新町の歴史     1(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年4月13日掲載
 新町は、平野町と同様「唐津十二か町」には含まれていない。従って、総町の惣行事や月番のない町である。慶応三年、十二か町並の諸役受持ちを歎顧したが、成功していない。
 新町が何時から成立したか、判然としないが、築城時頃は、弓町や鷹匠町と同じく、下級武士の居住地だったと思われる。
新町は職人、わけて大工職の多い町である。白井久助や中島弥七は藩政末の大工棟染であり、吉村、佐々木、高崎、石崎の姓も大工職であった。
 安政以前に町年寄を勤めたのに三浦屋庄兵衛がある。屋敷は現在の小松屋旅館辺り。
 安政以降の町年寄に屋号石田屋石田伊兵衛と岡口屋前川仁兵衛、石田伊兵衛の屋敷は「清ずし」辺り、岡口屋は松屋質屋辺りにあった。角にあるエビス様は弘化年中の作で、木村屋鶴田忠吉の銘がある。
 新町は職人の町で、当初は町勢も振わなかったが、名護屋口に商人が住み、浄泰寺前の勢溜りには市も出ていた。
 藩政期、ヤマ曳きの最良の見物処は、この勢溜りであった。弘化年間、新町のヤマも、その頃、町勢が盛んだったことを示すと言える。
 新町の南端の稲荷社は、もと庄崎山観龍院と云う山状がいた。観龍院の姓は上田で、旧唐津村の旧い姓で、庄崎と云う地名は現在の汐の先の旧地名で、唐津神社文書記される庄崎庄で出ている。
 又、稲荷社の灯籠又、鶴田忠吉と共に河添九兵衛の銘があるが、川添姓は鍛治職で、唐津住の鍔銘に河副銘のものがある。

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