中国で珍重された不老長寿の仙薬 |
古くより中国で不老長寿というのは、まさに精神と肉体が、ともに健全で活動的であることを指し、そのために良いとされる食物には大変な労力を費したのです。そうして選ばれた効果のある草や木や茸を、不老長寿のための上薬とし、なかでも霊芝と薬用人参は「仙草」として特に重視されたのです。霊芝はその効能が認められながらも、残念なことに、薬用人参のように手軽に入手できなかったので、実験や研究が立ち遅れ十分な資料を得ることができませんでした。今日になって、やっと日中両国で人工栽培に成功し薬理・臨床に必要な霊芝が提供されて、その研究成果が発表され始めました。 |
中国では、もともと「薬食同源」、あるいは「医食同源」といって、日頃の食物が健康の元となり病気から身を守るという考え方があり、霊芝はすばらしい食物であると同時に、薬物であることが認められていました。 中国でいう霊芝のような「仙草」とは、それを食べたり、服んだりした時、不老不死の霊験が得られる極めて効き目の著しい、薬のように素晴しい働きをする植物を意味します。 霊芝の類が山中に生えているのをみたとき、猿の座る椅子とでも思えたのでしょう。それで、この”類”の茸は広く「サルノコシカケ科」という名前で分類していますが、植物学上の日本名は「マンネンタケ」です。 霊芝の何が効くのかというと現在のところ完全に分析されていませんが、エルゴステロール、マンニトール、ゲルマニウムなどを含有し、浅井一彦博士によると特にゲルマニウムが、朝鮮人参やクコの実、にんにく、菱の実などと比較して特に多く含有し、薬効に深い関係があるということです。 |
山内薬局の霊茸は厳選栽培された霊芝を原料に高品質の製品です。劇的に効果が現れることはありませんが、気長に服用してください。副作用の心配なく服用を続けることができます。また、飲みやすい顆粒状で、水にさっと溶けます。霊芝の強烈な苦みがほとんど感じることなくおいしく頂けます。 1日3回 1回1包をめやすに、症状によって加減します。 自信をもってお勧めしております。 |
||
|
大往生 大養生 父と霊茸 父は大正4年2月15日、西の木屋の三男として生まれる。西の木屋は400年前名護屋城築城の際秀吉の命により泉州堺から材木積運搬船頭として唐津の地に移り住んだ堺衆、木屋利右衛門を初代とする旧家である。西の木屋の者は代々堺にあこがれ、堺の地を訪れたようで、私も例に漏れず昨年の大阪大会の際念願の堺入りを果たした。古舘曹人さん(山口青邨門下の俳人:親戚のおじさんで、利右衛門にとり憑かれ、1997年9月とうとう『木屋利右衛門』という本まで出版されました)と利右衛門が暮らした堺の町を心ゆくまで探索して回った。初代は朝鮮出兵の際に小西兵などの輸送に携わり、慶長の役後は捕虜の送還をし、朝鮮国王から礼状を頂いた。私の兄は9年ほど前、ソウルの鮮于基先生の元で10ヶ月ほど住み込みで韓医学を学んできたが、地下鉄や市場などで万が一の時には黄門様の印籠よろしく懐にしのばせたその礼状のコピーをかざす手はずだった。 父に話は戻るが、幼少の頃から病弱だった父は、厳しかった祖父に柔道・剣道・弓道と仕込まれ、上の兄は2人とも上達したのに父はどれも上手くはならなかったそうである。しかし兄弟は男4人女2人で一番弱かった父が結局一番長生きをしてしまった。毎年今年は初盆と言っていたが、なかなか迎えが来ないので、寿命というものは決まっているようだと父は言っていた。 長崎薬専時代はバスケットボールの選手だったそうだが、その後戦前戦中戦後と結核を患い胸郭整形、 9本肋骨をとっている。10数年闘病生活を続け、昭和28年結婚。29年には長男が生まれ、32年には次男の私が生まれた。見るからに弱い父を見て育った私も幼い頃から父はいつ死んでもおかしくないと思うようになっていた。母も時には父が息をしているだろうかとハラハラすることもしばしばだったそうである。父が薬局を開業したのが昭和29年 8月20日。資金もなく、親戚に借金して内装の塗装は父がほとんど手がけたそうだ。結核は一応落ち着いても、気管支拡張症で今度は痰との闘いである。相談を中座して調剤室の流しに痰を吐く声に、かえってお客さんが心配して、相談も終わり薬も差し上げた帰りに、お客様から「お大事に」と言われる光景もしばしば目撃した。 そんな父の小便の出が悪くなったのは昭和52年頃からであった。翌々年兄が佐賀医科大学に第一期生として入学。前立腺癌とわかったのは56年、父には告知しなかったが、家族は兄から知らされた。霊茸を口に入れたのはそのころからである。霊芝の苦みを椎茸の味でごまかしてある。味噌汁の具はいつの日からか椎茸スライスとなった。それに霊茸の顆粒をコッソリ入れるのである。その後、父にも癌の告知をされた。その時のことを父の著書『和訓万病回春』のまえがきには「さすがに三日間飯がまずかった。いわゆる食に味無しである。」と書いている。 