連載「曳山んばなし」
1999年10月13日〜10月31日
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<1>御幣曳山 “先頭”の誇り胸に
国の重要無形民俗文化財、唐津くんちが十一月二日の「宵ヤマ」で開幕、唐津市は四日までくんち一色に染まる。百八十年の歴史を持つ曳山(ひきやま)を語る各町の人々は誇らしげだ。
秋晴れの下、赤獅子(じし)が力強く市内を巡行した。十四カ町で最初に完成して、今年で百八十歳。十一日の生誕記念祭で、喜びを爆発させるかのように顔を赤く染めた赤獅子を見て、同祭実行委員長の辻駿吉(69)は「二十一世紀に向けて新しいスタートを切った」と感慨深げだった。
「かたんまち(刀町)は御幣曳山(やま)ばい」。唐津曳山取締会の副総取締、山口秀彦(69)は胸を張る。御幣は唐津神社のご神体を先導する重要な役割の象徴。その真っ白な御幣を金色の角に掲げ、常に先頭を巡行できる特権を持つ。
「道囃子(ばやし)」があるのも赤獅子だけ。唐津神社から城内を出るまでゆったりとしたリズムの道囃子を奏でる。くんちは町人の祭り。しかし、城内の武家屋敷では静かに曳こうという伝統が受け継がれているのだ。後に続く十三台の曳山は絶対に赤獅子より前には進めない。
木彫り師の石崎嘉兵衛が京都・祇園祭を見て、帰唐後に赤獅子を製作。その後、五十七年間に十四台の曳山が誕生(紺屋町・黒獅子は明治中期に消滅)し、現在の唐津くんちが形成された。
「唐津っ子」という言葉が生まれるほど唐津の文化、風俗に影響を及ぼしたくんち。その先駆けとなった誇りがある。だから「よその模範になるよう、礼儀だけは厳しく言う」と山口。曳山をお旅所に曳き入れるまで、どんなに暑くても法被を脱ぐことは許されない。
相談役の山岡延(たかのぶ)(76)と町内会長の富田栄磯(73)は「伝統を引き継ぎ、永久に続かせなければ」と口をそろえる。曳き子たちは、唐津の繁栄を願う気持ちを赤獅子に込める。 (文中敬称略)
◇ ◇
一番曳山「赤獅子」
刀町 文政二(一八一九)年、石崎嘉兵衛が製作。幅三メートル、高さ五・四メートル、推定一・八トン。曳き子は約二百八十人。/生誕180年祭で巡行した赤獅子
※こんな字です。探せなかったので貼り付けました
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<2>一心同体 走る姿にこだわり
「あのカーブを駆けるのは中町だけ」。市街地コース最大の難所、船宮町のヘアピンカーブを一気に駆け抜ける青獅子(じし)。そのシーンを振り返り、同町の曳山(ひきやま)組織の若手実動部隊「中正会」会長、平山博久(37)の顔は誇らしげだ。
曳山は完成順に巡行するしきたり。青獅子は常に赤獅子の後じんを拝す宿命にある。赤、金色などの色彩できらびやかな他の曳山に比べ、青獅子は地味な緑色。サイズも小さく、横一列に並んだときはあまり目立たない。だからこそ、平山は走る姿にこだわるのだ。
唐津曳山取締会参与の桑野安二(73)は「曳山が軽く、ついつい大回りする」という。「事故を起こさないためには、和が必要」と平山。中正会のメンバーは、旅行のほかレガッタ大会で力を合わせてオールをこぐなど、年間百三十回も顔を合わせ、酒をくみ交わす。集会所には、過去の曳山中継のビデオをそろえ、テープがすり切れるほど曳き方の研究を重ねてきた。
中町には十四カ町で唯一、囃子(はやし)方の会「青獅子会」がある。十八年前、藤川和徳(40)と古賀誠二(41)が結成。組織的に人材確保に苦心し、練習を重ねている。
「曳き子たちの疲労度、カーブの曲がり具合を見て、目で合図し合いながら囃子のリズムを変えている」と古賀。曳き子と囃子はまさに一心同体なのだ。
ある日、平山の長女佳奈(6つ)が「青獅子さんは怒っとるとね、笑っとるとね」と尋ねた。「顔は怒っとるかもしれんばってん、曳かれとるときは喜んどるとばい」 (文中敬称略)
◇ ◇
二番曳山「青獅子」 中町 一八二四(文政七)年、辻利吉が製作。幅二・五メートル、高さ四・八メートル、推定一・八トン。曳き子は約三百三十人。
