平成7年10月31日 唐津新聞

十三番曳山「鯱」
日本一大きい鯱
中島武治


 日本一大きな鯱よ。
朱色の鯱も日本の何処にも見当たらない。
 藩政時代、藩の御座船の水主が住んでいたとされる水主町が、海の王者鯱を選定して曳山にした事に成程とうなずけるものがある。
 明治九年完成したものであるが、京町の珠取獅子、西の木屋の屏風(正しくは襖絵)に唐津供日の絵を書いた富野淇園先生の作になる。
 塗師は久留米らんたい漆器の発明者の川崎峰次氏である。
 発想もすぼらしい事なら作者も当代一流の人達である。
 発想も大きく曳山も大きかった。処が余りの大きさの為唐津供日の御神輿に道幅が狭く軒がつかえる町並を曳き廻る為あちらこちらが当たり傷を負い、六十年を経た昭和初期には余りの大きさと相挨って長い年月手を加えていなかった事もあって、色ははげ傷だらけの余り奇麗とも思われぬ鯱に変わり果てていた。

 そこで町内の役中(役員)達は皆で水主町生まれの宮島明治十郎さんに新しく造り替える事の相談に行った。
 あけっぴろげで剛直な明治十郎さんは「水主町にゃ、金んなかこた判っとる。宮島両家で半分は出してやるけん遣れ」と激励されたという。
 町内では、そういう事であれば造ろうではないかと結論に連したが、それでは誰に造って貰おうかより始まり、それでは細工物に掛けては当代随一の作者に頼もうと役中連中は、その作者候補を佐賀迄招待し佐嘉城の鯱の門を見学して「あの様にやせた姿のよい鯱の門のごたる鯱ば造ってくれんけ」と頼んだそうである。

 その後、その作者が鯱の見本を造って来たので宮島さんを始め役中連中が見た処、鯱は獅子に尻尾がはえて鉢巻きをした様な鯱であったという。役中連中は「これではいかん、何とか良か智惠はなかろうか」と智恵を絞る内、宮島さんの発案で「造る人を何人か呼んで競争させろ、遣る希望者を探せ」の一言で衆議は一決した。
 遣る希望者は博多人形師、小島興一氏(後に人間国宝)満島の祇園山笠師、坂本和次郎氏、お舟宮(東町)の瓦師、中島嘉七郎、それに町内より内山(床屋)松尾(大工)計五名の人々が雛形見本を提出した。
 宮島さんと役中がどの鯱がよかろうかと詮議をしていた処、宮島明治十郎(通称明治郎)さんが、「嘉ちゃんのつが一番よかけん嘉ちゃんに遣らせろ」のIの一声で中島嘉七郎に決定した。

 之より、水主町の人達は一応決定したならば前の山は必要ないと、若っかもん一同で担いで大石大神社(権現さん)の境内に据えつけた。
 それからというものは、中島は取敢えず雛形をいくつか造ろうと仕事を始め、三個を造った。一個が一週間、三個で三週間の月日を要した。之である程度自信も出来たので愈々本番に取り掛る事となる。

 先ず鯱が頭の方を下げて曳く時に一番格好の良い時の角度に合わせた台を造る事にして水主町の松尾氏に造って貰い、あらかじめ木と竹で鯱の形を遣りそこに赤土と瓦粘土を混ぜ柔らかくなる迄踏み混ぜてあらかじめ造っておいた竹と木に土を付けて徐々に形を整えていく。
 段々と胴体から造っていく内に水主町の人の希望するやせ姿に造ってみるがどうしても曳山にはならず結局は富野淇園師の造られた前の山の様に肥えた胴体を造らねばならない様になった。
 処が、町のあちこちで「何か煙突んごたるとば造りよらす。これじゃ曳かれんばい。こういう事なら前ん山ば権現さんに上げなきゃよかった」と言う陰口が聞こえる様に なってきた。
 又、鯱の顔はどうかというと当初頼もうとされた作者が造った鯱のように獅子に尻尾がついて鉢巻したような顔になり中島も愈々困り果て誰にも相談が出来ないので図案を書いてくれた大叔父に当たる武谷雪渓(本名孝助絵師)に相談した処、雪渓も自分で土をひねってみたが尚悪くなり通り掛かりに是を見た大石大神社宮司も神主姿で(絵に造詣の深かった人)御帛を背中に差し裾をまくり上げ、土をひねってみるも更に悪くなるばかりである。
 途方に暮れた中島は毎日造りに行っていたものを三日間休み、その間色々と思案した。

