魚屋町の歴史 13(これは唐津新聞に連載された番号)昭和55年1月26日掲載 |
魚屋町は唐津城築城の時できた総町十二か町の一つで、唐津では最も旧い町並である。 藩政時代、魚屋町は魚(うを)ン町と呼ばれていた。魚屋町は、その名の如く魚屋が藩の特別の保護を受けて軒を並べた町である。藩政初期この地が町田川に面した魚の水揚げに便利なこともあって、藩は魚屋をここに集め運上金(今の事業税)を免除したといわれる。藩政末の記録によると他の町内の魚屋は毎年銀二匁の運上金を納めていたのに対し、ここの魚屋は免除されていた。 この町が魚屋の町として発足したため、魚屋を営んだ人々の歴史が残っている。藩政末期の御用魚屋に佐々木弥吉、佐々木清兵衛、小林清蔵がいる。佐々木弥吉の店は今の鶴田帳簿店にあり、佐々木清兵衛は西の木屋の西隣にいた。小林家は北島医院にいた。明治に入り有力な魚屋に井上吉次郎が今の田舎饅頭屋の前あたりにいた。 この外、はっきりしないが有名な魚屋として平松又右ヱ門が今の山田種物店あたり、三根七右ヱ門が中島板金の処にいた。安政の頃魚吉こと筒井吉左ヱ門は佐々木弥吉とともに町年寄を勤めている。 佐々木和右ヱ門は船問屋を営み今の藤田商店あたりにいた.また、その西隣に中島三右ヱ門がいたが、その分家の中島甚兵衛は明治になって今の東島電気のところで呉服店を開いている。中島の東隣は明治の頃、運送問屋の小島菊太郎がおり、今の平田薬局の処に廻船問屋草場恒助がいた。 明治期に括躍した草場楮之吉の草場家は出目は鬼ケ城主草野家の一族で草野滅亡後福吉から玉島に移り草場に姓を改め京町に移った。初代三右ヱ門が安永年中魚屋町に移り薬種問屋をし、以後三代大町年寄を勤めた。草場猪之吉は明治十八年家督を継ぎ、唐津の近代化に意欲を見せ鉄道、銀行開設のほか、唐津の大きな事業の中心人物として活躍した唐津近代化の偉人の一人である。 魚屋町で忘れることのできないのは木屋の山内家である。山内家は天正十九年、豊臣秀吉の名護屋城築城資材運搬船の船頭役として泉州堺から唐津に移り住み土着した家で代々町年寄を勤め、天明年間東の木屋を分家させたほか、数分家となり各家とも栄え、西ノ木屋は酒造業を営み戦前に及んだ。現在店舗の一部を残すほかは駐車場になっていて、昔の面影はないが大正年間に上棟された家は佐賀県内の代表的木造建築であった。二代の早稲田大学総長となった天野為之は西の木屋の後援をうけ初回の衆議院議員に当選している。 木屋は藩政初期は大石町に本宅を構え、現在地は納屋があり、文禄三年京都で捕えられたキリシタン殉教の二十六聖人は長崎護送途中、ここに一泊したと伝えられ、また、当時の博多の豪商神屋宗湛、島井宗叱、松永宗也なども出入したと伝えられる。 なお、山内家が酒造を営み始めたのは何時か不明だが、元文年中の「酒屋走法帳」には木屋の名は見当らず糀屋茂左ヱ門の名が見える。糀屋は明治頃まで酒造を営み中村姓を称していた。今の寿美クリーニング店あたりに店があった。 藩政未の御勝手御用達として網屋与次兵衛の名が見える。網屋の姓は古橋で鋳物細工を営み現在の大黒星和楽器店あたりにいた。 今の脇山食品のところは明治後期天狗煙草の一手版夷のほか油等の取扱いで成功した山惣岸川家があった。また、ここはそれ以前は「米原」吉田源助の屋敷で、また西隣は分家、その隣は「米正」加藤正平の家で御用油屋であった。 明治三十年頃、唐津で一番栄えた町はこの町で商人はこの町に店を持つことを願っていた。一流の店が多く、町の税の三分の一ほどはこの町で負担している。唐津小学校建築時の寄付帳を高額者から拾ってみると草場猪之吉、山内小兵衛、岸川善七、山内久助、多久島利助、中島甚兵衛、山内五平、吉井市郎兵衛、草場惣太郎、宮崎治三郎、小島菊太郎、加藤米太郎、小林清蔵、山村権七郎、久保和太郎等この町の住人で占められている。 魚屋町の曳山「鯛ヤマ」は弘化二年の作で、町名にふさわしい鯛は海外ではレッド・フィッシュと呼ばれ曳出中の鯛ヤマは秋光に映えて一きわ華麗で、その動きの愛嬌と相まって特に子供に人気がある。 |