大石町の歴史     (これは唐津新聞に連載された番号)昭和55年2月22日掲載
 魚屋町の東に続く大石町は大石村の地先にできた町という意味をもっていると考えられる。
 魚屋町の木屋(山内家)の由緒書によれば始祖山内利右衛門は名護屋城築城の天正十九年、泉州堺から築城資材運搬船の大船頭として来て大石町に移り住んだとされているので、唐津城総町ができる慶長年間以前に、この町はできていたと考えられる。
 また、有浦文書の資料からしても、ここが当時の波多川の川口に当たっており、周辺には人の集落があり、船つき場だったと推定され当時の唐津村の所在がこの町周辺であったろうと考えられる。
 大石町には大町年寄を務めた小牧、小島、江川の三家がある。寛政から嘉永にかけて太三郎、助十郎の二代にわたり大町年寄を務めた小牧家は大阪陣の豊臣方の大番頭小牧兵庫頭のあとで、屋号を兵庫屋といい、現在の小島新太郎商店あたりに居住していた。また、分家で現在の牟田歯科のところにもいた。
 小島新太郎が大町年寄になったのは文久年中で、材木町にあった仕法役所の掛り役を務め、屋号を綿屋と称していた。
 屋号を細物屋(こまものや)と称した江川弥三平は慶応年中、大町年寄を務め、現在の笹谷計量器店あたりで酒屋や呉服屋を営んでいた。
 えびす小路の藤井病院角は加布里屋川崎吉兵衛の屋敷で、この人は紙方役所の御用達で森薬局あたりに住んだ煙草屋青木惣平と同役であった。
 小出和兵衛は御用蝋燭(ろうそく)屋で蝋燭屋と称し、東裏町の年寄小出又吉の分家である。又吉の屋敷は現在の東松米販の倉庫あたりにあった。
 なお、東裏町は大石町の南にある行きづまりの路地にあり、宝歴年間にいたと推定される裏町勘右衝門は蝋燭屋とゆかりの人という説がある。
 大和屋牧川家は藩の御用達を務め、現在ののぐち看板あたりにいた。現在の牧川新聞店は田中屋田中徳兵衛の屋敷で明治のころ牧川が移って旅館を営んでいる。
 恵比須石像を祀る四辻を恵比須小路と呼び、藩政前期は郷方(村)と町との境になっていた。しかし、時代がたつとともに町人が郷方や藩直轄地に住むようになり、境界は入り込んで、はっきりと区別ができにくくなった。石像は天保十年作で、郷方へ出る道標ともなっている。現在市の重要民俗資料に指定されている。
 福島屋福島権六が現在地で酒屋を始めたのは嘉永四年である。福島家は賤(しず)ヶ岳七本槍で知られる戦国大名福島正則の流れを引くといわれる。町内にある福島屋の屋号の店、福島屋呉服店の吉村家、糧友パンのあたりの堤家は福島酒屋ののれん分けの家である。
 糀屋市山忠左衛門は御用船問屋で大町年寄格で、福島酒屋の向かい側にあった。小桝屋野口定兵衛は酒屋を営み、現在の糧友フーズあたりにいたが、のち、向かい側に移っている。
 料理屋島崎のあったところには多賀屋と呼ばれる近江国多賀神社の神人が出張して講の世話や札配りをしていた。また、伊勢神宮の御師は東裏町あたりにいた。
 細物屋の一族江川善左衛門は久保田病院あたりに、江川吉左衛門は寺町口角にいた。花鳥小兵衛家は藩政期苗字を持ち、鍛冶屋であったが明治に入り旅館をしていた。
 明治十八年、現在の久保田病院のところに唐津銀行が山内喜兵衛、大島小太郎によって設立されている。
 大石町には小宮姓が多い。小宮履物店の小宮甚左衛門は天保年中町年寄を務め、屋号は門屋。小宮印刷所の小宮九兵衛は油屋。現在の下西畳屋のところが小宮小平治。その西が小宮勝吉。運送店の門屋小宮伊兵衛は木村農機具店あたりにあった。
小宮印刷所の工場はもと中道屋築山家の家敷跡、築山家は大坂陣の豊臣方の残党といわれる。
 小宮印刷所の西は御用呉服店松尾屋松尾儀平の屋敷。わかば美容あたりには塩屋田口平助の屋敷があり廻船問屋をしていた。
 小島帽子店の前から角の床屋あたりは立石岩蔵の地所で、明治九年から明拍十五年まで、大区扱所と呼ばれる東松浦郡役所が置かれた。大区の初代区長は坂本経*、初代郡長は古川龍張である。
 明治から大正にかけて劇場舞鶴座が現在の米販倉庫あたりにあったことを知る人は少ない。
 また、福島酒屋の裏手、現在の唐津木工所あたりに明治七年、旧藩時代の紙方役所の倉庫があり、そこに志道小学校が設けられた。明治八年には大石小学校と改称したが、同号十年には舞鶴小学校分校となった。しかし、同号十一年には分離独立して市開小学校と称したが、同号十七年には再び唐津小学校に統合され廃校となった。