昭和56年11月25日、佐賀医大泌尿器科教授熊沢浄一先生によって睾丸摘出手術を機に記念すべき処女作『和訓古今方彙』の執筆にとりかかった。どうにか59年春には本になった。迫り来る死に対する挑戦はまだ続いた。暫くの休息の後、2冊目の『和訓万病回春』の執筆に入った。店の背もたれ椅子に腰掛け、足は前に伸ばして画板の上の原稿用紙に向かう日々が再び始まったのである。昭和61年秋に本になる。『和訓万病回春』のまえがきには「私の最後の本にふさわしい本に仕上がったことを心から満足している」と書いている。この世に余程縁があってか、なかなか最後の仕事にはならなかった。このまま死を待つより何かさせなければと兄が言うので、私の恩師第一薬科大学生薬学教授木村孟淳先生にご相談したところ、アドバイスを頂き、3冊目の『訓註和剤局方』に着手することになった。63年7月には鶏卵大の膀胱結石を開腹摘出。血の小便をしながらでも、調子が悪くて店に座れないときでも茶の間に長くなって原稿用紙に向かっていた。平成4年春に完成したが、矢数道明先生の序文を頂き、父は大変喜んでいた。昭和50年の日本東洋医学会福岡大会の後、主立った先生方が唐津においでになったときに、唐津までの道中、矢数道明先生と親しくお話ができ、先生がそのことを今でも覚えていて下さったことを父は嬉しそうに話してくれた。 現在父が残してくれたその三部作「和訓古今方彙」「和訓万病回春」「訓註和剤局方」は緑書房より出版され、多くの先生方のお役に立っているようである。 さて問題の霊芝である。 茶入れの仕覆に霊芝文があり、軸や額にも描かれているように、霊芝は牡丹・蘭や松などと共に日本文化には馴染み深い吉祥の題材である。霊芝を床の間飾りにしているところもあり、不老長寿の縁起物として重宝がられている。呼び名もおめでたいものが多い。 【万年茸】マンネンタケ サルノコシカケ科の茸 別名:祝茸(いわいたけ)・幸茸(さいわいたけ)・聖茸(ひじりたけ)・孫杓子(まごじゃくし)・山神杓子(やまのかみしゃくし)・霊芝(れいし)・霊草(れいそう)・かどいでたけ・かどでたけ『図説草木名彙辞典』より 《 芝 》 青芝ハ肝ヲ補ヒ、赤芝ハ心ヲ益シ、黄芝ハ脾ヲ益シ、白芝ハ肺ヲ益シ、黒芝ハ腎ヲ益ス。此レ霊物得難キ者ナリ。 |
『和語本草綱目』より | |||||||||||||
![]() |
『神農本草経』より |
「霊芝は癌に効く!」と書いた本は書店の健康コーナーに数知れず置いてあるが、わりと寿命が長い。近年になり霊芝の人工栽培が可能になり量産できるようになったお陰で、それまでは高価でとても口に入れることも難しかったものが広く使われるようになったのである。健康食品なので店頭では癌に効くとは言えないし、癌に効くのかどうかも定かではない。ただあれだけ用心深い父が15年間毎日飲んで悪くはないと言うことだけが拠り所である。 結局父が前立腺癌と知ってから亡くなる数日前まで毎日欠かさず霊茸は飲み続けているのだが、何と言って劇的な抗癌剤を使うわけでもなく、何が効いているのか知らないが、入退院を繰り返しながらも何とか闘病生活が続けられているのは霊茸も助けにはなっていたに違いない。ピーエムさんありがとうございました。久しく服せば身軽く不老延年。終いには神仙になるそうである。 平成7年11月唐津くんちが終わって以来熊本県植木町の病院へ再入院していた。平成8年4月20日、例によって子供たちを連れて見舞いに行っていた。翌朝久しぶりに父と二人っきりになり、ひとしきり親戚一軒一軒にそれぞれ遺言を残したあげく、「いよいよお別れの時が来たぞ。聞いておきたいことはないか。」と言っていたが、その時は自分で死期が分かっていたのだろうか。 その日は兄が勤務する公立菊池養生園診療所の年に一度の祭『養生園祭』があり、天気が良かったので父はそちらに行くように私たちを勧めた。母を病院に残し、昼前に養生園に到着。折しも養生園祭のテーマは大往生で、永六輔さんの講演や、誕生から大往生までの仮装行列が行われていた。2時半頃いよいよフィナーレには、地元婦人会扮する天使のコーラスの中、養生園園長の竹熊先生の生前葬が営まれ、春のうららかな陽光に、遠くに眺めていた私はなぜかこみ上げてくるものがあった。4時に病院に戻ったときには、父の呼吸がおかしいと母が慌てていた。急いで養生園の兄を呼び、父の遺言通り無理な延命策は施さず、平成8年4月21日17時25分、家族全員が見守る中静かに息を引き取った。まさしく大往生であった。 唐津へ父の亡骸を運ぶ前に、竹熊先生が永六輔さんの色紙を持ってお別れに見えられた。『大往生 大養生』と書かれた色紙はまさに父の生涯のフィナーレにはふさわしかった。 生前御交情頂いた協励会の皆様にはこの誌を借りてお礼申し上げます。 あちらではかつて父がお世話になった相見三郎先生・塚本赳夫先生・森光三先生・中山友記先生・久保川憲彦先生等々、お逢いしてつもる話をしているところでしょう。よき先輩や仲間に恵まれ、漢方を生涯の友とした父は幸せでした。 |
![]() |