/曳き子が囃子と心を一つにして、勇壮に曳く青獅子
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<3>統率力 子供と歩調合わせ
赤獅子(じし)(刀町)、青獅子(中町)と続いた曳山(ひきやま)が三番目に突然、独創的な「亀」となった。
「松浦川に面して海に近かけんやろう。亀はめでたか生き物やし」と材木町本部取締の岡了(63)は推論する。亀の背中には円筒形の宝珠が乗っていたが、明治直前に浦島太郎の人形に代わった。
材木屋が多かった町だけに木材にこだわっている。台車は高価なカシ。車輪は樹齢数百年の肥松。ケヤキや安価な南洋産の堅木で台車、車輪を作ったほかの曳山とは丈夫さが違う。「よその車輪は変形しやすくて十年に二度は鉄輪を締め直す。でもウチは四十年も締め直しとらん」。前本部取締の中山謙治(69)は胸を張る。
「先人の技術力に感服する」と材木店経営の中小田澄男(62)。重量級の材木町、大石町、江川町の三台は二本の心棒で曳山を支えるが、その技を最初に導入したのが材木町。「曳山の微妙なバランスを計算し、当時のハイテク技術を駆使しとる」と感服するのだ。
曳き子は親しみを込めて「グズガメ」と呼ぶ。亀のようにのろい曳山という意味だ。
「ウチは子どもの歩調で曳くから」と曳山組織の実動部隊・材若会斎長の竹下光彦(37)は説明する。正取締の上野光国(54)は「大人は綱だけ持ち、子どもの安全に目配りするのが役目」と言う。その分、大人たちのかけ声の勇ましさは十四町でもトップクラスだ。
「スピードはないが、足並みがそろった重厚な曳き方には圧倒される」。すぐ直前を曳く青獅子(中町)の曳き子は、統率力の取れた亀の進軍に舌を巻く。 (文中敬称略)
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三番曳山「亀と浦島太郎」・材木町 一八四一(天保十二)年。製作者は須賀仲三郎。幅二・六メートル、高さ五・三メートル、重さ推定二・五トン。曳き子は約三百五十人。
/曳き子の元気のよさに定評がある「亀と浦島太郎」
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<4>精巧 正統派曳き子育つ
「本物の兜(かぶと)に忠実で精巧。だから細かな作業が大ごとでした」。呉服町の本部取締、橋村信義(64)は一九九〇年に行われた総塗り替えの苦労を振り返る。
町内にいた具足屋の熱意で製作されたのが「源義経の兜」。本職が凝って作っただけに、和紙を何重にも重ねてうるしを塗った瓦(かわら)大の錣(しころ)の数は百八十枚も。そのため全部分解して行う総塗り替えでは、同町の曳山組織を上げて組み立て作業をし、三カ月を要した。
「修復が二十八年ぶりで、組み立て方に詳しか者がおらんかった。図面、ビデオを撮影して作業したけど、錣には穴が八つもあり、ひもの通し方も一枚ごと違うから大変でした」と曳山組織「呉若会」の松尾圭祐(37)。同会の坂本秀人(41)も「美術品の世界。掃除も大変だが、だから愛情もわく」と言う。
同町の在住者で今年、唐津曳山取締会の総取締に就任した宮田一男(68)は「ウチの次に兜が出現するのは五台後で二十年後。面倒くささを見て、製作を敬遠したんじゃろう」と話す。しかも義経後の三台の兜の錣は、板状に簡易化された。
曳山が本格指向のため、女性曳き子の厳禁、町外者の制限、遅いテンポの囃(はやし)でおとなしく、という“正統派”の曳き方が同町の伝統だ。
「元気のなか曳山に見えるかもしれん。でも、曳山は神様にお供するもので見せるもんじゃなか。曳き子が楽しめればよか」と正取締の久保英俊(47)。宮田は「お旅所神幸(十一月三日)では、ウチの前がみこし。太鼓をドンドンたたいて、神様をせっつくわけにはいかんでしょうが」と笑った。 (文中敬称略)
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四番曳山「源義経の兜」 呉服町 一八四四(安政四)年、石崎八右衛門、脇山舛太郎が製作。幅二・八メートル、高さ六・一メートル、推定一・八トン。曳き子は約百八十人。
