連載「酔って唐津くんち」

 1998年10月13日〜11月5日

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酔って 唐津くんち<1>総取締 時流に負けぬ心意気

「りいっちゃん」と、親しみを込めて人は呼ぶ。小柄だがピンと張った背筋。精かんな風ぼうに涼やかな笑み。瀬戸理一(78)。唐津くんちの最高意思決定機関・唐津曳山(ひきやま)取締会の総取締に就いて、今年で十五年になる。
 九日夜、唐津神社(佐賀県唐津市)の境内は七百人の熱気で殺気だった。曳山を持つ十四カ町が囃子(はやし)を奉納する「初くんち」だ。あいさつに立った瀬戸は「りいっちゃん」ではない。眼光鋭く、抑えた声。「唐津っ子の意気で不況風を吹き飛ばせッ」。赤い顔の男たちの目が光る。あの時も、そうだった。一九八八年秋―。
 昭和天皇重体による「自粛」ムードが社会を覆っていた。長崎くんちなど全国の伝統ある秋祭りが中止を決めた。唐津くんちもその波にのまれつつあった。
 取締会の議決は一対十三、中止が大勢。やり直しも同じ。瀬戸の呼びかけで開いた三回目は「実施」が三町に増えた。混乱する男たちを前に瀬戸が動いた。「男がおらん戦争中も、女と年寄りが曳いとるとぞ」。図書館で書き写した憲法を読み上げる。抑えた声。「曳くんが正しかぞ」…。
 「もう、若くなか」。初くんちの前日に痛めた腰をさすりながら、瀬戸は苦笑した。「祭りは派手さや客の数じゃない。自分らが自分らの町の歴史を守っとる、という実感。うん、それったいね」
 ドン、タッタ、ドン。自宅隣のトタン屋根の倉庫に子供たちの囃子の音が響く。「やっぱりこの響きはたまらんな」。りいっちゃんが笑う。(敬称略)
   ◇    ◇
 百八十年の伝統を誇る国の重要無形民俗文化財、唐津くんち(十一月二―四日)は庶民の祭りだ。歴史の荒波の中、男たちが女たちがくんちに酔い、町の魂を頑固に守ってきた。二十世紀から二十一世紀へ、その心意気は引き継がれる。

 

酔って 唐津くんち<2>宮司の便法 隠された申し合わせ

「もう十年ねえ、もうよかろうね」。佐賀県唐津市の唐津神社。木々に囲まれた社務所で先代宮司の戸川省吾(80)は話し始めた。道を挟んで、唐津くんち(十一月二―四日)の本番を待って展示されている十四台の曳山(ひきやま)が耳をそばだてている。
 昭和天皇の病状悪化で祭りの自粛が相次いだ一九八八年秋。唐津くんちでも役員の圧倒的多数は「中止」。唐津曳山取締会の総取締、瀬戸理一(78)は追い込まれていた。その最中の十月初めの朝、瀬戸は唐津神社を訪れる。
 「やっぱり右にならえになるとかな」。戸川が初めて目にする弱気。戸川は瀬戸に、明治天皇の崩御、大正天皇の病状悪化のときも祭りがあったことを伝える神社資料と、ある「便法」を伝える。「陛下は六一年に唐津を訪れ、くんちを楽しまれた。『ご平癒を祈り盛大に執り行う』。理由はこれでいかんね。やまったらいかん」。瀬戸はうなずいた。

 十月三日、最後の取締会総会。瀬戸は資料と「理由」を役員に伝えた。ざわめきの後、各町が手を挙げた。「総取締に一任ッ」。「唐津くんち実施」のニュースは「唐津っ子の意気を示した」と全国の大反響を呼んだ。
 だが、祭りの前に天皇崩御の場合は…どうしたのか。
 戸川は境内へ出た。秋空が高い。かがんで、神社から国道へつながる約三百メートルの直線道路を指でなぞる。「この直線だけ曳くことになっとった。理由は、ごめい福を祈り、沈痛に」。当時の発表では崩御時の対応はあらためて取締会で決める、だった。「隠さなかったら、脅迫だけでは済まんかったでしょう」と戸川。どういう意味なのか。
 瀬戸は書斎から出してきた十年前の百数十通の手紙をテーブルに並べた。「殺すぞ」「国賊だ」。陰湿な文字。「こんな声がまだあるんだ、ということを覚えとかんと。私が生きた時代の一面ですたい」。瀬戸は少し寂しげな表情を浮かべた。 (敬称略)

