唐津くんち曳山年表(2013.10.25より作成)11・17修正
(坂本康子氏の資料を参考)
西暦 |
年号 |
唐津のこと |
日本のこと |
755 |
天平勝宝7 |
9/29唐津大明神の神号賜わる ↑この日をおくんちとした(重陽) |
奈良時代 |
749-58 |
考謙天皇 |
“考謙天皇の御宇、領主神田宗次一夕神夢を得て海浜に至れば一筺の波に浮び来るあり、之を採りて開けば一宝鏡なり、是正しく神功皇后の捧げ給ひしものならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を降して唐津大明神と賜ふ”(唐津神社由来) |
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1186 |
文治2 |
神田宗次を二ノ宮に祀る |
平安時代 |
1371 |
建徳2 |
唐津神社建立?(本尊胎内造立銘) |
南北朝時代 |
1445 |
文安2 |
波多三河守親公、田地を神社に寄進 |
室町時代 室町期、宝尽くしの吉祥文様広まる |
1573 |
元亀4 |
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室町幕府終焉 |
1590 |
天正18 |
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太閤検地・秀吉天下統一 |
1591 |
天正19 |
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秀吉、名護屋城着工 |
1593 |
文禄2 |
5月、波多三河守、知行召上となり黒田藩に預けられる |
太閤検地 |
1595 |
文禄4 |
初代・寺沢志摩守広高 |
豊臣政権 |
1598 |
慶長3 |
石高3万1300石(大名帳の記録) |
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1600 |
慶長5 |
東軍の恩賞として天草4万石を加増 |
関が原の戦い |
1602 |
慶長7 |
唐津城築城→神社移動 唐津城下町割実施(町割内は税免除) |
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1603 |
慶長8 |
最初の城下町(松浦拾風土記) “刀町、米屋町、呉服町、魚屋町、本町、大石町、紺屋町、中町、木綿町、材木町、京町、八百屋町” |
徳川家康、征夷大将軍(江戸幕府開府) |
1606 |
慶長11 |
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江戸城本丸完成 |
1608 |
慶長13 |
唐津城完成 |
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1614 |
慶長19 |
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大阪冬の陣 |
1615 |
慶長20 |
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大阪夏の陣 |
1625 |
寛永2 |
寺沢兵庫頭堅高(広高二男)二代城主へ |
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1635 |
寛永12 |
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参勤交代制度 |
1637 |
寛永14 |
1500人の与力、天草に派遣惨敗 天草4万石没収 |
10/25島原の乱(翌〜2/28) |
1638 |
寛永15 |
松平伊豆守、肥前名護屋城を壊す |
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1639 |
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鎖国令 |
1644 |
正保元 |
6/8唐津湾に黒船、沈める |
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1647 |
正保4 |
寺沢堅高自害→寺沢家断絶(幕府領) |
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1649 |
慶安2 |
2代藩主・大久保(播磨明石)8万3千石 |
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1661 |
寛文元 |
寛文年間、御神幸開始か(戸川家口伝) (踊りヤマ、走りヤマ) |
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1670 |
寛文10 |
大久保忠朝、唐津藩主 |
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1678 |
延宝6 |
大久保忠朝、総州佐倉へ転封 →3代藩主・松平和泉守乗久(下総佐倉) |
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1686 |
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松平和泉守乗久、死去 |
