ずいひつ               唐津新聞 昭和40年11月2.3日の記事


われヤマを愛す

初日は好天気に恵まれ、二日目は合憎の小雨だつたが、今年の唐津おくんちも滞りなく終り、先づは関係者各位と警備当局の方々の御労苦に対し一市民として心から感謝と敬意の微衷を捧げたいと思う。各町山笠が明神通りの格納庫に姿を消してからも尚瞼の底からは、秋陽にきらめく豪快華麗な十四台の山笠の偉容が容易に消えそうもないし、郷愁をかきたてる典雅な山囃しの音が遠くまた近く耳だの奥に鳴りつゞけている。誰かゞ云っていた「唐津つ子にとって山笠は初恋の人だ」と生涯忘れ得ぬ愛着を云い当てゝ妙というぺき言葉だと感心したことがある。(唐津山笠は、いつの間にか曳山(ひきやま)と改称されたそうだが、以下山笠と呼ぶことをお許し願いたい。

第一「曳」という字は当用漢字には無い。それは別として僕は山または山笠という言葉のひびきにより強い郷愁を感じるからである)
 ところでぼくには子供の頃、町の古老から「山笠が泣く」という奇怪な話を聞いたおぼろげな記憶がある。何でも昭和の初期だったと思うが、ひどく不景気なころの話で、その年の山曳きを中止しては、という意見が山笠取締会の席上で話題になったそうだ。するとその日から真夜中になると山笠小屋から悲しげな山笠の泣き声がするという噂がパツと町中に広がった。「百何十年も続いている伝統ある唐津供日の山曳きを不景気だからといって中止するなどはもっての外、金が足らん町内には家島敷を売ってでもオレが出す−−−」名前は忘れたが当時名山笠総取締の譽の高かった某氏の激励と熱情によって山曳き中止説はたちまち影をひそめた。所が不思議なことにその夜から山笠の泣き声がピタリとしなくなった、というのである。

 ロケットが宇宙でデイトする科学万能の現代、人間の作った山笠が泣くなどゝいうたわけた話を本気で信用する者は先づあるまい。
 だがぼくは子供のころ、町の古老から聞いた話とは全く別な意味において、山がさが泣くという「たわけた話しを敢えて山がさを愛する多くの人々に聞いて頂きたいと思う。「現在の唐津山笠は夜毎格納庫の中で泣いている」嘘かまことかためしに真夜中の二時ごろ山がさ格納庫の前に立ってじっと耳を澄ませて聴いて頂けば判る。鬼こくしゅう
しゅうむせぶか如く訴えるが如く、まさに肺腑をえぐるような山がさのどうこくが、心ある唐津つ子ならハツキリと開きとれる筈だ。そして山がさが泣く理由も大方御承知であるに違いない。

 文芸春秋十月号のカラーグラビアで美しい唐津山笠の点描を三頁にわたってなつかしく御覧になられた方も多いと思う。今でこそ未だ県の重要文化財に過ぎないが「豪華絢爛」という形容詞がそのものズバリの唐津山笠は、今日では全国的に知られるようになり、更には全世界の人々にも喧伝され、将来国の重要文化財として国宝に指定される事は当然予想される事と考へてほゞ間違いはないだろう。か程に価値ある貴室な郷土の文化財をコンクリート造りの格納庫に年中閉じ込めしかも西陽のさす正面に鉄のシャッターを取り付けているのである。真夏なら恐らく鉄のシャッターは素手で触られぬ程に灼け、内部は四十度近い高熱で人間なら五分とは入って居られまい。通風設備も万全ではない上、厳冬の保温設備も全くないとすれば、如何に自慢のいつかん張りの漆塗りが熟や湿気に強いといっても山笠の素材がこのような無神経な設計に基づく格納庫の中で長年月の保存に耐えられるとは断じて言う事は出来ない。凡そ文化財を保存する為には、温度と湿度と光線に最大の注意を払って管理しなければならないという事位は中学生でも知っている。 続
(山笠太郎)