 

酔って 唐津くんち<3>戦後の象徴 祭りの意味を問い続け

九月下旬、名古屋市内の料亭で、全国各地から集まった二十六人の高齢の男たちが酒をくみ交わしていた。旧陸軍第三十八師団名古屋司令部同期会の年一回の懇親会だ。唐津曳山(ひきやま)取締会の総取締・瀬戸理一(78)は、その座の中央にいた。
 健康、家族のこと、今の世相…。やがて、話は第二次大戦の思い出に移る。瀬戸大尉と戦友たちは、戦後五十三年の時を超え、夜のふけるのを忘れて語り合った。
 瀬戸は猛火のガダルカナル島にいた。米軍の攻撃を受け、次々と倒れる部下。瀬戸が率いる中隊の半数以上が死んだ。瀬戸も右足に銃弾を受けた。死を覚悟した。延々と続く機銃掃射の音に曳山囃子(はやし)のリズムを重ね、自分を奮い立たせた。
 瀬戸は生きた。故郷に帰ると、女と年寄りたちが唐津くんちの伝統を守っていた。
 総取締に就いて五年目の一九八八年秋。昭和天皇の重体による「自粛」ムードの中で、瀬戸は圧倒的な「くんち中止」の声に抵抗した。
 その胸の内を「天皇制が好きとか嫌いとか、そういう問題ではなか。顔が見えん、右へならえの風潮を振り切らんといかん。権力とか暴力に左右されん時代。くんちは、その象徴なんだ」と振り返る。
 「戦後四十三年もたって、なんで時計の針を逆に戻すのか」。当時、瀬戸の胸に泣きたいくらいの憤りがあった。脅迫文と電話。警察の厳戒の中で、瀬戸は家族に渡されたお守りを懐に、胸を張って通りを歩いた。
 瀬戸は七月、ガダルカナルの体験を原稿用紙に書き始めた。既に百枚近くになる。毎朝には、ガダルカナルで戦死した部下百三十八人の名前を読み上げている。
 「十年前、くんちを守ったのはなぜか。その意味を次の世代に伝えるのが自分の役目たい」。数千人の若い曳子の道しるべとなる総取締のさい配棒が、静かに出番を待っている。(敬称略)

 

酔って 唐津くんち<4>黒獅子伝説 悲しい末路にロマン

唐津くんちまで半月余り。夜の曳山囃子(ひきやまばやし)の練習は熱がこもり、佐賀県唐津の町はくんちムード一色に染まってきた。ところがJR唐津駅北口の紺屋町の町内会長、緒方正男(69)にとって、この季節は胸が痛む。
 「唐津っ子なのに寂しか」。駅前の町で、唯一曳山がないのが紺屋町なのだ。
 曳山は江戸後期の一八一九(文政二)年、刀町の町人が赤獅子を作り、唐津神社に奉納したのが最初。一八七六(明治九)年までの五十七年間に、各町に十五台の曳山が誕生した。くんちは、これらの曳山が製作年代順に各町内を練り歩き、唐津っ子の血をたぎらす。
 「曳き子の勇壮な姿は、うらやましか」。緒方は曳山のない町で育ったことを悔しがり、こう続けた。「黒獅子が残っとればなあ」
 黒獅子。記録では一八五九(安政六)年前後に九番目の曳山として作られたが、明治二十年代に姿を消した。宵ヤマの際にちょうちんの火が燃え移って炎上した、というのが通説だ。
 しかし、唐津神社の縁者であった故戸川真菅が昭和初期に記した「唐津神事思出草」が三十年前に唐津神社社報に公表され、通説は揺らいだ。戸川は子供のころに見たこととして「黒獅子は見すぼらしく、横転してどぶにはまり物笑いになった。以来、町では恥じて曳かなくなった」と書いている。
 また、その後日談として「解体処分業者に売却。酒代にされた」と悲しい末路の言い伝えも残る。
 「でもね、黒獅子にはロマンを感じる」。紺屋町でブティックを経営する江頭紘一(57)は、明治初期に元唐津藩の絵師が描いた「唐津神祭行列図」(唐津市重要有形文化財)をいとおしげにながめた。黒獅子を唯一、今に伝える貴重な絵だ。勇ましい黒獅子の姿がそこにある。
 「伝説の黒獅子は復活させんといかんです」。江頭は身を乗り出して、熱く語り始めた。 (敬称略)