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1687 |
貞享2 |
和泉守乗春、家督を継ぐ |
生類憐みの令 |
1690 |
元禄3 |
乗春、死去→乗邑、家督を継ぐ |
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1691 |
元禄4 |
4代藩主・土井周防守利益 (志州鳥羽より)→1万石減の7万石に |
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1701 |
元禄14 |
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赤穂事件(忠臣蔵) |
1713 |
正徳3 |
土井大炊頭利実、家督を継ぐ |
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1723 |
享保8 |
唐津藩校「盈科堂」出来る |
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1732 |
享保17 |
大飢饉のため海士町で施粥実施 |
享保の大飢饉 |
1733 |
享保18 |
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江戸打ちこわし |
1736 |
元文元 |
土井大炊頭利延、家督を継ぐ |
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1745 |
延享2 |
土井大炊利里、家督を継ぐ |
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1762 |
宝暦12 |
土井利里、古河へ転封 →5代藩主・水野忠任(岡崎藩主) |
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1763 |
宝暦13 |
水野忠任、唐津入り →農民に重税。大庄屋の帯刀禁止 「唐津大明神祭礼」「傘鉾」の記録 (演説書=藩主交代の際の申し送り書 →この頃は恒例行事であった 江川町(赤鳥居)本町(左大臣右大臣)木綿町(天狗面)塩屋町(仁王様)京町(踊り屋台) |
“一、城内唐津大明神九月二十九日祭礼の節、西の浜へ神輿の行列御座候、寺社役の内より(略)惣町より傘鉾等差出” |
1764 |
明和元 |
早害 |
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1765 |
明和2 |
唐津神社一宮ニ宮神輿2基製作 |
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1764 |
明和3 |
洪水 |
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1765 |
明和4 |
蝗(イナゴ)害 「大明神」額奉納→鳥居の額か? |
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1768 |
明和5 |
早害 唐津町大年寄設置 |
全国一揆、打ちこわし |
1770 |
明和7 |
洪水・洪水・いなご等の旱害続く 鏡神社消失 |
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1771 |
明和8 |
鏡神社再建 7/16江川町男女十名程再建の芝居の後松浦川氾濫で溺没、内女一人は材木町長右衛門(船夫)に救助。町に急報 7/18城山鳴動、終夜振動やまず 7/19名護屋城址に怪火 7/20虹ノ松原一揆、2万5千人 |
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1772 |
明和9 |
虹ノ松原一揆首謀者4名処刑 |
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1775 |
安永4 |
水野忠任隠居→忠鼎、藩主となる |
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1782 |
天明2 |
大飢饉(〜1787)海士町炊き出し実施 |
天明の大飢饉(〜1787) |
1783 |
天明3 |
凶作による餓死者。和多田で炊き出し |
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1784 |
天明4 |
台風襲来、疫病流行、餓死者続出 |
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1787 |
天明7 |
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寛政の改革→全国に節約令 |
1799 |
寛政11 |
旱魃による大凶作→唐津神社で雨乞い 藩、牢舎の側に“溜メ”設置 →13年罪人経費の町負担で平野町嘆願書 →?京町町掟発布 |
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1800 |
寛政12 |
藩校「経諠館」設置 |
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1802 |
享和2 |
神田カブカブ獅子、飯田観音堂奉納 |