/おとなしさが伝統の呉服町の曳き子もくんち最終日には興奮を抑えきれない
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<5>人気者 郷土のPRの目玉
「エクセロン!(素晴らしい)」。一九七九年、フランス・ニースのマナセ広場は大歓声に包まれた。当地の祭り「海のカーニバル」に招待され、くんち史上初の海外遠征を果たした鯛(たい)。市内をパレードし、広場を一周すると、観客がアンコールを要求、三周した。熱狂ぶりはやまず、はちまきや法被をせがまれるほどだった。
「曳山(ひきやま)が傷つく」と遠征に消極的な他町に対し、海外や国内各地に十四カ町で最多の六回の遠征。「特に町内から異論はなかった」と坂本三郎(77)。すべてに参加した本部取締、多久島聖吾(60)は「遠征が唐津のPRになった」と自負する。
獅子(しし)、兜(かぶと)などの勇壮な曳山が多いなか、大きな丸い目に、にっこり笑ったような口元。愛きょうのある姿が人気の秘密だ。
「デザインはシンプルだが、曳山の動きは一番複雑。玄界灘をいきいきと泳ぐように動かす」。同町の実動部隊「鯛若会」の若頭、篠原宏司(40)は胸を張る。頭と尾を上下させつつ、左右の胸びれを結ぶひもを曳山の中で引っ張り開閉。しかも、頭が上の時に胸びれは閉じていなければいけない。尾びれも上下に動く。タイミングを誤ると「鯛がおぼれよるぞ」と叱咤(しった)の声が飛ぶ。
一方、遠征は鯛にとって苦行だ。一トンはある台車をクレーンでつり上げると、重みで車輪の軸がゆがんだり、木組がゆるむのだ。
なぜ、六回も遠征したのか。「自分たちの曳山が一番という誇りがある。だから、多くの人に見てもらいたかった。しかし…」と篠原。「唐津で生まれた鯛。だから、唐津の町なかを泳がせたい」 (文中敬称略)
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▼五番曳山「鯛」 魚屋町 一八四五(弘化二)年製作。製作者は不明。幅二・二メートル、高さ六・七メートル、重さ推定一・八トン。曳き子数は約三百五十人。(唐津くんち十一月二―四日)
/マナセ広場で多くの観光客に囲まれる鯛
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<6>重量級 あうんの呼吸培う
金ぱくをふんだんに使った豪華けんらんさ。重量も十四台の曳山(ひきやま)の中で最大級の鳳凰(ほうおう)丸は、豪商の町として栄えた大石町住民の意気込みを反映する。
製作費が千七百五十両と記録に残るのは鳳凰丸だけ。唐津曳山取締会の相談役、花島一夫(80)は「現在の価値を日本銀行に聞いたが、当時の小判の金含有量の記録がなく判明せんかった。でも一億円以上だろう」と推論する。一方、だれが寄付したかという記録はない。「大口寄付した家に町民は頭が上がらなくなる。子孫のために記録せんかったと思う」。副総取締、牧川洋二(65)はくんちの平等主義を守った先人の配慮をたたえる。
重たい曳山だけに、曳き子の苦労もひとしおだ。西の浜のお旅所では、鳳凰丸の車輪は深く砂に埋まる。今は曳き子の増大で必要ないが、少人数で曳いていた昭和四十年代までは前後の町の曳き子に加勢してもらわないと動かなかった。
「曳きだしに一時間以上かかり日が暮れたこともあった」と小出栄一(71)。「でも加勢に来た者は必ず鳳凰丸の重さに驚く。その顔を見るのが誇りだった」と花島は笑う。
船体も長いため、後ろだけでなく前にもかじ棒があるのは鳳凰丸だけ。「前、後のかじ棒担当の息が合わないと、曳山は急旋回して事故になる。だから、かじ棒につくのは町内関係者だけ。あうんの呼吸を培うため、日ごろのつきあいを重視しとる」。本部取締の小宮弘資(61)と正取締の下西昭(52)は口をそろえた。
豪華で重量級の鳳凰丸が、曳き子の結束力をさらに高める。 (文中敬称略)
◇ ◇
六番曳山「鳳凰丸」 大石町 一八四六(弘化三)年、永田勇吉が製作。幅二・〇五メートル、高さ四・四メートル、推定四トン。曳き子数は約四百人。
