曳山あらかると 
危うく米軍が接収準備
 終戦後進駐してきて曳山を見た米軍はさかんに”ワンダフル≠連発して ″青い目≠見はった元のシーサイドホテルに駐屯していた司令官が接収して米国に送りたいーと佐賀の軍政部から担当官をよんで輸送計画をたてた。これには曳山町内は驚ろいたというより青くなったのも当然。どのヤマをピックアップするかも知れないし、ある町内では市内のキャバレーホステスを通じて“ヤマを持ち出すと神のタタリがある″と心理作磯をたてた。そうであるかどうかはわからないが、曳山接収はその後沙汰やみになったエピソードもある

莫大な製作費
 ヤマ本体の製法は、型の上に三−五aの厚さの和紙を張り合わせたいわゆる「漆のいつかんばかり」。この製作費は大したもので、大石町の鳳凰丸≠ヘ千七百五十両(約二千万円)もかかったという。また、漆塗りだけに手入れも大変。製作後木綿町の信玄の兜≠フ塗り替えだけでも百万円以上はかかった。現在では、漆の塗り替えや修理費は佐賀県と唐津市、地元町がそれぞれ三分の一を負担して、年に一、二台ずつ塗り替え作業をしている。

タイやま海に泳ぐ
 明治十三年、唐津地方は大干ばつに見舞われた。このとき、全町のひき山を西の浜に引き出して、七日間にわたってカネ太鼓を打ち鳴らして雨ごいの祈願をしたが、ついに望みの雨は降らなかった。そこで魚屋町から鯛山を台からはずして海に入れ泳がしたというエピソードも残っている。

若いエネルギーを発散
 唐津くんちになると関西方面などへ出かせぎに行ったり就職している若者たちがぞくぞく里帰りをする。脇山英治唐津曳山取締会総取締は二つのやまに約五、六十人がかかる。最近はとくに若手の参加がふえてきたという。若衆たちはそろいのハッビ、じゅばん姿で「エイヤ、エイヤ」と約二トンもあるやまを引き、若いエネルギーを発散させる。

エイヤエイヤと無礼講
 くんちはまた昔から「三月倒れ」といって三カ月にかせいだ金を全部はたいてごちそうをつくる。このときばかりは「無礼講」といって、どこの家でも遠慮なく上がり込んで酒をくみかわしながらごちそうをぱくつく風習がいまも残っている。唐津つ子たちは口々に「からつくんち、ドンチキチドンチキチ」と口ずきみなから、夜のふけるのも忘れて興奮する。


事故ゼロに
 最近ひき山のコースの町に住宅が達て込み、電線が四方八方に伸びて危険になった。やまの上に乗ってうまく電線をくぐり抜けるのは命がけのわざ。これまでにも電線に触れケガをした人も多い。そこで九電唐津営業所では、ひき山コース約六十カ所の電線を地上六・七メートルまで引き上げるなど、安全対策を立てて事故ゼロが約束されそう。

昭和47年11月2日 唐津新聞