“享和二戌年 神田村 大工又蔵四十三歳作” |
1805 |
文化2 |
水野忠光、家督相続(6万石) |
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1806 |
文化3 |
「九月神事」の記録 |
“町に仕組狂言仕る事これ有り、何れも九月神事に壱町宛仕候”“(仕組の始まりは)土井様御代の元文元年” |
1812 |
文化9 |
水野忠光、忠邦に家督相続(6万石) 伊能忠敬、幕府測量隊と唐松地区測量 |
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1817 |
文化14 |
飢饉や災害が相次ぎ藩政逼迫 9/29神祭の日、藩主国替え伝わる 9月、忠邦・浜松へ転封 →藩の借金30万両 →9/29藩主所替を知った町人「熱湯に水を入れた如く」引き払った 6代藩主・小笠原長昌(棚倉より転封) 演説書に「神祭。西の浜御旅所。十二カ町より山鉾」の記録(山鉾の実態不明) 石崎嘉十郎死去(嘉兵衛か?) |
※譜代大名として隣藩黒田と鍋島の二大外様の監視役を譜代島原と共同任命 “一、唐津大明神祭礼例年九月二十九日興行いたし、一の宮、二の宮神輿西の浜御旅所へ御行有之、市中の内十二ヶ町より山鉾指出申候” (演説書) |
1818 |
文政元 |
6/23水野家から小笠原家へ唐津領在町引渡し式、石崎義七宅(刀町) 11月、小笠原氏、紙方仕組継続 (領民は強制に反対) 庄屋代表、江戸の忠邦に越訴するも否 和多田大土井で百姓一揆 |
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製作者 (唐津曳山記録保存報告書より) |
水神関連 | 唐津 | 日本 | 世界 | |||||
文化14年 (1817) |
藩主水野忠邦、浜松に転封す。(忠邦は相知・厳木等1万7千石を幕府に献上。浜松への転封を図る。1万7千石の天領反対運動が起こる。) 棚倉より小笠原長昌が唐津へ入封す。 |
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文政2年 (1819) 九月吉祥日 |
己卯 |
刀町 |
獅子作者 |
“(略)一、同年九月明神様付添申候町々の引物など、所々に出来申候 先づ此度新ニ出来申候町々ニハ 刀町 獅子の首 |
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文政3年 (1820) |
藩内国益方(領内の殖産興業の役所)30万本の楮苗を領内植え付け | ||||||||
文政4年 (1821) |
石崎嘉兵衛、誕生(石崎八右衛門の三男) | ||||||||
文政5年 (1822) |
5月、小笠原長行(長昌の長子) 城で生 |
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文政6年 (1823) |
小笠原長昌(28)江戸で没 長泰(17)襲封 ※2歳の為出生していないこととし廃人届け |
シーボルト出島に着任 | |||||||
文政7年 (1824) |
甲申 | 中町 | 獅子細工人 :辻利吉 塗師 :儀七 大工棟梁 :小川太郎兵衛 ・小川定助・小川喜七 |
枝分かれ角 | (刀町の5年後) | ||||
文政11年 (1828) |
大雨と強風で不作 暴風雨、洪水により大凶作、天然痘流行する。 |
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文政12年 (1829) |
不作と天然痘の流行 | ||||||||
天保元年 (1830) |
天保の飢饉(〜7年) 不作続き米価高騰 |
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天保4年 (1833) |
小笠原長泰(27)隠居 (28歳「虚弱と称し国事に堪えず」) 養子小笠原長会(24)襲封 天保の飢饉はじまる 。 楮の専売制の強化。自由販売の禁止。楮の栽培推進 水害と害虫で不作。 天草で一揆 |
米価騰貴 | |||||||
天保5年 (1834) |
藩主長会は、唐津神社に雨乞祈願。藩では水粥を炊き出して貧民救済 8万貫楮始まる(廃藩まで続く) |
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天保7年 (1836) |
小笠原長会(27) 江戸で没2/19 小笠原長和(16)末期養子として襲封 (9月) (郡山松平家15万千石) 赤子方の設置。赤子養育米の支給。 全国的な不作 |
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天保8年 (1837) |
天保の大飢饉→大塩平八郎の乱 | 大塩平八郎の乱 | |||||||
天保9年 (1838) |
厳木の幕領で一揆おこる。 唐津藩鎮圧を命じられる。 |
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天保10年 (1839) |
2/28唐津藩、一揆全滅 |
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天保11年 (1840) |
11/23小笠原長会(20)唐津城で没 献金による苗字帯刀許可制が始まる。 |
アヘン戦争 | |||||||
天保12年 (1841) |
辛丑 | 材木町 | 製作者 :須賀仲三郎 |
