末廬國より
(昭和40年5月10日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 魚屋町



 
唐津町草創の頃
  独占的な特権
    旧家の双璧、草場・山内両家



 魚屋町は、その町名の如く、魚屋が特別の保護を受けた町らしい。
 藩政の末頃でも、よその町の魚屋が毎年銀弐匁の税を納めていたのに、この町の魚屋は無税であった。おそらく、唐津町草創の頃には、魚屋はこの町だけにしか許さないという独占的な特権が与えられていたかもしれない。
 魚屋町の魚屋で藩の御用を勤めた家は佐々木弥吉・佐々木清兵衛・小林清蔵、それから明治になって井上姓を名乗った吉次郎、といった人が知られる。佐々木弥吉家は今の鶴田文具店のところ。佐々木清兵衛家は西の木屋の西隣。小林家は北島病院の西半分といったところか。いづれも肴屋という屋号らしい。もっとも、佐々木姓はこの町に六・七軒もあって、そのうちに明治になって笹屋と号した家もあるので、笹屋という屋号の魚屋があったかもしれないが、記録の上では未見である。井上家は今の田舎饅頭屋かその前あたりらしい。


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 この町には以上のほかに何軒かの魚屋があったが、そのなかでも記録に残り、苗字を名乗った家は平松又右衛門と三根七右衛門。平松家は今の山田種物屋のところで、屋号は五島屋。三根家は今の中島板金屋辺りか。明治の末頃、魚吉呉服店といった家らしい。三根家には吉右衛門・吉兵衛という名がみられるので、「魚吉」といったのも魚屋吉兵衛の略称に違いあるまい。
 「魚吉」といえば、今の井上洋服店辺りに住んだ筒井吉左衛門という人も魚吉と呼ばれている。この筒井氏は安政前後に、佐々木弥吉とともに魚屋町の町年寄を勤めているので、この人を魚吉というのは魚屋町の(町年寄の)吉左衛門といったことかもしれない。この筒井家は中町・筒井家(八百屋)の分れらしい。


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 この町の佐々木姓には船問屋が一軒あるが、この家は今の藤田食料品のところに住んだ佐々木利右衛門という人らしい。この佐々木家の西隣が中島三右衛門の家。
 この中島家の分れの中島甚兵衛は明治になって、今の東島電気のところで中島屋呉服店を開いていた。
 中島屋の東隣り辺りに小島菊太郎という人が住んでいて明治の中頃に手広く運送問屋をやっている。
 この小島家も旧藩時代からの魚屋町人だがもとは、大石町・小島家(綿屋)の分れらしい。問屋といえば、今の平田屋薬屋のところに住んだ草場恒助は船持の廻船問屋だったが、この家は明治の始めに絶家となり、草場三右衛門のものとなった。


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 草場三右衛門家は、明治の十年頃までは今の岩本産婦人科のところだったらしい。草場家は唐津町第一級の旧家。その出自は鬼ケ城の草野氏の一族で筑前の吉井(今の福吉のうち)に住んだが、草野氏滅亡の後、玉島に移り住んで草場氏と改めた。その後、唐津城下の京町に移るわけだが、それが何時の頃かも明らかでない。初代・三右衛門が京町から魚屋町に移ったのは安永年中。初代・三右衛門、二代・太郎左衛門、三代三右衞門と三代続けて大町年寄を勤めたが、家業は薬種問屋である。
 三代・三右衛門は文政九年の生れ、幼名を猪之吉といい後に市右衛門、また喜右衛門と改め、最後に三右衛門と称した。明治・大正の唐津財界の指導者で、唐津町近代化の大恩人である草場猪之吉は三右衛門の嫡子。明治十八年に家督をついだ。


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 草場家と肩を並べる唐津の旧家・山内小兵衛家は木屋一統の総本家。山内家のことは本誌第六号に詳記されているので、ここでは大町年寄を勤めた八代目の山内小兵衛について少し書いてみる。八代・小兵衛は天保七年の生れ、通称を蔵六と称したので後に、西の木屋の醸造酒に「蔵六」という銘をつけている。文久年中に魚屋町の町年寄となり、慶応元年に大町年寄助勤となって、間もなく本役になるが、もともと山内家の家格は大町年寄格といったものであった。
 また、この人は葵笠と号して俳句をたしなみ、宗耳と号しては遠州流の茶道にも通じていて、なかなかの趣味人だったせいか、家業を守ること以上の、対社会的な経済活動を好まなかったらしい。明治・大正の時代に於ける草場家と山内家の動きは対照的である。


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 山内家は代々、酒造家といわれているが、元文年中の『酒屋定法帳』には木屋の名がみえない。この記録によると魚屋町には小島屋太左衛門・糀屋茂左衛門という二軒の酒屋がある。小島屋については全く不明だが、糀屋は明治の御代まで代々、茂左衛門を襲名して続いていた。糀屋の姓は中村、屋敷は今の寿美屋クリーニングのところ。この定法帳の最後の部分には例の「六町人(御勝手御用達)」が奥書しているが、そのなかに網屋与次兵衛の名がみえる。網屋の姓は古橋、屋敷はもと、札の辻大橋の袂(たもと)、今の大黒屋辺りらしい。
 家業は鋳物細工。金谷辺に工場を持っていた。古橋家はその後二軒に分れ、一軒は西の木尾の附近に、一軒は東の木屋の西隣附近に移っている。

 この町の東の方をみてみる。今の脇山食品のところは米屋こと吉田源助の屋敷。その西隣は吉田家の分れ芳右衛門家。その西隣、今の岡看板屋も米屋といった加藤正平の屋敷。吉田源助家を「米源」加藤正平家を「米正」という。吉田家の家業は不明だが記録では傘の取引があったらしい。吉田家は藩政の末頃には大年寄並という待遇を藩から与えられている。加藤家は御用油屋。


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 最後に明治も三十年頃の、魚星町の長者番附?を順に書いてみる。

草場猪之吉(薬)山内小兵衛(酒)岸川善七(砂糖・煙草)山内久助(酒)多久島利助(小間物)中島甚兵衛(呉服)山内五平(呉服?)草場惣太郎(呉服)宮崎治三郎(呉服)小島菊太郎(運送)浦元セイ(?)吉井市郎兵衛(荒物)加藤米太郎(油)小林清蔵(荒物)山村権七郎(織物?)久保和太郎(砂糖)
 以上は当時の、学校新築に関する惣町の寄附帳から抜いたものである。この寄附帳では魚屋町の寄附額はほかの町内にくらべズバ抜けて大きい。『当時の商人で魚屋町に店を持たぬ事は恥とされるほど一流の商店がこの町に集り唐津町の税金の三分の一はこの魚屋町で負担した』と語られるのももっともなことである。




註:は管理人吉冨 寛が記す
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