 玄海国定公園の中心地としての「唐津」はかねてから、観光当事者の御努力によりポスター、絵ハガキ、スライド映画の製作、観光宣伝隊の各地派遣、最近ではテレビまで利用し宣伝これ大いにつとめて頂いているお蔭で四季を通じ唐津を訪れる観光客の数は年々激増の一途を辿っている。この事は観光都市を表看板とする当市にとつて誠の慶賀すべき現象であるが、さて噂に名高い唐津山笠を一眼見ようと期待に胸ふくらませて明神小路にやってくると其処で観光客が眼にするものはまるで刑務所を連想させるような例の山笠格納庫と視界を閉ざす無情な鉄のシャッターだけである。時に有力者の団体とか、お偉方が来た時だけ二、三台の山笠が路上に引き出されている姿を散見することがあるけれども、とても十四台の全容を展覧に供するには至らない。「唐津よかとこ一度はお出でー」成程天然の絶景には嘘偽りはない。しかし事山笠に関しては、お偉方でない一般庶民の観光客はまるでペテンにかゝつたような失望と不満を抱いて唐津を去って行くのだ。事実そういう手紙を県外の知人から受取ったことが僕でさえ今までに何回か経験しているのだ。

 幸にも唐津城天守閣築城の議が決ったことは観光都市唐津に錦上花を添えるものとして来秋の完工が待たれるわけだが、しからば唐津山笠の保存と一般観光客への展覧を観光並びに山笠当事者の方々は一体どう考へておられるのであろうか。一部本紙が伝えたところに依ると現在の彰敬舘を神社域内に移転し、その跡に硝子張りの陳列場を設置する案があるという。だがあの狭少な地所に何台の山笠が陳列出来ると考えておられるのだろうか。三台或いは四台としてもあとの十余台は依然としてコンクリート住いである。毎年輪番として展覧の公平を期するというが四、五年に一度陽の目を見るに過ぎない。これでは切角の山笠の展覧価値が薄いから全山笠を一堂に収容し、保存と観光の面から抜本的な山笠会館を造らなくては−−という案が出て来るのは必定である。現在の山笠格納庫が完成してから未だ十年も経過していないにも拘らず、小規模なガラス張りの展示場云々の案が論議されている所から推察すれば、この事は決して僕の無謀な予見ではないと思う。建設場所、費用、駐車場などいろいろ困難な問題はあるだろう。けれども観光都市唐津百年の大計のためには、ざん新で典雅な唐津山笠にふさわしい一大山かさ会館の実現が是非とも必要であると考える。唐津山かさがおくんちに訪れる大勢の見物客の目を見はらせる所以のものは、各町山かさの持つ夫々の個々の美しさにあることは論をまたないが、最大の圧巻は何といっても十四台の全山かさが勢揃いしたその一大展望である。

 天守閣築造に異論を唱える気持はさらさらないが、唐津城は元々封建時代の藩公の権威を象徴するもの、一方唐津山かさは藩政時代の武家に対する町民の意気を托して製作されたもの。そういう歴史的な事実を考えるならば今から云っても始まらないが、庶民平等の現代天主閣よりもむしろ山かさ会館を先に建設すべきではなかつたかと悔くまれてならないのである。

 現在僕の住む町内には山かさはない。だが以前刀町に住んでいた頃は、毎年一番山かさを曳いて廻ったものだし、今年も刀町の長兄の代理で新装成った赤獅子をふり仰ぎふり仰ぎ曳いた古老の話では現在長兄の住む家が文政二年九月、初めて唐津山かさを作つた石崎嘉兵衛代々の家つゞきであったそうである。僕が山かさに関するこの一文を書くのも何かの因縁であるかも知れない。ひょっとしたら石崎嘉兵衛翁が山かさを愛するあまり、ぼくをしてこのような一文を書かせたのではないだろうか。(石崎翁にはこのような悪文で申し訳ないが)唐津つ子の誇り、伝統に輝やく郷士独特の美しき文化財の永久保存と、画竜点睛の両眼にも比すべき天主閣と山かさ会館建設のために関係諸賢の奮起を切にお願いする次第である。
   (朝日町山笠太郎)