亀 | (中町の17年後) | 2月小笠原長国(30)養子として襲封 信州松本戸田松平家より | 天保の改革(〜14) (老中水野忠邦) |
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天保13年 (1842) |
御趣意楮始まる (廃藩まで続く) 藩財政極度に逼迫 |
長行(21歳)、江戸深川藩邸下屋敷へ | |||||||
天保14年 (1843) |
小川島の捕鯨を藩営とする。 財政拡充 |
水野忠邦、罷免 |
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天保15年 (1844) |
甲辰 | 呉服町 |
兜細工師 |
竜頭 | 3/1山中精太郎脱藩(討幕派) | ||||
弘化2年 (1845) |
乙巳 | 魚屋町 | 不明 | 鯛 | |||||
弘化3年 (1846) |
丙午 | 大石町 | 細工人 :永田勇吉 塗師 :小川次郎兵衛 1750両 |
孝明天皇即位 | |||||
弘化3年 (1846)9月 |
丙午 | 新町 |
細工師 山笠大工棟梁 大工棟梁 大工世話人 塗師 |
飛龍 | |||||
弘化4年 (1847) |
丁未 | 本町 | 不明 一説では 石崎八左衛門 塗師:原口勘二郎 |
枝分かれ角 |
赤獅子、1回塗替え 青獅子、1回塗替え |
5月、外国船来航に備え砲術稽古 |
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嘉永2年 (1849) |
1-2月、疱瘡流行 | 佐賀藩医楢林宗建、蘭法により種痘を行う。 |
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嘉永3年 (1850) |
7月、久里川堤防工事(4万人) | ||||||||
嘉永5年 (1852) |
小笠原胖之助(長泰の末子) 江戸で誕生 |
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嘉永6年 (1853) |
3月関東大地震小田原城郭・町屋倒壊 6/3ペリー浦賀に来航 10月、家定、征夷大将軍に任命 |
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安政元年 (1854) |
(年代不明の神祭倹約令、明治以前) |
1月、ペリー浦賀に再入港 |
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安政2年 (1855) |
江戸大地震で江戸藩邸焼失のため家臣の俸禄2割引(安政5年まで) | ||||||||
安政3年 (1856) |
小川島にロシア船現れ大騒動 | 7月、米総領事ハリス下田来航 |
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安政4年 (1857) |
呉服町第一回修復 | 小笠原長行(36)藩主長国の養子となる。(9/21) 12/16長行、図書頭となる |
5月、下田条約調印 |
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安政5年 (1858) |
紺屋町 | ??、黒獅子(紺屋町) |
4月、長行、名代で帰唐(〜文久2) 唐津上空に彗星(ほうき星) |
6月、日米修好通商条約調印 10月、家茂、征夷大将軍任命 |
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安政6年 (1859) |
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6月、横浜港開港 |
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安政7年 万延元年 (1860) |
3月 桜田門外の変 |
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万延2年 (1861) |
この頃、亀の宝珠→浦島に変更か | 米・南北戦争 | |||||||
文久元年 (1861) |
妙見浦で大砲の試射をする 若殿(長行)再び江戸へ 小笠原長泰(56)江戸屋敷で没 12/14 アメリカ船が名護屋浦に入港 |
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文久2年 (1862) |
小笠原長行若年寄となる 小笠原長行老中(格)となる 小笠原長行、外国御用掛となる |
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文久3年 (1863) |
3月、長行、生麦事件独断賠償金払い 4月、新撰組結成 5/14、慶喜、後見職辞職願提出 薩英戦争 |
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文久2年5月組織 元治元年 9月竣工 (1864) 明治9年第二造換 嘗ては明治2年として文化財登録をしている |
甲子 | 木綿町 | 細工師 :紅屋近藤藤兵衛 塗師 :畑重兵衛 |
錣の波 | (本町の17年後) 新町第一回修復 |
「大町年寄布達」曳山の道筋 一ノ宮:江(赤鳥居)塩(仁王)刀(赤獅子)中(青獅子)材(亀)呉(兜)米(?) |
2月、和宮降嫁 8月、生麦事件 9/11長行・老中各老中として幕政 12月、松平容保、京都守護職 |
