悲運の九番ヤマ
黒獅子よ、よみがえれ


三浦外喜守

 長い間探し求めていた飯田一郎先生の名著「神と仏の民俗学」を先日知友の厚意でじっくり拝読することができた。今更ながら故人の豊かな学識と温かい郷土愛に、深い感銘をうけた。中でも私の興味をひいたのは、唐津のヤマの話である。
 私は京都で育ったので今でも京都の祗園祭には淡い郷愁を感じているのだが、復員後唐津に来て既に三十余年、毎秋唐津供日に見る曳山の魅力に毒されて?今はヤマを曳かないヤマキチになってしまったが、唐津に来た頃、先年亡くなった兄の店舗か刀町にあったので、昭和四十年頃まで毎年一番山を曳いていた。従って刀町の赤獅子には特に深い愛着がある。

 それというのも、私の寄宿していたその刀町の家が、一番山の作者石崎嘉兵衛の住んでいた家だったということを家主の石崎のばあ様から聞いていたし、更にわが家が法蓮寺の檀家になった後、その境内に「唐津神祭行列図」の作者富野淇園先生の墓が存在する事を知って、一層奇縁を感じたからである。

 昔から曳山見物のことを「ヤマバミーギャイク」または「ヤマヲミニユク」という。

 昨年国の重要無形民俗文化財の指定をうけ全国に大きく紹介されたこともあって、ヤマヲミーギャキタ観光客は、史上空前の三十万人を超えたとか。今後も毎年記録を更新してゆくことだろう。

 ヤマを見るたびに、私はいつも深い感動に包まれる。安政二年から明治九年に至る五十七年間に、実に十五台の曳山を私たちの先人達は作り上げてきた。
 現代より遙かに戸数も少く経済的にも貧しく厳しい藩制下で細々と暮らしていたであろう唐津の町人たちが、何故あれほど豪華絢爛たる総漆塗りの見事な芸術作品を創造し得たのだろうか。その燃えるような情熱と逞しいエネルギーと比類ない美意識は、いったい何処から生まれてきたのだろうか。改めて先人たちの偉大な業績と貴重な文化遺産に、深い尊敬と感動を禁じ得ないのである。

 昭和八年十月、当時の唐津神社宮司戸川顯氏の叔父戸川真初(真菅)氏が朝鮮済州鳥に在って郷土唐津を懐かしんで書かれた「唐津神事思出草」各町の曳山の印象を偲んで描写した部分の中に、次のような一節がある。

 「黒獅子、紺屋町 − 名のみにして今は昔の影も見ず深山かくりて思い絶えしか。此獅子は他の三者に比して大いに見劣りせるが如し。一つには色の配合当らざるに起因せるならん。その時化の町々と共に引過り八軒町の東端にて横倒れとなりドプの中に陥入りて大いに物笑いとなりし事あり。若者ら此を恥とし、夫よりは祭事に列する事あり列せざる事ありと冷淡なりしが遂に廃絶となりしは若者らに於て遺憾なきか。唐津名物の歴史より見て復活するか他の製作を試みては如何・・・・・」(傍点筆者)

 安政五年(一八五八)九番山として完成した紺屋町の黒獅子がいつ如何なる原因で消滅したのか、その正確な文献は未だに見つかつていないが、悲運の結末だったことだけは確かなようだ。廃絶が明治初年頃との説が考えられるところから黒獅子の寿命は僅か十年余りのはかない生涯であった。

 以後百年間、薄命の黒獅子は何故復活できなかったのだろうか。できなかったのではなく、唐津の人たちが作らなかっただけだ。何故作らなかったのですか、と問うてみたところで詮ない話である。
 私は時々町内の人に冗談めかしで話しかけてみる「昭和のヤマを作ろうか」。
たいていの人は「とんでもなか」と頭から否定する。
 物の判った人は「あれだけの物を作る職人さんはもうおらっさん」と諦め顔で答える。製作費の話になるともうダメである。奥様族に至っては絶望的だ。
 「ヤマん町内の奥さんたちゃあご馳走作りでそりゃあおおごと。ヤマバミーギャイクひまもなからしか。うちらの町内、ヤマの無うしてよかった!」と憎たらしい?ことを言う。
 三月倒れの悪習を暗に批判して言っているのだと思うが、それならそれでウーマンパワーの強力な現代、改善すべきは改善し、みんな心から楽しめる供日にして行けばよいのである。

 毎日の暮らしに追われる庶民の生活実感からすれば三月倒れの悪習?もさることながら「昭和のヤマ作り」つまり、黒獅子の復活などという話は、現実ばなれの夢物語かもしれない。
 しかし昔の人たちは、私たちよりも遙かに乏しい生活の中から、町内力を合わせて十五台の曳山を作り上げたのは決して夢物語ではなく、厳然たる事実なのだ。
 江戸時代の貧しい町人に作れたものが、これだけ物資が豊かになり科学技術が進歩し自由な創作活動ができる昭和の私達にできないという道理は、どこにもない筈である。
 「昭和のヤマ」が出来ないというなら、その最大唯一の理由は、ヤマ製作に対する情熱の欠如だけだ!と私は思うのである。

 曳山の無い氏子町内と曳山のある町内とが姉妹町の縁組みをするとか、外に工夫をこらして、唐津に生まれ育ったこどもたちが成人するまで、誰でも一度は山曳に参加できるような方法が考えちれないものだろうか。ヤマと共に育った唐津のこどもたちは、あの華麗な曳山の姿と懐かしい笛や太鼓の旋律を生涯の無形の宝として、いつまでもふるさと唐津を忘れないであろうし、他県へ行った若者たちも、やがて唐津に回帰し、生産や文化の有力な担い手となり、その結果として、ふるさと唐津に、より豊かな未来をもたらして呉れることだろう。

 今のところ私の愚かな「黒獅子復活」の夢に共感を示してくれているのは、玄海派同人のS氏らわずか数人に過ぎないが、夢を夢に終わらせないためには、もっともっと曳山のことを勉強したいと思っている。そして、平均寿命まで生きられると仮定してあと十二、三年はある。せめて黒獅子の片耳ぐらいはこの世に遺して衣千山に行きたい、と願っている。金さえあれば実現可能な事業は、男のロマンスとは言い難い。
黒獅子復活への熱い想いは、所詮、愚かなヤマキチ男のロマンに過ぎない、ということであろうか。

    (玄海派同人・朝日町)
 

昭和56年1月1日 唐津新聞