八百屋町の歴史 5(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年9月20日掲載 |
内町の西部に位する、城下総町十二か町の一つで、唐津城築城の折の作られた町筋である。古い町並が消えて行く時、道巾も築城時で、比較的、旧い姿を残している町である。「観光用にも、ぜひ保存したい町並である」藩政末期の記録を見ると、この町は大工や左官の職人が多く、佐々木角治は御用大工で子係は藩政期の屋敷に今も居住されている。石崎姓の家が七、八軒あるが、いづれも大工か、左官であったと思われる。 現在の古賀商店のところには、屋号、富永屋富永喜兵衛がいた。喜兵衛は宗偏流の茶人であった。又富永家の西隣は筒井清 左衛門がいて、この町の町年寄をつとめ、喜十膏と云う、家伝の薬があった。筒井家の東隣は「辰己屋」木原喜兵衛の屋敷で、御用船問屋である。 又、富永屋の川添家は苗字御免の鍛治師で刀鍔の川副光寿の銘は、ここの作と思われる。又、松葉本行の銘で知られる、高田河内守源本行も居住していた。 明治に入り、郵便制度が従来の飛脚に換ると明治四年、元藩士、土方守雄が現在の吉野屋あたりで郵便取扱所を設けている。明治二十四年には局長の魚屋町の山内久助が、京町に移している。面白いのは、唐津神社は、八百屋町の中央四つ角にあったと言われ、築城の際、現在地に移されたと伝えられる。しかし、一説には築城の時一時熊原神社内に移ったが、火災などの祟があったので、もとへもどされたとも云う。従って、八百屋町に存したのは、その間の一時とも考えられている。 |