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慶応元年 (1865) |
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慶応2年 (1866) |
1/21、薩長同盟成立 6/7、第二次征長の役(老中長行失敗) 7/20、家茂、出陣中死去 12/5、慶喜、征夷大将軍任命 |
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慶応3年 (1867) |
大石町第一回修復 |
長行の子、小笠原長生江戸で生まれる 10月、平野町・新町・江川町、12ヶ町に惣行事参加申し立て |
1月、明治天皇即位 3月、老中長行は胖之助同伴上洛 7月、ええじゃないか 10/14、大政奉還 11/20長生、江戸丸の内役宅で誕生 →翌日里子(藤倉捨蔵の名で千葉佐倉) 長行、外国事務総裁の職を辞す→唐津に害が及ばぬよう各地へ 12/9、王政復古の大号令 |
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慶応4年 明治元年 (1868) |
青獅子 鯛 平野町 米屋町 唐津神祭で賑わう |
1/3、鳥羽伏見の戦い 1/15、列国公使に王政復古伝達 2/10長行、老中辞任(藩と絶縁) 2/24江戸唐津藩邸で三井令輔斬殺 (西軍に加担する長国の立場が危ういため説得のため上京、会うこと叶わず斬殺される) 夢棲と改名し辞世 3/3長行、棚倉へ(13日着) 3/7大阪唐津藩邸詰・長谷川久誠、 3/14、五箇条の御誓文 4/7長行、棚倉から会津へ 4/11、江戸城無血会城 4月、長行・会津城下の公別邸へ居 5/15胖之助ら11名彰義隊陥落 5月、奥羽越列藩同盟(長行、参謀) 7月、母成峠の伝習隊へ藩士15名 8月、会津戦争(9/22降伏) 8月、長行と胖之助再会(会津御薬園) 8/22-23白虎隊自刃 9月、唐津藩士23名新撰組へ 9/8、明治に元号改元 9/14唐津藩士、出羽山形城下到着 (10/3庄内藩領内残兵降伏→翌年7月東京で唐津藩引渡し、 10/2、胖之助北海道上陸 10/20、榎本武揚、北海道上陸 10/24、七重村の激戦、胖之助没 11/15、長行、榎本と五稜郭入城 |
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明治2年 (1869) |
己巳 | 平野町 | 細工人 :富野武蔵 塗師 :須賀仲三郎 |
錣の波地竜門 |
鳳輦型の神輿新調(大阪住吉大社と同形だが二級品・唐津市史) |
小笠原長国版籍奉還 | |||
明治2年 (1869) |
己巳 | 米屋町 | 細工人 :吉村藤右衛門 ・近藤藤兵衛 塗師 :須賀仲三郎 大工 :嵜作右衛門 ・嵜作兵衛 ・嵜久兵衛 ・嵜利助 |
吹き返しの竜 |
青獅子、 鯛、 |
2月、唐津領ひどい旱魃で凶作 2/23毛利・島津・鍋島・山内連盟で 3/10九里で一揆(〜17日) 4月下旬、長行、函館脱出し湯島潜伏 5月、函館総攻撃(5/18戊辰終結) 5月、長行、五稜郭陥落後行方不明 6/18、版籍奉還→小笠原長国、唐津藩知事再任 政府、一万石につき2500両の献金指示 9/6、長国、東京から唐津入り |
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明治3年 (1870) |
1月、「唐津藩藩治職制」役所改称 1/21、江藤新平暗殺未遂 大教宣布の勅命発布 |
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明治4年 (1871) |
3/1、東京・京都・大阪に郵便役所設置 7/14、廃藩置県(唐津藩→唐津県 佐賀・小城・蓮池・鹿島・唐津・大村・平戸・島原・長崎・福江・厳原の11県) 7月、戸長(区画ごとの戸籍係)開始 第一区:城内、第二区:外側、第三区:江平刀新、第四区:呉米八紺、第五区:京中木本、第六区:大魚材 7月、長国、知事解任され東京へ (元藩士一同涙で見送る)→武士失職 11月、伊万里県に合併 高橋是清来唐・18歳耐恒寮に招聘 |
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明治5年 (1872) |
唐津大明神唐津神社と改称、郷社となる 刀町、 明治五壬年申四月吉日修覆之 塗師: |
1月、区画改定(第一大区一番小区六番組:江川町、二番小区一番組:鷹匠,弓新平、二番組:呉米八紺、三番組:京本中木京町裏、四番組:魚材塩大,東裏、五番組:水,新堀、 2月、唐津県は伊万里に土地人民引渡 5/29佐賀県誕生(後も移動あり) 5/26、全国に郵便施行 7月、長行、出頭(渡米と虚言)帰参届 7月、長生、東京で生母と同居(6歳) 8/3、学制発布 志道館、耐恒寮、医学館の廃止 志道義舎(学校)設置 8/4、長行、恩赦→駒込動坂へ移住 9/12、日本初の鉄道開通(新橋ー横浜) 11/9、太陽暦採用 |
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明治6年 (1873) |
廃城令発布→大手門取り壊し |
唐津、魔の2年(風災害で米価高騰) 1/10、徴兵令布告 辰野金吾・曽根達蔵、工学寮へ 7月、地租改正令→半田・相知で打壊し 初夏、旱魃、松原で雨乞い 10/2巨大台風(沿岸民家倒壊死者も) 唐津魚市場の原型となる魚会舎完成 胖之助の遺骨唐津へ(近松寺) |