 

酔って 唐津くんち<5>曳山復元 「次世代へ」を使命に

唐津市が先日公募した「二十一世紀記念事業」。応募の中に「新しい曳山(ひきやま)作り」が提案されたことを知り、江頭紘一(57)はニヤリと笑った。  「新しい曳山は、黒獅子しかなかろうもん」
 明治時代に黒獅子を失った紺屋町の住人、江頭は十三年前、ある席でこんな考えを口にしたことがある。
 「赤獅子(刀町)と青獅子(中町)がペアで、金獅子(本町)のペアが黒獅子。曳山の調和が乱れた状態を放っとくわけにはいかん。復元はわれわれの使命ばい」。さっそく江頭は有志を募って「黒獅子会」を結成したが、このときには曳山を復活させるまでには盛り上がらなかった。
 それでも夢を追い、江頭は町紋付きの曳山ちょうちんを四張り作った。さらに陶漆芸家である友人の小島惣一(51)に相談を持ちかけた。
 小島は実際に「曳山」を製作した人物だ。一九八六年に、唐津市内の飲食店に依頼され、店の看板代わりに九番曳山「武田信玄の兜(かぶと)」(木綿町)の実物大を、本物と同様に和紙を数百枚張り合わせる「一閑張り」の技法で作った。西洋紙を交ぜたり、代用うるしを使ったりして材料費を節約したが、それでも製作費は約七百万円、完成には十カ月を要した。
 小島は、江頭の依頼に手を打った。「自分も子供のころ、大石町で曳山を曳いたが、曳山のない町の子供が泣いているのを見るのがつらかった。よし、曳山のない町の子供たちにも曳いてもらおう」
 小島は黒獅子復元には約一億円かかるという見積書を作った。だが、やがて不況の荒波。黒獅子復元計画は急速にしぼんだ。それでも江頭はあきらめない。「せめてコンピューターグラフィックで復元させたい。科学的資料を残し、いつかだれかに黒獅子を復活させてもらいたい」
 「次世代の唐津っ子のため、十五台目の曳山づくりに取り組むのが私のライフワーク」。江頭、小島ともに熱い口調で語る。
 (敬称略)

 

酔って 唐津くんち<6>しがらみ 帰ってきた花形曳子

「オー」。アメリカ人が目を丸くした。「オー、ゴールデンライオン」
 一九九六年三月、米国ハワイ。さんさんと降る日差しに全身の金ぱくをキラキラ輝かせ、唐津くんち(十一月二―四日)の曳山(ひきやま)「金獅子(きんじし)」が、ヤシの通りをかっ歩した。
 高さ五・五メートルの曳山のてっぺんで、中川守(24)=佐賀県唐津市本町=が誇らしげにさい配を振るう。
 この花形曳子が、実は「唐津も、くんちも、嫌いだった」と言うのだ。
 守は一八七二(明治五)年創業の茶取扱店「中川茶園」の四代目。父の邦彦(68)は本町の曳山組織のトップである「本部取締」。守いわく「知り合いはメートル単位。濃すぎる人間関係、うかうかデートもできん」。くんちが結ぶ町内のきずな、強いしがらみから逃れたくなった。
 高校を卒業、福岡市内で部屋を借り、一人暮らしを始めた。「何をしようが、だれも自分を知らないし、関心を持たない。何て心地いいんだ」と思った。翌年、同市内の大学に入学。故郷に戻ることはなかった。消息不明。実家に、守の様子を尋ねる友人の電話が相次いだ。邦彦は答えた。「おれが知りたか」
 唐津を出て二年半後の十月九日。十四カ町が唐津神社で囃子(はやし)を奉納する「初くんち」。守は実家に残した荷物を取りに戻った。夕やみに紛れ、外へ出る。そのとき、「守、帰っとったか。ちょうどよか、たたいてくれんね」。よく怒られた町内の先輩の穏やかな声。
 守の手に、バチが渡された。自分には帰る所がある。初めてそう思った。心地よいぬくもりが身を包んだ。
 今年の初くんち。あの日、守が感激の涙をこらえてたたいた太鼓を、唐津工業の一年生、草場智博(16)が受け持つ。ドン、ドドン、ドン。「この音を聞くと、いよいよです」と守。今や、子供たちのあこがれの対象である若者は、今年も当然、曳山のてっぺんに上るつもりでいる。(敬称略)

 

