛・太鼓のまつりばやしもにぎやかに行進した。時ならぬ曳山の披露に道行く人たちもびっくり、とくに平野町の人たちは、しばしお別れの「上杉謙信の兜」に柏手を送っていた。
 「上杉謙信の兜」はおよそ三十万円をかけて化粧直しされ曳山の前部の立て札は故保利茂氏の手で「上杉謙信の兜Jと書かれていたが、文字が古く読みづらくなっていたので、渡米を記念して保利耕輔氏の手で新しく書き改められた。

 「上杉謙信の兜」の荷造りは二十三日から始められた。

 「元気でね」

 奇しくも唐津曳山の「上杉謙信の兜」と「武田信玄の兜」が二十二日、唐津神社前で顔≠並べ、通りかかって見ながら「どうした取り合わせなのかな」と不審げな面持ちの人も多かった。「上杉謙信」は渡米を前にしての安全祈願のため、また「武田信玄」は木綿町の守り神鳥居天満宮二百年祭に花を添えて引き出されたもの。
 ところでこの曳山は曳山取締会が昨年秋アメリカ出動呼びかけのさいお互いに名乗りをあげた仲。しかも昔の「川中島の合戦」のとおり、「武田信玄」の木綿町が唐津神社でクジに敗れてニガイ思いをした。しかしこの日は大らかなもの。平野町の人たちに木綿町の人たちも「元気でいってこいよ」と声援、「武田信玄の兜」も「上杉謙信の兜」の壮途を祝うかのようにみえた。


昭和56年2月23日唐津新聞 

参考
太平洋を越えて
「唐津曳山米国派遣団」同行記