(唐津くんち十一月二―四日)
/お旅所の砂浜に車輪が深く埋まった鳳凰丸。曳き子の最大の腕の見せどころだ
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<7>共鳴 雲間を優雅に泳ぐ
「天ば泳ぎよる曳山(ひきやま)は飛龍(ひりゅう)だけ」。唐津曳山取締会の相談役で同町在住の中山稔(70)は誇らしげに笑う。十四番曳山の「七宝丸」(江川町)も竜だが、船の曳山。なるほど天界にいるのは飛龍だけだ。
下向きのとき怖い顔、上向きではうれしそうな表情を見せる飛龍を上下左右に操作する役目が“アゴトリ”。「雲の間を優雅に泳ぐように動かせるとが、こつ」と、曳山組織「飛龍会」の若者頭、龍渓(たつたに)顕英(37)。台車の左右のへりに乗り、電柱や電線、屋根に衝突しないように動かす。
「振り落とされることもあり危険だが、重要な仕事。“アゴトリ”をまかされる者こそ、うちの花形曳き子ばい」と正取締の中山秀樹(49)は説明する。
激しく動く曳山だけに、新町の囃子(はやし)は独特の乗りの良さだ。「太鼓はよそより倍多く打ち、笛の音も高い」と副取締の吉光和義(45)。「昔は曳き子が少なかったから、みんなを盛り上げるために編み出された囃子だろう」と中山秀樹は言う。
囃子方の軽快なリズムと“アゴトリ”の技が見事に共鳴したとき、飛龍はまさに昇り竜のごとく天を駆け巡り、観客を魅了する。
ところで、竜は雨を呼ぶという中国の伝説の動物。「くんち初日は、他町の曳山が格納庫から出した後にしか出さん」と中山秀樹は他町に迷惑がかからないように気遣う。ところが中山稔が正取締だった約三十年前、いたずら心で飛龍を最初に出したことがある。「雨は降らんかった。迷信だったばい」
(敬称略)
◇ ◇
七番曳山「飛龍」
新町 一八四六(弘化三)年。中里守衛重広、中里重造政之が製作。幅二・二メートル、高さ六・八メートル、一・七五トン。曳き子は二百八十人。
(唐津くんち十一月二―四日)
/下を向くと怖い顔、上を向くとうれしそうな飛龍
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<8>異彩 神々しい金の輝き
一九九七年の宵ヤマ。沿道からため息まじりの歓声が上がった。ライトアップされた十四台の曳山(ひきやま)の中で、塗り替えたばかりの金獅子がひときわ光り輝いていたのだ。本部取締の中川邦彦(69)は「沿道には金獅子(じし)に手を合わす見物客もいた。それだけ神々しい輝きだったのだろう」と振り返る。
塗り替えは、国宝の彦根城(滋賀県彦根市)、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の楼門などの塗り替えを手がけた福岡県直方市の美術工芸店に発注。厚さ五千分の一ミリと、金ぱくとしては非常に厚く金の純度も高い最高級の素材を使用した。同店は「最高品質の金ぱくを二枚重ねて張った。とても珍しい工法で、黄金色の光沢がよく出る」と説明する。
だが、それだけに繊細でもある。摩擦ではがれることもあるのだ。本町の若手集団「本若会」会長の大西康之(38)は「いかに金ぱくをさわらないようにするかが肝心」と話す。掃除をするときは「手袋をして、羽毛のはたきでなでるように慎重に」と会計の大原潤一(39)。「市街地を曳くときも、曳山が両わきの建物などに触れて金ぱくがはがれんよう、気を引き締める」と正取締の竹本和映(47)と副取締の白石啓二(45)は口をそろえる。
「輝きがなくなれば金獅子ではない」と中川。塗り替え以後、黄金色は年々その輝きを増してきて、不思議な力を与えられる感じがするという。ある日、近所の人から「くんちのときは元気に走っちょりますね」と言われた中川。背中に受ける鮮やかな光が、今年も中川を力強く後押しする。 (文中敬称略)
◇ ◇
八番曳山「金獅子」 本町 一八四七(弘化四)年、石崎八左衛門が製作。幅三・一メートル、高さ五・六メートル、重さ推定一・八トン。曳き子は約二百人。
(唐津くんち十一月二―四日)
