材木町の歴史     15(これは唐津新聞に連載された番号)昭和55年3月5日掲載
 唐津総町十二町の一つで、唐津城築城以来の町並みである。松浦要略記に「材木町は惣町御取立ての時、捨浜にて候ところ、志摩守様天守台より御遊覧被成候折、城下に船着きの所これなく候間、水堀ほらせる様被仰付、町奉行役人入江吉兵衛殿御吟味なされ候処、播磨国太之木重左衛門と申す者、商に参り居る者取立申候て諸役免許等の次第、材木町古来書に出る」と記す。由来書のあるのはこの町だけである。
 材木町は材木、竹、薪、木炭について特権のある町で、この町以外の者は、これらの取扱いを禁じられていた。
 藩政期は町並みの北側は松浦川沿いになっていて、川岸は石積みで護岸されていた。松浦川川口は潮遊びとして広くなっているが、時代がたつにつれ浅くなり、洪水時は町田川まで潮水が逆流して上流の田畑に被害が出た。矢田町長時代逆流防止のため、長さ三百間の導水堤が設けられた。ここは杉山町長時代満島村が唐津市と合併した祝賀会が行われている以外、次の時代まで利用されず放置されていた。昭和七年市制が敷かれ、将来の大唐津市を目指し、昭和九年から導水堤と旧松浦橋の間の河川敷が埋め立てられ、総面積四万二千余坪の土地が達成された。それ以来材木町は松浦川とは切り離れた所在となった。
 この町には木材関係の人が多く住んでいた。材木問屋として屋号を材木屋という宮崎姓の伊兵衛、半助、屋号を尾張屋という甚右衛門の三家があり、いずれも現在の浦島通り西側の魚屋町境から、もと塩屋町通り入り口あたりまで軒を並べて屋敷を構えていた。その頃町田川は今より川幅が広く貯木場として使われていた。その後伊兵衛家は現在の青果市場辺りに移っている。
 現在の伊東油屋辺りには、材木町の町年寄を代代務めた屋号を炭屋という平松家がいた。材木屋の宮崎家も交替で町年寄を務めている。塩屋町には年寄は設けられず、この町の兼務で、塩屋町には組頭がおり、渡辺弥平も組頭を務めている。
 この町は町域が広いため、年寄のほか、年寄加役が設けられ、屋号を松屋という木山八郎右ヱ門が務めている。木山の屋敷は現在の渕田酒屋あたりであった。中央大劇あたりには木屋一族の山内太平が住んでいた。
 材木町は船大工の町でもあった。船大工の棟梁として落合新七・佐々木嘉平、森田平助・江藤定蔵がいた。落合は現在の松屋の西隣、佐々木は前川種物屋、森田は田中自転車屋、江藤は吉田氷屋辺りに住んでいた。江藤は藩御用船の建造に功労があり呼子町殿の浦にも造船所をもっていた。現在の東城内の江藤造船所の前身である。
 岡看板店の向かい側には船鍛治の脇坂吉之助が住み、田村ガラス辺りには屋号板屋の佐々木嘉右ヱ門が船板を取り扱っていた。また、木挽棟梁の柴田小兵ヱは青果市場の東隣辺りに住んでいた。
 子供遊園地辺りには土井藩時代、御茶屋があり、のち下級武士の住いとなり、安政年間から領内の特産物唐津紙、蝋(ろう)などを取り扱う仕法方役所がおかれ、廃藩後は菊池という医者が住んでいた。また、この西隣には満鳥山稲荷があった。
名前からして、もとは唐津城本丸にあったらしい。
 塩屋町の名を知っている人は少なくなったが、藩政期は独立した町並みで、明治に材木町と合併した。この町には真宗の福成寺があり、奥村五百子がこの寺に嫁いでいる五百子は夫と死別して実家に帰り再婚Lでいる。
福成寺は大正年間西唐津に移っている。また、ここには船問屋の田口家、川崎家があり、御用紺屋の関部家もいたが、幕末京町に移っている。
 この町の曳山、亀と浦島は三番目のヤマで、天保十二年の作。作者は須賀仲三郎。唐津神祭行列図には浦島の代わりに宝珠が載っており、明治になり浦島に代わったものである。