中町の歴史 9(これは唐津新聞に連載された番号) 昭和54年11月29日掲載 |
寺沢志摩守が唐津城築城の時の総町割の一つで、内町の中央にある町筋である。 中町筋は戦時中の家屋疎開で広くなり、昭和四十年初め頃まで朝市を開き新鮮な食品が廉価に市民供給され市民に親しまれて来た。この性格は藩政期も変わっていない。水野藩時代藩の御用八百屋を勤めた持永吉郎次は現在のベスト電気店あたりにあった。小笠原藩時代、佐々木仁兵衛、前田又兵衛(大黒屋)も御用八百屋を勤めた。 魚屋についていえば、唐津藩は魚屋町に魚類の集荷取引について独占権を与えたが、藩政末期頃から行商による魚の販売を許した。呉服町、中町の横町界隈で魚類販売が行われるようになった。清元、大橋、万谷というような魚問屋も出現し、中町の横町筋に亀山忠兵衛、横山彦兵衛、竹内茂十郎などの魚屋ができた。横山は旧藩時代は糀醤油の製造をやっており明治初め頃から魚屋を始めている。横山は浦田喜兵衛と共に安政年中町年寄を勤めている。竹内は鏡村あたりの庄屋出である。 中町芋は造り酒屋として元文年中には吉島屋又兵衛、平野屋次兵衛、油屋七左ヱ門、茶屋市太郎などがいたが、幕末頃は横浜屋田中嘉兵衛一軒になっている。横浜屋は筑前国恰土郡横浜村出身で、初めは水主町に住み、のち中町に移った。一族の田中惣吉は水主町に住み、明治初期まで船問屋をしている。横浜屋は現在のペスト電気から桑野電機あたりにかけて地所をもち、最盛期には中町の三分の一ほどの地所をもっていた。田中嘉兵衛は小笠原藩の御用商人を勤め、町年寄、年行事も勤め、明治九年の内町総代には米屋町の古館正助、紺屋町の山口治兵衛と共に選出されている。なお、明治二十三年、初めての衆議院議員選挙に出た天野為之は横浜屋に止宿して運動を行っている。 幕末、町年寄を勤め、糀屋を営んだ小宮藤右ヱ門は現在の古川ビルあたりにいた。現在の小宮魚屋のある角には辻村五兵衛が油屋を営み、明治に入り蝋燭製造をやっている。幕末頃、唐津の名物風呂敷饅頭と並んで知られていた中町の江戸屋煎餅は横浜屋の向いにあった太田屋が作っていた。 現在は唐津神社境内に移っている粟島さまは、現在の桑野電機店の所に住んでいた彦山山伏の高田山東琳坊が祭っていたものである。 中町の高徳寺は真宗本願寺派の寺院で総町割以来のもので、奥村五百子の生家でもある。現在五 百子の墓所もここにある。境内に木蓮館があったが、幕末、勤王志士の隠れ家として知られ、耐恒寮の教師として明治初年唐津に来た高橋是清も、ここに止宿したという。 明治に入って、旧来の行政区画が廃止され、区制となったとき、大区扱所が現在市丸ビルあたりに設けられ、大区扱所が大石町に移ったあと、ここに唐津区務所が開かれた。区務所は後に唐津町戸長役場となり、明治二十年、もとの警察署西隣に移るまで唐津町行政の中心になっている。 中町の青獅子は文政七年二番ヤマとして作られた。作者は呉服町の辻利吉とされ、ヤマ製作頃の町年寄は前田友左ヱ門、高橋太郎兵衛であった。 |