/青空の下、神々しいばかりに光り輝く金獅子
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<9>二重組織 「風林火山」で結束
「町内、町外者の組織で曳山(ひきやま)を守っとる。二重組織だが、まとまりの良さではよその町に負けん」。木綿町の本部取締、正田誠一(59)は胸を張る。
唐津市を代表する歓楽街。居酒屋、スナックの出店が多く、曳山に携わる町内在住者は約二十五世帯。町内の曳山実動部隊「木若会」の会員は十人しかいない。一方、町外者の応援部隊「信玄会」は五十一人。この両組織が武田信玄の軍旗「風林火山」の元に固く結束し、曳山が動く。
「信玄会」の結成は一九八三年。「後継者がおらんと曳山は動かんごとなる」と結成に尽力した正取締の小松繁紀(48)。「町外者にまかせられん」との反発もあったが、曳山の掃除、ソフトボール、花見など年間二百日以上の会合を重ねて親ぼくと信頼を深めた。
「元もと曳山が好きな男たちばかり。今では家族同然のつきあい」と小松と副取締の力武晃(43)は言う。「信玄会」副会長の植田孝昭(39)は「町外者でも曳山行事に参加できてうれしい」と生きがいを感じている。
ところで、なぜ甲斐の武将、武田信玄の兜(かぶと)なのか。昨年のくんちを見学した山梨県の県議会議員も首をひねった。
「武者ぶりが良いから選んだんだろう」と正田。「上杉謙信から塩を救援された故事にちなみ、清めの塩はまかない」「町の宝」と説明された県議は「九州で信玄公が尊敬されていて感動した」と喜んだ。
「信玄公の兜を見て育ち、血を騒がせた。信玄公は木綿町の守り神ばい」。自慢の曳山を正田は誇らしげに見上げた。 (文中敬称略)
◇ ◇
●九番曳山「武田信玄の兜」 木綿町 一八六四(元治一)年。近藤藤兵衛が製作。幅二・七メートル、高さ六・二メートル、推定一・八トン。曳き子数は約三百人。
(唐津くんち十一月二―四日)
/町内、町外者の連携の良さで動く武田信玄の兜
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<10>守り神 唐津で生きる謙信
「私たちの背中にはいつも毘沙門天(びしゃもんてん)がおります」。唐津曳山(ひきやま)取締会の名誉総取締、瀬戸理一(79)が神妙な表情で言う。「上杉謙信の兜(かぶと)」を曳く平野町。戦国時代の武将、謙信が崇拝した戦いの神様「毘沙門天」が曳き子たちを見守り続けているというのだ。
曳山の先頭に、大きく「毘」「龍(りゅう)」の文字が書かれた二本の純白の大旗を掲げる。「謙信が、戦のとき兵士に合図を送るために旗を利用したのを倣った」と副取締の増本博文(47)。くんちの間、町内にも八十本の旗がなびく。
塩不足に悩む宿敵・武田信玄に塩を送ったという故事にしたがって、前を曳く「武田信玄の兜」(木綿町)めがけ大量の塩をまいていた。現在は道路が舗装され、塩をまくと滑りやすく、台車も傷むためあまりまかない。だが、その精神は生きていると正取締の瀬戸利嗣(50)は言い切る。
海外へ二度遠征したのは平野町だけ。「傷つけたくなか」と遠征に消極的な他町に対し、本部取締の井上正介(65)は「町内に異論はなかった。一九八一年の米国遠征にローンを組んで参加。三年後のオランダ遠征に、ローンを返済し終わっていないのにさらに借金してまで参加した者もおる」と振り返る。また、九六年に本町が米国・ハワイに遠征したとき、各町四人の曳き子を出席させるところを「曳き子不足で悩ませたくなかった」と平野町からは二十人がはせ参じた。
六一年、瀬戸理一は謙信をまつる上杉神社(山形県米沢市)を参拝。その足で東京都に在住している謙信の子孫宅を訪問。不在だったため、こう言づてを頼んだ。「謙信は唐津で生きております」
(文中敬称略)
◇ ◇
十番曳山「上杉謙信の兜」 平野町 一八六九(明治二)年、富野武蔵が製作。幅二・四メートル、高さ六・七メートル、重さ推定一・八トン。曳き子は約四百人。
(唐津くんち十一月二日―四日)
/毘沙門天が見守るなか、勇猛に唐津の町を練り歩く上杉謙信の兜
