米屋町の歴史     6(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年10月10日掲載
 唐津築城時総町十二か町の一である。延宝年間の町絵図に、当時の米屋町は、紺屋五軒、米屋四軒、八百屋四軒、大工四軒、鍛冶屋四軒、酒屋二軒、酢屋一軒、医師一軒、寺二軒、不明七軒、計三四軒であるが、幕末頃は職人も多かった。
 この町で、旧家は屋号「古屋」の古館正右ヱ門家で、元禄年間、上場地方から出て来て、酒屋をはじめて旧藩の御勝手方御用達を務めており今日に至っている。
 又、現在九州相互銀行のところは、屋号「米屋」の吉村藤右ヱ門家があり、小笠原時代の御用米問屋であった。又、古屋の前あたりは、「糀屋」の吉村又平治がいた。この三家はいずれも町年寄を勤めている。
 この町には、明治初年に高崎姓の家が四・五家あったが、いずれも大工職である。高崎政治は町年寄を勤めている。この外苗字ご免の家は宮川・堤・平田・渡辺がある。平田家は、今の平田印刷で「清水屋」と称している。渡辺家は、「豊後屋」と称して酒屋を営んでいた。河瀬家も古い家で、苗字を許されている。町内に、本勝寺、行因寺の二寺がある。この二寺は名古屋六坊の寺院で、文禄年間、豊臣秀吉が名護屋に在陣した時、御伽に召された、名古屋端坊の一つであって、唐津城築城の時、唐津に移って来たとされ、真宗大谷派の寺である。本勝寺の明和年間の住職魯月和尚は、お茶碗窯の日羅坊とも親交があり、俳諧をたしなんだ。一説には冨田才治等を首謀者とする松原一揆の記録とされる虹浜騒秘録の原文は魯月和尚が作成したものと伝えられている。