酔って 唐津くんち<7>危険な遠征 老体の曳山には苦行

佐賀県唐津市の曳山会館で今月十九日、材木町本部取締の岡了(62)が、同町の三番曳山(ひきやま)「亀と浦島太郎」を念入りに点検していた。「亀は無事ばい」。ホッとした表情だ。
 前日、大分市で「国民文化祭・おおいた’98」が開幕。唐津くんちを代表して材木町がパレードに参加し、唐津っ子の心意気を大分県民に大いに示して帰ってきたのだ。
 十七日、大分への出発を前に、岡の顔は曇っていた。「出したくなかさ。もしも事故で壊れたら、末代まで恨まれる」。台風10号がまさに九州南部に上陸しようとしていたころ、大雨の中で二・五トンの曳山は解体され、クレーンにつられた。大型トレーラーに積まれ、高速道路を深夜ひた走り、現地で組み立て。パレード後に再び解体され、あわただしく帰途へ…。
 江戸末期に製作された老体の曳山には、過酷すぎる日程だ。幸い台風が早く通過したために大きな損傷はなかったとはいえ、数カ所の金ぱくが雨ではげ落ちた。
 過去、唐津の曳山は国内各地、さらには欧米へ計十九度、延べ三十七台が遠征したが、運送ではしばしばトラブルに悩まされた。特に一九九二年の博多どんたく参加の際には、京町の「珠取獅子(たまとりじし)」が、トラックの振動で獅子の胴体に大きな亀裂が入り、以来、同町は「門外不出」を順守している。
 「だからレプリカの製作を提案しとる」と、唐津曳山総取締の瀬戸理一(78)は言う。製作費が一千万円前後で済む強化プラスチック(FRP)の曳山を一台作り、遠征に出そうという計画だ。
 六月の理事会の採決は「賛成」八町、「反対」六町。「うちの曳山のレプリカは作らせん」と各論で議論は紛糾し、結局は見送られた。
 大分遠征に参加した材木町の正取締、上野光国(53)が言う。「本物やっけん遠征でも曳く。偽物では愛情がわかん。愛がないと、くんちじゃなか」 (敬称略)

 

酔って 唐津くんち<8>街並み 曳山似合う旧道守れ

くんちの後に新築祝いね。そりゃ、めでたかばい」。城下町の名残を残す佐賀県唐津市大石町の曳山(ひきやま)組織トップの本部取締、牧川洋二(64)は、近所の声に照れくさそうにうなずき、仕上げに入った三階建ての新居を見上げた。
 同町は旧唐津街道に面し、江戸や明治期から続くしにせが軒を並べる。当時のままの白壁、格子窓、屋根がわらが町の歴史を静かに物語る。この通りを、ほぼ同時期に製作された同町の六番曳山「鳳凰(ほうおう)丸」など唐津くんち(十一月二―四日)の曳山十四台が練り歩く。花島一夫町内会長(79)は「ここの町並みが曳山と一番似合っとる」と胸を張る。
 一方で、建物の老朽化、住民の高齢化と減少は進み、駐車場などに変わる所も増えている。一九九四年には、通り沿いに福岡市内の業者が八階建てマンションの建設を計画した。しかし花島らはすぐに「曳山コースを守る会」を結成。他の十三カ町の支援も取り付け、署名などで市に反対陳情を繰り返した。
 市もこの熱意に動き、九五年十月、土地開発基金を取り崩して業者からこの土地を購入。昨年十二月、平屋建ての同町特定郵便局に姿を変えた。会の代表世話人だった小出栄一(70)は「曳山を持つ町の人間として、町並みを守ったのは当然の義務。会は解散してもその思いは今後も残ると思うし、絶対残さんといかん」と語る。
 その郵便局の西隣が、牧川の新居。設計業者と話し合って決めた家は、漆喰(しっくい)塗り風の白壁を張り、屋根もかわらぶきの和風造りにした。完成は十一月中旬という。「曳山が好き、理由はそれだけ。町並みに合ってくれたらよかけど」。牧川はそう言うと、視線を再び新居に移した。(敬称略)

 

