京町の歴史     8(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年11月17日掲載
 唐津総町十二町の一つである。他の町並が大手門に対して縦に並んでいるのに対して横に延びている町で町並の締めく*り*もいう位置にある。
 京都の町の賑やかさにあやかって名付けられた町名といわれる。
 唐津藩政中期から幕末にかけて九州の豪商の一つに数えられていた日野屋こと常安家は、現在のノグチ呉服店あたりに本邸を構えていた。日野屋は太宰府天満宮の参道にあった赤銅造りの鳥居を一人で奉献するほどの財力をもっていた。日野屋は佐賀藩の御用商人を勤めていたらしく、佐賀藩の記録にも、その名が記されている。また、一時期は中尾甚大と組んで小川島の鯨姐を経営していた。
 小笠原藩時代の唐津藩の大阪御蔵元は大根屋小兵衛と長崎屋平右ヱ門である。その頃唐津藩の財政は底をつき、蔵元商人に頼らざるを得ない状態で、蔵元商人の承認なしでは一両の金さえ自由にできなかった。唐津藩の財源の一つである唐津紙の代金は、これらの蔵元の借金の返済にすべて廻されているほどであった。大根屋は現在の西日本相互銀行あたりに「御蔵元京町出張手代」を置き、唐津藩に睨をきかしていた。
 京町での大商人としては大町年寄を勤めた糸屋草場家と代々町医者を続けた平田屋草場家がある。
糸屋の本家は現在の大塚フトン店の新店あたり、新家は竹屋あたりにあり、家業は酢店であった。平田屋の本家の草場宗益は今の古賀家具店あたりにあった。横尾商店となっているあたりには分家の草場清次右ヱ門がいた。呉服町の草場育之助、刀町の草場藤兵ヱ、魚屋町の平田屋薬店なども分家である。(草場猪之吉の生家平田屋薬舗が本家であるが唐津新聞は間違って記載している 吉冨寛)
 油屋喜左ヱ門の志戸屋は酒造店で明治に入り印刷所を始めた。明治二十九年発行の唐津新報は、ここに事務所を置き、のち、糸屋の新家に移っている。明治末、火力、水力の発電所騒動の時、糸屋新家が水力派の本拠となった。
 於釜屋の岩下家は呉服町の岩下家の分家と思われ、岩下勇左ヱ門は大町年寄格の待遇を受けている。
 山内薬局あたりには長門屋吉富家があった。大塚フトン店あたりには伊予屋松岡家があった。松岡小兵衛は町年寄を勤めた。もと牧川書店あたりには糀屋と呼ばれていた市丸仁兵衛の店があった。尾崎履物店あたりは蝋燭屋母里家があり、その東には金子屋岡崎家、その東には獅子ケ城主鶴田氏の流れの鶴田屋があった、
 もと郵便局、現在の児童公園あたりは藩政期は町方に属さない藩の御用地で、字札の辻といい、ここには民家は一家もな
く、札の辻惣門と呼ばれる門構えがあり桝形となっていて、外町に通ずる唯一の木橋が架っていた。この橋は明治三十三年材
木町に新大橋ができたので影が淡くなったが、明治四十四年には街灯をつけた洋風の橋として珍しがられた。もと郵便局本館の裏あたりは土井藩時代から町奉行所の役宅があった。明治維新頃保利文亮が建てた藩の医学館があり、廃藩後は志道小学校(志道義舎)の分校として使われ、明治九年には公立唐津病院があった。
 郵便局は最初は八百屋町に設けられ、つづいて魚屋町に移り、明治二十年頃、山内久助が局長の頃、札の辻に移り、戦後千代田町に移るまで、唐津郵便局として市民に親しまれて来た。
 十二番曳山の京町の珠取獅子は明治八年作製されたもので、作者富野淇淵、塗師大木夘兵衛となっている。
資料(唐津図書館提供)