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<11>結束 士気鼓舞する眼光
昨年の十一月三日、唐津くんち最大の見せ場「お旅所神幸」。砂浜で砂煙を上げながら、米屋町の曳(ひ)き子たちが必死の形相で一気に「酒呑(しゅてん)童子と源頼光の兜(かぶと)」をお旅所に曳き込んだ。その時間わずか十五秒。他町の曳山(ひきやま)が車輪を砂に埋め悪戦苦闘したのとは対照的だ。
「三百二十人の曳き子の気持ちが一つになったとき、一気に動き出す」と同町の曳山組織「頼光会」の若手集団「一番組」若頭、松村修(36)は誇らしげだ。「統率力だけはどこにも負けん」と、本部取締の河瀬善弘(63)も言い切る。
同町はわずか二十八世帯。同会(約百五十人)のメンバーの多くが町外者。だが「頼光会は上下関係が厳しく、中途半端な気持ちでは入れない。米屋町が一番と強く思う者だけの集団」と副取締の内田松夫(43)。縦のつながりが固い結束を生む、という。そろいの赤いジャンパーを着て毎月一回の定例会で酒をくみ交わし、親ぼくを深める。
くんち本番中は曳山にたる酒を置き、休憩するときに酒を飲む。その消費量は一日に一升瓶で三十―四十本。「酒の量も一番」と一番組副若頭の西岡幸雄(35)。「酒を飲んでも緊張感だけは忘れない」と正取締の古川幸男(48)がうなずく。
朱色に紅潮し、つり上がった太いまゆに血走った目。酒呑童子の表情に子どもたちは恐れおののく。河瀬は「中学生のときまで、夜、ぼんやりと浮かぶあの目を見るとゾッとした」と振り返る。
一方、「いつも後ろから見守ってくれている」と松村。鋭い眼光が、曳き子たちの士気を鼓舞する。
(文中敬称略)
◇ ◇
▼十一番曳山「酒呑童子と源頼光の兜」 米屋町
一八六九(明治二)年、吉村藤右衛門と近藤藤兵衛が製作。幅三メートル、高さ六・二メートル、重さ推定一・八トン。曳き子は三百十六人。
(唐津くんち十一月二日―四日)
/11番曳山「酒呑童子と源頼光の兜」 =米屋町
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<12>規律 商人町のこだわり
「さぁ、脱ぐぞ!」。昨年のくんち最終日の十一月四日、最後の休憩地点の江川町通りに、京町の曳山(ひきやま)幹部の号令が響いた。曳き子が一斉に肉じゅばんを肩から脱ぎ、上半身は江戸腹、てこ姿。さらけ出した体から湯気が立ちのぼった。
「曳山と別れるときが迫り、曳き子の興奮が爆発する瞬間」。実動部隊「京和会」の若頭、吉富寛(42)が感動の儀式を振り返る。
幕末から一流商人の町として栄えただけに、正装にこだわる。他町は初日から肉じゅばんを脱ぐが、決して許さなかった。「神様のお供だから、もろ肌は見せられん」と長老の桑野安造(80)、山本義雄(78)が説明する。
だが、いつしかその伝統も崩れ始めた。そのため唐津曳山取締会・副総取締の山田信夫(65)が同町の正取締だった約十五年前に「最後だけ脱いでよか。ただし全員脱ぐ」と決定。「結果的にそれが規律正しさの伝統ば守った」と山田は満足そうだ。
現在も呉服店、衣料品店が多い商店街。衣装へのこだわりは変わらない。三十年前までの肉じゅばんは質素な木綿が当たり前だったが、同町は戦前から高級絹の羽二重を使用。また、上に羽織る法被も高級品の白山つむぎだ。「法被は曳き子の礼服。客商売だから、お得意さまを訪問する際に必要。価格はよその倍しますが…」と呉服店主で本部取締の大塚康泰(55)。
「後ろから見た珠取獅子(たまとりじし)はおしりがキュンと上がってセクシー」と女性に絶大な人気を誇る曳山。スタイル抜群の曳山と、規律正しく粋(いき)な曳き子のハーモニーで唐津の町を疾駆する。(文中敬称略)
◇ ◇
十二番曳山「珠取獅子」 京町 一八七五(明治八)年、富野淇園が製作。幅二・六メートル、高さ五・二メートル、重さは推定一・八トン。曳き子は二百九十人。(唐津くんち十一月二―四日)
/規律正しい曳き方が伝統の京町の珠取獅子
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<13>威圧感 一糸乱れず豪快に