 その時、水主町の役中一同が休んでいる中島の家を訪れ「今の山では曳かれない、山をどうしてくれるか」と苦汁に満ちた顔でせき立てられた。
 中島は「私もその事で困って三日ばかり休んで考え込んでいます」と言い後には言葉が出なかったという。
 その時の事は後々迄良く話していたが余程精神的にもこたえていた事と思う。
 処がその晩、中島は龍のような夢を見た。朝起きるとすぐ山に向かっていった。「龍には角がある。鯱には角をつける訳にはいかないから、角の代わりに大きな瘤をつけた。之がどうでしょう。顔全体を大きく造り直さねばならないようになった。前の山には耳はなかったが、今度は耳もつけた。鼻、目等も幾分替えなければいけない。口も更に大きく開けたかったけれど粘土が固くなって開けられなかったと後日迄述懐していた。

 あの夢は神様のお告げであろう。あの山は神様が造ってくれたものだと常々口癖のように言っていた。その後は順調に出来今の水主町の鯱になった。
 最後になって因った事が起きたというのが、歯である。見本を造り有田の窯元に出したが、出来てきたのは、余りにも小きかったので、又見本を造り再び造って貰った処、棒の様に何と変哲もない歯であったので中島は有田に乗り込み、自分で造って漸く今の歯になったが之でもまだ小さいとは思い乍水主町には金がなかったので仕方なしに今の歯を付ける事にした。
 粘土の原形が乾燥してからは粘土の上に紙を貼る。この仕事は、水主町武谷関次郎(武谷雪渓の長男)が受け持った。武谷の話では自分の作業場(表具屋)の土間に和紙を車力馬車十台入荷して足の蹄み場もない位であったという。乾娩した粘土の原形の上にワラビで取った糊を塗り、その上に和紙を貼り、乾燥してから柿渋を塗る、柿渋が乾いてから和紙を貼り之を繰返し四、五枚粘った処で手の指先で全部を叩いて廻る。若し「ボンボン」音がすればそこの処には空気が入っているのでカミソリで四角に切取り又紙を粘って埋めていくという具合で仲々か手の掛る工事である。そんな工事ですから二年の歳月を要している。この紙貼りには内山、松尾、白井の諸氏と町内の人か忙しい中に暇を遣って大勢の人達が手伝った。
 四枚のヒレは木の上に武谷雪渓がヒレの絵を書き、大工の松尾氏が之を切取りその上に紙を貼り胴体と同じ工程を辿り造った。
 最後の仕上げである漆塗りは、宮島家の頼みつけの石川県輪島の笹谷宗右衛門氏である。仕上がりは昭和五年、唐津供日前に漸く仕上がった。

 中島は唐津十四台の曳山を見る度に涙を流し乍見物していた。刀町の赤獅子より江川町の七宝丸迄、「昔の人もみんな骨を折っで苦労しで造ったろうな。みんな良く出来ている」といって涙を流し乍ら褒めていた婆を思い出す。涙を見るにつけ造る時の苦労が偲ばれるものがあった。

 かくして水主町の現在の山は大勢の方々の智恵と苦労と労力の奉仕と中島の寝食を忘れての努力と有志の方々の御協力と相俟って今の曳山になったものである。
 日本一の大きな鯱よ、いつ迄も皆に愛され唐津の誇りとなって貰いたいと願うものである。


鯱の米寿祭と作者の中島嘉七郎翁

令和2年10月11日にアップロードする
「十三番曳山「鯱」保存修復事業」完成を祝して)