木綿町の歴史     11(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年12月19日掲載
 木綿町は総町の一つとして唐津城築城以来の町並であるが、他国人には「きわたまち」と読める人はまれで「もめんまち」と呼ぶ人が多い。
 木綿町は藩政期に「鍛冶屋町」とも呼ばれていた。何時頃から鍛冶屋町と呼ばれるようになったかは明らかでないが、藩政中頃から町内の住民の大半が鍛治職であったので、そう呼ばれていたのであろう。しかし、現在はその鍛冶屋は町内には全くなく僅かに、その裔の若手が住み、昔と変る歓楽街と化している。
 木綿町で鍛治職をした家としては牧原、脇山、石井、正田、大西などがあり、明治初年には牧原姓五軒、脇山姓七軒、石井、大西姓が三軒、正田姓一軒とある。脇山、牧原、石井は御用鍛治を勤め、脇山家は現在の脇山商事の先祖に当る。正田は刀鍛冶で豊後より移住し、現在の正田カメラの先祖で、源武蔵太郎秀光の碑は西寺町大楽寺にあり、刀剣鑑にも載っている名工であった。なお、牧原、脇山の両家は元禄以前からの住人である。
 藩の御用鍛治の脇山は現在も同じ場所に住んでおり、牧原安右ユ門は現在の長野板金屋あたりに住んでいた。もと旧中道屋あたりに益田星大西清兵衛が住み、伝馬役を勤めていた。明治・大正にかけて唐津一流の料亭として唐津の政財会の会合の場となった中道屋築山家は、もと東裏町から移って来た家であるが、戦後、姿を消してしまったのは、古い唐津をなつかしがる人にとって寂しい限りである。
 中道屋の北隣に御用畳屋古家伊右ヱ門が住んでいた。また、札の辻に面して「風呂敷饅頭」の製造元松尾家が住んでいた。
風呂敷饅頭は酒かす饅頭の一種で大型の饅頭をほおばった古老にとっては忘れ難い思い出の一つであろう。
 唐津神社の境内にある鳥居天満宮は、元、この町の牧原煙草店(現在のマロニエ)あたりにあったが、明治四十年頃移されている。 この天満宮の南側に旅龍屋鍋屋吉浦惣平がいた。この旅籠屋は他国の旅人を相手とした宿で、吉浦家は元禄以前豊前中津から移っており、鍋荘と呼ばれ明治に至るまで存在していた。鍋屋と称する家に森伝左工門がおり、
現在の「あじさいや」あたりに住んでいた。
 この町の横町筋に戦前券番があった。現在の「憩」あたりに当る。ここには綿屋川添茂兵衛の屋敷があった。川添家は昭和初期、明治中頃炭鉱で産をなした田代政平の別荘であった大名小路の現在地に移っている。
 綿星の西隣に小島屋山田丁兵衛がいて水野藩頃から蝋燭屋を営んでいる。綿屋の前には合羽屋高田太次兵衛がいた。高田は町年寄を勤め運上金年銀二貫を納める豊商であった。
 現在の植月あたりは明治中頃、魚市場があった。
植月の北隣辺に西海銀行が明治三十一年創立され、唐津銀行と対立した。この銀行の重役は主に郡部の旧庄屋、網元であり、唐津銀行の重役が旧城下に住む有力者であったのに対して面白い対比である。
 現在スナック街となっている旧商工会議所の建物は大正の初め、社交場「自由亭」として建てられたもので、ここのフランス料理は唐津の知名人の自慢の一つである。
 なお、木綿町の曳山「信玄の兜」は明治二年の作。