酔って 唐津くんち<9>女たち 屋台骨を支える自負

「今年の献立は何すると?」「いつ買い物に行くね」
 今月中旬、佐賀県唐津市魚屋町の曳山(ひきやま)組織のトップ、本部取締を務める多久島聖吾(59)宅は、女性たちの明るい声でにぎやかだった。居間のテーブルにコーヒーとケーキが運ばれた。
 曳山組織の幹部の妻たちでつくる「鯛(たい)妻会」の会合だ。会の名称は五番曳山である同町の「鯛」にあやかった。聖吾の妻実子(50)ら九人のメンバーが毎月一回開いているが、この日は、唐津くんち(十一月二―四日)の本番を前に最後の集まり。
 秋の夜、曳子を家族に持つ女性たちはあわただしく、くんちの準備を進める。
 十月から家の中の大掃除に取り掛かり、家庭に伝わるアラやタイ、鉢盛り、刺し身などの豪華なくんち料理の献立を考える。下旬には夫と町内のあいさつ回りや買い出し。青果店を営む藤田信子(47)は「盆と年末年始が一緒になったぐらい忙しい」と笑う。
 会が生まれたのは十五年前。同じ時期に出産を控えた女性たちが相談し合ったのがきっかけだった。今、“議題”は子育ての悩みから街のうわさ、そして、くんち
 「悩みを相談できるようになって楽になった。『頑張らないと』って思う」と、東京出身の山内志津子(45)。傍らで信子が苦笑する。
 「くんちが終わるたびに、もうくんちの料理はしたくないと思うけど、夏すぎには『今年は何を』って必死に考えよるもんね」
 祭りの主役は男たち。だが、陰の主役は女たちだ。料理や訪問客の接待で忙しく、通りを歩く曳山も、それを曳く夫の姿も見られない。「でも、女がおらんと男は安心して曳けん。私たちがくんちを盛り上げて、支えとると」。実子が胸を張る。
 この日の議題はくんちの後の慰安旅行の確認。一人三千円の会費を毎月積み立ててきた。会計担当の日高弘子(46)が準備したパンフレットには「有馬温泉、一泊二日ツアー」とあった。(敬称略)

 

酔って 唐津くんち<10>女人禁制 

「しきたり」の厚い壁唐津くんちの十四カ町で曳山(ひきやま)の曳子の募集が始まった十月上旬、佐賀県唐津市米屋町の受付会場の集会所を、谷河茉衣(14)=鬼塚中三年=が訪れた。
 「曳山を曳いているときが一番、自分が光っとると感じる」。そういう表情が沈んでいる。「私、今年が最後なんです」
 曳山は女人禁制。ただ町によって対応が異なる。呉服町、江川町、刀町は厳禁。残りの十一カ町は、小学生か中学生まで許可している。いずれにしろ、中学を卒業すると曳山から締め出される。
 茉衣は父親の積(44)が米屋町出身で、二歳のときに十一番曳山「酒呑(しゅてん)童子と源頼光の兜(かぶと)」に乗せられた。それ以来、ずっと曳山に参加していたが、来春は中学卒業。「しきたりかもしれんけど、何で女はだめか納得できん。来年のくんちなんか想像できん」
 戦時中、若い男は戦場に行き、女と老人、子供で曳いた。だが、それは例外中の例外だ。戦後間もないころ、女子高生が校舎の階上から曳山を見物し、問題になったことさえある。
 なぜ、女人禁制か。「高校生にもなれば色気が出て、曳子の若い男の気が散る。統制が取れなくなるし、事故にもつながる」とは、ある町の曳山組織幹部。唐津曳山取締会の総取締、瀬戸理一(78)は「くんちは男が真の男になる日。女は裏方に徹して、最愛の主人、息子たちを曳山に送り出して、真の女になる日」と、役割分担を力説する。
 だが、女だって曳山への熱い思いがある。
 「部活のバスケットボールでも燃えたけど、くんちは一年に一度。燃え方が違う」「燃え尽きます。そして泣きます」。茉衣の目が既にうるんでいる。(敬称略)

 

酔って 唐津くんち<11>熱愛 婚約指輪は“垂れ幕”

