紺屋町の歴史     12(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年12月27日掲載
 紺屋町は文字どおり紺屋つまり染めもの屋の町並である。藩政初期・紺屋町の南側は総町を囲む外濠がめぐらされ満々と水がはられていた。従って紺屋の仕事に必要な水には事欠かなかった。
 紺屋町は文化年中記録によれば、東西四十四間の短い町並で、二十三軒の家があり百三十人が住んでいた。年寄二人、組頭二人、糀屋一軒、瓦造師一軒、紺屋五軒とある。しかし、同記録の別記には紺屋株をもっている者が総町中で十六軒となっているので、前記の紺屋は藩の御用紺屋の数であろう。
 幕末の紺屋には山口、松岡、渡辺の姓の家がある。山口姓は屋号を博多屋というが藩政期の記録には博多屋の文字は見当らないので明治初期(十年前後)以降であろう。山口治兵衛は明治十年の内町惣代に選ばれており、町村制施行の町会では議長を勤めている。場所は現在の丸岡商店の処で明治十年代の後半、その子重吉が旅館業を始めている。明治三十一年唐津駅が開設されると共に繁昌をし唐津で最高級の旅館の一つとして知名人が足をとどめている。
 明治四十年八月五日、与謝野鉄幹、北原白秋の「五足の靴」一行が佐賀の短歌会「野の花」会員と共にここに宿泊している。この時の鉄幹一行の九州紀行の記事は「五足の靴」と題して中央の新聞に掲載されたが、唐津滞在中の記事は掲載されていない。先年亡なられた博多屋の山口千代さんにお目にかかった折の話では、一行は朝から夜半まで酒を飲みつづけたそうだから、そのため、唐津の紀行文はできなかったのであろう。北原白秋は、昭和四年招かれて来唐し、唐津小唄松浦潟等を作詩している。今も当時の盛況を示す玄関が残っているのはなつかしい限りだ。
 山口氏の隣には堺屋という後藤姓の家があった〈先祖は茜屋三郎右衛門という堺の商人で、秀吉が来た頃九州銀座の朱印状を持ち、南蛮貿易の朱印状ももっていたという。
この町には岡野姓の町医者がいて大年寄格であった。現在の中島商店あたりに住いを構えていた。
また、現在の木村印刷所あたりには柿村姓の薬種問屋がいた。
 明治三十一年唐津線の前身の鉄道が敷設され唐津駅ができ、紺屋町一帯は唐津の表玄関となり、形相を一変した。それより以前、明治二十九年に唐津は大洪水に見舞れ、札の辻橋が流されるほどで、その対策として町田川の改修がなされ、当時まだ残っていた南側の外濠が埋立てられ、今は見る影もないほど小さな猫川と呼ばれる溝になってしまった。鉄道はその南側沿いに走り、黒い煙をあげゆっくり走る姿は牧歌的な風景である。今は、その猫川も駅前では地下に姿を消し駅前広場ができ、すっかり明治の姿はなくなっている。
 明治初めから昭和初期まで唐津の繁華街として栄えた紺屋町も戦時中の家屋の強制疎開により駅前から市役所前までの道路ができ、紺屋町の人通りは変り、昔の面影はなくなっている。これも時代の流れであろう。
 なお、紺屋町にも曳山黒獅子があった。安政五年の製作と伝えられるが明治十五年頃は姿を消しているので、その面影は唐津神祭行列図に見られるだけである。
 黒獅子が姿を消した事情については、いろいろな話が残っているが、一説には黒獅子は他の町の獅子頭より出来ばえが悪く悪口をたたかれるので、町の若い者が大手門口の堀に投げ込んでしまった。また一部が破損したが修理費が捻出できず放置されたままになり屑屋に払い下げられた。屑屋はほご紙を得るために町田川に長い間浸けていたが、あまりにも堅固にできていたので紙として回収できず、みすみす丸損をした。こんな話があるが、今となっては真相を探るのは困難となっている。ぜひ.この機会に、黒獅子をめぐる事情を紙上に紹介していただきたいものである。なお、一部有志の間に黒獅子再生の話があるそうだが、ほほえましい事だと感じる。