刀町の歴史     3(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年8月22日掲載
 刀町は唐津城築城の折の総町十二か町の一つとされているが、慶長年間の唐津城絵図には刀町の名は見えない。
 刀町の由来については種々の説がある。刀を商売する店が多かったからとか、片隅にある町「片ン町」が刀町となったとか。
 城下町の町割は城内に向って竪割の町筋が普通であり本町、呉服町などはその例である。刀町の町筋は例外とも言える。しかし、刀町筋は大手前から名護屋ロへの道筋に当っており人の往来も多く自然発生的に商家が集まり、片隅の「片ン町」が藩政中期からは主要な町となり唐津十七ケ町時代には町の首座になったと思われる。
 刀町の富商として知られているのに勝木、石崎、喜田、篠崎の諸家があり、これらの商人はいづれも藩の御用達か御用付商人として栄えたが、廃藩と共に藩の庇護がなくなり、資本主義の新時代についていけず衰えていった。しかし、篠崎家の場合は、今日まで商売の内容は変っても従来の場所に父祖のはじめた「鬢付屋」屋号を守って今日に至っている。篠崎家は唐津の創成期以来の歴史をもっており一言付け加えたい。
 「鬢付屋」は秀吉の名護屋在陣の時泉州(大阪府)堺より鬢付油の御用商人として下って来て唐津に土着した。家伝では現在地には唐津城築城時からと伝えられるが元禄時にはここに居住していた。鬢付屋は水野、小笠原時代は鬢付の藩の御用を勤めると共に御勝手方御用達も勤め、小笠原時代には藩の掛屋をも勤め産をなした。又、刀町には篠崎家の分家もありこの家は日田御用達を勤めた。この両家は苗字帯刀を許され本家は大町年寄の格式を許され藩から五十俵の扶持米さえ支給されている。
 勝木家は屋号「油屋」水野時代勝木定兵衛は藩の御勝手方御用達頭をしており、「唐津六町人」の一人として、一般の商人たちから畏敬されていた。「油屋」の屋敷は、現在の池田屋から、あかほの辺一帯で分家は現在の駐車場あたりにあった。
石崎家の屋号は「菊屋」、刀町の赤獅子を創ったとされる、石崎嘉兵衛は酒屋を営んでいた。
 喜田氏は屋号「米屋」、屋敷は現在の山口病院の所。その外、旧藩時代から続いている家に、村井、山岡、花田、美麻がいる。又現在、刀町にはないが大正頃まで住んでいた家に、戸田、草場、高添、高崎の諸家がある。
 藩政期は御用商人が軒をつらね、唐津一番の賑いを示した刀町も明治に入ると、魚屋町にとって代り、明治、大正時代を通じて魚屋町に一流の商店が軒を競い、昭和に入ると、呉服町、京町が、中心繁華街となっている。
 これも時代の流れであるが、刀町が衰退する理由の一つとしてよく話題になるのは、明治二〇年頃、大手前から呼子への道を拡張する時に、軒先を切られると云うので刀町が反対したため、県道が濠端に変更された。その為、刀町の往来が減り、さびれる原因となった。
 ともあれ、唐津の歴史を語る場合、欠くことのできぬのが刀町である。