「主人の頭の中は、くんち一色。仕事も放り投げて曳山(ひきやま)の会合に出掛けていくとですよ」
 佐賀県唐津市京町で薬局を経営する吉冨寛(41)の妻弥生(40)は、半ばあきらめ顔で苦笑した。「こうなるのは、あの時から覚悟しとりました」
 一九九二年春。弥生は寛からこう切り出された。
 「珠取獅子(たまとりじし)の垂れ幕が汚いとやけど、婚約指輪の代わりに、垂れ幕でよかや」
 長崎県佐世保市出身の弥生は驚いた。唐津っ子のくんちへの思い入れは聞いていたが、まさかこれほどまでだったとは。だが、弥生は「好きにしてよかよ」。寛は本麻製で六十万円もする垂れ幕をプレゼントした。ただし、弥生にではなく、京町の曳山組織へ。
 寛は弁明する。
 十二番曳山の珠取獅子が作られたのは一八七五(明治八)年。最初に曳いた四十二人の名前が曳山の胴体裏に刻まれている。その中に「若者取締・吉冨善兵衛」の名前が見える。
 「善兵衛から数えて五代目が僕。しかも、当時から現在まで京町に住んどるとは吉冨家だけ。ご先祖さま、そして子孫のためにも、きれいな垂れ幕を贈りたかった」
 寛が寄贈した垂れ幕は展示用として曳山展示場での珠取獅子に飾られた。その年、寛と弥生は結婚。そして今年、寛は善兵衛と同じ役職の「若者頭」として、町内の実動部隊の責任者となった。
 弥生は五歳を頭に男ばかり三人の母親になった。「この子たちも、あの垂れ幕を見ながらきっと父親のように育つんでしょうね。よか唐津っ子になってほしかです」
 観光客の目を楽しませている珠取獅子の垂れ幕が、弥生にはダイヤの指輪より輝いて見える。 (敬称略)

 

酔って 唐津くんち<12>遺恨 懇親会で平和的解決

「今年のくんちも頼みますばい」「こちらこそ」
 佐賀県唐津市内のすし屋で、中町と材木町の曳山(ひきやま)組織の幹部たちが酒宴に興じた。数日前のことだ。仲むつまじい光景。だが、かつてこの両町は、犬猿の仲だった。
 曳山の巡行は製作順、と決まっている。追い抜くことは許されず、後ろの曳山の先綱が前の曳山の後部にある梶(かじ)棒を追い越してはならない。
 中町の青獅子(一八二四年製作)は二番曳山。すぐ後ろに材木町の三番曳山「亀と浦島太郎」(一八四一年製作)が続く。ところが材木町には「亀が獅子の髪の毛をなめると縁起がいい」との言い伝えがあり、両町間では明治時代から、曳山の“ニアミス”をめぐるトラブルが絶えなかった。
 一九七〇年代後半のくんち。いつものように亀を青獅子に突進させてきた材木町に対し、中町側が怒った。
 乱闘となり、ケガ人も出た。くんち終了後も両町の曳子同士の小競り合いが続いたが、幹部同士が翌年に懇親会を開き、ようやく和解した。以来二十年近くにわたって懇親会は続き、今では十四の曳山組織の中で最も友好的な関係を築いている。
 「くんちにはけんかが付きもの、という間違った考えもあった。懇親会を通して迷惑がる中町さんの立場が分かった」と、材木町の曳山実動部隊「材若会」の斎長田口智規(39)は反省する。一方、中町の正取締水田彰男(50)は「昭和初期、祖父が材木町とのいざこざで大けがした。けんかでくんちが台なしになったと嘆いとったけど、おれたちの時代で解決できてよかった」としみじみと語る。
 「亀の髪なめ」の伝統行事は平和的に解決された。中町側が巡行コースの二カ所に限定して許したのだ。「“町民紛争”を解決したのは、酒好きの唐津っ子の知恵ばい」。両町の幹部は豪快に笑う。 (敬称略)

 

◎佐賀県/酔って 唐津くんち<13>町外者増え危機感

唐津くんちは二日夜、宵ヤマで開幕した。十四台の曳山(ひきやま)がちょうちんの明かりに浮かぶ。勇壮な光景は例年通り。しかし今年は数カ町で異変が起きた。曳き子の数が減少したのだ。
 同市京町の曳山組織の正取締、古賀栄一(49)は満足そうに十二番曳山「珠取獅子(たまとりじし)」のさい配を振った。「曳き子の増加にやっと歯止めがかかりました」
 かつて、曳山は町内関係者だけで曳いた。その数は百人前後。だが最近は、希望者が殺到。在住者を保証人にすれば町外者も曳けるため曳き子は激増した。
 昨年の京町は、町内関係者が百人程度。一方、町外者が二百六十人。「多すぎて曳山を動かすこと自体が危なか」と古賀。九月に町外者の新規曳き子を断る文書を配布し、今年は五十人減の三百十人にまで減った。京町と同様に町外新規者を断った中町も四十人減の三百四十人に減少した。
 昨年、十四町で最大の五百人近くの曳き子がいた六番曳山「鳳凰(ほうおう)丸」の大石町は、町内に保証人になることの自粛を通達。一気に七十人減った。それでも「先頭から半分までは自分の曳山の囃子(はやし)が聞こえんので、前の曳山の囃子で曳いとる。異常です」と同町の正取締、下西昭(51)は嘆く。
 後継者減に悩む伝統行事が多い中、唐津くんちは恵まれているといえる。だが唐津曳山取締会の総取締・瀬戸理一(79)は「各町での曳山の行事はくんちだけでなく、一年中ある。それを知らん若い町外者がくんちにだけ来て、ただ騒いでトラブルを起こす例が多いのも事実。次世代の唐津っ子に曳山のしきたりを教えるのも大切だが、町で生活していない曳き子にそれを教えるのは難しい」と増え過ぎた曳き子問題に頭を抱えている。