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明治7年 (1874) |
2月、佐賀の乱(4/13江藤斬首) 8/19〜連日豪雨+台風最強圏内 →唐津湾大打撃死者多数→捨て子多数 志道義舎廃校→志道小学校開校 |
佐賀の乱 江藤新平刑死 | |||||||
明治8年 (1875) |
乙亥 | 京町 | 細工人 :富野淇園 塗師棟梁 :大木卯兵衛 塗師 :大木敬助 大工棟梁 :木村幸助 塗 :石崎重右ヱ門 11/9、 |
幕の火焔宝珠 | 浦島 1回目塗り替え 信玄の兜、1回目修覆 4/1付、 氏子総代より佐賀県令に 神祭届け 「書面届之趣」
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この頃、謹慎中の旧唐津藩士帰郷 5月、唐津海軍石炭用所 “届 本月九日第五大区四小区郷社唐津神社春祭ニ就テハ兼テ奉納之囃山引出シ氏子一同賑々敷参拝仕候条之段御届仕候以上 明治八年四月四日氏子惣代杉山慎儀 祠官 戸川敏雄 佐賀県令北島秀朝殿 書面届之越聞置候事 |
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明治9年 (1876) |
丙子 | 水主町 |
旧山笠製作人 大工棟梁 鍛治 木挽 塗師頭領筑後久留米住通三丁目川崎峯次晴房 同国同所今町 田中龍作兼定 右同所住 同国市ノ上住 明治九年子十一月三日 |
鯱 | 武田信玄兜、 一部改造
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吉村家所蔵「当明治九年秋祭之儀者」 2ヵ町の巡行順の覚書(昭和23年5月発見) ↑江川町神社に奉納目録、その後水主町目録奉納するが、水主町は形が出来ると本塗前に神社に奉納。前後でモメ全長15ヶ町が7:8に分かれ大喧嘩 大石権現宮司が仲裁に入り「両町隔年前後致す様取極」でお手打ち。それ以降大石の神輿随行 (昭47/12/7戸川宮司記) |
3/28、廃刀令発布 9月、舞鶴小学校設置(舞鶴公園下) 10/28、萩の乱 10月 神風連の乱 |
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明治9年 (1876) |
丙子 | 江川町 | 細工人 :宮崎和助 塗師 :須賀仲三郎 大工棟梁 :田中市次正信 絵師 :武谷雪渓 |
竜 | 9月、江川町直会幕新調 (丙明治九年子九月吉祥日) |
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明治10年 (1877) |
魚屋町第二回修復 | 西南の役 | |||||||
明治16年 (1883) |
富野淇園「唐津神際行列図」 | ||||||||
明治20年 (1887) |
7/1唐津大洪水 | ||||||||
明治23年 (1890) |
大石町第二回修復 | ||||||||
明治24年 (1891) |
小笠原長行(70)駒込で没 新大橋架橋 |
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明治25年 (1892) |
米屋町第一回修復 | ||||||||
明治26年 (1893) |
刀町第三回修復、 新町第二回修復、 米屋町第一回修復 |
堀の埋め立てで参道が完成。 | |||||||
明治27年 (1894) |
日清戦争 | ||||||||
明治29年 (1896) |
松浦橋(初代)架橋 | ||||||||
明治30年 (1897) |
中町第三回修復 | ||||||||
明治31年 (1898) |
唐津鉄道運行開始(山本 - 妙見(現西唐津)-大島(貨物駅)間を新規開業 | ||||||||
明治32年 (1899) |
満島馬車鉄道創立 | ||||||||
明治37年 (1903) |
日露戦争 | ||||||||
明治42年 (1909) |
9/24町田川氾濫十人町浸水 10月松浦橋墜落 | ||||||||
明治44年 (1911) |
唐津軌道創設 | ||||||||
大正3年 (1914) |
材木町第二回修復 | ||||||||
大正8年 (1919) |
北九州鉄道創立(草場猪之吉) | ||||||||
大正9年 (1920) |
本町第一回修復 | ||||||||
大正10年 (1921) |
大石町第三回修復 | ||||||||
大正12年 (1923) |
関東大震災 | ||||||||
大正13年 (1924) |
魚屋町第三回修復 | ||||||||
大正14年 (1925) |
材木町第三回修復 | ||||||||
大正15年 (1926) |
京町第一回修復 | ||||||||
昭和2年 (1927) |
新町第三回修復 | ||||||||
昭和3年 (1928) |
刀町・中町第四回修復 呉服町第二回修復 平野町第一回修復 水主町新造 江川町第一回修復 |
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昭和4年 (1929) |
木綿町第一回修復 | ||||||||
昭和7年 (1932) |
大石町第四回修復 米屋町第二回修復 |
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昭和8年 (1933) |
材木町第四回修復 |
参考資料:曳山のはなし(古舘正右衛門)・
唐津城の殿様たち(中村和正)・唐津曳山の歴史(坂本智生)・
唐津曳山記録保存報告書
唐津年表 坂本康子