金色のひげを誇らしげに空に向け、朱色の体を大きく揺らしながら豪快に泳ぐ鯱(しゃち)は二代目。
初代は、あまりの大きさに電柱や軒先にぶつけることが多く、傷みが早かった。そこで一九二八年に小ぶりに作り直したのだ。
「のみ込まれるくらいの大迫力だった」。水主(かこ)町の前を曳(ひ)く京町の長老は、初代鯱の雄姿を懐かしむ。だが、水主町の後ろを曳く江川町の長老は「小さくはなったが、今も昔も曳き方はしっかりしとる。若者も年寄りも一体となっとる」。
「そのとおり、ウチの組織は伝統的にしっかりしとる」。水主町出身の唐津曳山(ひきやま)取締会参与、高田照男(72)と本部取締の田中誠(63)はこう言い切る。
同町の曳山組織「水具美(ぐみ)」は基本的に町外者はお断り。若手集団「一番組」の席次は年齢ではなく、組での経験年数で決まる。正取締の坂本正策(47)は「技術と、あうんの呼吸を養うには、濃密な付き合いと経験年数が必要だ」と説く。例えば曳山本体が乗る「幕つり」を操作して鯱を上下に揺らす二人の「アゴ係」は町の花形だが、呼吸がずれると台車から落ちてしまう。
「今年も一気にやります」。一番組小頭の大浦浩(39)の鼻息は荒い。くんち最大の見せ場「お旅所」。砂浜に車輪が埋まる最大の難所でもあるが、三年前から、一度も立ち止まらずに一気に曳く。
生まれたときより一回り小さくなった鯱だが、一糸乱れぬ曳き子たちの足並み、まるで天に向かって泳ぎ出すかのように大きいアゴの動き―紫紺の肉じゅばんに囲まれて、威圧感は増している。 (文中敬称略)
◇ ◇
▼十三番曳山「鯱」
▽水主町 一八七六(明治九)年、富野淇園が製作。幅二・五メートル、高さ五・九メートル、重さ推定一・五トン。曳き子は約三百四十人。
(唐津くんち十一月二―四日)
/曳き子たちの組織力で豪快に泳ぐ鯱
◎佐賀県/曳山んばなし・唐津くんち<14完>使命感 「最後を飾る」自負
「おばあちゃん、曳山(ひきやま)のさい配はお守りやっけん触って良かよ」。昨年の十一月二日、宵ヤマが動く直前に江川町の実動部隊「青年団」の約二十人が、近くの特別養護老人ホーム「めずら荘」を慰問した。三十年以上前から続く伝統行事だ。
「お年寄りの感激した顔を見ると、オレたちだけの祭りじゃなかという使命感で胸が熱くなる」と副取締の吉村勝朗(38)と団長の吉村尊久(35)。「江川町の曳き子は先祖を大事にしろ、といわれて育ったけんな」と本部取締、古賀常年(51)がうなずく。
お年寄りに勇気をもらってスタートした曳き子のかけ声は「エンヤ、エンヤ」ではなくて「ヨイサ、ヨイサ」。同町と呉服町だけが違う。さらに囃子(はやし)に合わせて「育ったおいらは江川町、江川町」と歌って曳く。「ウチは曳き子が多く、歌で連帯感も強まる」と正取締、市丸豊(43)が言う。
曳山の巡行は製作順だが、十三番曳山「鯱(しゃち)」(水主(かこ)町)と七宝丸はほぼ同時期に完成したため、かつて「こっちが先」と順番をめぐって対立した。「お前のじいさんから殴られた、と水主町側から言われたことがある」と唐津曳山取締会、参与の森修一(65)は少年時代を振り返る。
現在、三日は七宝丸が最後の十四番目。四日は途中まで十三番目で、コースの最後で十四番目に入れ替わることで平和的に解決された。しかし元団長の福本哲夫(42)はこう言い切る。「順番争いで血まで流した祖先には悪いが、十四番目が良か。唐津くんちのフィナーレを飾るのは、オレたちという自負があるけん」
(文中敬称略)
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十四番曳山「七宝丸」 江川町 一八七六(明治九)年、田中市次正信が製作。幅二メートル、高さ六・三メートル、推定重さ三トン。曳き子数は三百六十人。
(おわり)
=この連載は唐津支局・野口智弘、渡辺晋作が担当しました。
/中国の皇帝が竜頭の船で川遊びをした故事にちなんで作られた「七宝丸」
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