 

◎佐賀県/酔って 唐津くんち<14>誰もが輝いていた

さわやかな秋空に、りりしい声が響き渡った。
 「世の中、不況風が吹き荒れとるが、やみを明るくするのは光。その光になるのが、今日集まった唐津っ子だ。さあ唐津っ子が一致団結して、やみを明るくしようじゃないか」
 唐津曳山(ひきやま)取締会の総取締、瀬戸理一(79)のゲキに、唐津神社の境内に勢ぞろいした曳き子たちが大きくうなずいた。
 午後九時半、瀬戸のさい配が振られ、一番曳山の赤獅子(刀町)がおごそかに動き出した。赤獅子のてっぺんに登った鶴田真(21)の顔が晴れやかだ。「曳山の上に乗れただけでもうれしいとに、スタートもまかせられて感激です」
 十一番曳山「酒呑(しゅてん)童子と源頼光の兜(かぶと)」(米屋町)を曳く谷河茉衣(14)=鬼塚中三年=の顔も輝いていた。「女は中学三年まで」という米屋町の規則で茉衣が曳山に参加するのは今年が最後。「くんちが終わったら泣く。でも今は思い切り楽しむ」
 沿道には東京に単身赴任中の銀行員の吉川裕(41)が五年ぶりにくんちに帰ってきた。「血がたぎる。金融不況で、嫌なことが多かったけど、曳山に元気を与えてもらいました」。妻も中学一年になる長男も、さわやかな笑顔だ。
 「えんや」「えんや」。威勢のいい掛け声が一日中、唐津の町に響いた。一年で三日間だけの、くんち。唐津の町が酔った。(敬称略)

 

◎佐賀県/酔って 唐津くんち<15完>取材を終えて 曳山が継ぐパワー

高校卒業以来、二十三年ぶりに唐津に帰ってきたのが八月。唐津転勤の内示を受けて、真っ先にひらめいたのが「よし、くんちば取材するばい」だった。
 曳山(ひきやま)のない町で育ったが、友人のつてで小学生のとき二年間だけ曳いた。あのときの感動がずっと胸の中にあり、唐津っ子のパワーの源を解剖したいと思ったからだ。
 取材を開始して驚いたのが、曳山のある十四カ町に住む人たちのだれもが自分の町のことをよく知っているということだ。取材では最低二時間、町のこと、曳山のことを誇らしげに語ってくれた。一方、私(野口)は育った町のことをほとんど知らない。この意識の差にあぜんとした。
 江戸後期から明治初期にかけて製作された曳山を守ってきた町は、各町独自の曳山組織という縦社会を作りあげ、くんち期間中だけでなく、一年を通して住民が交友する。その行事が百八十年近くにわたって子々孫々へと伝えられた。
 ある町の若者に「将来何になるのか」と進路を尋ねたら「はい、曳山組織に入り、曳山ば守ります」と答えた。一緒に取材した北九州市出身の後輩(川合)も「すべてはくんちのためです」というせりふを何度も聞いた。商店街の低迷など、くんちを取り巻く環境は厳しいのに、くんちだけはやせ我慢してもやる、というのだ。「曳山を守れ」という合言葉が唐津っ子のDNAの中に埋め込まれているとしか、言いようがない。
 三日間のくんちは閉幕した。しかし、九日には早くも来年のくんちのための曳山囃子(ばやし)の練習が始まる。唐津の町は、くんち酔っている。
 (おわり)=この連載は野口智弘、川合秀紀が担当しました。