弓鷹町の歴史     2(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年8月16日掲載
 弓鷹町は城下町時代の弓町と鷹匠町とが合併してできた町として知られている。
 一般に隣接した町が合併するのが普通であるが、この二つの町は、離れ離れの町であるにも拘わらず一つの町に合併されたのは、歴史的課程がある。
 弓町は、内町の西側の石垣沿いの地であり、鷹匠町は、内町の北側城内の濠沿いの町であり、二つの町はL字を示し、両者を結びつける地点に浄泰寺がある。弓町の北の端は、江戸時代は、名護屋口と呼ばれ木戸が設けられ、その脇には、牢獄が設けられていた。
 初代藩主寺沢志摩守は唐津城を築く時、武士の居住地を城内とし、町人が住む城下町も併せて作った。しかし、下級武士や足軽等は城内に住むことができず、城下町の各所に住む人もいた。
 弓町、鷹匠町も、この下級武士の住んだ場所で、弓衆や鷹匠たちが多く住んだとされている。
 江戸時代、この武士の住んだ町は町奉行の支配を受けず藩直轄地であり、この町は、特権地だったと言える。
 明治維新となり、廃藩と共に、武士の特権は無くなり、新しい行政が行われるようになった。その新しい試みの一つに戸籍作成があったが、戸籍を作るに当り、従来の制度の名残りとして、戸籍は、武士、町民、農民と別々に作られた。従って、弓町と鷹匠町の武士たちは、同じ町に住んでいる町人とは別の戸籍が作られた。このことが、以後の町の自治にも武士族と町民との間に区別が生じている。
 明治に入ると共に町民の勢力は伸び、士族の力は劣えて行ったが、弓町や鷹匠町は、総町の中に入れてもらえず、何につけても発言権がなく、不利な取扱いを受ける思いをしている。
 鷹匠町は明治の一時期高城町とも称したことがあるが、不遇同志は、明治の中頃から行動を一つにすることが多くなり、区長制が施された明治の末には弓町、鷹匠町は二町で一名の区長がおかれ、大正四年弓町と鷹匠町は合併し、弓町と呼ばれていたが大正の末には弓鷹町となり昭和四年時の記録に弓鷹町区長、尾島吉治郎の名が記録されている。
 鷹匠町について言えば、鷹匠町は城内の濠沿いの町であり、西側は行きづまりの町であった。明治二十四年、大手口から呼子への県道が設けられる際、最初は現在の刀町筋を通すことに内定したが刀町の人々が軒切りの問題で道路拡張を反対したので鷹匠町の北側の濠の一部を埋立て、道路にすることになったのが、今日の国道筋となった。それまで刀町は、城下町一番の繁華街で、町の有力な商人は、この刀町に多かったが、以後は人の流れが変って、はんかがいの中心は他の町へ移ったと歴史は物語っている。